『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[27]


(7)悲観的な時代の商人

 A.モレッリは(多くの同時代人と同じく)深い悲観論者=「人間は生まれつき悪人である,人生は厳しく運命は非情である,現在ほどひどいものはない」だった。この時代のイタリア商人にとって、黄金時代は過去のものだった(※これは近代以前の人間にとって普通の「歴史観」だった)。だから家族が唯一の避難所と認識された
 B.イタリア(14世紀半ば頃~)を脅かした社会的・経済的な危機が、イタリア・ルネサンスが発展した背景にある。ルネサンス期のユマニストや商人作家たちは「人間存在の儚さを意識し、人間の本性に悲観的な眼差しを向けていた」のだった。そこには「数多くの身近な死の経験,数々の大惨事」があり、人々を少しも晴れやかな気持ちにさせてくれなかった、という状況がある
 C.しかし、ユマニストたちは文化という「理想的な価値観による人為的な世界」に閉じこもっているが、商人作家(←ブルジョワ階級)は「純粋に物質的な利害にしか動かされない、実業的世界」にいた。両者の繋がりは実はきわめて薄いものでしかなかった

【ルネサンス期実業家の現実】
 D.富裕な商人たちの絵・肖像画(イタリアやフランドルの巨匠たちにの作品)での姿は「上品で威厳を保ち、いかにも敬虔に見える」。さらに彼らは「病院を建てる,教会堂・公共建築物を装飾する」おおらかな寄進者のようにイメージされうる
 E.しかし実際の彼らの実業家としての精神は「情け知らずの利己主義を露呈する,商取引の相手に対して臆面もなく功利的であこぎな態度を示す」のだった。つまり彼らには、相反する2つの顔=「文化と商売,宗教性と合理性,信心と背徳」が共存していた!
 F.彼らは政治の舞台に立つと、政治を道徳から解き放った。事実上彼らは“マキァヴェリ以前のマキァヴェリ主義者”であると言える
 G.また、たとえ魂の救いが心配であっても、スペイン・イタリアの商人はイスラム教徒との取引の妨げにはなっていなかった。彼らは「教会の禁令を破ってアラブ人・トルコ人に武器を売った」「奴隷(※これはキリスト教徒?非キリスト教徒?)の売買で法外な収益を上げた」のだった
 H.イタリア商人は、ドイツ・ハンザの諸都市の商人と比べて、より積極的に「教会による高利貸し禁止の抜け道を探し・作り出した」。実際にフィレンツェでは「高利貸し業に対する苦情が多かったので、12~15%を越える利子を高利と見なした」のだった(コンスタンツの場合:利子が11%を越える貸出を禁じた)

【不道徳の恐怖】
 I.上記(6)のように、実業家たちは信心が(潔白に程遠い)取引の邪魔にならないよう調和させようとした。しかし実際にはそれは必ずしも上手くはいかず、地獄行きの恐怖心は商人・銀行家を襲った。その結果、少なくとも臨終の時には、財産を貧しい人々・教会へ寄付せずにはいられないこともあった
 J.ルネサンス期の哲学・芸術でよく見られる「メランコリー」とは、感情的な悲哀のことではなく「癒しがたい恐怖・救いが望めない恐怖」のことであり、商人層を支配する精神状態を指していた。実業家たちのこの恐怖心(人間の運命の浮き沈みの激しさによってもたらされた:上記A.)は、個人主義が発展していたことの反映であり、あの世での刑罰を恐れる気持ちによって深刻となった
〈例1〉フランチェスコ・ダティーニは老後、悔悛しようとして「巡礼を行う,断食する,(ついには)フィオリーノ金貨75,000枚に上る巨額の財産のほとんど全てを慈善事業へ寄贈した」。しかしそれでも、自分の過ちと「メランコリー」の悩みから解放されはしなかった
〈例2〉道徳的理由で職を辞したヴェネツィアの統領(ドージェ)は大商人だったが、店を閉めて修道院へ引退した
 ★もちろん、全ての商人があくせく働いて築いた財産に(上記のような)後ろめたさを感じたのではない!

【富と運命】
 K.中世における富のイメージは「休みなく紡ぎ車を回し続け、成功を求めてその輪にしがみつく人々を次々に引き上げては落とす」というものだった(このイメージは古代から継承した)が、これは誰よりも商人に適用された。「富:fortune」という語には「運命,成功」「富,大金」という2つの意味がある
 L.商人に常につきまとっている危機感は「人間を弄ぶ運命:fortune」と結び付けられた。中世末期になると「運命」の概念は、商人=「速やかに金持ちになるが、突然破産する」(例:フィレンツェのバルディ商会とペルッツィ商会の破産)というように繋がっていた。「運命」とは神の力・業である(古代とはこの点が異なる)
 M.しかし中世末における危機の増大は、人々に対して「破壊的で不吉な力=非運」というfortuneのマイナスの概念だけをのしかからせた。そこで商人たちには、運命のいたずらを避けるために保護してくれる守護聖者が必要となった
〈例〉ミラのニコラウス(聖ニコラウス=サンタ・クロース):
1.「彼は商人のために『商業と航海の守護聖者』の役割を果たした。遺体はバーリに保存され(11世紀末~)、多くの巡礼が押し寄せた」
2.「ヴェネツィアの商人たちは『聖ニコラウスの本物の遺体がヴェネツィアで発見された』と主張した。これはバーリとヴェネツィアの商業競争の産物である」
3.「北ヨーロッパ・バルト海沿岸地域でも、聖ニコラウスは商人たちの守護聖者となった」
4.「経済的な不安感がイタリア諸都市の住民の間で深刻化すると、不運から守ってくれると信じられた聖者の名が、子供たちに付けられた」
5.「商船にも聖者の名を付けられることが多くなる」

【富の保全】
 N.商業情勢の悪化は「遠隔地との交易に伴うリスク」を避けようとする商人に、資本の投資先としてもっと確実な選択をさせた
〈例1〉バルバリゴ家(ヴェネツィア)では、商人である老アンドレアは晩年に土地を買おうとし、また息子のニッコロも遺言書で「決して商売へ投資しないように」と、若アンドレアに勧めていた
〈例2〉『都市生活論』の作者マッテオ・パルミエリは、営利稼業を礼賛しながらも「平和な生活を保証する」農業を好んだ
 O.イタリアの実業家たちは、商業を見捨てて金融&土地所有への転向を行ったが、それによって大西洋で起こった地理的発見と、新しい大きな通商ルートの恩恵に与り損ねた

【危機によって広がったもの】
 P.中世後期に始まった経済活動の衰微(14世紀前半)とペスト大流行(1348‐49年)は、同時代の人々には「人間の罪に対する神の怒りの現れ」と受け止められ、引き起こされた人口激減は、社会的・心理的・道徳的な危機を生じさせた。死が目前に迫り絶え間ない脅威となり、商人全体に影響を与えた
 Q.『デカメロン』第1日目の物語的背景は「世界的な荒廃,野獣に変身した人間,全ての人間関係の崩壊」である。この作品に満ちている愉快な出来事・軽はずみな冒険の語りは、実はフィレンツェの10人の若い男女が流行中のペストの災厄から逃れている間に展開される。その裏舞台には「死の勝利」が広がっている
 ★同じように、フランコ・サケッティは自分の物語(※日本語訳は『ルネッサンス巷談集』)の序文で“読者がこの種の語りを聞きたがるのは、様々な破局、ペストと死の荒廃のただ中で、陽気と慰めを望んだからだ”とはっきり書いている
 R.大量悔悛・信心と熱狂の渦・鞭打ち苦行者の行列が“中世の黄昏”のヨーロッパ諸国に突然広がった(中には異端に走る者も現れた)が、この動きの中での商人たちの役割・影響力を量るのは難しい。しかしフィレンツェでは、ブルジョワに対するプロレタリアの階級闘争の特徴を示している『チョンピの乱』(1378年)が発生している
 S.その約1世紀後のフィレンツェは、メディチ家の支配から解放されたばかりであったが、今度は(禁欲主義の使徒&改革者の)サヴォナローラが、金持ちと聖職者階級に対して攻撃を繰り返した。彼の理想は「都市全体を一大修道院に変え、そこから奢侈・富・高利貸し・世俗的美術・世俗的文学を追放すること」だった。しかしそれは、金持ちに対する過激な憎悪の極端な表示に過ぎなかった
 T.中世商人の理想は、本来なら「a.限られた商取引に取り組む小企業」「b.『正当な価格』と『節度ある利潤』を追求する節度ある取引」において実現し「c.商人の経費と家族の必要を満たす以上を求めない」ものであるハズだった。ところが中世末には理想が現実と矛盾し始める
 ⇒商人の宗教性は貪欲&金銭的情熱と結びつき、商人倫理もそれに服従した!

【商人と家族】
 U.フィレンツェ商人シモーネ・ディ・リニエーリ・ペルッツィの遺言書では、父が息子に対して“わが息子は永遠に呪われるべし!”と、激しく怒っている。しかしこれは、中世後期の商人の家族が感情的に固く結びついたいなかった証拠とは解釈できない
 V.商人=家長の仕事は家族全体の仕事であり、それは「a.相続によって父から息子へ受け継がれる」「b.家族における父の役割は、息子を家族の中核に据えるようにすること(稼業を継ぐのは息子である)」というものである。さらに「c.家族は大規模な商業・金融業組織での主要な構成要素となる」「d.都市の富裕家族は、代々の都市要職への就任によって都市の管理機能を世襲した」
〈例〉オーベルシュトルツ家(ケルン:13~14世紀)は市長職に25回就いた
 W.身分の高い家族の自意識は、上記の「家族的回想録」にはっきりと現れている。それはイタリア諸都市のみならず、ドイツ(例:ニュルンベルク,アウクスブルク,フランクフルト)でも見られた。アルベルティの『家族論』にも、家族内での求心力の強まりが証言されている
 X.中世末の宗教画では、聖史の場面を家族における1場面のスタイルで表現されるようになっているが、これも富裕層の家族意識の生長と無関係ではない。ブルジョワの家族は(この時期の美術において確立された新しい現象である)「集団的肖像」のテーマとなる
 ★商人・金融家はその名を不滅にしようとして、肖像画を依頼した。画家はその構図を「家庭・事務所の中で妻子とともに描いた」のだった


(8)商人と打算・価値

 A.実業家たちの活動を認めるには新しい価値体系が必要だった(例:ダンテは商人を冷淡に扱い、ペトラルカは商人に全く関心を払わなかった)。都市の商人生活がイタリア文学に盛んに現れるのは『デカメロン』以降である(つまり14・15世紀)
 B.中世の伝統的な精神は、商人の特質=「通貨の使用,営利的アプローチ」とは全く相性が良くなかった。イタリア・フランス(15世紀)では、営利思想や利益計算に基づいた言い方・考え方が浸透し始めていた
〈例1〉「何千フィオリーノ(orフラン)に値する人物」
〈例2〉ジャコボ・ロレダーノ(ヴェネツィア人)の会計簿の備考欄:“統領フォスカーリは我が父と叔父の死のことで、私の債務者である”(=私に恩義がある)
〈例3〉商人が競争相手に勝ち、さらにその息子にも勝った時、彼は満足そうに目の前のページに“済み”と書き込む

【死後の世界と計算】
 C.煉獄が登場する(13世紀)以前の中世では、カトリックの概念上「死者の魂はすぐに(or“最後の審判”で)天国に行くか、それとも地獄に行くか(こちらの方が可能性は大)」とされていた
 D.ここに「a.煉獄において多少とも刑罰を受けてから天国へ行ける」という道が開けた。その上「b.死者へ捧げるミサ,教会への気前よい寄進,貧しい人への援助」を行うことで「c.煉獄の炎の中にいなければならない時間が短縮された」のだ
〈例〉遺言書(14・15世紀)では、富裕な資産家が遺言執行者と相続人に宛てて「死後ただちに膨大な回数(数百~数千)のミサを挙げ、一刻も早く煉獄の苦しみから救われて天国に行けるようにして欲しい」と指示している
 E.これによって「d.遺言者は自分のためにできるだけミサを多く唱えてもらわなければ気が済まなくなる」ほど熱心に、煉獄での責め苦を避けようとした。この動機が「e.中世末に遺言が激増する原因の1つとなる」「f.この世での善行とあの世での報いの数が正比例する、という考え方を普及させる」。金持ちは、あの世でもできるだけ快適に過ごしたい、と願った

【商人と表現法】
 F.遠近法は「見る者の視点を基点とする」手法であり、そこには本質的に「都市空間を三次元的に奥まで見通そう」とする積極的な意思が反映されている
 G.航海すり商人の必要に応じて「海図,旅行案内書,港や海路の案内図,ヨーロッパや世界の地図」が登場・発達した。陸路・海路での旅行(14・15世紀)は「地図作製法の発達,より合理的な空間支配」を促した

【商人と時】
 H.商人にとって「各地の定期市の巡回,商業・金融の各種事業や投機の成功に好都合な状況の利用」は全て、時に対して最大の注意力を向けさせた。彼らは「物事を日数単位で考える」唯一の中世人だった
 I.1年の始まりが地域によって異なり、さらに移動祝日である復活祭を年始とする場所もあり、実業家にはきわめて具合が悪かった。彼らの必要のために、1年が1月1日に始まるよう求められていく
 J.教会の鐘に支配された中世の時間(当分されておらず季節によって長さが変わり、不正確だった)とは違った、等分された文字盤によって示される機械式時計が発明(13世紀末)されて各都市に取り付けられる。その瞬間から「1日が24時間に当分される」「それが時計の鳴り響く音など(例:シュトラスブルクでは機械式の雄鳥の鳴き声)で告げられる」ようになる。やがて個人使用の機械式時計も製作されるようになる(15世紀)
 K.こうした発明は、実用的であるだけでなく「時が(聖職者ではなく)世俗人のために利用されるようになった」ことの象徴であった。時に対する感覚もこれによって敏感となった
〈例〉ジェノヴァの公証人は、書類を作りながら作成の日付のみならず、時刻も記録した
 L.時の値打ちは増大し、さらにかつては「時はかつての賜物」と思われていたが、今や「時は人間の財」と見なされるようになる
〈例1〉レオン・バッティスタ・アルベルティ(1404‐72)は「人間の所有になるものは3つある」として、魂・身体・(はるかに貴重な所有物として)時を挙げた。さらに「失われたものは全て取り返せる。ただし時を除いて」と付け加えた
〈例2〉パリのある熟年ブルジョワが若妻に宛てたアドバイスの書では「各人が浪費した時について、あの世で釈明しなければない」と教えた
〈例3〉フランチェスコ・ダティーニ(銀行家・企業家)は「自分の時を最高に利用できる者は、他の誰よりも優れている」と主張した
〈例4〉あるヴェネツィアの商人は、1年の各月において「金の必要が増える月,最も多くの利益を上げるためにその必要を満たすべき時期」を記録している:
「a.ヴェネツィアでは9月・1月・4月で、これは出帆の時期である」「b.ヴァランスでは7月・8月、これは収穫期である」「c.モンペリエでは年に3度の定期市が立つ時に特に金の必要が感じられる」
 ☆上記1と4を比べると分かるように「ユマニストの時」に比べて「商人の時」は、ずっと味気なく現実的である。それでも、時を活用することに対する意識は等しかった

【商人と芸術】
 M.フィレンツェを始めイタリア諸都市の実業家は、ローマ教皇・専制君主・貴族たちに加わって「芸術家の庇護,芸術作品の発注,建築家・彫刻家・画家の制作に出資した」。大聖堂・大建築物が誕生し、さらに壁画・像で装飾された。金持ちは貴族を模倣しそれに比肩しようとして「故郷の町を美化する,自分たちの個性を賛美する」ための出費を惜しまなかった
 N.こうした芸術への参加は彼らの「社会における威光を高める,霊的視野を広める」のに役立ったし、社会的に見ればユマニスムの地盤を築く役割を果たしている。ルネサンス期の巨匠が作り出した文化の世界は、神話的・ユートピア的な輝きによって、商人・企業家たちの日常生活を輝かせ、崇高なものにした
 O.商人たちは計算・利殖に長けている一方で、鷹揚な金の使い方も知っていたのだ。彼らの教養は利益追求のためだけでなく、芸術作品を鑑賞する・文学作品を読むことに個人的な喜びをもたらした
 P.ところで、実業家たちと芸術家・詩人との関係は極端に変化しうるものだった(崇拝関係から単純な利用=賃金労働者のように扱う、まで)。しかし商人は、芸術のおかげで「自分たちの実業生活に全く新しい要素がもたらされる,高尚な意味が与えられる」ことを認めないわけにはいかなかった
 Q.新しい芸術がもたらしたもの=「世界の新しい知覚・観察,遠近法による空間への同化,写実的な細かさへの好み,時の感覚と歴史の時間経過に対する理解への変化,キリスト教の人間化,身体に与えられる高い価値」のいずれもが、中世末イタリアに現れた新しい階級=「前‐ブルジョワジー」の合理主義とマッチしていた
 R.実際のところ、実業家と天才とでは「個人的原則:美徳と能力」に対する理解が異なっていた。それでも両者は、共通した活動=「新しい世界の創造」に参加していた