ハワイ王国公使別邸ガイダンス施設
ハワイが独立国「ハワイ王国」だった時代の駐日公使「ロバート・ウォーカー・アルウィン」氏が、明治24年に別荘として購入し、ハワイ王国公使別邸として利用された建物の一部。

ロバート・ウォーカー・アルウィン(1844年1月7日 - 1925年1月5日)
アメリカの船会社日本駐在員として1866年に初来日し、日本の海外貿易や海運業に指導者として携わり、経済界で活躍しました。

日本とハワイの間に親善協定が結ばれた後、1881年にアルウィンはハワイ王国総領事に任命されます。
885年、駐日ハワイ代理公使に昇格すると、ハワイと日本の間で結ばれた渡航条約に従った官約移民実現に力を尽くしました。

アルウィンは「ハワイ官約移民の父」と呼ばれ、その死後、日本政府から功績を称えた勲一等旭日大綬章が贈られました。
ガイダンス施設 入館料(1人につき)
個人一般/200円
小学生・中学生・高校生/100円
団体(20人以上)一般/160円
小学生・中学生・高校生/80円
江戸時代の温泉集落で、西国の巡礼に対抗して水沢寺が関東の十六番札所に選定され、巡礼者が多く訪れるようになりました。

また榛名神社も信仰を集め、榛名詣は江戸時代の観光名所となり、湯治をかねて多くの人が訪れました。伊香保は元禄時代と文化・文政時代に黄金時代を迎えました。
江戸時代に伊香保の湯治は大ブームとなり各藩の武士、町人や農民などありとあらゆる階層の人々が伊香保を訪れるようになり、往来する者が増えたので、口留番所が設けられました。

寛永8年(1631年)に江戸幕府(徳川家光)の命により設置され、渋川から伊香保・東村を通って中山宿へ行くルートの要所となりました。

現在ある門扉などは、当時の関所跡地に復元されたもの。明治2年に関所廃止令が出されるまで、設置から238年間、利用されたそう。

甲冑や通行手形などの史料が展示されていて、貴重な史料を間近で見学することが出来ます。

口留番所(くちどめばんしょ)
江戸時代に各藩が自藩の境界や交通の要所などに設置した番所のこと。江戸幕府の関所に相当する。
また、江戸幕府が設置した施設でも裏街道に設置されたものなど、関所の要件を満たさない小規模なものは口留番所と称した。

戦国時代に戦国大名は領国内の要所に関所を設置し交通や物流の監視、関銭の徴収を行っていたが、江戸幕府は寛永年間の武家諸法度の改正において諸大名が勝手に関所を設けることを禁じていた。

だが、藩側も治安上の理由から関所に相当する施設を必要としており、「関所」の名称を避けて「番所」の体裁で設置したのが口留番所であった。

主に藩に出入りする旅行者や商品の監視を任務としていた。前者には農民や欠落人(犯罪者)の逃亡防止・傷を負った者・女性、後者には専売品(各藩の特産品)の密輸防止や運上逃れの防止(品質や価格を維持するため)の目的とともに米などの穀物や金銀銅などを藩内に留めて必要な物資を確保しておく意図を有していた。弘前藩の碇ヶ関などは特に有名であった。

また各藩において、通行する品物への税金、いわゆる「口役銀」(今でいう関税の様なもの)を徴収するのも口留番所の重要な役目でもあった。

しかし、こうした税金を逃れるため不正を行う者が多くいたという。女性の通行に関しては特に厳しく、番所を通過するには、「関所女手形」が必要で、藩によっては通行を一切禁止する場所もあり、不正な通行には磔等の厳しい処罰が下される。

また、鉄砲も女性同様に厳しく取り締まられ、「入鉄砲出女」という言葉が出たほどである。飛脚や位の高い武士は、そのまま通行することが可能だった。

↑ 門柱の礎石 ↓
番所の開門時間は、明け6つ(日の出)から暮れ6つ(日の入り)まで。日暮れになると門は閉められ、番所の一日は終わる。

↑ 伊香保口留番所 ↓
また、江戸幕府においても裏街道に口留番所を設置した例はある。ただし、五街道の関所と比較すると小規模なものも多く、番所を破っても関所破りよりは軽い刑であったという。
↑ 伊香保口留番所内部 ↓
↑ 内部展示品 ↓








