ハワイ王国公使別邸
この建物は明治27年(1894)に井上馨(明治政府高官、内務大臣、元老などを歴任)の紹介でハワイ王国の日本駐在公使(駐日代理公使ロバート・ウォーカー・アルウィン)の別邸として建てられたものです。
ハワイ王国は明治31年(1898)にアメリカ合衆国に併合され消滅しましたが、アルウィン氏は大正14年(1925)に亡くなるまで別荘として利用していたようです。
建物は近代和風建築で木造2階(地下1階)、寄棟、鉄板葺、1、2階共に東側全面が開口出来、開放感あふれる造りになっています。
旧ハワイ王国公使別邸はハワイが独立国だった頃の王国建物としては国内唯一のものとして大変貴重な存在で昭和60年(1985)にハワイ移民100周年を記念して移築保存され渋川市指定史跡に指定されました。
現在は内部が一般公開され当時の写真や資料、アルウィン氏愛用の品々などが展示されています。
明治26年にハワイ王国が崩壊するまで、駐日ハワイ代理公使だったロバート・W・アルウィン氏が毎夏を過ごした別荘だそうです。
ハワイ王国公使別邸の建物は、昭和60年(1985年)、日本からハワイに官約移民で渡って百年を迎えたことを記念して、独立国当時の伊香保との交流を示す貴重な国際交流の資料として渋川市の史跡に指定されています。
ハワイ王国
1795年から1893年までハワイ諸島に存在した王国である。
1893年にサンフォード・ドールなどアメリカ移民による事実上先住民による投票を制限した選挙で起こされたハワイ革命(ハワイ併合)で立憲君主制が廃止され、アメリカ合衆国の傀儡国家として名目上共和制のハワイ共和国となり、1898年にはハワイ準州 (Territory of Hawaii) として併合されて消滅した。
カメハメハ王朝
ハワイ王国は初め、初代国王カメハメハ1世(カメハメハ大王)とその子孫によって統治された。カメハメハ2世とカメハメハ3世はカメハメハ1世の息子である。
カメハメハ1世は白人から入手した武器を利用して領土を広げ、1795年にハワイ王国の建国を宣言した後、1810年に全ハワイ諸島を統一した。
これ以前、ハワイはそれぞれの地方ごとに有力者が統治していた。
カメハメハ2世の治世の1820年にキリスト教のアメリカン・ボードから派遣された宣教師が相次いでハワイを訪れた。
これはちょうどその頃生じていた宗教的な混乱と時期が重なり、ハワイのキリスト教化が進む一方、ハワイの古くからの宗教は衰退した。
カメハメハ3世の治世の1840年に憲法が制定され、近代国家としての体裁が整うと各国が相次いでハワイ王国を承認し、名実ともに独立国家として認められるようになった。憲法の制定は、特にイギリスを手本にしたとされる。この後もハワイ王国は親英外交を行った。
カメハメハ家による統治は、1872年のカメハメハ5世の崩御により終焉。
カメハメハ5世は王女パウアヒを呼び出して王冠を託したが、彼女にはすでに家庭があり、即位を拒否。カメハメハ5世は代替の後継者を指名する前に崩御。
選挙君主制
カメハメハ5世の死後、ハワイ王国の司法府は国王選挙の実施を宣言し、1873年に議会での選挙でルナリロが国王に選ばれた。
カラカウア王朝
ルナリロもまたカメハメハ5世と同じように後継者を指名せず、即位から1年1ヶ月後に肺結核で崩御したため、ハワイ王国の司法府は再び国王選挙の実施を宣言した。
この選挙は激しい中傷合戦となり、ハワイにおいてもっとも汚らしい選挙といわれた。選挙の結果、1874年にカラカウアが国王に選ばれた。
治世5年の時、カラカウアはイオラニ宮殿を建設し、主殿が完成した1882年に宮廷を移動した。
王位継承に関する混乱を防ぐため、あらかじめ妹のリリウオカラニを後継者に指名した後、カラカウア王は1891年に崩御した。
同年、兄王の遺言に従いリリウオカラニはハワイ女王として即位し、同時に末妹リケリケの長女カイウラニの立太子が行われた。
滅亡
アメリカ合衆国からの入植者が増え、サトウキビ栽培や輸出などによって経済的にも力をつけはじめると、より親米的な政治を求める声が特に経済界から強くなった。
1887年にクーデターが起こり、カラカウアは修正憲法(銃剣憲法(英語版))の成立を承認せざるを得なくなった。
この「銃剣憲法」によって国王の権限は制限され、枢密院や内閣の政治的影響力を高めた。選挙権についても、アジア系移民から一切の投票権が剥奪された他、先住ハワイ人も投票権に収入や資産などの一定の基準を設けたことで、多くの人々が選挙権を剥奪された。
一方で、ハワイ人エリートや富裕なアメリカ系・ヨーロッパ系移民は選挙権を所持したままであり、政治的発言力が劇的に強まった。
結果として、「銃剣憲法」によりハワイ王室と大多数のハワイ人は政治力を失い、白人農場主らを中心とする共和派が王国の実権を手にした。ハワイ王国は対米従属を余儀なくされた。ハワイ王国の滅亡はこれに始まる。
1893年1月16日、アメリカ合衆国と関連の深いサトウキビを扱う業者らがさらに親米的な政権を打ち立てるため、政権の転覆を計画した。
アメリカ海軍の軍艦ボストンは、首謀者サンフォード・ドールとロリン・A・サーストンを保護する名目でホノルルに到着し、リリウオカラニは幽閉状態となった。1月17日、ドールはハワイ臨時政府を打ち立て、王政の廃止を宣言した。
翌1894年7月4日、ドールはハワイ共和国の成立を宣言し、同国の最初で最後の大統領となった。1895年1月に王党派による最後の大規模な武力蜂起が起きたが鎮圧され、1月16日にはリリウオカラニも私邸から大量の武器が発見されたという理由で逮捕され、廃位された。ドールはハワイをアメリカ合衆国に併合する条約を作り、この条約が成立したときハワイ準州の初代知事に任命された。
アメリカ合衆国ハワイ準州
1898年8月12日、時のアメリカ大統領ウィリアム・マッキンリーはハワイのアメリカ合衆国領への編入を宣言し、同日イオラニ宮殿に掲げられていたハワイ王国国旗が降ろされて星条旗が揚げられた。
この時、古来のハワイ住民らは悲しみの声をあげたという。これによりハワイはアメリカ合衆国の準州として編入され、王国の約100年間の歴史は完全に幕を閉じた。