松本清張 『文豪』
松本清張 『文豪』
文春文庫 2000年6月刊
日本の近代の文豪たちについての三部作です。もっともボリュームのあるのが第1章の「行者神髄」。
早春のうすら寒い雨の日、坪内逍遥が晩年を過ごした熱海の双柿舎を訪れた語り手の作家。みすぼらしい服装をした虫の好かない六十過ぎの男と出会います。男は双柿舎の和洋中すべての建築形式をミックスした塔の形のした書庫を「これを建てた時の逍遥はまともな精神状態ではなかった」と評し、逍遥の死は自殺だったと言い出します。そして逍遥は躁うつ病(現在では双極性障害というそうですが)をわずらっていて、三十歳過ぎで小説の筆を折ったのもそのせいだとも言います。また根津遊郭の遊女だったセンを正妻にしたことで生涯苦しみつづけたとも。この毒舌家の男によれば、いわゆる男が遊女に夢中になって身請けしたというのではなく、年季の明けたセンが身一つで押しかけたとのこと。セン夫人は内助の功で逍遥を支え続けた良妻として世間に知られているが、本当は我執、競争心、直感力の強いヒステリー症の女で夫を押さえ込み続けたのだと。
第2章は尾崎紅葉と泉鏡花の確執を描いた「葉花星宿」。第3章「正太夫の舌」は三十八歳で不遇のうちに死んだ批評家斎藤緑雨について書いています。この作品によれば、生活に窮した緑雨を支え続けた友人は大逆事件で知られる幸徳秋水でした。また緑雨は樋口一葉を秘かに恋していたのではないかと推察しています。
私は一昨年、明治の歌舞伎について通信制大学の卒業論文を書きました。その際、明治の文学、作家についての基礎知識がなくて七転八倒しました。あれに取りかかる前にこの作品を読んでいたらと思わずにいられません。
この本はあくまで小説なので、これを読んで基礎知識を得たとするのは危険なのはわかっております。でも女性関係、他の作家や弟子の才能への嫉妬など読みやすい、つまり俗な内容を下品になりすぎないように語っているので、作家たち、作品、文壇の流れがすっとつかめるのです。私のような赤ん坊並みに消化力の弱い頭脳にとっては、清張先生が「日本の近代文学」に食べやすい味をつけてやわらかく料理してくださった「離乳食」のようです。
逍遥の嫉妬、羨望によって文壇から追放されてしまったという天才作家山田美妙の作品をそのうち読んでみたいと思います。それから熱海の双柿舎もいつか訪れたいものです。