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欲望という名の女優―太地喜和子 (長田渚左著 角川文庫平成九年)

特にファンだったわけではございませんが、1992年に太地喜和子さんが下田で水死したニュースにはショックを受け、ただ一度しか生の舞台を観る機会を持たなかったことが悔やまれました。


色気がある、セクシーだといわれる女性芸能人はたいてい同性の反感をかう、眉をひそめて「全く男ってのはああいう女好きなのよねえ」と言いたい気分にさせるものです。喜和子は色っぽい役を得意とする女優でありながら、女性にもその手の不快感を起こさせませんでした。彼女が演じた役で私が明確に記憶しているのは「白い巨塔」の財前五郎の愛人役ぐらいですが、なんとなくこの人は話のわかる気性のさっぱりした人だという気がしていました。喜和子から妹分と呼ばれ、親しくしていたスポーツライターが書いたこの本によれば、彼女は想像通りの人だったようです。


  人の痛みの分る人だった。どんなときも上から下を見おろして何かを言うような人ではなかった。それは年齢がいくら違っていようと、また立場そのものがはるかに下の者に対しても同じだった。自分の身の丈を縮めて人の話に耳を傾ける人だった。(本文より引用)


喜和子は平均的な家庭で両親の愛情を受けて育っているにも関わらず、「自分は戦災孤児で今の両親に拾われたのだ。生みの親が誰かわからないのでつきとめてみたい」とお酒の席で人に話していたそうです。彼女が若く無名な女優だった時には、哀れな身の上話をすることによって力を持っている男性の気をひき、キャリアを拓くのに役立ってもいましたし、家族も含めて周囲の人たちは「女優とはそういうもの」という感じで、特に不快感も持たなかったようです。


現在は歌舞伎界の重鎮となっている俳優と彼女とのラブロマンスは、少々信じがたい話。彼が19歳、喜和子が31歳の時出会って、逢える限り毎日逢っていたそうです。芝居の巡業で北海道と九州に離れていても、空港のカフェで顔を見るだけであっても。彼の父親の歌舞伎の名優は優れた女優と認め、交際を許可していました。



若き日の喜和子と熱烈な恋に落ちた映画界の名優は彼女の女優としての頂点は1979年の秋元松代作 「近松心中物語」の梅川役だったと言っています。この芝居のビデオは通信制大学の授業で視たことがありますが、個人的にはあまり心ひかれませんでした。機会があれば秋元松代が喜和子のために書いた戯曲をちゃんと 読んでみることにしましょう。

先に書いたように喜和子は優しい女性でしたが、40歳を越えるころから人の好き嫌いが激しくなり、また脚本にたいしてあれこれと要求を出し、手直しをさせるようになっていったとか。大女優ですからもとから仕事には厳しかったようですが。



上記の映画の名優の言葉。


 太地くんは、すべてがシンドくなってきたんじゃないですか。人に対して、本に対して、すべてにおいて他人に対して要求をすることは、僕は体力的な衰えからきてると思います。


他者への要求が強くなるのは自分が衰えているからというのは、なんだか今の私自身にもあてはまりそうでこれがいわゆるオバサン化というのか。大女優と自分をいっしょくたにするのは喜和子に失礼な気もいたしますが。

またこの頃の喜和子は先ほどの出生についての自分の創作と現実とが混乱して、産みの母が山田五十鈴や淡谷のり子ではないかと本気で関係者に電話したりしたそうです。亡くなる少し前には緑内障で視力も危機的な状態だったと。そうしたことから著者は、彼女の死因は車の転落による事故死ではあるが、同乗者はすべて生還していること、彼女の履いていたブーツに傷がなくもがいた形跡がないことから、女優として限界を感じていた本人が事故という機会を利用して自ら人生に幕をおろしたのではないか?と推察しています。確証は得られませんが。


喜和子は師と仰いだ杉村春子の当たり役「欲望という名の電車」のブランチを演じることを生涯熱望しながらも果たしませんでした。この本の題名はそれにちなんでいると思われますが、もう少し何とかならないでしょうか。これだと何だか男性遍歴ばっかり書いてある本みたいです。

 







 







松本清張 『文豪』

松本清張 『文豪』

文春文庫 2000年6月刊

 日本の近代の文豪たちについての三部作です。もっともボリュームのあるのが第1章の「行者神髄」。

 早春のうすら寒い雨の日、坪内逍遥が晩年を過ごした熱海の双柿舎を訪れた語り手の作家。みすぼらしい服装をした虫の好かない六十過ぎの男と出会います。男は双柿舎の和洋中すべての建築形式をミックスした塔の形のした書庫を「これを建てた時の逍遥はまともな精神状態ではなかった」と評し、逍遥の死は自殺だったと言い出します。そして逍遥は躁うつ病(現在では双極性障害というそうですが)をわずらっていて、三十歳過ぎで小説の筆を折ったのもそのせいだとも言います。また根津遊郭の遊女だったセンを正妻にしたことで生涯苦しみつづけたとも。この毒舌家の男によれば、いわゆる男が遊女に夢中になって身請けしたというのではなく、年季の明けたセンが身一つで押しかけたとのこと。セン夫人は内助の功で逍遥を支え続けた良妻として世間に知られているが、本当は我執、競争心、直感力の強いヒステリー症の女で夫を押さえ込み続けたのだと。

 第2章は尾崎紅葉と泉鏡花の確執を描いた「葉花星宿」。第3章「正太夫の舌」は三十八歳で不遇のうちに死んだ批評家斎藤緑雨について書いています。この作品によれば、生活に窮した緑雨を支え続けた友人は大逆事件で知られる幸徳秋水でした。また緑雨は樋口一葉を秘かに恋していたのではないかと推察しています。

 私は一昨年、明治の歌舞伎について通信制大学の卒業論文を書きました。その際、明治の文学、作家についての基礎知識がなくて七転八倒しました。あれに取りかかる前にこの作品を読んでいたらと思わずにいられません。

 この本はあくまで小説なので、これを読んで基礎知識を得たとするのは危険なのはわかっております。でも女性関係、他の作家や弟子の才能への嫉妬など読みやすい、つまり俗な内容を下品になりすぎないように語っているので、作家たち、作品、文壇の流れがすっとつかめるのです。私のような赤ん坊並みに消化力の弱い頭脳にとっては、清張先生が「日本の近代文学」に食べやすい味をつけてやわらかく料理してくださった「離乳食」のようです。

 逍遥の嫉妬、羨望によって文壇から追放されてしまったという天才作家山田美妙の作品をそのうち読んでみたいと思います。それから熱海の双柿舎もいつか訪れたいものです。

 


新橋演舞場5月公演「籠釣瓶花街酔醒」

 今頃になって新橋演舞場の五月公演夜の部の上演の感想をアップするのはどうかと思うのですが、およそ百年ぶりで通し上演された「籠釣瓶花街酔醒」は通信制大学の卒業論文で扱った歌舞伎なので書いておきたいのです。

この時期になぜこのような企画を実施するのか不思議です。芝居の最初で旅人が「昨日、地震が揺れたから」と話すからでしょうか。全編上演といってもやはり初演そのままではなく、現代向けに編集されています。明治21年の初演では蕨八幡で棟上が行われた日に次郎兵衛(次郎左衛門の父)と梅毒を病んだが故に彼が捨てた妻お清が再会します。しかし今回上演は講談にも取り上げられている「戸田川原お清殺しの場」から始まります。お清は乞食ですが梅毒ではなく、捨てられた理由は次郎兵衛が裕福な佐野家に婿入りしたからでした。殺される前のお清は私が論文執筆時に考えていたような「妻の座を取り戻そう」と必死な力強い調子ではなく、哀れな感じで演じられていました。殺しの部分もあまり迫力がありません。次郎兵衛役の市川段四郎はなぜかお清を「おしん」と発音していました。次の場の次郎左衛門役の吉右衛門らはちゃんと「おせい」と呼ぶのです。

 お清殺しは旅の途中の次郎左衛門が切り株に腰掛け、居眠りして見た夢という設定です。目覚めたところを盗賊の盲の文次らに襲われ、都築武助に助けられます。一年後、改心したと偽って次郎左衛門宅に入り込んだ文次と手下たちが病み衰えた武助を残酷にいたぶって殺すのが初演台本ですが、この上演で武助は文次らに抵抗したために力尽きて亡くなります。武助の妻千代の母おとし役の片岡秀太郎が気丈で気品があってこの場面の救いになっていました。

 吉原の「見染の場」で次郎左衛門をペテン師から救うのがいつもの立花屋長兵衛ではなく、中村芝翫演じる立花屋の大女将お駒でした。芝翫は老齢のためでしょうか、舞台に立っているのがやっとな感じで少々お気の毒でした。

 姉女郎九重が八橋に次郎左衛門に詫びることを勧める「九重部屋の場」

があり、八橋は薄紫に鶴の、九重は犬の狆が赤い実をつけた木と共に描かれている打ち掛けを着ていました。ちょっと珍しい柄ですね。

 通常は八橋殺しの場で終わりですが、今回はその後の「立花屋大屋根捕物の場」がありました。この場が出るのも数十年ぶりのことだそうです。私がテキストにした台本では立花屋に向かおうとしている栄之丞と権八の前に次郎左衛門が現れて斬りつけるのですが、上演では屋根の上で暴れている次郎左衛門の前に栄之丞らがやってきて挑みます。 着物を肌脱ぎにして水色の襦袢で抜刀した栄之丞は斬られますが絶命はせず、肩の傷を押さえて見得を張り、次郎左衛門ははしごではさまれたところで幕となります。

 以前大学のゼミにいらしていた歌舞伎通の方がおっしゃっていた通り、吉右衛門の次郎左衛門は幸四郎よりもはるかによく、振られ男の悲哀、刀を抜いてからの怨念の強さが感じられました。八橋は福助で栄之丞は中村梅玉でした。わりと人間の出来た雰囲気の栄之丞でした。下男治六役の中村歌昇が上手だったように思います。パンフレット巻末のインタビューで俳優たちが口々に「見たこともない場を演じることになった」と言っています。

 

 


 

シアター・クラシックス公演「ショートプレイ・ウィークエンド2011」

5月22日、中目黒ウッディシアターにて観劇。

出演されている女優さんから伺ったのですが、シアタークラシックスの公演はすべて企画、演出の三田地里穂先生がすべて見つけて翻訳されている本邦初公開のものばかりとか。今年は「女と女、男と女の物語」

観劇からひと月近くたった今になって、今回の4つのショートプレイが微妙に現在の日本の世相を呼吸した

上で選ばれているのが見えてきました。このようなお芝居が日本でもっと頻繁に上演されるようになるといいと

思います。


最初の「偽りなき真実」は陪審員となった二人の女性の夜半のホテルの一室での会話。自分たちを監視している

マスコミを警戒して明かりをつけないまま、酒をあおっているルースは独身で社会に出ている女性。無頓着に飲みかけのペプシの話をするアンは家庭の主婦。どうやら二人の「被告」はこれまでさまざまな悪事を重ねてきた男。今回の裁判も法律のままなら無罪。アンは法律のままにすればよいとさらっと言います。でもルースはここで悪を退治できるなら法律外のことも可能なのだと主張します。たとえば昨年の尖閣諸島での漁船衝突事故。

映像を公開してしまった人は国を憂い、正義感からしたと。でも公序良俗という面から見ると?


「観覧車」は目をつぶり、気絶せんばかりの娘ドリーの隣にセールスマンのジョンが座ることから始まります。ドリーは高所恐怖症ですが、毎年自分の誕生日には観覧車に乗るのです。「人間、一年に一回ぐらいはこわくてたまらないことをするべきだ」というのが彼女の父の教え。観覧車が宙に浮いたまま止まってしまい、おびえるドリーにジョンは離婚した妻のことなどを話しはじめます。そしてハッピーエンド。ドリーの父の教えは深いです。私事ですが、女性のお友達にはとっても恵まれているけれど、男性との縁がうすくて。(笑)これは「こわくてたまらないこと」から逃げてばかりいたせいかしら。


第3話「とうとう」は親族につくしてきたために婚期がおそくなった女性が「とうとう」結婚した年下の夫と新婚旅行の一等室個室客車で繰り広げる会話。彼女はとってもいい人ですが、人生の大事に興奮しているせいもあって

夫を困らせてばかり。彼女の妹の着飾った姿を「きれいだったでしょう?」と問いかけ、夫が同意すると嫉妬する?彼女は孔雀の羽をたてた帽子をつけています。ようやく訪れた春を思い切り楽しもうととする女の気合が入った帽子。これは演じられた星光子さんのブログに写真が公開されています。夫は彼女を喜ばせるつもりで「いつもの青い帽子も好きだ」と言いますが、彼女は「この帽子は22ドルで青い帽子は3ドル、帽子に22ドルかけたのに3ドルの帽子の方がいいといわれるなんて」とむくれます。でもこの夫、いい人でとっても新妻を愛しています。だから振り回されるんです。いま流行り?の中高年の「婚活」の成功例でしょうか。


第4話の「ケイトとイサベル」は前回の日記に書いた「トップ・ガールズ」と似たアイデアの作品だと思いました。

時代を越えた人物を会わせることによって女性が歴史の中で背負い続けている苦難を浮き彫りにします。

シェイクスピアの「ヘンリー8世」で王妃アラゴンのキャサリンを演じることになった女優のケイト。年齢的にも

今回の役が女優として成功するラストチャンス。劇中で踊るダンスの会得に悩んでいます。その彼女の前に

本当のキャサリンの母、スペイン女王のイサベルが煉獄から現れます。CDプレイヤーから聞こえる聖歌に聴きほれ、「その銀(しろがね)の箱の中には合唱隊がおるのか?」と尋ねるイサベルをケイトははじめダンス講師かと思いますが、やがてその娘キャサリンを演じ始めます。「最初の夫アーサー王太子の死後、持参金はヘンリー7世にせしめられ、困っている自分になぜ送金してくれなかったのか」と。イサベルは女王としての政治的な立場から娘に送金できなかったのです。また自分の国カスティリアでは女王が認められるが夫の国ではそうでないために苦しんだことも語ります。当時のダンスを踊ってくれるよう頼むケイト。イサベルは「ダンスは好きだったが、ある出来事以来二度と踊らぬと司教に誓った」と拒み続けます。でもラストではこんなセリフを言ってついに踊り始めるのです。

「これまでは成さなかったことで苦しんできたが、これからは成したことで苦しむとしよう」

女王であるゆえに、多くの戦争をし、子供たちに愛を示せなかったイサベル。日本ではイサベルと似たようなことをした人、たとえば戦国武将なども亡くなると平気で神様になっていますが、イサベルは500年煉獄をさまよっています。このあたりに日本人とちがうキリスト教的価値観で、まさに日本では創られない戯曲です。

イサベルの言うように、後悔ってやってしまった後悔より、やらなかったことへの後悔の方が心をむしばむのですね。このセリフをかみしめて、不安な時代の中で自分のできることをやって行きたいと思います。


この春の観劇より「トップ・ガールズ」

今年の上半期はなぜか観劇が続きました。1月にこまつ座の化粧、3月に同じくこまつ座の「日本人のへそ」、4月にシアター・コクーンの「トップ・ガールズ」、5月は新橋演舞場で夜の部の歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒」、そしてシアタークラシックス公演「ショートプレイウィークエンド2011」。

なかでも一番気合を入れて観たのが英国の女流劇作家キャリル・チャーチルの「トップ・ガールズ」です。放送大学の「英語中級B」という科目の教材に使われており、これを受講した時から上演されるならぜひ観に行きたい傑作だと思っていました。




この芝居の構造は実験的です。ヒロインはロンドンの人材派遣会社のキャリアウーマンのマーリーン(寺島しのぶ)。第1幕は彼女が専務昇進を祝うディナーパーティなのですが、招待客は現代の人たちではありません。19世紀の探検家のイザベラ・バード、女性であることを隠して神学を学び、法皇になったヨハンナ。ブリューゲルの絵に描かれた農婦の戦士フリート、『デカメロン』や『カンタベリー物語』に登場する子供を夫に取り上げられても耐え続けた従順な妻の鑑グリゼルダ。そして日本代表は鎌倉時代に上皇に愛され、後半生は諸国を旅した『とはずがたり』の筆者の後深草院二条。マーリーンの夢、あるいは脳内の描写でしょうか?

第2幕はマーリーンの実家で彼女の姪(実は十代の時に産んだ娘)アンジーと近所の子キッドの会話にはじまり、マーリーンの職場が舞台に。アンジーが突然オフィスに現れてマーリーンを驚かせているところへ「専務昇進を自分の夫に譲れ」と主張する同僚ハワード・キッドの妻がどなりこんで来ます。さらにマーリーンの同僚ウィンとネル、職業を求めて「トップ・ガールズ人材派遣事務所」へやってくる女性たちのからみ。

第3幕は時をさかのぼって2幕の一年前の日曜の夕方。「ジョイスが来てほしがっている」というアンジーの偽りの電話をきいてマーリーンが実家にやって来ます。アンジーは大喜びですが、ジョイスは複雑。都会に出て成功した妹と老親の介護と妹の隠し子の養育を担ってきた姉との激しいぶつかりあい。寺島しのぶ演じるマーリーンは前髪をたらしたショートカット。放送大学で演じていた英国の女優さんより若く子供っぽい感じでした。対する姉ジョイス(イザベラ・バードとキッド夫人と兼ねて麻美れい)が老け込んでいてマーリーンの母親のように見えました。



登場人物は女性ばかりでマーリーン以外は皆二つ以上の役を演じ、その役の兼ね方にも作者の意図があります。例えば1幕で「自分の人生には上皇の寵愛以外何もなかった」と語る二条の女優は2幕めでマーリーンの同僚ウィンを演じます。(小泉今日子は二条の長い髪、十二単風の扮装、オレンジのスーツを着たお色気美人OLのウィンのどちらもとても似合っておりました)。ウィンの恋人はバラ園を持つリッチマンですが奥さんのいる人。彼女は自然科学の学位などさまざまな資格を持ち、アンジーに自分の経歴を自慢げに語りますが、外国を転々としたり、精神を病んだり、雇用契約破棄で泥沼になったりあまり実りある人生とはいえないところが二条と共通しています。

法皇としてのパレード中に不用意にも出産してしまい、女であると発覚したとたんに殺されてしまうヨハンナを演じた神野三鈴は2幕で46歳の求職者ルイーズとして登場。転職したい理由は勤続21年の現在の職場の連中に自分がいなくなったらどうなるか思い知らせたいから。皆が自分に目を向けてくれないことを嘆く彼女は実在したとすれば歴史から抹殺されているヨハンナと似ています。

羊飼いの娘グリゼルダは美貌ゆえに侯爵の妻になりますが、夫は彼女の愛をためすために産んだ娘と息子を取り上げ、さらに彼女を下着姿に裸足で追い出します。侯爵と別の女性との結婚式の支度のためにと呼び返された彼女は子供たちと再び会うことができますがディナーパーティの他の面々には彼女の従順さが理解できません。すべてを妻のつとめだからとのほほんとしているグリゼルダを演じる鈴木杏は2幕でマーリーンの同僚ネルと若い求職者ジニーンを演じます。ジニーンは広告関係に行きたいとか、旅行をする仕事がしたいとか言いますが、結局のところ頭には結婚しかない女です。

女戦士フリートは太った農婦でイザベラやヨハンナ、二条のような知性もグリゼルダのような美しさもありません。他の人たちがあれやこれやと語っている間ほとんどしゃべらず食べてばかりいます。しかしデザートの後で地獄に突入した時のことを迫力満点に語りはじめます。フリート役の渡辺えりは次の幕で図体は大きいけれど16歳にしては発達の遅れた劣等生アンジーを演じます。ジョイスもマーリーンもこの子は変でモノにならないと断定していますが、彼女は自分の本当の母が誰かを見抜いており、大人たちをあやつり、ロンドンで出てくる行動力もあります。恐るべきパワーを秘めている点がグレットと重なります。

 この芝居は女優さんたちにとっては大変難しいと思いますが、中でも一番の難役はイザベラ、キッド夫人、ジョイスでしょう。イングランドにいると病気になってしまうイザベラは世界中を旅することで健康を得ますが、旅先で出会う異国人たちには人間としての共感は持たず、愛したのは妹のヘニーと50歳で結婚した夫だけ。専業主婦のキッド夫人は、独身で働いて自分の夫の地位を脅かすマーリーンを「あなたのような人はさびしい人生をおくる」とののしります。ジョイスはして妹がおいていったアンジーを育てるストレスから自分自身の子を流産し、夫にも去られてしまいます。マーリーンは両親のような貧しい暮らしをしないためにキャリアを積んで重役となります。しかし彼女が放り出した子育て、介護をジョイスは清掃の仕事をしながら背負っているのです。キャリル・チャーチルはジョイスとアンジーを描くことによって出産、子育て、家庭を持つことのはっきり言えば暗黒面をひるまずに表現しています。女流劇作家だからこそ出来ることだと思います。
 この芝居が初演された1982年、イギリスはマーガレット・サッチャーの政権下でした。マーリーンは女性首相の登場で世の中が変わると信じていますが、ジョイスは自分たち労働者階級にとっては何も変わらないと言い返します。激しいけんかの後、少し気持ちがおさまったところでマーリーンは姉に「私たち、戦友よね」と言いますがジョイスは「ちがう」と答えるのです。そして寝ぼけて起き出してきたアンジーがマーリーンに言う「ママ、こわい」という台詞で終わります。アンジーがこわがっているのはおそらく「将来」でしょう。

発表されて30年たっても古びず、女性の社会での立場について鋭い問題提起をし続けている戯曲だと思います。






松本清張著「水の炎」

角川文庫、1976.11初版、07年5月65版

キャッチコピーは「美しい人妻の心の遍歴の行末を描く、ロマンサスペンス」

ヒロイン塩川信子は冒頭では、同じL大学の通信教育を受けている草間泰子の眼を通して描かれる。

「ほっそりとした身体で、背が高かった。いつも純白のスーツを着ている」

彫りの深い顔、きれいな眼、知的なふんいき。美しいが同性の反発を買うようなところのない、気品のある女。

泰子の婚約者はL大学の経済学の助教授浅野忠夫32歳。若き日のベートーベンを思わせる容姿。

「ちょっと見ただけでは惹かれない男だが、ながくつき合っているとだんだん良さのわかってくるようなタイプ」

泰子は浅野に満足している。しかし浅野は泰子を妹のようにしか思えず、卒論のことで彼の家を訪問する信子の

とりこになる。

男にも女にもあこがれられる信子だが、相互銀行の若手(35歳)常務の夫弘治には愛されていない。弘治にはこの信子の気品が「とりすましている」と気にさわる。弘治は愛人成沢枝理子を使って、浅野と信子がツーショットで会うようにしむけたり、彼らの情事をでっち上げようとする。その一方で弘治は信子の実家である

伊豆長岡の高級旅館へ行き、信子の父に自分が関わっている観光事業へ1億円出資させようとする。つまり妻の家から金を出させた上で、不貞を理由に離婚しようというわけ。信子の父は娘夫婦を離婚の危機から

救いたい気持ちもあり、出資してしまう。こんな邪悪な男とは別れた方がいいのだけど、とにかく女を

家庭に落ち着かせておきたいこの小説が書かれた時代(昭和37年)の価値観。

浅野先生はいわゆるいい人だが、恋愛に関してはサイテー男。自分の気持ちを知って訪問を中止した信子に

丸善の貴金属売り場でイアリングを買っていきなり送りつける。信子が気持ちを整理しに信州へ旅立ったと

知ると自分もあわを食って信州へ向かう。出がけに母親に泰子は自分に向かないから断りの話を「お母さんから、泰子さんに話してくださいませんか」と頼む。これ泰子の立場からするとひどいです。振るのもいいけど、ちゃんと自分で話さないなんて。

 信子は上諏訪へいくつもりが、電車の中でなれなれしく話しかけてきた男がいやで、甲府で下車、湯村温泉で

泊まる。中央線に乗る時も彼女はなぜか白いスーツ。一人旅にそんなものを着ていってよごれるの気にならないのかな。

 同じく湯村温泉に行った浅野は偶然会った友人の協力を得て信子の泊まっている宿をつきとめようとする。結局浅野は自殺。信子への失恋もあるかもしれませんが、こういう

インテリでプライドの高い男は、ストーカーまがいのことをしてしまった自分が受け入れられなかったのでしょう。

 弘治以外の登場人物がやたら信子をほめたたえるから、途中までうんざりしました。清張先生も美人には弱いのかと。彼女は確かに容貌や服装のセンスだけでなく、心もエレガントな女性。弘治が愛人のところに入り浸りだからと言って、その仕返しに浅野先生と恋に落ちたりしません。浅野への思いは終始、先生としての尊敬。

でもその彼女のエレガントさが自分も周囲も不幸にしていたのかもしれないことが、結末で見えてきます。

それは信子の親友、川田美代の言葉で語られます。

 「信子は美人で頭脳(あたま)がよくてセンスがあって学問が好きで、お金持ちのご両親の家からお金持ちの旦那さんの所に嫁った。はたから見ればこれほど仕合わせなひともないだろうけど、あたしは信子が仕合わせだと思ったことは一度もないよ。あんたは学生時代から自分がどうしてもこれが欲しいというものが何もないってよく

言ってたけど、今でもその通り、自分で責任もって何をしようってことは全くない。信子の旦那さんってひとも好意のもてない男らしいけれど、ある意味では信子の被害者なのかもしれないじゃないか。大して好きでもないのに結婚したというのが大間違いのもとだけど、世間体やら親たちのために別れないなんていうのは間違いをいくつも重ねることじゃないか。いま信子に必要なことは自分が本当にしたいことは何かをよくよく見きわめることだね。

お父さんや旦那さんのお金を当てにしないで自分の力で生きてみたらどうだろう」

 塩川弘治は出資した観光会社の重役に裏切られ、野心は悲劇的な結果になり、厚かましくも彼は信子と別れるのをやめようと考えますが、もちろん×。信子はおそらくは破産したであろう実家にも戻らず、「小さな会社で事務ぐらい」は取りながら自立の道を模索することに。

清張は女性が自分で社会に向き合うことに賛成する人だったのです。そう思うと勇気が出てきます。

2010年の現在、この塩川信子のような裕福な「専業主婦」になりたくて婚活している女性のみなさん、

ちょっとこの小説、読んでみませんか?

 

円地文子「男の銘柄」

 友人の中で三十代後半になって見合い結婚した人がいます。照れ隠しもあるのでしょうが、結婚したのは「年金対策」で、旦那さんについて「私はこの人の子は産みたくない」と言い切ってはばかりません。親御さんが買ってくれたローンも残ってない持ち家、勤め先は大手だからと。今婚活中の50代の友人は言う、目指すは年収800万、23区内に持ち家のある人。これは自分の老後の「死活問題」なのだという。何だか老後の暮らしのために身売りするみたい。

 そんな中、題名から見て「収入のいい財産のある男をゲットしていい暮らしをしようとする女」のお話かしらと思って読んだら、とんでもない! 

 ヒロインの志村里枝(名前の読み方がりえなのか、さとえなのかよくわからない)は、高校教師の志村豊男と結婚して四年、小柄で「適度に糠味噌臭い」、一見平凡な専業主婦。 でも白くて四肢の関節が引き締まって男を夢中にさせる肉体の持ち主。

 里枝は三人の男と関係します。偶然再会した中学の同級生で大手造船会社社員の富永繁。(私の中学の同級生には今あったら恋に落ちそうな奴なんていなかったな)

 証券会社勤務の友人、長谷部朋子を介して知り合ったCMデザイナーの花輪喜一郎、この人と里枝はS,Mがかった密会を楽しみます。花輪の家に富永を入れて富永と里枝の情事を花輪が戸棚の中から見ていたり。

 それから花輪の弟子の小森。小森は花輪と里枝のいる温泉宿の部屋に行って、なんと里枝をレイプ。でも

里枝は結構小森に魅力を感じるようになり、花輪を嫉妬させます。そしてこの師弟は互いを殺すことを考えるのです。

 里枝の夫、志村も元教え子でまだ20歳そこそこのデパートの店員なのに株で大もうけをしている浅野香芽子と不倫を楽しみます。里枝はもちろん知ってしらぬふりですが、妻の自分には示さない繊細な心遣いを香芽子に

してやっていると知ると愉快ではありません。 本当は女の喜ばせ方を知らないわけではないのに、自分の妻には「甘やかしてはならない」というような気持ちになって、そっけなくする男性っていそうですね。

 すべての男をとりこにするかのような里枝ですが、彼女にもかなわぬ恋が。それは志村のか花輪のか富永のか小森のかわからない子供を妊娠して、その中絶をうけおった産婦人科医有山。有山は里枝に好意を感じていることは告げますが、「自分が患者として手術した女性には触れられない」と彼女を乗っていた車から降ろして

立ち去ります。

 志村は香芽子にのせられて建築会社乗っ取りのためのロボット株主になってしまったため、勤め先の学校で

窮地に立たされます。夫を救うため里枝は校長先生を誘惑します。

 なんだかあまりにスゴイ話で、途中で投げ出したくなりましたが、解説によれば三島由紀夫が江戸時代後期の

「草双紙の再現」と言っているそうです。どろどろのストーリーは歌舞伎の世界からヒントを得ているとも。

確かにそんな感じもします。昭和三十六年に週刊文春に連載され、翌年単行本になるとベストセラーに

なったとか。なんだか渡辺淳一の「失楽園」みたい。

私が読んだのは1988年2月刊の集英社文庫です。

松本清張作 『落差』

角川文庫初版昭和41年。分厚い文庫本。主人公の大学の先生、島地章吾があまりにもひどい奴なので、途中で投げ出したくなりながらも、最後まで読んでしまいました。

 彼は二人の女性を狙うのです。成功した学者でもちろん妻もありながら、ただ自分の欲望を満たすために。一人はかつては華やかに活躍したものの大学を追われ、古本屋を開こうとした矢先に急死した学者の未亡人細貝景子。もう一人は電力会社社員で島地の学生時代からの友人佐野周平の妻明子。島地は夫が高知に単身赴任した佐野家に行き、ポストにあった明子が参加すると思われる俳句の吟行の往復葉書を見ます。そして自分の教科書会社との打ち合わせを同じ日に、同じ湯河原に設定したりするのです。偶然を装って彼女に近づくために。彼は「自分は若い頃から刻苦勉励して第一人者と言える地位を築いた人間だから何をしても許される」と考えています。実直な友人の結婚生活の幸せを壊しても平気です。

島地は生活に窮した細貝景子を囲い者にしますが、飽きると教科書会社に就職させ、遠い大阪へ追いやります。そこから更に高知へ移され、教科書の営業で学校をまわる景子は教師たちの堕落を目にします。


「どうだね、いっそのこと、各出版社も全部女性のセールスにを使うことにして、美人の順位で教科書の採用を決めたらおもしろいだろうな」と傍若無人に言った。


「秀学図書さん、わしは言い忘れちょったけんど、実は、今年の秋に東京に行てみたいと思うちょります。それでの、あんたんくの方で、東京の適当な宿を世話してくれませんかのう?」(中略)

景子はあきれて、その教師の顔を見つめた。宿の世話をしろというのは、むろん、宿料を教科書会社で持てという含みだ。


島地からは「容姿も性格も平凡でおもしろみがない」と見えた景子ですが、物語の最後で島地の予想外の

行動をとります。この島地先生、小説の途中で教授に昇格し、あちこちで講演する進歩的な学者として世間で通っています。こんなにいつも「いかに女をモノにするか」ばっかり考えていて、研究や学生の指導はちゃんとできているんでしょうか?

清張作品に登場する大学の先生はみな女ぐせが悪いですね。「内海の輪」の主人公もそうです。そうでなければ、景子の夫細貝貞夫のように学問には熱心なのに世事に疎いために不遇に終わる人。著者清張は人生の出発点で高等教育を受けられなかった人。だから高学歴なのに腐敗している人々を、いくらか嫉妬も入った視冷ややかな視線で分析しているようです。

梅雨と西洋風呂(松本清張)

タイトルは「つゆとせいようぶろ」ではなく、「ばいうとせいようぶろ」と中表紙にふりがながされています。

この題名にひきつけられて図書館で予約しました。

主人公の名は鐘崎義介、47歳。「南側が海で、北側は山の多い県」で、父祖からの酒醸造業と「民知新聞」なる

市政に批判的な新聞社を経営、市会議員もつとめるやり手の男。その民知新聞に土井源造という32,3歳のさえない小太りの男が雇われるところから物語ははじまります。市長選対策のために自分の本拠の水尾市から雲取市なるところへ出かけ、「波津温泉」に一人泊まった義介は、宿の女中に貧弱なバーに案内されます。バーの

裏側には鉄筋二階建ての現代的アパートがあり、義介はそこで、カツ子という若い美女と関係を持ちます。モダンできれいな建物ですが、つまりは売春宿。

「中は、はいったところが玄関先に当たる狭いコンクリートで、上がったところから深紅の絨毯になっていた。

リビングキチンというのか、しょっぱなが台所で、そのつづきの六畳ぐらいの広さが応接間と居間とを兼ねた場所だった。しゃれたテーブルを真ん中に、長椅子と肘掛椅子五つは見るからに柔らかそうな、蒼味がかったグレービロオドで、これが緋色のカーペットによく映える。椅子の背には派手な刺繍のクッションが置かれ、長椅子のほうにはそれが三つも飾られてあった。 上を見あげると、古典ふうなシャンデリアが枝をひろげていて、暗いところ

から来ただけに、これが太陽のように明るかった。窓々はピンクのカーテンがゆるやかなひだを垂らし、飾り棚には西洋玩具や陶器がならび、木目を出したデコラの壁のほどよい位置には複製の油絵がかかり、隅にはギターが立てかけてあった」とまあ、精一杯洋風な居間ですが、寝室とはなぜか襖(ふすま)でへだてられております。

そのふすまにも洋服生地が貼ってある。でお風呂はもちろん「そこは半分がトイレ、半分が浴室に区切られていて、そのタイル張りの隅には低くて細長いピンク色の洋式浴槽が置かれてあった。浴室には湯気が立ちこめ、上の電灯も窓も白い靄の中に包まれていた。義介は、こんな寝棺のような西洋風呂は落ちつかなくてなじめなかったが、これもいやだとは言えず、カツ子が消えた間に仕方なく着物を脱いで、浴槽の中に脚を入れた。浴槽はタイルではなく、合成樹脂製なので、色はピンクだし、子供のおもちゃの風呂にはいるような気がした。」 

 短いスカートをはき、猫のような化粧に、額に垂れ下がる長い髪、マニキュアはなんと銀色のカツ子は、東京で新劇の劇団研究生だったという知的な女性。彼女に夢中になった義介は、りっぱな自分の屋敷の檜造りの風呂を「野暮」「陰気」だと感じ、「合成樹脂だなんて近ごろのアパートみたいじゃないの」という妻の反対を押し切って、ピンクの「西洋風呂」つまりポリ風呂にに改築してしまいます! 光文社のカッパノベルス、初版は昭和46年5月。そういう時代だったんですね。2010年の今、ポリ風呂の持ち主が檜風呂にあこがれることはあってもその逆はあるかしら? 

 一方で、一見まじめだけが取り柄の愚鈍な男と見えた土井は、雇い主が女に入れこんで仕事がおろそかになったことにつけこんで策動します。義介の屋敷に据えられたピンクの「ポリエステル風呂」と、「浴槽の中で裸体をくるくる回す」カツ子の健康法は、結末の殺人に関係するのです。

 次期市長選に誰を担ぎ出すのか? といった地方政治の問題。その中で地方の名士とも言える分別盛りの男が、洋風なもの、都会的なものの虚飾に魅せられて、破滅の道をたどります。題名から期待した通り、楽しめました。 それからおそらくこの小説が書かれたころと思われる時期の記憶がよみがえりました。ある日、新聞に

工務店?の広告が入っていて、そこには色とりどりのポリ風呂の写真がありました。小さな女の子だった私は

その中のピンク色のものを指さして「これがいいの」と言ったけど、母はうす緑の色のがいいと指さしました。もちろん我が家に風呂改築の話はなく、風呂はまきでたいておりました。

円地文子「双面」、「猫の草子」

 日本幻想文学集成26円地文子(須永朝彦編国書刊行会1994)年を読み終えました。短編「双面」が読みたくて借りました。2001年に亡くなった歌舞伎俳優六世中村歌右衛門がモデルと言われる主人公瀬川仙女と彼が青春時代に関係を持ったただ一人の女性の姪である女子大生笹川藍子との交流を描いたお話です。同性愛者でもある女形役者の目に映る現代的な若い娘の姿。

 「猫の草子」は自殺した老女流画家志乃女が描いた猫の絵を見るこれもまた年老いた老女流作家の心情。孫が拾ってきた2匹の猫の世話に夢中になる志乃女の孤独。「多分年をとって私が猫を汚ながったみたいに、若い人は私を汚ながっているんでしょうね」。脚に怪我をした猫の排泄の世話をする気持ち。「しかし志乃女にはその

酸味のある堪えがたい筈の臭気も、親しいものに思われた。昔、息子の幼い時や、今の孫の育つ頃にもしたことのある襁褓を替える時の、汚れと親しさのいっしょに交りあった言いようのない濃やかな情緒が、ふと心に甦って

いた」。少女時代、祖母と同居していた私には志乃女の言動には、なんとなく思いあたるようなものを感じます。

私の祖母もわがままで変わった人でした。猫はかわいがらず、絵画や文学などの才能はない人でしたが。

嫁や孫に甘えるようなことをせず、孤独を生き抜いた志乃女にはどこか凛々しいものも感じます。

円地文子の作品を他にも読んでみるつもりです。