突然ですが、私インフルエンザにかかってしまいました。
今はタミフルを飲んで落ち着いたのですが、
発症直後はひどかったです。

休みの朝、あまりの体の痛さに起きたのですが、
寒いのか痛いのか、ガクガクしてしまって
ストーブの前に張り付くも、全く効果なし。

よっぽど救急車を呼ぼうかと思いましたが、
何だか近隣の方に『?』って色々想像されるのも嫌だったので
結局アラスカに行くような完全防備で病院に行きました。

病院の駐車場に入れようとしてバックをしたら『ガツン』…。
おもっきし柱にぶつかってました。
でもそんなの気にする余裕も無く受付へ。

保険証を出すと、体温計を渡され待合室に。
体温計は今まで見た事の無い数字を刻んでました。
『38.6℃』…。

そりゃ出るよね、こんな異常な体調じゃ。
いやあ低いでしょ、って思ったあなた。
私は平熱が35℃程度なので、+1℃位を考慮して下さい。

絶対インフルエンザだと思いながら診察室に入ると、
『じゃあ、検査しますね』って何やら袋の中から長い綿棒
みたいのを取り出して『はい、上向いて』の次の瞬間、
鼻の奥にこれでもかという位、その綿棒をグリグリと突っ込まれました。

何と言うか、あまりの事態に『あわわ』ってなりました。マジで。
そんなん、先に言ってくれよと思いましたが、怒る余裕すらなし。
『はい、15分位で結果が出ますので待合室でお待ち下さい』と、
待合室に戻った私の膝はガクガク、顔面はあわあわ。

15分経過。
再び診察室に入った私に衝撃の結果が。
『普通の風邪ですね。』
『は?』
『はい、普通の風邪です。』
『はあ…』
『とりあえず薬出しておきます。お大事に』

全く納得いかずに帰宅しました。
出された薬は解熱剤、咳止め、痰きり用の3種類。
しかもそれぞれ強い薬なので、解熱剤は40℃以上、
咳止めは息が出来ない位苦しい時、痰きりは痰が詰まって
飲食が一切出来ない位の時だけ飲めとの事。
ってどんな薬やねん!
そんなんやったら薬なんか飲まんと救急車呼んだるわ!

ツッコミどころ満載の驚きの診断結果でしたが、
言い返す気力も無く、とぼとぼ帰宅しました。
次の日はかなり重要な会議があったのでかなり早目に寝床につくも
苦しくて中々寝付けず。

翌朝、しんどいながらも会議に出席するも訳の分からない答えばかり。
明らかにおかしい私の様子に上司が気付いて、昼食休憩の時に、
『お前何かずっと変な事言ってたけど大丈夫か?』
↑の経緯を全て話すと、『もう後は何とかするから帰りなさい』との
お言葉に甘えて帰宅し、念の為他の病院に行きました。

『インフルエンザですね』
はい、あっさり陽性反応出ました。

あのクソ野郎!と思いながらも、すぐに上司に電話して
一週間の自宅療養となりました。

一応クソ野郎の弁解というか、補足をしておくと、インフルエンザの
検査では、発症後すぐに陽性反応が出ない場合があるらしいです。
たまたま私はそのケースだったのですが、そんな事を考慮しても
あの医者はおかしいと思う。

百歩譲って本当に普通の風邪だったとしても、そんな使う事なんか
ほぼあり得ない様な薬なんか出すなよって事。
むやみやたらに薬を出す医者が良い医者とは思わないけど、
必要最低限の薬位出そうよ。本当につらいんだからさ。
だってガクガクしてたじゃん。あなたの目の前で。

まあ、過ぎた話だから良いんだけれど、色々あったここ最近でした。
私は、退院祝いで盛り上がるバーにおいて、
友達と適度な距離感を持って楽しんでいた。

それは前回に書いたように、拭い切れない大きな疑心暗鬼によって
手放しで楽しめるものではなかったからだ。

私は適度に笑って、適度にお酒を呷った。
私の知る限り、その異変に気付いている者はいなかった。
繰り返すようだけど私はその場に於いて、
求められる全てのリアクションを見事にこなしていたからだ。

突然、バーのオーナーが『あなたに電話よ』と、
店の奥に私を誘った。

使い古された電話の重い受話器を取ると、例の病院の看護婦が
(一週間いたから流石にそれが誰なのかは分かった)
『あなたと話をしたいと言う人が今来ているから変わるね』
と言うと、電話の主が姿を現す。

それは父親以外の何者でも無かった。
多少声のトーンこそ違えど、聞き慣れた声だった。

父親はまだ私が病院に入院していると思って、病院に来ていたのだ。
簡単な会話の後、私はバーを出ると父親が滞在しているホテルに向かった。

ホテルの部屋に入ると父親は何も言わずに私に歩み寄ると、
そのままギュッと抱きしめた。
とても、とても力強い大きな手で、何でも掴めそうな長い腕で。
私の肩は父親の温かい涙でぐしょぐしょに濡れていった。
父親は、涙で濡れた私の肩越しに『もう大丈夫だ』と一言つぶやき、
私はそのまま痛い程の力強い父親の腕の中に納まった。

前述したように、私の父親は、とても厳格で恐い存在だった。
まさかこんな風に抱きしめられたり、涙を流す事なんて予想だにしなかった。
しかし父親は私を抱きしめ続けた。
いつまでも、いつまでも…。

私は安心感からなのか、全身の力が抜けて、腰が抜けたように
綺麗なカーペットに膝からガクンと崩れ落ちた。

私は初めて父親のこんな姿を見た。
何より感情表現が不器用なこの父親にあって、こんな風に感情を
露にするという事がとても信じられなかった。

それだけに私はこの状況にとても驚いたけれど、
不器用で力強い父親の腕の中で、私への愛情を初めて知ったのだ。


親子の再会は劇的で感動的なものであったけれど、
問題はまだ何も解決していなかった。

ここから本格的にバス会社や中国政府との話し合いが始まった。

しかし私はもう一人ではない。
父親という、何よりも強く大きな存在が私の隣にはいる。
そして、高らかにバス会社や中国政府への闘いの狼煙を上げたのだ。


続く。
私は事故後1週間経って、ようやく外出が許された。

荷物を詰め込んだバックパックを看護婦から受け取り、
中身を確認する。
選び抜いた24枚のCDがメチャクチャに割れている。
ハードケースをも簡単に貫き、粉々になったその姿を見て
改めて事故の衝撃の大きさを思った。

少しして、一つの異変に気が付く。
バックパックは大きな衝撃を受けながらも、一切破れたり
壊れておらず、しっかりとその役目を果たしていた。
しかし、録音用に携帯していたテープレコーダーと
20本のカセットテープだけが唯一無くなっていた。

おかしい。
あまりにも不自然である。
他の持ち物も無くなっていれば分かるのだが、
それだけが無くなっているというのは、
どう考えても納得のいくものではない。

そこにははっきりとした意図が感じられた。

録音されていたら困るといった明確な意図が。

そもそもそのバックパックが
どうして私の物だと分かり得たのだろう?

パスポートはお金よりも大事だったから、
常に首から提げていたし、その他にそのバックパックの中に
確実に私だと特定できる物はおよそ無かったと思う。

何かが動き始めていた。
恐らく私の力なんかでは到底動かせない大きな力が。

看護婦なんかには聞くだけ無駄だと思って、
テープレコーダーと、20本のカセットテープの分
軽くなったバックパックを持って病室を後にする。

エントランスで、ほとんど毎日お見舞いに来てくれた
バーのオーナーと落ち合って、店に向かう。

店では私の退院祝いをすべく、多くの友人が待ち受けていた。
それはとても嬉しくて、笑顔さえ浮かべられるような席だったけど
心の奥底では塊が、冷ややかな目で見つめ続けていた。

疑いはより多くの疑いを生み、もはや信じられるものなんて何も無かった。このパーティですら誰かの監視下に置かれ、モニター越しに映る私の僅かな表情や動作の変化を読み取ろうとしているんではないかとさえ思えた。再び上海から昆明までの長距離列車の中で、私が『大日本帝国』と書いた時の中国人の乗客の過剰なまでの反応が頭をよぎる。

この時、そしてこの国にあって私は完全に孤独だった。
寂しいとか、心細いとかそんなのではない。
この問題を一人で『解決』しなくてはいけない、
そういった意味で孤独であったのだ。

しかし、私は助けられた。
それは大きな、とても大きなもの。
強くて、温かくて真っ直ぐなもの。

それがこんな時に訪れるなんて全く予想もしなかった。
いや、こんな時だからこそ、それはやってきたのだろう。
全てが一本の線で綺麗に繋がっていた。

問題はとても複雑でありながら、答えは至って簡単で、
それしかないと思える程に正確で確実にしっかりと用意されていた。

続く。
塊はまず第三者としての客観的な情報を得るべく、
新聞を読み漁った。

驚いた事にバス事故は、事故翌日の新聞に
大きな写真付きの一面で取り上げられていた。

その写真は崖の下のバスを映したものだったのだが
事故当事者である私ですら、良く分からなかった。
それ位、バスは大きな衝撃を受け見事に大破していた。

大きな見出しに続いて、記事はその時点で分かり得る
事故の速報を伝えていた。

『午後10時30分、大理市山岳部に於いてバスの落下事故が発生。
乗客は19名、全乗客の容態は不明。
数名の外国人旅行客が乗車していた模様。』

これが翌日の新聞で分かり得た事。


更にその翌日、二日後、三日後と読み進めていく内に
事故の詳細が明らかになる。

『西双版納行きのバスは大理市山岳部を時速70kmで走行中、
ドライバーがハンドル操作を誤って130m下に落下。
乗客19名の内13名が死亡。3名が意識不明の重体。
2名が重症。1名が軽症。』


心臓の鼓動が早く大きくなる。
バスは時速70kmであの細い山道を走行し、
130mも下の崖の中腹に落下したのだ。



『13名の死者』


手が震えている。

あの崖を登ったその手が震えている。



『心』


心が動かない。動けない。
どうして良いのか分からない。
ゴクリと唾を飲み込む音が体の隅々に響く。
口の中がカラカラに乾いていた。


塊が新聞を冷ややかな目で見つめながらこうつぶやく。


『ツライ?』

『カナシイ?』

『コワイ?』


分からない。

ただ、私はそれを認めたくなかった。


続く。
塊は居心地の悪さを露にした。

病室に戻るまでの廊下で、
『その涙は何だ!?自分が助かればそれで良いのか?』と、
強く声を荒げていた。

そう、一切外部との接触が断たれた状況の中で、
塊は情報を求めていた。

集中治療室での3日間。
淡々と、数字や波形を描くモニターを見ながら塊は、
あの事故で一体何が起き、乗客はどうなったんだろう?
と、思考の先は常にそこに向けられていたのだ。

しかし点滴を変えに来る看護婦や、体中に貼り付けられた
プラグが刻んだデータと塊の体の状態を照合する為に来た医師に
幾らその答えを求めても、彼らは申し合わせたように
『今は自分の体の事だけを考えなさい』
と、言うにとどまった。

それが何を意味するのかという苛立ちを塊は感じ続けていた。

『事実の隠蔽』

それが塊の思考を支配した。
実際、一般病棟に移ってから、お見舞いに来てくれた
友達との会話の中で、その質問は繰り返された。
しかし、上記同様、彼らは答えをはぐらかしたり、沈黙を守った。

『この事故の裏には何かがある…』
と、塊は情報の隠蔽や、事実のすり替えの疑いを一層高めていたのだ。

そこにあっての自我の目覚めである。

塊はその存在を大きく訴えていた。


全ての意味での私はその二つのアイデンティティの葛藤に、
あるいはせめぎ合いに、混乱していた。

しかしその二人は紛れも無い私であり、
どちらもしっかりとしたアイデンティティと強さを持っていた。

病室に戻った私は、当然の権利として、また被害者の代表として
事故の全貌を知り伝えるのだという意思を確固たるものにしていた。

ここから、いや、あのバスに乗車した瞬間から
私とバス会社、中国政府との闘いは始まっていたのだ。

続く。