実以のブログ -70ページ目

クリスマスに…友を思う

ひで子さんが今年の初夏に上京してきた時に、食事をしながら私の母が大腸がんの肺転移で要介護だと話をすると、彼女から「私もガンで抗がん剤治療に通っているのです」と言われて驚きました。今年2月に体調不良で受診し、進行していて既に手術適応ではない胆のうがんと診断されたとのことです。

 

でもその時にはいくらかやつれて見えるものの、昔とかわらない明るい笑顔でイタリアンレストランでのメニューもおいしそうに食べていて余命いくばくもないとは到底信じられませんでした。その時、ひで子さんの息子さんが発達障害で、大手企業に障害者枠で働いていることも初めて知りました。私は弟が自閉症で中卒後、療育専門高等学校に進学して今は一応普通に工場勤めをしていることを話し、もし私で役にたてることがあったら連絡してほしいと言いました。

 

6月、鎌倉を訪れた私は長谷寺でいちごの形をしたお守りを買い、彼女に贈りました。それは願い事がかなうというご利益をうたったもの。病との向き合い方は彼女自身が決めること、でも私の願いはひで子さんになるべく長く生きていてほしいと書いた手紙も同封しました。

 

月並みな形容詞ですが、ひで子さんは本当に天使のような人でした。誰に対してもあたたかく寛容でした。そう彼女が私の勤め先で働いていた時、皆がバッシングしたくなるような殿様風の働き方をするアルバイト男性がいたのですが、彼女だけは彼の悪口をいいませんでした。彼女が私の勤め先を結婚退職した後は、数回しか会っていません。でもひで子さんのような人が現実に存在しているのだ…そう思うだけで元気が出たのです。

 

これからはひで子さんのいない人生を生きなければならないかと思うとやりきれません。

 

ここからはいくらか不謹慎な話なのですが…私は天に召されていった友人が少しだけ羨ましいのです。これからのご時世が自分にとって心地よいものであるのかわからないので。

 

お子さんたちの行く末を案じながら亡くなった優しい友人、それに引き換え、同じ年代でありながらろくでもない私がなぜ生きているのか、生きていて私に何ができるのでしょう。

 

今年のクリスマスはこの友人と大学の聖堂で歌った歌…『アヴェ・ヴェルム・コルプス』やカトリック聖歌の『清き乙女とて』を口ずさみながら静かに考えたいと思います。

 

クリスマスに…オリジナル?オーナメント

我が家のクリスマスオーナメントをお目にかけます。

 

 

とっくりにクリスマスのピックをさしてみました。ぶどうの実と葉の洋風の模様のとっくりはちょっと珍しいかなあと思っております。40年ほど前、母が働いていたシャツ会社で新製品のネーミング募集で採用された時の賞品の食器セットの一部で に同じ模様の皿もあります。私が子供の頃はコーヒーカップもあったと記憶しております。がんをわずらっている母……願わくば来年のクリスマスも母と共に過ごせますように。

 

ドアにかけた靴下は母が洋裁をよくしていた頃、父のガウンを作った生地の残りと古いコートについていた毛皮のボンボンで作ったものです。

 

「狙うは家康の首…じゃなくて、クリスマスケーキただ一切れ!」とテディ幸村を乗せて突進するのはそして90年代にアイルランドを旅した時に買ってきたひつじのぬいぐるみ。アイルランドのイメージカラーの緑の帽子をかぶっていて、ボディにもフェルトのシャムロックの葉があります。帽子の赤い実とヒイラギの葉(のつもり)は自作ですが。

 

実は今年はケーキを買う気にもならない悲しいクリスマス。先週、学生時代に聖歌隊で共に歌い、90年代には同じ会社でも働いた友人ひで子さん(仮名)の訃報が届いたのです。

 

ブックカフェ槐多

歌舞伎『吹雪峠』鑑賞後、銀座線と井の頭線を乗り継いで明大前のキッドアイラック地下のブックカフェ槐多へ行きました。今年いっぱいでキッドアイラック閉館と共に閉店してしまうこの店。同行した友人はカフェ経営の夢を持っているのでぜひ連れて行きたかったのです。

 

天井まである本棚のそばのテーブルにすわり、コーヒーとスコーンをオーダーした後、友人と共に無言で本棚に見入りました。スタッフの方が私たちに出すスコーンに添えるクリームを泡立てる音を背中で聞きながら…ああなんとぜいたくな時間! もしこのカフェが勤め先か家の近くにあったらさぞかしよく利用しているにちがいありません。

 

 

 

本棚にある書物には80年代以前のものが多いのですが、一冊一冊が背表紙で語りかけてくるようです。昔の本は装丁にも情熱がこもっています。明らかに最近出版される本が持たないパワーが感じられるのです。スタッフの方の許可を得て写真を撮らせていただきました。

 

 

スコーンにクリームを塗り、コーヒーを飲みながら、本棚をつらつらと眺め、時折その1冊を手にとって開きます。友人に著者名を指さして

 

「ねえ、この先生、上杉謙信女性説とか明智光秀本能寺冤罪説を唱えてる人…」

「へえ、安部公房ってこういうの書いてるんだ…」

「高橋和己って読んだことある? 私ないんだ…」

「学生の頃読んだよ」

「こんどトライしてみようかな」

 

などなどとおしゃべりしつつ、いずれ読みたい本の名前をメモしました。    

 

       

 

友人に「将来、ここみたいなお店、作ってね」と言うと、彼女も同感だとのこと。

 

群馬と岩手の物産館の見学、観光パンフあさりに始まり、吹雪の峠の山小屋、そして静かなブックカフェにたどりつき…まるで旅にでも出たような密度の濃い一日でした。

 

 

 

十二月大歌舞伎『吹雪峠』―命を大事に生きのびろ!

 

12月16日、歌舞伎座12月公演『吹雪峠』を幕見しました。幕見はチケットの発売や入場までを待つ時間が長いのですが、京都在住の友人と一緒だったので全く苦になりませんでした。空いた時間は歌舞伎座地下の木挽町広場や屋上庭園や五右衛門階段、近くにあるぐんまちゃん家やいわて銀河プラザを見て回りました。

 

 

『吹雪峠』は宇野信夫(1904-91)の新歌舞伎。身延山参りの帰り、

胸の病を抱えながらも夜の峠越えを決行した助蔵とその妻おえんは吹雪に見舞われ、やっとの思いで山小屋にたどりつきます。火をおこしながらの二人の会話で三年前、助蔵が兄貴分直吉の妻だったおえんと密通して駆け落ちしたことが語られます。

 

戸をたたく音がして入ってきた旅人はなんと直吉その人! 助蔵のセリフによれば「男っぽれのする程の、綺麗な気っ風」である直吉は、今はおえんのことはあきらめ、「二人仲良く暮らすがいいや」と思っていたと寛大な態度をみせますが……助蔵とおえんを見ているうちに気が変わり、突然二人に即刻山小屋を出ていけと要求します。さっき言ったのは負け惜しみであって、面と向かってみるとおえんに未練がある自分に気がつき、眼の前から消えてほしくなったと言うのです。

 

外は猛烈な吹雪、出て行くことは死を意味します。「せめて夜明けまで」と懇願する助蔵とおえん。するといきなり道中差を抜く直吉。

 

あわてたおえんは助蔵の情にほだされたけれどもずっと心では直吉を忘れていなかったと言い出します。助蔵は自分を誘惑して堕落させ、直吉の顔に泥をぬったおえんを殺してほしいと叫びます。

 

わずか30分ほどの上演時間なのですが、人間の情けなさ、男女の愛憎の機微を見事に描き出している歌舞伎です。こういったことが可能なのも歌舞伎ならではかと。一般的な小説や戯曲だったらたくさんの文章やセリフを必要とするぬきさしならない三角関係が刃物を持って立ち尽くす直吉とその両袖にすがってかきくどく助蔵とおえんの姿だけで観客に伝わるのです。

 

「色より、恋よりなさけより、命を大事に、生きのびろ!」そう言い捨てて直吉は吹雪の中を出て行ってしまいます。

 

「命を大事に生きのびろ」どういうものかこの言葉がすごく気になりました。直吉を演じている市川中車にそんな気持ちがあるのかどうかわかりませんが、今の社会情勢に向けられたメッセージのように聞こえたのです。『吹雪峠』が初演されたのは昭和10年、作者は戦争の時代、つまり命が大事にされない世の中が来るのを予感していたのだろうか、宇野信夫のことはよく知らないのですが、そんなことを思います。一緒に観た友人もこのセリフは戦争を意識しているのではないかと感じたと言っていました

カヴァレリア・ルスティカーナ&琵琶湖周航の歌

カルチャースクールの発表会で『マスカーニのアヴェマリア』(カヴァレリア・

ルスティカーナの間奏曲に聖母へ祈る歌詞をつけたもの)と『琵琶湖周航の歌』を歌いました。

 

『琵琶湖周航の歌』は中学生の時、テレビで加藤登紀子が歌っているのを聴いた時から大好きな歌です。岡谷市出身で旧三高(今の京都大学)で学んだ小口太郎が琵琶湖に故郷の諏訪湖のイメージを重ねながら作った詩を東京農業大学の学生だった吉田千秋が音楽雑誌に発表していた『ひつじ草』という曲のメロディーで歌われて出来た歌だそうです。大正7年の三高水上部の合宿で歌われはじめたようなのですが、作曲者吉田千秋はそんなことは知らないまま24歳で結核で他界。『琵琶湖周航の歌誕生の謎』(小菅宏著・日本放送協会)によれば短いけれど充実した人生を生きた人。作詞者小口太郎も28歳で早世。作曲者と作詞者が互いに知り合うこともないまま、歌い継がれてきた不思議な歌ですが、いわゆるご当地ソングに留まらない魅力をたたえています。

 

ひつじ草は野生のスイレンで水辺に一般的なスイレンよりは小さな直径3~4センチほどの花を咲かせるとのこと。そんなわけで白いスイレンをイメージした衣装にしてみたのですが…ちなみ胴着?の部分は母の使わなくなった腰痛ベルトにヨーロッパ見土産のレース刺繍のハンカチを縫い付けて作りました。(笑)

 

オペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』は鑑賞したことはないのですが、原作の小説を読み、図書館で調べたところでは人妻となってしまった恋人をめぐって、その夫と決闘する男の悲劇―つまりドロドロの愛憎物語なのですが、この曲は世界一美しい間奏曲と言われています。私も今、男女のではないけれどドロドロの情けない現実に向き合う毎日。そんな中でも少しでも明るい方を向きたい気持ちを歌ってみたいと思ったのですが…

 

実はいくらか風邪気味な上に前日おそくまで残業だったもので…後で映像を見るのが

怖い…でもまずは無事に歌えてほっとしております。

12月10日、あかいくつ劇場クリスマスコンサートで歌います

藤井マリ舞踏ソロ 見えない街III

ナースチャと男爵―深読み『どん底』

秋の芸術鑑賞―劇団昴『どん底』

10月に劇団昴公演『どん底』を鑑賞しました。ビルの地下にある小さな劇場Pit昴での上演でこの芝居を見ること―文字通り地下で『どん底』をのぞく感じ。大きな劇場でみるよりもこの芝居の世界を身近に感じました。遠い昔の遠い国のお話ではなく、まさに今の日本の現実が映っているような。それを感じられたのは劇団昴の皆さんのすばらしい演技力と小さくてもリアルに作りこまれた舞台装置のおかげでしょう。

 

アマゾンのこの戯曲の岩波文庫版の商品説明には「下層社会の悲惨な実情を描いた戯曲。 登場人物が多く、一貫した筋に乏しいので雑然とした印象が拭えない」とあります。戯曲を読んだだけでは確かにそんな印象でしたが、上演を観ると漫然とどん底生活の人々を描写しているわけではなく、かなりしっかりと構成された劇であることがわかります。

 

舞台はコストィリョーフという男の営む木賃宿。コストィリョーフの年の離れた妻ワシリーサは店子の一人ペーペルと通じていることがここに巣食う貧しい人々の中で公然の秘密。

 

ペーペルはワシリーサの妹で姉夫婦からこきつかわれているナターシャに二人でここから出ようと持ちかける―若い二人の愛が未来を拓く?かに見えたけど、ナターシャが脚に熱湯をかけられ、ペーペルがコストィリョーフを殺す事件が起きてしまう。

 

劇の初め、舞台の片隅で寝ている肺病のアンナ。肉饅頭(別の訳ではピロシキ)売りのクワシニャーからもらった肉まんを夫クレーシチに勧める遠慮がちな女性。しかし夫クレーシチは彼女にあまり愛情を示さない。アンナが寝ついているせいでコストィリョーフから賃料を値上げされそうなのだからそれも無理のないこと。アンナが息苦しさを訴えると新鮮な空気が吸えそうな場所に連れて行ってやるのはアル中の役者。最期を迎えるアンナに不安をやわらげる話をしてやるのは巡礼のルカ。しかしクレーシチは彼女が死ぬと何かも失い、呆然としてしまう。ただ寝ているだけの病人だったアンナの存在の大きさがいなくなることで見えてくる。

 

昴の劇にも白い天使のような服を着てサンタクロースのような慈愛に満ちた表情を浮かべていた巡礼のルカ。『真実の国』があると信じ続け、それが存在しないとわかると自ら命を絶った男の話等々、いかにもあちらこちらを旅して見聞が広そうに語る。木賃宿で寝起きする娘ナースチャが語る恋物語を男たちにからかわれて傷つくと慰める。ペーペルのナターシャへの愛の告白にも祝福の言葉をかけ、輝かしい未来が約束されるかのように言うがそれは実現しない。彼は正式な旅券を持たず、結局正体不明のまま立ち去る。別荘番をしていた時、押し込んできた逃亡犯に慈悲をかけてやったと言っていたけど、どうやら彼自身が逃亡犯なのかも…。ちなみに岸田國士の『どん底』ノートでは「最大の悪人、最も有害な存在」とされている。

http://tb.antiscroll.com/novels/library/13506

 

もしも若い頃にこれを観ていたら理解が難しかったかもしれません。登場人物の名前や職業がなかなか頭に入らないし。でも若くなくて、いささか『どん底』風の現実を生きている今、この芝居を観るとひどく身につまされます。登場人物たちが皆、どこかで会ったことのある人のように感じられるのです。

 

第2幕で息を引き取るアンナに今、ガンをわずらって要介護状態になっている母の姿が重なります。母はアンナのように若くして死病になったわけではないのでさして悲劇的でもないのですけれど。母は父や祖母(姑)、出来の悪い娘である私に譲歩し、遠慮しながら生きてきたところが少しアンナに似ています。母がいなくなれば父はクレーシチと同じように「この世に居場所がなくなった」ような心境になるにちがいありません。訪れることがわかっている悲しみ、苦しみを少しでもやわらげる方法はないのだろうか、戯曲『どん底』を読み返しながら考えています。

 

テディ・ミュージアム―くまの世界美術史2(中公文庫)

いわゆる『世界の名画』の案内本なのですが、なぜか描かれている人物?がみんな、くま!

 

 

画家の名前もちょっと変です。例えばハンス・ホルバインJrの『ヘンリー八世』はハンス・ホルベアンJrの『ベアンリ八世』。毛皮のついた帽子と金のペンダントをつけた威風堂々とした王はもちろんテディベア。「中立的な背景に、ポーズを取ったベアンリ8世は、ホルベアンの卓越した物質感によって、しっかりと描きとめられ、王自身の記録ともなっています」(本文より引用)。

 

ミケランジェロ・コアラヴァッジョの『バッカス(酒神熊)』。葡萄の葉を頭につけ、白い衣をまとったぼってりしたベア君はカラヴァッジョの『バッカス』の眼つきをちゃんとまねています。「バロックは、当初、マニエリスムへのアンチテーゼとして始まりましたが、その方向性を最も明らかにしたのは、バロック初期のミコアランジェロとコアラヴァッジョとされています。つまり、ワイングミと、グミベアーの神は物事の新しい見方を表しています」(本文より引用)。

 

ベアロナルド・ダ・ビンチの『最後の晩餐』の中心のキリスト熊?は昔私が持っていたクマ君に表情が似ていてかわいいです「ユダは左から四匹目ですが、驚いて振り向き、蜂蜜ツボをひっくり返し、テーブルクロスにしみをつけています」(本文より引用)。

 

ジャン・ドミニク・ベアングルの『トルコ式浴場』はアングルの原作?を観たことがあります。中心でターバンをつけた女性のつややかな背中が印象的でしたが、描かれているのがすべて裸体の?クマですと何だかおもちゃ箱をひっくりかえしたようです。

 

著者はドイツの美術の研究者ですから、クスリと笑わせながらも作品解説は本格的。私自身の美術の知識が乏しく、本歌取りの本歌にあたる作品を知らなくてよくわからない章もありましたが、それらの原作?も鑑賞してみたくなる本でした。

 

日本でもテディの『源氏物語絵巻』とか『洛中洛外図屏風』とか『大坂夏の陣図屏風』なんか作れないかしら?

 

フォルカー・ブルミッヒ著、森野くま訳 中公文庫 2003年刊