『今回は大変でしたね。でも安心して下さい。運転手は死にましたから』
これがバス会社の社長の口から放たれた最初の言葉だった。
『安心して下さい?』
あまりの暴論に耳を疑った。
つまり事故を引き起こした当の本人が死んだから
これで良いでしょ?って事?
この発想って報復行為の何物でもないと思う。
勿論、運転手に対して良い気持ちになれないのはある。
だけれども、死んで欲しいとはこれっぽっちも思っていない。
もっとも私が一切肉体的な傷を負っていないからそう思えるのかも
しれないけど、生き残った乗客がこの言葉を聞いたら
全員が同じ様に激怒すると思う。
これでは亡くなった運転手が浮かばれない。
自業自得と言ってしまえばそれまでだけど、事故の後で
被害者への償いの好材料として会社に利用されるのはあんまりだ。
話をその話し合いの場に戻すと、それを通訳の方から聞いた時、
その言葉が信じれなくて、ドラマの様に通訳に聞き直した。
それでも通訳は同じ言葉を口にした。
『今回は大変でしたね。でも安心して下さい。運転手は死にましたから』と。
次の瞬間恐ろしい程の怒りが込み上げてきて、
席を立って、『てめえもう一回言ってみろ!』と怒鳴ったのを覚えている。
その私の怒声を聞いた社長の表情や態度が一層怒りを掻き立てる。
肩をすくめて、何で怒っているんだ?といった疑問の表情を浮かべたのだ。
私は次に『自分の会社の従業員が死んで悲しくないのか?』と言った。
『それよりもあなたが無事であった事を嬉しく思います』と社長。
綺麗事もいいところだ。そんな事一切思っていないはずである。
そもそも部下の死を、被害者の前とはいえ、堂々と言える人間なのだから。
しかし更に頭にくるのは、父親を除くそこにいる全ての人間が
この発言に同調している事であった。
誰も異論を唱えない。
むしろ私の発言の方がおかしいといった雰囲気が空間を支配していた。
これはあくまで私の意見だが、国民性なのではないか?と思う。
例えば、日本人というのは良くも悪くも過去にこだわらない。
原爆が良い例と言ってしまったら関係者の方には大変失礼だが、
あれ程の事をされながら、日本はアメリカに対してほとんど追求をしない。
逆に中国人は日本に対して根深いまでの怒りを抱え続けている。
もちろん日本が中国にしてしまった事は決して許されるものではない。
しかし、世代が変わり既に当事者がいなくなりつつあるのに、
上海からの長距離列車の中で感じた、若い世代の者ですら
激しい怒りを抱えているというのは、国民性の違いと言えるのではないか?
勿論、思想教育もある。また日本人の長い物に巻かれろといった
国民性もあるのだけれど、少なくともその話し合いの席で感じた
圧倒的なまでの認識の違いに、私は怒りを通り越して、呆れてしまった。
それでも話し合いを放棄する訳にはいかない。
ここは何があっても乗客の代表者として、事故の真相を、
そして事故に対する被害者への対応を聞かなくてはいけない。
私は怒りをぐっと抑え込んで、彼らの見解を聞いた。
しかしどれだけ聞いても彼らは偶発的な事故であって、
事故の原因は運転手の不手際である事、
そして責任の所在は運転手のみである事を譲らなかった。
普通に考えたら責任は勿論バス会社である。
しかし彼は決して会社としての不手際、責任は認めなかった。
ただ今はいない運転手の不手際、そして責任を主張するのみだった。
こんな不毛なやりとりがずっと続いたので、私は英語でバス会社の社長に
直接こう尋ねた。
『あなたは私達に対して謝罪する気持ちは無いのか?』と。
間髪開けずに社長の口からはクリアな英語で『No』という言葉が発せられた。
そう、これこそが私と彼らの決定的な認識の違いである。
組織としての責任の所在など、彼らには無いのである。
更に言えば、日本人の私に対して中国人の彼が謝る事など
有り得ない事なのである。
少しずつ、口数も減り、諦めの気持ちが浮かび上がってきた時、
父親が静かに口を開いた。
『私はこの子の父親だ。彼はこの間、丁度二十歳を迎えて大人の仲間入りを果たした。ここにあって私は何も言わないでおこうと思っていた。しかしどうだろう?君達は事故の被害者である息子に対して謝罪もしない。ともすれば今は亡き運転手の責任にしようとしている。これはいくら何でもおかしくはないであろうか?死者は言葉を発しない。そうしたら誰が被害者にお詫びの言葉を口に出来るのであろう?繰り返すようだが私は直接の被害者ではなく、あくまでその被害者の一人の父親である。親バカと思われても一切構わない。せめて事故直後に一人でも多くの被害者の命を守ろうとした彼に、謝罪の言葉を掛けるのが道義というものではないだろうか?彼は今被害者でもあり同時に加害者としての自責の念に駆られている。せめて彼がとった行動に対して感謝の言葉、そして何より加害者として謝罪の言葉を掛けるのが最低限、君達の責務ではないのであろうか?』
実に高揚を抑えた静かな発言でありながら、この日一番の主張である事は
日本語の通じないテーブルの向こう側の関係者にも伝わっている様だった。
会議室は一瞬にして緊張感に包まれた。
線の細い通訳は、父親の発言を、どうやって訳せば良いのかと、彼の頭の中の辞書を必死にめくっているのがその表情から、視線の行き先から伝わった。
線の細い通訳が訳すまでも無く、テーブルの向かい側の関係者から、
その発言に対する答えに思慮を巡らしているのが手に取るように分かった。
恥ずかしながら、父親の言葉はそれまでの私達の質疑応答とは一線を画した。
中国と日本、被害者と加害者といった図式を一気に変えたのだ。
既にテーブルの向こう側は加害者になっていた。
そして私達は被害者以上の何かを手にしていた。
金銭的なものなんかは、私も父親も一切求めていない。
必要なのは、その事故に対する私の所在、そしてその在り方にあった。
それは私だけでは解決できるものではない。
恥ずかしながら、私は、あの時とった行動に対して合理的で納得、
消化できる何かを求めていたのだ。
彼らは突然席を外した。
通訳は、ただ『時間を欲しい』との言葉を繰り返すだけであった。
私は、テーブルの上にあったエビアンを口にした。
長い討論に、プレッシャーに口の中は渇ききっていた。
父親は淡々としていながらも、その空間の全てを決める鍵を握っていた。
彼らが席を外して20分近く経った頃、あからさまに表情を変えた
彼らが姿を現した。
席に戻るなり、全ての関係者(つまりテーブルの向こう側に位置した彼ら)
が、一斉にテーブルに頭がつく位深々と頭を下げた。
そして中国語と英語で謝罪の言葉を口にした。
その光景は異様だった。
あれだけ強気で、一切責任の所在を明らかにしなかった彼らが今、
顔が見えない位深々と頭を下げて、謝罪の言葉を口にしているのである。
やらしい話だが、金銭的な問題に於いても、彼ら自ら提示をしてきたという。
私は立ち合わなかったのだが、父親は一切の金銭での解決を拒否した。
それよりも、ここ中国での私の心の整理としての滞在の為のビザの延長を
求めたとの事だ。
私は父親の求めたビザの延長を受け、3ヶ月の滞在の延長の許可を得た。
その3ヶ月の滞在がどれだけ私の心の傷を癒し、それを遥に超える
心の豊かさを手にする事が出来たのであろうか?
答えはその期間に作り上げた音楽に如実に表れた。
音はその時の精神の状態をそのままに映し出し、かつて無いほどに
『私』を語り始めた。
本当の音楽が生まれた瞬間である。
続く。
これがバス会社の社長の口から放たれた最初の言葉だった。
『安心して下さい?』
あまりの暴論に耳を疑った。
つまり事故を引き起こした当の本人が死んだから
これで良いでしょ?って事?
この発想って報復行為の何物でもないと思う。
勿論、運転手に対して良い気持ちになれないのはある。
だけれども、死んで欲しいとはこれっぽっちも思っていない。
もっとも私が一切肉体的な傷を負っていないからそう思えるのかも
しれないけど、生き残った乗客がこの言葉を聞いたら
全員が同じ様に激怒すると思う。
これでは亡くなった運転手が浮かばれない。
自業自得と言ってしまえばそれまでだけど、事故の後で
被害者への償いの好材料として会社に利用されるのはあんまりだ。
話をその話し合いの場に戻すと、それを通訳の方から聞いた時、
その言葉が信じれなくて、ドラマの様に通訳に聞き直した。
それでも通訳は同じ言葉を口にした。
『今回は大変でしたね。でも安心して下さい。運転手は死にましたから』と。
次の瞬間恐ろしい程の怒りが込み上げてきて、
席を立って、『てめえもう一回言ってみろ!』と怒鳴ったのを覚えている。
その私の怒声を聞いた社長の表情や態度が一層怒りを掻き立てる。
肩をすくめて、何で怒っているんだ?といった疑問の表情を浮かべたのだ。
私は次に『自分の会社の従業員が死んで悲しくないのか?』と言った。
『それよりもあなたが無事であった事を嬉しく思います』と社長。
綺麗事もいいところだ。そんな事一切思っていないはずである。
そもそも部下の死を、被害者の前とはいえ、堂々と言える人間なのだから。
しかし更に頭にくるのは、父親を除くそこにいる全ての人間が
この発言に同調している事であった。
誰も異論を唱えない。
むしろ私の発言の方がおかしいといった雰囲気が空間を支配していた。
これはあくまで私の意見だが、国民性なのではないか?と思う。
例えば、日本人というのは良くも悪くも過去にこだわらない。
原爆が良い例と言ってしまったら関係者の方には大変失礼だが、
あれ程の事をされながら、日本はアメリカに対してほとんど追求をしない。
逆に中国人は日本に対して根深いまでの怒りを抱え続けている。
もちろん日本が中国にしてしまった事は決して許されるものではない。
しかし、世代が変わり既に当事者がいなくなりつつあるのに、
上海からの長距離列車の中で感じた、若い世代の者ですら
激しい怒りを抱えているというのは、国民性の違いと言えるのではないか?
勿論、思想教育もある。また日本人の長い物に巻かれろといった
国民性もあるのだけれど、少なくともその話し合いの席で感じた
圧倒的なまでの認識の違いに、私は怒りを通り越して、呆れてしまった。
それでも話し合いを放棄する訳にはいかない。
ここは何があっても乗客の代表者として、事故の真相を、
そして事故に対する被害者への対応を聞かなくてはいけない。
私は怒りをぐっと抑え込んで、彼らの見解を聞いた。
しかしどれだけ聞いても彼らは偶発的な事故であって、
事故の原因は運転手の不手際である事、
そして責任の所在は運転手のみである事を譲らなかった。
普通に考えたら責任は勿論バス会社である。
しかし彼は決して会社としての不手際、責任は認めなかった。
ただ今はいない運転手の不手際、そして責任を主張するのみだった。
こんな不毛なやりとりがずっと続いたので、私は英語でバス会社の社長に
直接こう尋ねた。
『あなたは私達に対して謝罪する気持ちは無いのか?』と。
間髪開けずに社長の口からはクリアな英語で『No』という言葉が発せられた。
そう、これこそが私と彼らの決定的な認識の違いである。
組織としての責任の所在など、彼らには無いのである。
更に言えば、日本人の私に対して中国人の彼が謝る事など
有り得ない事なのである。
少しずつ、口数も減り、諦めの気持ちが浮かび上がってきた時、
父親が静かに口を開いた。
『私はこの子の父親だ。彼はこの間、丁度二十歳を迎えて大人の仲間入りを果たした。ここにあって私は何も言わないでおこうと思っていた。しかしどうだろう?君達は事故の被害者である息子に対して謝罪もしない。ともすれば今は亡き運転手の責任にしようとしている。これはいくら何でもおかしくはないであろうか?死者は言葉を発しない。そうしたら誰が被害者にお詫びの言葉を口に出来るのであろう?繰り返すようだが私は直接の被害者ではなく、あくまでその被害者の一人の父親である。親バカと思われても一切構わない。せめて事故直後に一人でも多くの被害者の命を守ろうとした彼に、謝罪の言葉を掛けるのが道義というものではないだろうか?彼は今被害者でもあり同時に加害者としての自責の念に駆られている。せめて彼がとった行動に対して感謝の言葉、そして何より加害者として謝罪の言葉を掛けるのが最低限、君達の責務ではないのであろうか?』
実に高揚を抑えた静かな発言でありながら、この日一番の主張である事は
日本語の通じないテーブルの向こう側の関係者にも伝わっている様だった。
会議室は一瞬にして緊張感に包まれた。
線の細い通訳は、父親の発言を、どうやって訳せば良いのかと、彼の頭の中の辞書を必死にめくっているのがその表情から、視線の行き先から伝わった。
線の細い通訳が訳すまでも無く、テーブルの向かい側の関係者から、
その発言に対する答えに思慮を巡らしているのが手に取るように分かった。
恥ずかしながら、父親の言葉はそれまでの私達の質疑応答とは一線を画した。
中国と日本、被害者と加害者といった図式を一気に変えたのだ。
既にテーブルの向こう側は加害者になっていた。
そして私達は被害者以上の何かを手にしていた。
金銭的なものなんかは、私も父親も一切求めていない。
必要なのは、その事故に対する私の所在、そしてその在り方にあった。
それは私だけでは解決できるものではない。
恥ずかしながら、私は、あの時とった行動に対して合理的で納得、
消化できる何かを求めていたのだ。
彼らは突然席を外した。
通訳は、ただ『時間を欲しい』との言葉を繰り返すだけであった。
私は、テーブルの上にあったエビアンを口にした。
長い討論に、プレッシャーに口の中は渇ききっていた。
父親は淡々としていながらも、その空間の全てを決める鍵を握っていた。
彼らが席を外して20分近く経った頃、あからさまに表情を変えた
彼らが姿を現した。
席に戻るなり、全ての関係者(つまりテーブルの向こう側に位置した彼ら)
が、一斉にテーブルに頭がつく位深々と頭を下げた。
そして中国語と英語で謝罪の言葉を口にした。
その光景は異様だった。
あれだけ強気で、一切責任の所在を明らかにしなかった彼らが今、
顔が見えない位深々と頭を下げて、謝罪の言葉を口にしているのである。
やらしい話だが、金銭的な問題に於いても、彼ら自ら提示をしてきたという。
私は立ち合わなかったのだが、父親は一切の金銭での解決を拒否した。
それよりも、ここ中国での私の心の整理としての滞在の為のビザの延長を
求めたとの事だ。
私は父親の求めたビザの延長を受け、3ヶ月の滞在の延長の許可を得た。
その3ヶ月の滞在がどれだけ私の心の傷を癒し、それを遥に超える
心の豊かさを手にする事が出来たのであろうか?
答えはその期間に作り上げた音楽に如実に表れた。
音はその時の精神の状態をそのままに映し出し、かつて無いほどに
『私』を語り始めた。
本当の音楽が生まれた瞬間である。
続く。