私は昆明の空港で成田行きの飛行機を待っていた。
とても小さな空港で、場内は決して綺麗とは言えない。
一切の芸術性の無いただの落書き、無造作に捨てられた紙屑。

ロビーで騒いでるのは私達だけだった。

少しずつ離陸の時間が近付く。
旧式の発着陸を示す掲示板は、せわしなくパタパタと捲れると姿を変え、
遂には私が乗る飛行機の離陸を最上段で伝えていた。

この時、事故から既に3ヶ月以上経っていた。
心の傷は、少なくともこの瞬間にはほぼ消えていた。

私は正直言って帰りたくなかった。
溢れ出る音の世界をもっと追求したかった。
音が生まれるのは知識や情報ではない。
もっと根源的なもの。
光の無い心の奥底に潜って、眠っている感情を引っ張り出す事。

どれだけ自分を知る事が出来るか?
弱い部分も恥ずかしい部分も全部認めて一歩を踏み出す事が出来るか?
それが即ち音楽に、表現者に求められる要素だと思う。
技術や表現方法はそのイメージに近付ける為のツールに過ぎない。

私はこの3ヶ月間、徹底的に自分を見つめていた。
事故によってもたらされた心の傷を埋める為だけに
いたずらに過ごした訳ではない。
豊かな自然の中で、丸裸になって初めて自己というものを分かり始めていた。

しかし一方では、私の安否を心配する家族や友人達の事が気になっていた。
hotmailには300通を超えるメールが届いていた。

ここでしか出来ない事、あるいはやれない事。
そして日本に帰らなくてはいけない理由。

その相反する二つの思いに揺れていたけれど、
ある夜、その天秤が綺麗に水平を保っている事に気付いた。

これこそが帰国を決めた一番の理由である。



ロビーにはバーのオーナーを始め、沢山の友人が見送りに来てくれた。
離陸間際までロビーで話し続けたが、やがて最終のアナウンスが流れ、
そのまま突き進むように搭乗ゲートを抜けた。

後ろを振り返れなかった。
涙が止まらない。
色々言葉を探してみたけれど、この涙こそ答えだった。
無理やりに笑顔を作り上げて、最後の別れの言葉を告げた。

『ありがとう』


小さなセスナ機は離陸し、窓の外に『彼らの町』を映し出す。
もはやそれは『私の町』でもあった。

『私の町』はあっという間に消え去り、眼下には広大な海が広がっていた。


やがて見慣れた近代都市が姿を現す。
せわしない喧騒の中、私は日本に着いた事を確信する。

私の旅は終わった。
また新しい一日が始まる。


終わり。
『今回は大変でしたね。でも安心して下さい。運転手は死にましたから』

これがバス会社の社長の口から放たれた最初の言葉だった。


『安心して下さい?』


あまりの暴論に耳を疑った。
つまり事故を引き起こした当の本人が死んだから
これで良いでしょ?って事?

この発想って報復行為の何物でもないと思う。
勿論、運転手に対して良い気持ちになれないのはある。
だけれども、死んで欲しいとはこれっぽっちも思っていない。
もっとも私が一切肉体的な傷を負っていないからそう思えるのかも
しれないけど、生き残った乗客がこの言葉を聞いたら
全員が同じ様に激怒すると思う。

これでは亡くなった運転手が浮かばれない。
自業自得と言ってしまえばそれまでだけど、事故の後で
被害者への償いの好材料として会社に利用されるのはあんまりだ。


話をその話し合いの場に戻すと、それを通訳の方から聞いた時、
その言葉が信じれなくて、ドラマの様に通訳に聞き直した。
それでも通訳は同じ言葉を口にした。
『今回は大変でしたね。でも安心して下さい。運転手は死にましたから』と。

次の瞬間恐ろしい程の怒りが込み上げてきて、
席を立って、『てめえもう一回言ってみろ!』と怒鳴ったのを覚えている。

その私の怒声を聞いた社長の表情や態度が一層怒りを掻き立てる。
肩をすくめて、何で怒っているんだ?といった疑問の表情を浮かべたのだ。

私は次に『自分の会社の従業員が死んで悲しくないのか?』と言った。
『それよりもあなたが無事であった事を嬉しく思います』と社長。

綺麗事もいいところだ。そんな事一切思っていないはずである。
そもそも部下の死を、被害者の前とはいえ、堂々と言える人間なのだから。

しかし更に頭にくるのは、父親を除くそこにいる全ての人間が
この発言に同調している事であった。
誰も異論を唱えない。
むしろ私の発言の方がおかしいといった雰囲気が空間を支配していた。

これはあくまで私の意見だが、国民性なのではないか?と思う。
例えば、日本人というのは良くも悪くも過去にこだわらない。
原爆が良い例と言ってしまったら関係者の方には大変失礼だが、
あれ程の事をされながら、日本はアメリカに対してほとんど追求をしない。

逆に中国人は日本に対して根深いまでの怒りを抱え続けている。
もちろん日本が中国にしてしまった事は決して許されるものではない。
しかし、世代が変わり既に当事者がいなくなりつつあるのに、
上海からの長距離列車の中で感じた、若い世代の者ですら
激しい怒りを抱えているというのは、国民性の違いと言えるのではないか?
勿論、思想教育もある。また日本人の長い物に巻かれろといった
国民性もあるのだけれど、少なくともその話し合いの席で感じた
圧倒的なまでの認識の違いに、私は怒りを通り越して、呆れてしまった。

それでも話し合いを放棄する訳にはいかない。
ここは何があっても乗客の代表者として、事故の真相を、
そして事故に対する被害者への対応を聞かなくてはいけない。
私は怒りをぐっと抑え込んで、彼らの見解を聞いた。

しかしどれだけ聞いても彼らは偶発的な事故であって、
事故の原因は運転手の不手際である事、
そして責任の所在は運転手のみである事を譲らなかった。

普通に考えたら責任は勿論バス会社である。
しかし彼は決して会社としての不手際、責任は認めなかった。
ただ今はいない運転手の不手際、そして責任を主張するのみだった。

こんな不毛なやりとりがずっと続いたので、私は英語でバス会社の社長に
直接こう尋ねた。
『あなたは私達に対して謝罪する気持ちは無いのか?』と。

間髪開けずに社長の口からはクリアな英語で『No』という言葉が発せられた。

そう、これこそが私と彼らの決定的な認識の違いである。
組織としての責任の所在など、彼らには無いのである。
更に言えば、日本人の私に対して中国人の彼が謝る事など
有り得ない事なのである。

少しずつ、口数も減り、諦めの気持ちが浮かび上がってきた時、
父親が静かに口を開いた。

『私はこの子の父親だ。彼はこの間、丁度二十歳を迎えて大人の仲間入りを果たした。ここにあって私は何も言わないでおこうと思っていた。しかしどうだろう?君達は事故の被害者である息子に対して謝罪もしない。ともすれば今は亡き運転手の責任にしようとしている。これはいくら何でもおかしくはないであろうか?死者は言葉を発しない。そうしたら誰が被害者にお詫びの言葉を口に出来るのであろう?繰り返すようだが私は直接の被害者ではなく、あくまでその被害者の一人の父親である。親バカと思われても一切構わない。せめて事故直後に一人でも多くの被害者の命を守ろうとした彼に、謝罪の言葉を掛けるのが道義というものではないだろうか?彼は今被害者でもあり同時に加害者としての自責の念に駆られている。せめて彼がとった行動に対して感謝の言葉、そして何より加害者として謝罪の言葉を掛けるのが最低限、君達の責務ではないのであろうか?』

実に高揚を抑えた静かな発言でありながら、この日一番の主張である事は
日本語の通じないテーブルの向こう側の関係者にも伝わっている様だった。
会議室は一瞬にして緊張感に包まれた。
線の細い通訳は、父親の発言を、どうやって訳せば良いのかと、彼の頭の中の辞書を必死にめくっているのがその表情から、視線の行き先から伝わった。

線の細い通訳が訳すまでも無く、テーブルの向かい側の関係者から、
その発言に対する答えに思慮を巡らしているのが手に取るように分かった。
恥ずかしながら、父親の言葉はそれまでの私達の質疑応答とは一線を画した。
中国と日本、被害者と加害者といった図式を一気に変えたのだ。

既にテーブルの向こう側は加害者になっていた。
そして私達は被害者以上の何かを手にしていた。

金銭的なものなんかは、私も父親も一切求めていない。
必要なのは、その事故に対する私の所在、そしてその在り方にあった。
それは私だけでは解決できるものではない。
恥ずかしながら、私は、あの時とった行動に対して合理的で納得、
消化できる何かを求めていたのだ。

彼らは突然席を外した。
通訳は、ただ『時間を欲しい』との言葉を繰り返すだけであった。

私は、テーブルの上にあったエビアンを口にした。
長い討論に、プレッシャーに口の中は渇ききっていた。
父親は淡々としていながらも、その空間の全てを決める鍵を握っていた。

彼らが席を外して20分近く経った頃、あからさまに表情を変えた
彼らが姿を現した。

席に戻るなり、全ての関係者(つまりテーブルの向こう側に位置した彼ら)
が、一斉にテーブルに頭がつく位深々と頭を下げた。
そして中国語と英語で謝罪の言葉を口にした。

その光景は異様だった。
あれだけ強気で、一切責任の所在を明らかにしなかった彼らが今、
顔が見えない位深々と頭を下げて、謝罪の言葉を口にしているのである。

やらしい話だが、金銭的な問題に於いても、彼ら自ら提示をしてきたという。
私は立ち合わなかったのだが、父親は一切の金銭での解決を拒否した。
それよりも、ここ中国での私の心の整理としての滞在の為のビザの延長を
求めたとの事だ。

私は父親の求めたビザの延長を受け、3ヶ月の滞在の延長の許可を得た。
その3ヶ月の滞在がどれだけ私の心の傷を癒し、それを遥に超える
心の豊かさを手にする事が出来たのであろうか?

答えはその期間に作り上げた音楽に如実に表れた。
音はその時の精神の状態をそのままに映し出し、かつて無いほどに
『私』を語り始めた。

本当の音楽が生まれた瞬間である。

続く。
やけに綺麗なテーブルクロス。

もはや中国の生活に完全に馴染んだ私には、
どうもこの嘘っぽい清潔さや、欧米観光客向けのビュッフェ形式の
朝食には違和感を感じる。

もちろんそこに中国人旅行客の姿は無い。
別に現地人気取りや、外国人観光客のアンチというつもりではないのだけれど、結果としてこういうホテルがこの土地に作られてしまった事に少なからずショックを受ける。

料理から食後のコーヒーまで、何とも味気の無いものだった。
それは昨夜から私の思考回路を支配する空虚さに似ていた。

父親はコーヒーカップから視線を上げて私の顔を真っ直ぐに
見据えると、突然口を開いた。
『私は君のサポートをするだけだ。君は何にも気にせず
話したい事を好きなだけ話せば良い』

私は虚を突かれてぽかんと口を開いて父親の顔をただ眺めていた。
てっきり父親が私に代わって話し合いに臨むものだと思っていたからだ。
しかし、この話し合いが今後の私の事故に対する解釈を決定付ける
大切なものになる事を私以上に父親は分かっていたのだ。
だからこの言葉はとても嬉しかったし、一切の妥協のない話を
するんだという決意を固めた瞬間だった。

私は怒っていた。私は疑っていた。私は知りたかった。
言いたい事、聞きたい事は山ほどあった。


正午。
私達は別のホテルに向かった。
エントランスで線の細い男に『○○様ですか?』と
流暢な日本語で聞かれ、『はい』と答えると
男は簡単な自己紹介を始めた。
彼が今回の話し合いの通訳なのだ。

通訳はロビーの横の、吹き抜けのある広いカフェに案内した。
カフェの中央にある大きなテーブルには、
仕立ての良いスーツに身を固めたいかにも要人らしい
人達が談笑をしていて、通訳が彼らに私達を紹介すると、
彼らは立ち上がり一人一人名詞を差し出しながら
簡単な挨拶を交わした。
彼らはもちろんバス会社と政府の責任者達だった。
挨拶を終えると、黒いベストを着たボーイが現れ、
適度なスピードで私達の前を歩きホテル内のレストランまで案内した。

レストランはどこまでも広く、客は一人もいなかった。
中央の大きな円卓にナプキンが綺麗に並べられていて、
どうやらそこが私達の為に用意された席だった。
ボーイは全員の着席を確認すると、やはり黒いベストを着た
別のボーイに無駄の無い実に簡潔な合図を送ると、
たちまちテーブルの上は高級な中華料理で埋め尽くされた。

細い銀縁の眼鏡をかけた男が料理が揃った事をボーイに確認すると
立ち上がり、満面の笑みではっきりと『乾杯』と言うと、
周りの者達も続いて、会食が始まった。

私は若干20歳ながらも、その乾杯の言葉に反応し、驚いた顔で
横に座っている父親の顔を見つめると、父親はまあいいじゃないか、
といった表情で受け流し、私に料理を取ってくれた。

会食は終始楽しい雰囲気で進み、通訳までもが楽しんでいる様子だった。
そこには『事故』の要素は一切含まれていなかった。

そんな会食が終わると、また例のボーイがやってきて、
やはり首尾良く私達を会議室に案内した。

会議室は実用性が優先された、実に機能的なつくりになっていた。
中央に横長の大きなテーブルが置かれていて、
中国政府とバス会社の責任者と私達が対面するようになっていた。
またプレゼンテーション用にスクリーンとプロジェクターが
天井にそれぞれ設置され、大型のモニターも吊られている。
ホワイトボードが丁度テーブルの端に置かれていて、
高級な調度品や最新の設備が並ぶ中にあって、唯一それだけが
完全に空間の調和を乱していた。
恐らく今回の話し合いの為に用意されたのではないかと思う。

例のボーイはそれぞれの席を案内すると、頭を軽く下げ、
丁寧に扉を閉めると足音も無く去っていった。
彼は実にきちんと自分の役割を理解しそれをこなしていた。
皮肉にも一流のホテルの一流のボーイなのである。


さて話し合いの始まりである。

話し合いはバス会社の社長の話から始まったが、
その最初の一言で私の怒りはピークに達した。

続く。
久し振りに泣きました。

本当に久し振りに。
しかも全く予想外のもので泣きました。

何気なくテレビでフィギュアスケートの中継を見てたら
いつの間にか目が釘付けになってて、つたーっというのではなく、
むせび泣くといったように、本当に胸が熱くなったのです。

その選手とは鈴木明子さんという方で、実は全然知らない人だったのです。
と言うより、フィギュアスケート自体に興味が無いので、
不意打ちもいいとこです。

↑にも書いたように私はフィギュアスケートについては全くの無知です。
転ばなければ良いんだなという程度です。

しかし、この方の演技は胸に訴えるものがありました。
スケートを楽しんでいる事や、見ている人を喜ばせようという思いが
つま先から手の指先まで、そして何と言っても表情から伝わってきます。

上手い下手っていうのはほとんど関係ないと思います。
その純粋な力に心が揺さぶられたのだと思います。

こういうのって良いなあと思いました。
こんなみんなが書きそうな事をわざわざ書くのはどうなのかな?
と思いましたが、良いものは良い!って思って書いてみました。

↓これがその演技です。最後まで見て下さい。
演技終了後の緊張感から解き放たれた表情や、
採点後のリアクションにもやられます。
ちなみにこの演技で暫定2位の選手を0.17点という本当に僅差で
上回り2位になって五輪代表を決めました。


何と言うか、ここにきて『やっぱり書くのやめようかな』とも
まだ悩んでますが、多分このブログをご覧頂いている方って、
あんまりこういう俗っぽいテレビ番組は見てないんじゃないかな?と、
すごい無責任且つ勝手な思い込みで書く事に決めました。

たまにはこういうのもありなんじゃないですかね(笑)

すいません。
翌朝、起きると父親はいつもの父親だった。
昨日の行動に少なからず恥じらいや、バツの悪さを示しながらも
至って冷静に振舞っていた。

簡単な朝食を済ませると、父親はどこかに電話を掛けた。
『はい、はい、そう、うん、分かりました。』
そんな事務的な会話が繰り返され、受話器を戻した。

そしてポケットから手帳を取り出しそこに何かを書き留めながら、
低い落ち着いた声で、
『明日の昼から中国政府とバス会社との話し合いがある』と、伝えた。

それは提案とかアドバイスではなく、断定的で普遍的なものだった。
『このボールは手を放すと落ちます』とかいった、ごく当たり前の事を
確認するでもなく、ただそれを形而的に伝える、そんな響きを持っていた。

私に求められたのは『はい』の一言だった。
あるいはそれすらもいらなかったのかもしれない。
それはもう決まっている事であり、そこには何の修正も認められなかった。

父親は私に会いに来たのではなかった。
いやもっと正しい言い方をすれば、私に会いに来ただけではなく、
事故の解決を自らの手で収めようとしにやってきたのだ。

私の父親は、大手保険会社の役員を務めてきた。
よく日経新聞に顔写真付きで対談やインタビューが掲載されていたものである。
これまでの人生の中で恐ろしい程の数の人と、その仕事に必要なありとあらゆる事柄についての話し合いの場を経験してきているはずである。
そんな経験の中で培われた能力が今正に発揮されようとしていた。

スーツケースの中は彼の縮図と言っても良い位、とても綺麗に整理され、見事なまでにそれぞれが心地良く収まっていた。
その中から取り出された鞄には、やはり整然と書類が揃えられていた。
過剰でも無く不足も無い、それらは一枚一枚しっかりと役割を与えられていた。

そんな姿をベッドの上から眺めていると、心強いという気持ちと、どことなく寂しさに似た気持ちが混在していった。
ひいき目抜きに彼は目的を100%達成するに違いないと思った。しかしそれは同時に仕事然としていて事務的な冷ややかさが漂っていた。

何でだろう?

こうまでして自分の為に頑張ってくれているのに、素直に喜べない。

その何かとは?

それは彼の目的と私の目的が、もう少し正しい言い方をすれば彼のゴールと私のゴールに決定的な違いがあるんじゃないか?という疑念がそのスーツケースに書類に、更に言えばこれまでの私達の親子関係のズレに垣間見えたからである。

それが最初に感じた『父親は私に会いに来たのではなかった』というところにつながっているんじゃないかと思う。

いずれにしても話し合いは明日開かれる。

私達はそれぞれの思いを抱えてその日、ベッドに入った。


続く。