鍋焼きうどん
うどんを用いた料理で、煮込みうどんの一種。うどん屋では単に「鍋焼き」とも呼ぶ。
 
 
 
一人用の小型の土鍋あるいはアルミ鍋にめんつゆとうどんを入れ、蒲鉾、シイタケ、油揚げ、エビの天ぷら、生卵、麩などの具を乗せて煮たもの。グツグツと沸騰したまま供し、鍋から直接食べる。
 
具は多様で卵を伊達巻に代えたり、青菜やニンジンなどの野菜類、牛肉や鶏肉、つみれやつくねなどを入れる店もある。
 
調味料に味噌を使用するものは「味噌煮込みうどん」と呼ばれる。
 
 
 
 

 「焼き」の名を持つが、いわゆる焼きうどんとは全く異なり、小鍋料理の範疇に入る。
蕎麦屋やうどん屋の定番メニューであるが、調理に時間や手間がかかるため、立ち食い形式の店ではほとんど見られない。
 
 
↑ 鍋焼きの前に湯豆腐で熱燗を飲んでいました ↓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
冬期限定のメニューとして提供する店も多い。スキー場や山小屋のレストランでも人気が高いメニューである。
 
アルミ箔製の使い捨て鍋を用いた具材入りの冷凍食品や、常温長期保存が可能な真空パックのゆで麺を使用したインスタント食品も販売されている。
 
近年ではIH調理器に対応した商品もある。
 
 
 
松山の鍋焼きうどん
愛媛県松山市内には鍋焼きうどんを出す食堂が多い。市内中心街には、戦後すぐから営業している老舗店が2店ある。
 
その特徴として、やわらか麺、甘めのだし汁が共通項として挙げられる。エビの天ぷら入りの鍋焼きうどんもあるが、基本的には甘く味付けた牛肉をメインの具にしたものが主流である。
 
2006年秋の地元誌の調べによると、120軒余りのうどん店でメニューに載っている。また、夏季を含めた通年で提供する店が多い。
 
 
 
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ホンガイカトリック教会&ベトナム料理
ベトナムの街には教会がよくあるのですが、ホンガイの街にも教会があります。
クアンニン省でもっとも大きい教会だそうです。
 
 
もっとも大きいといっても、ハノイやホーチミンの教会に比べると小ぶりですが、建物のつくりがとても美しいです。高台の上にあるので昼間ならホンガイの街を見渡すこともできます。
 
「カトリック」の語源はギリシア語の「カトリケー(普遍的、世界的)」の形容詞「カトリコス」に由来し、ラテン語では「カトリクス」と表記される。
 
ただし「カトリック」(普遍的)を自認・自称するキリスト教の教派は他にもあり、「カトリック」の語彙は教派名にとどまらない概念を指すこともある。
 
 
カトリック教会自身による定義は、教会憲章にみられる「ペトロの後継者(ローマ教皇)と使徒の後継者たち(司教)によって治められる唯一、聖、カトリック、使徒的な教会」という表現に最もよく表されている。
 
教会の教えによれば、教会とは単なる人間的な組織ではなく、20世紀前にパレスティナで誕生した伝統を継続する人々の集まりでもなく、教会は、人間から成立っているが、神から来るものである。
 
名称
東方教会(正教会および東方諸教会)と区別するため、カトリック教会とプロテスタント教会を総称して西方教会と呼ぶ場合もある。
 
 
 
 
その中で、最近はあまり見かけないが、日本語表記においてプロテスタント教会を「新教」とも呼ぶことがあるのに対してカトリック教会を「旧教」と呼ぶ例もあった。
 
日本で出版された歴史の本などにも「旧教」という言葉が使われていたことがあるが、カトリック教会の側が「旧教」を自称したことはない。
 
別の名称としては、日本ではかつて天主公教会と称していた。これはかつて神のことを「天主」と呼んで教えていたためで、大浦天主堂・浦上天主堂などの名称はこれに由来するものである。
 
 
 
また「公教」の使用例としては「公教要理」「長崎公教神学校(現・長崎カトリック神学院)」などがあったが、現在ではほとんどない。
 
なお、日本語でカソリックと表記されることもあるが、カトリックを現す、ギリシャ語のκαθολικοςのθとラテン語のCatholicusのthの部分の発音の表記の違いでしかない。
 
現在ではカトリック中央協議会が公式表記としていないので、日本のカトリック教会側が「カソリック」という表記・呼称を使用することは通常はない。
 
 
 
 
 
↑ Sen Xanh Pho Xua Restaurant(センサイン・フォースアレストラン) 

 
ベトナム料理レストラン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

フランス統治時代のコロニアル風の建物のレストランです。
店の名前はベトナム語で青い蓮という意味です。
 
 
 
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シクロ(cycloまたはXich Lo)
ベトナムとカンボジアでの自転車タクシーの呼称。
 
 
 
大都市で見られるが、数は減りつつあり観光用の乗り物になっている。一般的には前に乗客が座るようになっており、全身に風が当たる爽快感は他の交通機関では味わえない独特なものがあ。
 
 
日本でも神戸や札幌で運行を行っている。
自転車タクシーとは、2輪車もしくは3輪車で人力により乗客を運ぶ車両である。通常は、ドライバー以外に1人ないし2人の乗客を乗せることが出来るようになっている。
 
自転車タクシーは人力車を改良したもので、英語ではCycle rickshawとなる。また自転車タクシーが発展し、オートバイや三輪自動車などを用いるようになったものはオートリクシャー、Auto rickshawと呼ばれる。
 
 
 
 
 
 
↑ 様々な商店が軒を連ね活気に満ちている ↓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Rickshawは人力車のことで、Cycle rickshawは自転車の人力車と言う意味である。Rickshaw
の語源は日本語の 人力車 である(りきしゃから派生)。
 
自転車タクシーの車両はドライバーの脚力が動力源だが、電気モーターの力を補助的に使うものもある。車両は3輪のものが多数派でトラクターとしての自転車と、乗客を乗せる人力車の部分で構成される。
 
非常に稀だが4輪車もあり、2輪自転車とリアカーを合体させたものである。また、前に乗客を載せるタイプもある。
 
自転車タクシーはアジアで広く使われている。自転車タクシーは人力車の代替交通機関として発達した。自転車タクシーはアジアで広く使われているが、道路混雑の原因になると考えられており、しばしば規制の対象になっている。
 
広く普及しているアジアでは、人力車は農村地帯からの貧しい出稼ぎ労働者の重要な仕事となっている。しかし、最近では経済的で環境に優しい交通手段として再認識され、先進国でも復活する例が増えてきた。
 
 
 
 
 
↑ 私たちは高台にある「カトリック教会」へと向かっています ↓
 

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コキア(ホウキギ)
別名ホウキギ・ホウキソウ・箒草・箒木などと呼ばれる雌雄同株の1年草で非常によく増える植物です。
 
 
 
 
8月に小さな花が咲きますが目立ちません。花びらはなく雄蕊5本めしべ1本があり、めしべの中に種ができます。最初は緑の樹形ですが紅葉すると紅葉色がとても鮮やかで美しく、種は「山のキャビア」と呼ばれ茹でて食します。
 
枯れると箒になります。猛暑にも耐えますのでなかなか花が咲かない時期でも重宝されます。
 
コキアの種は秋田県の郷土料理にもなっているとんぶりの原材料です。
とんぶりの作り方は、まず小さな実を窯で茹でた後水きりをしてしばらく放置しておき、そのあともみ続けて皮をむきます。
 
畑のキャビアと呼ばれるくらい珍味だそうです。そのほかジフシという生薬に用いられています。枝を切って乾かすとほうきになることから学名にもほうき状のという意味のスコーバリアという名前がつけられました。
 
 
 
 
爆蘭 (はぜらん)
熱帯アメリカ原産。明治初期に渡来。             
道端でよく見かけ繁殖力がすごい。夏から秋にかけて茎頂部分に大きなピンク色の円錐花序を出す。
  
 
  
小さく丸い実(線香花火みたいです)。           
「爆」の「爆ぜる(はぜる)」には「はじけて開く」という意味があり(豆がはぜる・・・)、ふくらんだつぼみがつぎつぎとはぜるように開花する様子を表現した名前らしい。
 
 
ダリア
ダリアキク科ダリア属の多年生草本植物の総称。

「ダリア」の名は、スウェーデンの植物学者でリンネの弟子であったアンデシュ・ダール (Anders Dahl) にちなむ。
 
和名は、花の形がボタンに似ているめ、テンジクボタン(天竺牡丹)と呼ばれた
 
 
 
 
 
メキシコ原産。
ヨーロッパでは、1789年にスペインのマドリード王立植物園に導入され、翌1790年に開花したのが始まりである。1842年(天保13年)にオランダから長崎に持ち込まれたのが、日本への最初の到来となった。
 
 
 
 
 
 
 
 
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バラの季節
旧古河庭園は、東京都北区にある都立庭園である。1919年(大正8年)に古河虎之助男爵の邸宅として現在の形(洋館、西洋庭園、日本庭園)に整えられた。
 
 
 
古河邸は1917年(大正6年)5月竣工。延べ414坪。地上2階・地下1階。外観はスコティッシュ・バロニアル様式を目指したとされる。
 
古河虎之助がコンドルに設計を依頼した時期や経緯は明らかではないが、大正3年頃、洋館の設計がなされている。
 
屋根はスレート葺き。煉瓦造の躯体を、黒々とした真鶴産の新小松石(安山岩)の野面積みで覆っているのが特徴的である。
 
南側の庭園から見た外観は、左右対称に近く、両脇に切妻屋根を据え、その間の部分は1階に3連アーチ、2階には高欄をめぐらしたベランダが設けられて、屋根にはドーマー窓を乗せている。
 
全体的に野趣と重厚さにあふれ、スコットランドの山荘の風情である。 内部に入ると、玄関扉にはステンドグラスが設けられ、古河家の家紋、鬼蔦のデザインが見られる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1階は食堂、ビリヤード室、喫煙室などの接客空間ですべて 洋室である。大食堂の壁面は真紅の布張りで、大きな暖炉が設けられ、天井にはパイナップルやリンゴなど果物の装飾が見られる。応接室にはバラのモチーフが配されている。
 
2階は家族の居室など私的空間で、ホールと寝室が洋室である以外はすべて畳敷きの和室である。ホールと各和室は洋風のドアで区切られた上、板の間の小空間があり、さらに障子や襖で区切られて和室空間に入るという構造になっている。
 
仏間には前室との間に禅寺を連想させる火灯窓風の出入口がしつらえられている。
また、客間は書院造である。コンドルの和と洋の共存への苦心が伺われる。同じコンドルの旧岩崎邸庭園の和洋館並列形式ではなく、和室内蔵型洋館である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

現在は財団法人大谷美術館が洋館の管理を行っている。
洋館内部は1日3回、時間を決めて行われているガイドツアーに参加すると見学可能。

本館部分の1階から2階までを解説付きで見学できる。(所要時間1時間、見学料800円入園料別)自由に内部の見学ができないので注意が必要。
 
この見学会は往復はがきでの事前予約が原則だが、当日に予約の空きがあれば予約がなくても参加可能。ただし、バラの開花時期には予約が定員を超えることも多いので、予約をしておくと確実で待ち時間なく見学会に参加できる。
 
 
 
洋館1階の一部には喫茶室が設けられており、春と秋には窓越しにバラ園を望みながらお茶を飲むことができる。この喫茶室にも時間になると見学ツアーが入ってくるので、お茶を飲みながら説明の一部分をツアー参加者と一緒に聞くこともできる。
 
また、結婚式やコンサートで洋館を貸し切ることも可能で、大正時代の瀟洒な洋館での記念行事は雰囲気が良く人気のようだ。文化財という場所柄の特別な条件や制約もあるが申し込みは誰でも可能で、諸条件は電話での問い合わせや実際に下見に行って聞くことができる。(貸切日の洋館内部の公開は休止となる。)
 
 
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稚内・利尻島・礼文島・網走・知床巡り
シーズンオフ
催し物や行事などが行われない時期。観光地などに、人があまり訪れない季節。シーズンオフ⇔オンシーズン。
 
即位礼正殿の儀
20日、「即位礼正殿の儀」を22日に控え、海外から参列する国家元首らが続々と羽田、成田両空港に到着するため、首都高などの交通規制が実施されている。
 
 
↑ 羽田空港への連絡バスに遅延の可能性が有るため、今回は東日本橋から羽田空港国内線ターミナル駅行きの電車を利用した ↓
 
 
 
 
↑ サテライトバス ↓
 

2018年15月10日から羽田空港国内線第2ターミナルで新しい搭乗口としてサテライトの運用が始まった。
 
羽田空港国内線のサテライトは、国内線国際線の共用化するための工事が行われており、その際に国内線の発着スポット不足が考えられたため、その解決策として建設されました。

国内線第2ターミナルとは別の建物となっており、サテライトバス乗り場から500mほど北側に地上3階建てのサテライトが建てられました。
 
サテライト行バス乗り場と500~511番のバスゲートラウンジは場所が異なります。
そのサテライトは距離がありますので歩いていくことができません。
 
 
 
↑ パッセンジャーステップ(タラップ車)↓
 
発着便が集中する時間帯など、ターミナルから離れたオープンスポットに到着した旅客機から、乗客が乗り降りするための階段を備えたクルマ。主に、飛行機とターミナルビルを直ぶパッセンジャーボーディング・ブリッジ(PBB)が設置できないときに使用されます。
 
 
バードストライク
私達の搭乗機より3機前で滑走路に鳥が群がる「バードストライク」が発生し、滑走路点検などで40分間滑走路手前で待機してから飛び立った。
 
飛行機に鳥がぶつかるトラブル「バードストライク」、日本では2018年、1434件発生しています。国土交通省の資料によると、7月から11月にかけてが多く、10月がピークだそうです。
 
バードストライクのおよそ半分は、滑走中など地上にいるときに発生します。鳥が滑走路に、虫などの餌を探して飛んでくるためです。また発生個所で一番多いのは、実は機首(ノーズ)の部分。ついで翼、エンジンです。
 
海に面した空港では、バードストライクが多くなる傾向があります。一番多いのが羽田空港で、2018年は157件発生。海沿いで、離着陸数が多い大空港のためです。
 

↑ 稚内空港 ↓

北海道稚内市声問村にある国管理空港である。
日本の空港かつ航空定期便が就航する空港としては国内最北端に位置する。
 
 
 
↑ 北門神社 ↓

宮司常駐の神社としては日本本土最北の神社
1785年(天明5年)、松前藩の場所請負人であった村山伝兵衛が、宗谷の地(北海道 (令制)北見国宗谷郡)に北門鎮護の守護神として天照皇大神を奉り、宗谷大神宮という小社を建立した。
 
1896年(明治29年)7月15日に、現在地に社殿を移築し、武甕槌神、事代主神を合祀して、北門神社へ名称を変更した。
 

↑ 並木凡平の歌碑 ↓
 
「八十段 のぼりきわめて北門の社にひらく宗谷海凪ぎ」昭和8年の作。
北門神社の境内には、放浪の歌人・並木凡平の歌碑があります。
 
碑は、凡平直筆の色紙の文字を拡大して、高さ1.3mの黒曜石に刻んだもので、昭和43年(1968)に建てられ、凡平を慕う会という団体によって守られています。
 
 

↓ 南極観測犬「タロー・ジロー」の樺太犬がマンホールの蓋に ↓
 
 
 
↑ 子持ちの狛犬 ↓
 
最北端の神社は、子授けの御神徳でも知られています。その理由は、親子の狛犬。
母犬の中央に子どもの犬が配された狛犬は珍しいものだそうです。
 
子をしっかり守るような様子からか、本土からも子授けを願う参拝者が訪れる由。
 
 
 
↑ 北門神社 ↓
 
 
 
 
 
↑ 宗谷岬 ↓
 

日本の本土における最北端の地であり、私人(一般人)が通常訪れることのできる最北端の地になっている。
 
なお、日本国政府の実効支配が及ぶ範囲における最北端の地は宗谷岬の沖合い西北西約1kmに位置している無人島の弁天島であり、領有権を主張する範囲における最北端の地は択捉島にあるカモイワッカ岬である。
 
 
↑ 間宮林蔵 ↓

間宮 林蔵(まみや りんぞう)、
江戸時代後期の徳川将軍家御庭番、探検家。名は倫宗(ともむね)。元武家の帰農した農民出身であり、幕府で御庭番をつとめた役人であった。
 
生年は1775年(安永4年)とも。
樺太(サハリン)が島である事を確認し間宮海峡を発見した事で知られる。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。
 
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毬栗と鬼灯
 
小売段階における、店舗内の販売を目的とした陳列に対応する街路・公道・メイン通路に面した、いわゆるウィンドウでの商品掲示陳列をいう。
 
ウィンドウ陳列には、個別の商品の販売促進を意図した促進的な性格の陳列と、代表的な取扱商品の一部を装飾的に展示して店の格調や特色を顕示しようとする制度的な正確の陳列の双方がふくまれる。
 
 
 
きんつば 毬栗
金沢の和菓子屋である「中田屋」が、今秋も能登栗をつかった特選きんつば毬栗」の販売を開始。 
 
「毬栗」は能登栗の新栗のみを使用、地産地消を目指し、石川県能登産の能登栗のみを使用した、季節限定商品。
 
販売期間は栗がなくなるまで。
 
 
毬栗(いがぐり)
1 いがに包まれているままの栗。
2 「毬栗頭(いがぐりあたま)」の略。
 
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24日まで旅行の為やお休みします。
ホアンキエム湖(湖還劍)
 
ホー・チ・ミンの遺書には、遺骸を火葬して北部、中部、南部に分骨して埋葬すること、戦争勝利後は農業合作社の税金を1年間免除することなどが記されていた。しかし、ベトナム労働党政治局はこの部分を削除して遺書を公開した。
 
 
 
 
ホー・チ・ミンは、個人崇拝につながる墓所や霊廟の建設を望んでいなかったが、その意向は無視されたのである。
 
政治局の決定により、遺骸はウラジーミル・レーニンにならって、永久保存(エンバーミング)され、南北統一後、ハノイ市のバディン広場に建設されたホー・チ・ミン廟に安置された。
 
 
 
 
 

死後20年に当たる1989年、ベトナム共産党(南北統一後の1976年12月、ベトナム労働党から改称)政治局は遺書の全文を公開、削除部分は死去当時実行できないため公表しなかったこと、全人民、特に生前に直接会うことが出来なかった南ベトナムの人民のために遺骸の保存を決定したこと、実際の命日(9月2日)が国慶節(独立記念日)と重なったために1日遅らせて発表したことを説明し、農業税の減免について政府に提議すると発表した。 
 
 
 
 
 
↑ ホーチミン廟を後にしてハノイの中心部へと向かう ↓
 
 
 
 
 
 
 
ホアンキエム湖
ベトナムのハノイ市ホアンキエム区にある湖の1つである。ハノイの主要な景観スポットでもある。
 
過去に紅河が何度も氾濫を繰り返した際にできた湖の一つである。かつては紅河とも繋がっており、緑水湖として知られていた。
 
その後湖は2つに分かれ、一つがホアンキエム湖となり、もう一つが 水軍湖となった。
水軍湖にはベトナム海軍の訓練場が置かれていたが、現在は埋め立てられている。
 
湖の北岸の近くにあるもう一つの島には、18世紀に建てられた玉山祠が建っている。
これは13世紀の元に対する戦いで活躍した陳興道、文昌帝、1864年に寺の修理を担当した儒者で作家の阮文超らを祭っている。
 
島と岸の間には、赤く塗装された木製のフク橋(Cầu Thê Húc, 棲旭橋)が架けられている。
 
 
伝説
黎朝の初代皇帝黎利が湖の宝剣を手にし、その剣によって明との戦いに勝利した。
 
その後、黎利は湖の上で金の大亀 から平和になったので持ち主である竜王に剣を返すように啓示され、湖の中心近くにある小島で剣を返した。
 
それゆえ、還劍(ホアン・キエム)と呼ばれるようになった。この物語は水上人形劇で観ることができる。
 
 
 
小島にはその後、亀の塔が建てられている。
湖の中のシャンハイハナスッポンおよびいくつかの種の大型の軟殻亀は、黎利(Lê Lợi)の名から "Rafetus leloii" と名づけられている。
 
 
 
その種は絶滅の危機にさらされており、湖の中の個体数は不明である。1968年には湖で体重250キログラムの大亀が発見され、伝説の亀とされて玉山祠に剥製が祭られている。
 
剥製の大きさは長さ210センチメートル、幅120センチメートル。
2014年4月には、体重約200キロの傷ついたシャンハイハナスッポンが治療を目的に捕獲された。
 
 
 
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ホーチミン廟 ベトナム人民軍の儀仗兵。
儀仗兵は国家元首や高官の警護や各種儀礼に配置される特殊部隊で、厳しい審査に合格した新兵のみが儀仗兵の任に就くことができる。
 
 
↑ ホーチミン廟 ベトナム人民軍の儀仗兵の歩哨 ↓
 
 
 
 
儀仗兵の基準は
◇政治的な素養がある、
◇健康状態が良好、
◇軍人としての基本的な振る舞いができる、
◇任務を完璧に遂行する能力がある、
◇容姿端麗、
◇身長180cm以上であることとされており、合格者は年に100人ほどだ。
 
 
 
ホーチミン廟儀仗兵の交代式セレモニーを見る事は出来ませんでしたが、廟儀仗兵の軍服着用に国による違いか有ることが分かります。其の一つがズボンです。台湾の廟儀仗兵と比べて見ました。
 
↑ ホーチミン廟儀仗兵の歩哨 台北忠烈祠儀仗兵の歩哨 ↓
 
 
 
 
 
 
 
地方の省から入隊年齢に達した男子で儀仗兵への推薦があると、儀仗部隊の幹部が省へ赴き審査を行うが、身長を満たしていない場合は審査が進んでいても中止となる。
 
儀仗兵の任務は守秘性が極めて高く、立ち位置も国家元首と近いため、志願者の経歴も厳正に審査される。
 
 
 
 
 
 
↑ 沢山の菊花が活けられ飾らりています ↓
 
 
儀仗兵は儀礼や式典などに登場することが多く華やかな職務だと思われることが多いが、その裏には厳しい訓練があることはあまり知られていない。
 
長時間同じ姿勢を保つ訓練では10分、20分、60~70分と徐々に時間を延長していき、2時間の直立不動が求められる任務の訓練では3~4時間同じ姿勢をとる。
 
このほかにも一糸乱れぬ行進や敬礼、捧げ銃などの動作の訓練も繰り返し行われる。タンロン・ハノイ建都1000年記念(2010年)やハノイ解放60周年(2014年)には式典の3~4か月前から強化訓練を実施した。
 
 
 
↑ 専門の担当者により交換され飾らりています ↓
 
 
 
儀仗兵の任期は2年だが、一部の隊員に新任のとりまとめ役として残ることを命じるほか、毎年、軍事的能力が高く容姿端麗な者8~10人を長期任務の隊員として採用している。現在は約70人が儀仗兵の任に就いている。
 
2015年にはアオザイのデザイナーからの要請で20人の儀仗兵がファッションショーに出演した。ミス・アオザイと一緒にランウェイを歩く身長185cm以上の男性モデルを集められなかったため招集がかかったのだ。儀仗兵のなかには長身を生かして退役後にモデルに転身する者もいるという。
 
 
 
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蕎麦(そば)
穀物のソバの実を原料とする蕎麦粉を用いて加工した、日本の麺類、および、それを用いた料理である。中華蕎麦などと区別して日本蕎麦(にほんそば)とも呼ばれる。
 
蕎麦屋のメニューは、昔からある馴染みの物から、丼物、和洋定食、カレーライスやラーメン等々、そばカフェなどで新生メニューとして崇められる物まで多種多様です。
 
 
 
 
 
日本蕎麦屋で「ラーメン」を扱う店は多いがラーメン屋で「日本蕎麦」を扱う店は無いと思う。
ラーメン屋もスープや具による種別は多種多様ですがメニューは少なく、ワンタンや焼きそば、餃子チャーハンと言ったところでしょう。
 
 
 
私が日本蕎麦屋のラーメンで好きなのが醤油ベースのラーメンである。
白濁していたり、背脂でギトギトもしてなく、そして香り、豚骨臭や味噌、煮干などではなく醤油。いわゆる昔のシンプルな「支那蕎麦」って言う感じが良い。
 
 
 
 
拉麺はもともと日本蕎麦だった
拉麺は日本蕎麦だった
私はラーメンよりも日本蕎麦が好きで良く食べに行きますが、ラーメンに関するウェブサイトを見付けたのでご紹介いたします。
 
質問者。
日本は中国の文化、ラーメンを何故日本起源のように扱うのでしょうか? 間違いなく中国伝来なのに、何故「横浜発祥」とか、「富山から東京上陸」とか言うのでしょうか?
 
ベストアンサーに選ばれた回答
回答者。
denji_tigerさん
横浜発祥なのですが、あまり知られていないことに、実は元は日本蕎麦だったんです。
当初は夜鳴き蕎麦屋が中国人の功力(クーリー 船に荷物を運ぶ港湾労働者)を相手に店を出したのだが全く売れない。
 
そこで、中華街の台湾人に相談し、つゆに鶏ガラ出汁を加え、麺を中華風の麺にしたところ人気を博したというのがルーツです。
 
つまり、そばと中華料理のハイブリッドなので、日本蕎麦と区別するために「支那そば」と言ったのでした。
 
後に、ここから教えを請うた人が東京に「来来軒」という店を出し、ここに教えを乞いに来た弟子が各地に支那そばを広めました。
 
そのため、地方の老舗の中華屋やラーメン屋には「来々軒」を名乗る店が多いのです。
 
 
 
ラーメンの語原は函館。
当初は支那そばを名乗っていたが、函館の人たちはこれを「チャンコロそば」と呼んだ。
 
気を悪くした店主が、中国人のコックができあがるときにかけるかけ声「ハオラー(好了)」という音からラーメンという名前を思いつき、ラーメンという名称がうまれた。
 
以降、北海道では支那そばはラーメンと呼ばれるようになる。
ちなみに良く言われる「柳麺」「拉麺」「老麺」などは完全にアテ字です。 (ただし、中国に拉麺という、手延べ素麺のような別の食べ物は存在する)
 
 
 
 
 
 
戦後、日本が敗戦し、「支那」という言葉は中国に対する侮蔑の意味として封印され、支那そばは「中華そば」と名前を変えるようになる。
 
その後、サッポロラーメンの一大ブームが起き、全国にサッポロラーメンが紹介されるとラーメンと言う名前はあっという間に普及。
 
味噌ラーメンに対して、中華そばは醤油ラーメンとよばれるようになり、中華そばという耳慣れない名称は消えることになった。
 
現在ではラーメンの種類も増え、ラーメン全般のことをラーメン、古式ゆかしいタイプの醤油ラーメンをノスタルジーから「中華そば」と呼ぶようになっている、というわけです。
 
 
 
 
現在の日本のラーメンは、中国風ということからも大きく乖離していますので、ラーメンと言う元来意味のない名称になったこと自体、ラーメンと言うものの幅が広がったと考え、ラーメンというのは食のカテゴリー(ジャンル)そのものだと考えるほうがいいかもしれませんね。
 
ちなみに中国では日本のラーメンを「日式拉麺」と表記し、日本のものであるとしています。
上記のように中国では「拉麺」といえば素麺状の手延べ麺であり、日本のラーメンのような切り麺のスープそばではありませんから、区別のためにこういう名称になりました。
出典URL↓
(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1061270280?__ysp=44Op44O844Oh44Oz5bGL44Gn5pel5pys6JWO6bqm44KS5omx44GG5bqX44Gv)
 
 
 

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