伊香保温泉街

 


 

↑ 客室窓辺の石灯籠 ↓

 




 

↑ ホテルロビー ↓




↑ チェックアウトをする人等 ↓

 

↑ ロビーに設置されている無料で飲める大型コーヒーサーバー ↓

 




 

↑ チェックアウト後のひと時 ↓

 



 

↑ 水車 ↓

 



 

↑ ロビーの虎 ↓

 

 

 

↑ ホテル内とホテル前 ↓

 

 

 

↑ ホテルは石段街まで徒歩1分の立地にある

 

 

急傾斜地に作られた石段の両側に、温泉旅館、みやげ物屋、遊技場(射的・弓道)、飲食店などが軒を連ねている。

 

365段の石段は温泉街のシンボルであり、この界隈は石段街と呼ばれる。

 


石段の下には黄金の湯の源泉が流れ、小間口と呼ばれる引湯口から各旅館に分湯されている。

 

石段の上には伊香保神社が存在する。

 

石段上の源泉周りは整備されており、源泉が湧出する様子を見ることができる。


 

また石段から源泉までの遊歩道の途中に飲泉所も存在する。

源泉の傍には「伊香保露天風呂」が、石段の途中には共同浴場「石段の湯」が存在する。

温泉街と近くの物聞山にある上ノ山公園を結ぶロープウェイ(伊香保ロープウェイ)が存在する。

 

温泉街の周辺には榛名山や、水沢うどんで有名な水沢観音などが存在する。




歴史
開湯時期は諸説あり定かでない。しかし、万葉集にはその名が登場している。

 

伊香保温泉を象徴する石段街が形成されたのは戦国時代で長篠の戦いで負傷した兵士の保養地だった。




一説には石段街は源泉の湯を効率よく供給できるよう武田勝頼が真田昌幸に命じて整備させたという。

伊香保温泉の老舗旅館、千明仁泉亭は、伊香保を愛した明治の文豪徳富蘆花が常宿として生涯10回宿泊し、ひいきにした旅館であり現存する。

 

海軍少尉川島武男と陸軍中将片岡毅の娘浪子が、愛し合いながらも運命に翻弄される悲劇の物語小説『不如帰』の冒頭を飾る宿である。

 

更に1910年(明治44年)には、渋川から路面電車も開通した。同線は後に東武伊香保軌道線となり、バスの台頭で1956年(昭和31年)に全廃されている。



東京などからの避暑客で賑わう1920年(大正9年)8月20日、深夜に火災が発生。温泉街を焼き尽くす大火となった。

戦後は歓楽街温泉としても栄えた。芸妓組合が現在も存在している。

近年、温泉街の店舗が東南アジアから人身売買によってつれてこられた少女を監禁し、売春行為を行っていた事実が発覚し、マスコミに取り上げられている。

また、2012年(平成24年)1月にも、人身売買によって同地に連れてこられたタイ人女性に売春を強制した同地の飲食店が検挙されている。

1955年(昭和30年)6月に、観光協会の陳情によって日本最初のケーブルテレビ(NHKによる難視聴解消用のテレビ共同受信実験設備)が設置されたとされ、温泉地にある「文学の小径公園」にはその記念碑が設置されている。

2004年の温泉偽装問題
2004年(平成16年)、日本各地で温泉偽装問題が巻き起こり、伊香保温泉では水道水を使用しているにもかかわらず温泉表示を行っていた温泉があったと報道されて注目を浴びた。

もともと伊香保温泉の開湯以来の源泉であった黄金の湯を利用できるのは、小間口の利用権利者と権利者から湯を購入した旅館のみの利用に限られていた。

しかし戦後に旅館数が増加し給湯量が不足してきたため、1996年(平成8年)に白銀の湯が開発された。

ところがこちらは黄金の湯に比べて湧出温度が低く、温泉特有の成分が非常に少ない(メタ珪酸含有量で温泉と認定:つまり、「温泉法第2条による温泉」)。

人によっては温泉かどうか分からない、といった声もあり、すべての旅館で使われなかった。

加えて、小間口の権利者が周辺の湯への供給量を抑えたため湯を引けなくなった宿が多くなった時期と、伊香保温泉における温泉偽装問題が発覚した時期が符合することから、権利者の行動に疑問を投げかけた見方もあった。

温泉饅頭
日本各地で見られる茶色の温泉饅頭は伊香保温泉が発祥の地ともいわれている。

1910年(明治44年)に勝月堂の初代店主・半田勝三が売り出したもので「湯の花まんじゅう」として販売されている。

伊香保温泉ではこのほか数軒が湯の花まんじゅうを製造販売している。

 

 

↑ ハワイ王国公使別邸 ↓

 



ハワイ王国公使別邸

明治時代以降は竹久夢二、徳富蘆花、夏目漱石、萩原朔太郎、野口雨情など文人が多く訪れた。また、御用邸やハワイ王国大使別邸なども作られた。


 

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