Photoshopでミニチュアを作る
昨年、渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催された『だまし絵展』。
その中に、写真家・本城直季さんの『small planet』というシリーズから何点か出展されていた。
いや~、やっぱり凄い。
メディアに紹介されている作品は何度か目にしたことがあったが、現物を観たのは『だまし絵展』が初めてだった。
街の写真がミニチュアのセットのように見える…というよりミニチュアにしか見えない。
が、よくよく観察するとそれが正真正銘の実在する街の風景を写した写真であることがわかる。
私が知る限り、少なくとも2005年の愛知万博の頃には活躍していた方なので、どこかで作品をご覧になった方も多いのではないか。
未見の方は「本城直季」「small Planet」で検索をかけるといくつかの画像がひっかかるので是非。
そもそも「街」というものが作り物であって、この作品群は…などといった芸術的な視点はさておく。単純に観てるだけで面白い作品なのだ。
…真似したい。
どうも真似とかパロディばっかりでいかんなオレは、と思いつつ、やっぱり真似したい。
などと思っているうちに、「ミニチュアっぽく見せる機能を持ったデジカメ」が登場してしまった。やっぱりみんな真似したいんだろうなあ。このデジカメもかなり気にはなるが、Photoshopを使った加工で何とかならないものか。
本城さんご自身は、4×5(しのご)の大判カメラを使って「遠近法によるゆがみを補正する機能を応用して撮影」なさっていると展覧会の図録に書いてある。
どういう補正かというと…
ちょいとPhotoshopを使って極端にやってみよう。
▲これが普通に撮った写真。ビルの中心のラインはほぼ垂直だが、遠近法で中心から離れるほど角度がつく。
▲前の写真に補正(ってか変形)をかけたのがこれ。縦のラインを全て垂直にした。
漫画で高い建物を描く時に、普通なら2点透視で描くところを3点透視を使って迫力ある遠近感を出すことがあるが、その逆をやっているわけである。…わかりづらい説明だな。
つまるところ、この補正をやると「遠近感が抑えられる」ことになるのだ。ナルホド、これでミニチュアっぽく見える第一関門はクリア。
しかし、上記の補正写真を観てもミニチュアには見えない。
で、改めて本城作品を眺めると、おしなべて俯瞰で撮影されていることがわかる(ずいぶんと空撮もなさっているらしい)。
そこらへんの理屈は全く理解していないのだが、とにかく上から見下ろした構図の写真が「ミニチュア化」に適しているようだ。
Wikipediaによれば、この補正だけではなく「擬似的に被写界深度の浅い写真を撮」っている、とある。
えっと、被写界深度が浅いっていうのは、確か「ピントが合う領域が狭い」ってことだよな(今、調べた)。
本城作品は確かに上下がボケている。もしかすると、もっと厳密にボカす部分とピントが合った部分を分けているのかもしれないが、ちょっと見には上下のボケしかわからない…。
さらに、どうもコントラストが強くなり、色も鮮やかになっているのではないかと思われる。
その方が何となくミニチュアっぽいよな、と納得。
そういうことか。
漫画家が迫力を出すために遠近法を強調するのと反対のことをやっているのと同時に、特撮美術の人たちがミニチュアをリアルに見せるためにエイジングやウェザリングを施したりとか強制遠近法を使うなどして色々工夫しているのとも反対のことをやっているわけだ、多分。
では、自分でも作ってみましょう。
数年前に徳島を訪れた時、ホテルの窓から徳島駅の電車区(?)を見下ろして撮った写真がある。こいつを素材に使おう。
▲これがオリジナル。
▲軽く遠近法の補正をした。
▲コントラストと彩度を強くした。
▲上下をぼかして完成。何となくミニチュアっぽく見えるだろうか?
調子に乗ってもう一つ。
▲ウチのマンションの高層階から見下ろした写真
▲まあまあ、言われてみればミニチュアのように見えなくはない。
「ミニチュアっぽくなったか」というあたりは自信が無いのだが、こういう加工でずいぶんとイメージが変わってくることは間違い無いだろう。
実は、この一連の実験は「動画への応用」のために静止画でまずやってみたもの。
現在編集に追われている映像で「やや俯瞰気味」のカットがあるので、それに使えないかと考えたのである。
結論から言うと、ビルの2階から撮影したもので「見下ろす」ほど角度がキツくないこともあってそんなに目立つ効果は出なかった。まあ、何となく他と違う感じだな、と気づいてもらえればラッキーといったところだが、そもそも奇をてらったエフェクトやら強烈なインパクトが求められる映像では無いので(ましてや特撮作品ではない)、隠し味としては使えるだろうと思う。
それにしても、映像制作というのは極端な話「何にも知らなくても出来ちゃう」という部分が無きにしも非ずである。
実際、これまでの作品は何も知らずに作ってきた。
しかし、カメラやレンズの知識や様々な技術を知っていればそれだけ引き出しが増えるわけだし、色々勉強したり実験してみることは財産になるのではないか。
だから映像は面白い。
「写真(的な)技術」、「時間軸」、「音楽」、「生理的な編集リズム」、「デザイン」、「個性」…色々な要素が総合的・有機的に結合したものが映像作品なんだと思う。
一度ハマると、抜けられませんな。
その中に、写真家・本城直季さんの『small planet』というシリーズから何点か出展されていた。
いや~、やっぱり凄い。
メディアに紹介されている作品は何度か目にしたことがあったが、現物を観たのは『だまし絵展』が初めてだった。
街の写真がミニチュアのセットのように見える…というよりミニチュアにしか見えない。
が、よくよく観察するとそれが正真正銘の実在する街の風景を写した写真であることがわかる。
私が知る限り、少なくとも2005年の愛知万博の頃には活躍していた方なので、どこかで作品をご覧になった方も多いのではないか。
未見の方は「本城直季」「small Planet」で検索をかけるといくつかの画像がひっかかるので是非。
そもそも「街」というものが作り物であって、この作品群は…などといった芸術的な視点はさておく。単純に観てるだけで面白い作品なのだ。
…真似したい。
どうも真似とかパロディばっかりでいかんなオレは、と思いつつ、やっぱり真似したい。
などと思っているうちに、「ミニチュアっぽく見せる機能を持ったデジカメ」が登場してしまった。やっぱりみんな真似したいんだろうなあ。このデジカメもかなり気にはなるが、Photoshopを使った加工で何とかならないものか。
本城さんご自身は、4×5(しのご)の大判カメラを使って「遠近法によるゆがみを補正する機能を応用して撮影」なさっていると展覧会の図録に書いてある。
どういう補正かというと…
ちょいとPhotoshopを使って極端にやってみよう。
▲これが普通に撮った写真。ビルの中心のラインはほぼ垂直だが、遠近法で中心から離れるほど角度がつく。
▲前の写真に補正(ってか変形)をかけたのがこれ。縦のラインを全て垂直にした。
漫画で高い建物を描く時に、普通なら2点透視で描くところを3点透視を使って迫力ある遠近感を出すことがあるが、その逆をやっているわけである。…わかりづらい説明だな。
つまるところ、この補正をやると「遠近感が抑えられる」ことになるのだ。ナルホド、これでミニチュアっぽく見える第一関門はクリア。
しかし、上記の補正写真を観てもミニチュアには見えない。
で、改めて本城作品を眺めると、おしなべて俯瞰で撮影されていることがわかる(ずいぶんと空撮もなさっているらしい)。
そこらへんの理屈は全く理解していないのだが、とにかく上から見下ろした構図の写真が「ミニチュア化」に適しているようだ。
Wikipediaによれば、この補正だけではなく「擬似的に被写界深度の浅い写真を撮」っている、とある。
えっと、被写界深度が浅いっていうのは、確か「ピントが合う領域が狭い」ってことだよな(今、調べた)。
本城作品は確かに上下がボケている。もしかすると、もっと厳密にボカす部分とピントが合った部分を分けているのかもしれないが、ちょっと見には上下のボケしかわからない…。
さらに、どうもコントラストが強くなり、色も鮮やかになっているのではないかと思われる。
その方が何となくミニチュアっぽいよな、と納得。
そういうことか。
漫画家が迫力を出すために遠近法を強調するのと反対のことをやっているのと同時に、特撮美術の人たちがミニチュアをリアルに見せるためにエイジングやウェザリングを施したりとか強制遠近法を使うなどして色々工夫しているのとも反対のことをやっているわけだ、多分。
では、自分でも作ってみましょう。
数年前に徳島を訪れた時、ホテルの窓から徳島駅の電車区(?)を見下ろして撮った写真がある。こいつを素材に使おう。
▲これがオリジナル。
▲軽く遠近法の補正をした。
▲コントラストと彩度を強くした。
▲上下をぼかして完成。何となくミニチュアっぽく見えるだろうか?
調子に乗ってもう一つ。
▲ウチのマンションの高層階から見下ろした写真
▲まあまあ、言われてみればミニチュアのように見えなくはない。
「ミニチュアっぽくなったか」というあたりは自信が無いのだが、こういう加工でずいぶんとイメージが変わってくることは間違い無いだろう。
実は、この一連の実験は「動画への応用」のために静止画でまずやってみたもの。
現在編集に追われている映像で「やや俯瞰気味」のカットがあるので、それに使えないかと考えたのである。
結論から言うと、ビルの2階から撮影したもので「見下ろす」ほど角度がキツくないこともあってそんなに目立つ効果は出なかった。まあ、何となく他と違う感じだな、と気づいてもらえればラッキーといったところだが、そもそも奇をてらったエフェクトやら強烈なインパクトが求められる映像では無いので(ましてや特撮作品ではない)、隠し味としては使えるだろうと思う。
それにしても、映像制作というのは極端な話「何にも知らなくても出来ちゃう」という部分が無きにしも非ずである。
実際、これまでの作品は何も知らずに作ってきた。
しかし、カメラやレンズの知識や様々な技術を知っていればそれだけ引き出しが増えるわけだし、色々勉強したり実験してみることは財産になるのではないか。
だから映像は面白い。
「写真(的な)技術」、「時間軸」、「音楽」、「生理的な編集リズム」、「デザイン」、「個性」…色々な要素が総合的・有機的に結合したものが映像作品なんだと思う。
一度ハマると、抜けられませんな。
あけましてウルトラアイ
今年も、拙ブログをよろしくお願いいたします。
さて。
毎年、年末年始には関西から弟一家が我が家に“帰省”してくるのでドタバタな正月を過ごしている。
通常は2人家族なのが6人家族になるのでウチの人口が3倍(当社比…いや、当社比でなくても3倍だが)になる。
そんなドタバタの中で年賀状を書いたりとか色々やっているわけだが、その作業中に姪っ子と甥っ子が私の部屋に入ってくる。
彼らにとって私の部屋は巨大なおもちゃ箱に見えるらしくて、ウチに来るなりダーッと私の部屋に駆け込んでくるのだ。
私は通常は普通の近眼用の眼鏡を着けているが、作業中は「中近両用」の老眼鏡を使用。
姪っ子がその老眼鏡状態の私の顔を見るなり、叫んだ。
「あ! ウルトラマンや!」
正確には「ウルトラマン」ではなく「ウルトラセブン」ではあるが、よう知っとったなあ、ウルトラアイ。
毎年一回、ちょびっとずつウルトラ洗脳…ではなくてウルトラ教育を施してきた成果が現れている。
もちろん、今年も色々と教育している。ふふふ。
『ウルトラマンになった男』
予約してあった『ウルトラマンになった男』(古谷敏 小学館)が届いた。
結論から言おう。
ウルトラマンのファンの人は読まなくてはいけない。
私の世代で当時「男の子」だった人は読まなくてはいけない。
ウルトラセブン以降、現在…『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』に至るまでの作品に触れた人は読まなくてはいけない。
…「ウルトラマン」という名前を聞いたコトがある人も全員読まなくてはいけない。
ってことは、日本人のほとんどが読まなくてはいけない本である。
あ、読む前に、表紙カバーにどん、と出ているウルトラマンのマスクに注目。
カバーの見返しに説明が書かれている。“本物の原型”から作ったレプリカを古谷さんが大切に保管していたものだとのこと。こういうものが世の中に残っていたことが嬉しい。
継ぎ目消しなどの仕上げをしていない、雌型から抜いたまんまの荒削りなウルトラマン。
この本の表紙としてこれほど相応しいものは無いだろうと思う。
(…あ、そこのコアなファンの方、AタイプとかBタイプとかCタイプとか細かいコトごちゃごちゃ言わないように!)
推理小説の「意外な犯人」というのはある意味出尽くしていて、「被害者が犯人」「全員が犯人」「“語り手”が犯人」…果ては「読者が犯人」なんていうのまである。この時点で例えが悪いな、と気づいている私…まあいいや。
ウルトラマンについては、既に語り尽くされ、証言し尽くされた感があった。
しかし、「犯人が犯人だった!」とも言うべき意外性…「ウルトラマン本人による証言」がまだ残っていたか!という思いでこの本の出版を楽しみにしていた。やっぱり例えが悪いが察してください。
マニアックな例をあげれば、「あのウルトラマン独特の前傾姿勢はどうしてああなったか」という議論(?)がある。
長年、その理由は「アクションにも殺陣にも慣れていない古谷さんが、視界が限られた中で爆発などが当たり前の撮影に腰が引けた」というのが定説みたいになっている。
これについて、何度か開催された古谷さんのトークショーでは「実際には全く別の理由があるんです」とおっしゃっていた。…しかし、トークショーではそこまで…その「全く別の理由」までは語られることはなかった。
この本には恐らく誰も想像できなかったであろう、その「全く別の理由」が書かれている。
一方で、この本の大きな魅力はそうした「出来事の真実」だけが描かれているわけではない。
『ウルトラQ』のケムール人を演じたことをきっかけに、デザイナーの成田亨さんに惚れ込まれてウルトラマンに(図らずも)抜擢されたときの心境から、苦悩や人との出会いによって「自分は、ウルトラマンである。ウルトラマンは自分である」と感じるようになったウルトラマンの気持ちが描かれている。
そして、その心境の変化や様々な人との出会いがウルトラマンそのものの魅力を作ってきたことがわかる。
笑いもあるし涙もあるが、それは「狙って」書かれたものでは無いように思う。
純粋に、その時その時に古谷さんが感じたことをそのまま回想しているだけ…にもかかわらず、ウルトラマンのファンが読むと素直に笑い、涙ぐむという内容である。
これはウルトラマン本人=古谷敏さん以外には不可能なのではないか。
古谷さんは中学・高校生くらいの読者が読みやすいように配慮して執筆なさったらしい。
だから、オトナがさっと読むと1時間で読み終わる。
が、1行1行に込められた思いを噛み締めながら読むと、かなりじっくり読むことが出来る本だと思う。
そして、もう一度…まあ、レンタルでもいいが、作品を見直してみると、そのマスクに隠されたウルトラマンの姿…そして、マスクでダイレクトに表情は見えないものの「古谷さんの姿」が感じられる新しい魅力が発見できるのではないか。
確かにウルトラマンは古谷さんだけが創り上げたヒーローでは無い(そのあたりも同書で述べられている)。しかし、この誰も演じることがなかった前代未聞・前人未到の銀色の宇宙人は、古谷さんが苦労・苦悩を重ねつつも、他のスタッフを見つめる視線がウルトラマンをウルトラマンたらしめた。だからこそ40年以上に渡って語り継がれる存在となったのである。
…お人柄…ですかね。
古谷さんは、真面目である。
ご自身の憧れや夢は(形の変化はあれど)ずっと持ち続けている。
ダンディで紳士であるが、紳士過ぎない気さくさがある。…シャイな感じも受ける。
時に厳格で近付き難いオーラを発することもあるが、我々ファンに対しては(決して営業スマイルや営業トークではなく)暖かく接してくれる。
特に、お子さんと話している時の笑顔は最高。
私自身は何度かトークショーにお邪魔させていただいたが、そこで拝見することが出来た古谷さんの姿がこの本から感じ取ることが出来た。
繰り返しになるが、是非、(買って)読んでいただきたい。
そして、もう一度『ウルトラマン』を見直してほしい。
出来れば、トークショーやサイン会で古谷さんのお人柄に触れてほしい。
え~、ただ一つ…。
本の帯の裏表紙の部分…。
今回の映画『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』に登場した“ウルトラマン”と、素顔の古谷さんが並んでスペシウム光線のポーズをとっている写真が載っている。
…。
少なくとも私が見ると、素顔の古谷さんの方が「ウルトラマン」に見えてしまう。
隣のウルトラマンを演じたアクターさんが、何だか気の毒…。
ついでに、本のカバーを外して、本そのものの表紙に印刷された古谷さんの写真もお見逃しなく。
「二枚目俳優の古谷さん」がバッチリと決めている。
結論から言おう。
ウルトラマンのファンの人は読まなくてはいけない。
私の世代で当時「男の子」だった人は読まなくてはいけない。
ウルトラセブン以降、現在…『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』に至るまでの作品に触れた人は読まなくてはいけない。
…「ウルトラマン」という名前を聞いたコトがある人も全員読まなくてはいけない。
ってことは、日本人のほとんどが読まなくてはいけない本である。
あ、読む前に、表紙カバーにどん、と出ているウルトラマンのマスクに注目。
カバーの見返しに説明が書かれている。“本物の原型”から作ったレプリカを古谷さんが大切に保管していたものだとのこと。こういうものが世の中に残っていたことが嬉しい。
継ぎ目消しなどの仕上げをしていない、雌型から抜いたまんまの荒削りなウルトラマン。
この本の表紙としてこれほど相応しいものは無いだろうと思う。
(…あ、そこのコアなファンの方、AタイプとかBタイプとかCタイプとか細かいコトごちゃごちゃ言わないように!)
推理小説の「意外な犯人」というのはある意味出尽くしていて、「被害者が犯人」「全員が犯人」「“語り手”が犯人」…果ては「読者が犯人」なんていうのまである。この時点で例えが悪いな、と気づいている私…まあいいや。
ウルトラマンについては、既に語り尽くされ、証言し尽くされた感があった。
しかし、「犯人が犯人だった!」とも言うべき意外性…「ウルトラマン本人による証言」がまだ残っていたか!という思いでこの本の出版を楽しみにしていた。やっぱり例えが悪いが察してください。
マニアックな例をあげれば、「あのウルトラマン独特の前傾姿勢はどうしてああなったか」という議論(?)がある。
長年、その理由は「アクションにも殺陣にも慣れていない古谷さんが、視界が限られた中で爆発などが当たり前の撮影に腰が引けた」というのが定説みたいになっている。
これについて、何度か開催された古谷さんのトークショーでは「実際には全く別の理由があるんです」とおっしゃっていた。…しかし、トークショーではそこまで…その「全く別の理由」までは語られることはなかった。
この本には恐らく誰も想像できなかったであろう、その「全く別の理由」が書かれている。
一方で、この本の大きな魅力はそうした「出来事の真実」だけが描かれているわけではない。
『ウルトラQ』のケムール人を演じたことをきっかけに、デザイナーの成田亨さんに惚れ込まれてウルトラマンに(図らずも)抜擢されたときの心境から、苦悩や人との出会いによって「自分は、ウルトラマンである。ウルトラマンは自分である」と感じるようになったウルトラマンの気持ちが描かれている。
そして、その心境の変化や様々な人との出会いがウルトラマンそのものの魅力を作ってきたことがわかる。
笑いもあるし涙もあるが、それは「狙って」書かれたものでは無いように思う。
純粋に、その時その時に古谷さんが感じたことをそのまま回想しているだけ…にもかかわらず、ウルトラマンのファンが読むと素直に笑い、涙ぐむという内容である。
これはウルトラマン本人=古谷敏さん以外には不可能なのではないか。
古谷さんは中学・高校生くらいの読者が読みやすいように配慮して執筆なさったらしい。
だから、オトナがさっと読むと1時間で読み終わる。
が、1行1行に込められた思いを噛み締めながら読むと、かなりじっくり読むことが出来る本だと思う。
そして、もう一度…まあ、レンタルでもいいが、作品を見直してみると、そのマスクに隠されたウルトラマンの姿…そして、マスクでダイレクトに表情は見えないものの「古谷さんの姿」が感じられる新しい魅力が発見できるのではないか。
確かにウルトラマンは古谷さんだけが創り上げたヒーローでは無い(そのあたりも同書で述べられている)。しかし、この誰も演じることがなかった前代未聞・前人未到の銀色の宇宙人は、古谷さんが苦労・苦悩を重ねつつも、他のスタッフを見つめる視線がウルトラマンをウルトラマンたらしめた。だからこそ40年以上に渡って語り継がれる存在となったのである。
…お人柄…ですかね。
古谷さんは、真面目である。
ご自身の憧れや夢は(形の変化はあれど)ずっと持ち続けている。
ダンディで紳士であるが、紳士過ぎない気さくさがある。…シャイな感じも受ける。
時に厳格で近付き難いオーラを発することもあるが、我々ファンに対しては(決して営業スマイルや営業トークではなく)暖かく接してくれる。
特に、お子さんと話している時の笑顔は最高。
私自身は何度かトークショーにお邪魔させていただいたが、そこで拝見することが出来た古谷さんの姿がこの本から感じ取ることが出来た。
繰り返しになるが、是非、(買って)読んでいただきたい。
そして、もう一度『ウルトラマン』を見直してほしい。
出来れば、トークショーやサイン会で古谷さんのお人柄に触れてほしい。
え~、ただ一つ…。
本の帯の裏表紙の部分…。
今回の映画『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』に登場した“ウルトラマン”と、素顔の古谷さんが並んでスペシウム光線のポーズをとっている写真が載っている。
…。
少なくとも私が見ると、素顔の古谷さんの方が「ウルトラマン」に見えてしまう。
隣のウルトラマンを演じたアクターさんが、何だか気の毒…。
ついでに、本のカバーを外して、本そのものの表紙に印刷された古谷さんの写真もお見逃しなく。
「二枚目俳優の古谷さん」がバッチリと決めている。
『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』は、こう見るのが正しい(笑)
「アギラ! お前、いつの間にそんなに強くなったんだ?!」
…てなことはともかく。
私なりの感想を記事として残しておくことにする。
ただし、相当歪んだ見方をしている。
が、こういう見方をすると楽しみが倍増する…例えしょーもない映画であっても。
【第一部】アクションシーン
今回の映画の最大の売りはアクションシーンである。
CGキャラ多用かな~との予想は外れて、思いっきり生身のアクションだった。
ジャッキー・チェンへの憧れからアクションの道に入った坂本浩一監督なので、冷静に考えれば当然の流れではある。正式なアクションの“流派”については詳しく知らないのだが、「アメリカナイズされた香港アクション」というイメージだった。
ところで、劇場パンフの中で坂本監督はインタビューに答えて「ずっとウルトラマンが好きでしたからね」と答えているが、これは社交辞令である。
坂本監督の著書『ハリウッドアクション! ジャッキー・チェンへの道』(フィルムアート社 1996)の中で、監督はこう語っている。「ウルトラマンもいましたけど、大きくなるヒーローよりも、等身大のヒーローのほうが好きだったんです。デカいのがバーッと動くよりも、等身大で投げたり飛んだりするほうが躍動感があるじゃないですか」。そして「一番最初のヒーローですか? それはもう『仮面ライダー』ですね」とも明言している。
まず、ウルトラマンはもちろん、怪獣さんたちは「アクション」にはそぐわない。
ウルトラ怪獣の形態は様々で、もちろんヒューマノイドタイプの宇宙人などもいるわけだが、ずんぐりむっくりの四つ足怪獣とか、グリーンモンスみたいに何だかパンチもキックも効果なさそうなヤツとか、吹けば飛ぶような円盤怪獣とか、千差万別である。そんな奴らに“型”を重視するアクションが向くわけがない。だから、一応とりあえずはパンチやチョップで様子を見て、最終的には光線技で戦いに終止符を打つという流れが多いのではないかと思う。
ま、ベリアルとの戦いに関しては香港アクションというのはアリかな、という譲歩は出来るが。
それにしたって、地球と重力が変わらないと思われる星で、身長40mを越えるキャラたちが戦うのである。
が、今回はその大きさや重量感よりもアクションそのものや「空を飛べる」特徴を重視したようで、いや、軽いこと軽いこと。
…空を飛べない怪獣さんたちも思いっきり軽い動きだったが…。
しかし、視点を変えてみよう。今回の映画のアクションシーンをジャッキー・チェンへのオマージュとして見るとどういうことになるか。
ジャッキー・チェンのアクションは、ブルース・リーのような哲学的とも言える雰囲気を排除し、エンターテインメントに徹している。また、観客に「痛さ」を共感させることに特徴がある。
坂本監督自身、前掲書で「いかに“痛さ”を伝えるか」ということにこだわっている様子が読み取れる。
特に「やられ方」。
殺陣もアクションもこの「やられ方」がキモで、もし主役が下手だったとしても「やられる人」が上手だとそれなりの場面になるものらしい。
さらに香港系アクションの場合、ただ倒れるとか吹っ飛ばされるとかいう芸の無い「やられ方」では許してくれない。
いかに派手にやられるか…そして上記のようにいかに痛そうにやられるかが大きなポイントとなる。
で、今回の映画でもウルトラマンにせよ怪獣にせよそういう「やられ方」だった。
足を払われて倒れるときは、「ひっくり返る」のではなく一度空中に飛ばされて「キリモミ(別名“ホンコン・スピン”)」をして地面に落ちる。
また、投げ飛ばされたり光線で飛ばされたりする時は、ダイレクトに地面に激突するなどという安易なことはしない。必ず一度岩に激突したりとか何かに身体をぶつけてからでないと倒れさせてもらえない。
ウルトラマンたちが「痛たたたた…」という動きをしなかったのは救い。
苦しむウルトラマンは絵になるが、痛がるウルトラマンなんて見たく無い。
香港のアクションではしばしばパンチなどが当たったときにポンと埃が舞う効果が使われる。
これは、「実際に当ててますよ」という説得力を持たせるためである。
さすがにそこまではやらないだろうと油断をしていたら、やっていた。
アスカがゼットン星人と戦うシーン。たぶんその一回だけだと思うが、どうしてもやりたかったんだろうなあ。
一方、今回、タロウ教官には他のウルトラマンとは異なった重要な役割が与えられていた。
やっぱりタロウか…。
タロウの「声」としてすっかり定番になった石丸博也さんは、ジャッキー・チェンの声も当てている。
特にあのベリアルとの一騎打ちシーンで戦っていたのは、タロウと言うよりジャッキー・チェンだったのではないか。
どうせなら徹底的にタロウにはジャッキー・チェンの動きを真似させて、石丸さんにも「タロウではなく、ジャッキー・チェンの吹き替えで」とお願いすれば、オマージュとしては完璧だったと思うのだがどうか。
ついでにゼロの特訓も、足から吊られた状態で腹筋をするとかいうカットが入ればもっとジャッキー・チェンのファンには受けたのではないだろうか。
【第二部】他の映画へのオマージュまたはパロディまたはパクリ
★スターウォーズ
名古屋の重鎮ファンが『スターウォーズ』のような展開になるのでは?と懸念していたが…。
自らの力を過信した未熟者が暗黒面に堕ちて行くあたりは完全にダースベイダー。「そそのかされた」のと「強引に合体させられた」という違いはあるが、根源的な悪に利用されたあたりも同じシチュエーションである。
宇宙牢獄の狭い溝のようなところでのバトルをカメラが追うところはデススター攻撃シーン以外の何者でもない。
氷付けとなったウルトラの星のシーンは氷の惑星ホスだし、変身前のマン&セブン&メビウスの衣装はジェダイをイメージさせる。
ウルトラの星のシーンで空を見上げると夥しい数のウルトラマンたちが空を飛んでいるが、あれもスターウォーズのエピソードI~IIIによく登場した「街中を飛び交う沢山の飛行物」という光景を思い出す。
ウルトラ戦士を目指す若きウルトラマンたちは、パダワンだな。
「ベリアルが溶岩の流れに落ちる→合体怪獣として再生」というシーケンスは、「アナキンが溶岩に焼かれる→ダースベイダーとして再生」へのオマージュのような気もするし、溶鉱炉に沈んで行くターミネーターIIのラストも思い出す。
★猿の惑星(旧シリーズ)
凍りついた「父」を発見して愕然としているところは『猿の惑星』のラストでチャールトン・ヘストンが自由の女神を発見したときの絵を思い出した。
プラズマスパーク以前の「人間と同じ姿だった頃の光の国の住人」の衣装は、『猿の惑星』のオランウータンや『続・猿の惑星』の地底人だろうか。
★スーパーマン(&その他アメリカンヒーロー)
まず、ウルトラの星のクリスタルなイメージは、クリストファー・リーブのスーパーマンでのクリプトン星を彷彿とさせる。
それでですね。
ゾフィ&ウルトラマン&ウルトラセブンが「マントを羽織ったまま」飛ぶシーンがあった。
…まんまスーパーマンやんか。
内山まもる先生を否定はしないが、ウルトラマンのデザインはそもそもスーパーマンやそれに影響された月光仮面などのイメージを払拭するために“着衣なのか裸なのかわからない”というデザインでマントを排除したのではなかったか?
ついでに悪人を超越したパワーで宇宙空間の牢獄に幽閉するというのもスーパーマンの設定にあった。
ベリアルのデザインがスパイダーマンのヴェノムのイメージに酷似していることは以前指摘した。
そのベリアルが「さ~て、やってやるか」という感じで首を回す様子は、アメリカンヒーロー物に登場する“知的とは言えない敵”のお約束アクションと言えるだろう。
冒頭、ワーナーのオープニングタイトルに続いて登場するメビウスは、他のシーンと比べて陰影が非常に特徴的だった。これはティム・バートン版のバットマンだな。
★マトリックス
ストリウム光線を避けるベリアル…思いっきり“後ろにのけぞる”という動きは言うまでもなくマトリックスの有名なシーン。ワイヤーワークによる“空中で何回も繰り出されるキック”もマトリックスでしょうね。どうせならバレットタイムで撮れば完璧だったと思うが、そこは抑えた模様。
★その他
合体怪獣は、全体のフォルムも顔つきも永井豪先生のデビルマン。また、頭部にはベリアルが“パイルダー・オン”をしているので同じく永井作品であるマジンガーZへのオマージュであろう。…仮面ライダーアマゾンの十面鬼の姿も脳裡をよぎったが。
テクターギア状態のゼロは完全に『巨人の星』の大リーグボール養成ギブス。動くたんびに「グギギギギギ…」とスプリングが軋む音が鳴ることで余計に星飛雄馬と化している。特訓の様子を見守るアストラは「明子ねえちゃん」で、キングは川上監督か?
せっかくならメフィラス星人に鍛えてもらえば声が星一徹だったのに。
さらに、テクターギアのヘルメット(?)は、ギャバンとかシャイダーとかシャリバンとかから借りてきたんだろうな。
レイとミライが雪原(?)を滑り落ちるシーンは、予告映像の時から「ん~、何かで見たような気がするな…」と思っていたが、思い出した。リポビタンDの「ファイトぉ~!」「一発!」である。
ダンがレイの手をガッシリと掴むところもリポD(またはブレードランナー)だった。
レイブラッド星人が乗り移る(?)シーンでベリアルが「やめろぉ~!」と叫ぶ様子を見て、『仮面ノリダー』の改造シーン…「やめろぉ~!ジョッカー!」を思い出したのは私だけか?
ちなみに、坂本監督は「ジョッカーのみなさん」として同番組に出ている。
【第三部】セルフパロディ
とにかく「逃げ惑う群集」が全て「戦士ではない一般のウルトラの国の住人」というのは、完全にこれまでの「普通の人間が逃げ惑うシーン」のパロディ。これは純粋に笑いを狙ったとしか思えない。コケる奴までいたもんなあ。
合体怪獣ベリュドラとの最終戦、ひたすら八つ裂き光輪(ウルトラスラッシュ)を連続発射しているウルトラマンにはチャップリンやキートンなど“動きで見せるコメディ俳優”の魂を見た。それでいいのか、ウルトラマン?
ラストのキングの演説で、それに聞き入るおびただしい数のウルトラの星の住民たち。
スターウォーズのエピソードIでのポッドレースのシーンに登場する満場の観客は、何と綿棒に着色したものであった。そんなローテクでも説得力がある群衆シーンが作れるという前例があるにも関わらず、丸っきり一昔前のアニメのような群衆だったのは、『ザ☆ウルトラマン』や『ウルトラマンUSA』というアニメ版のウルトラマンをさり気なく再現したものと思われる。
ゴモラとザラガスの戦いは劇場パンフにもあったように「もともと一つの着ぐるみを改造した怪獣」の戦いというマニアックな見どころを作ってくれたわけではあるが、「地球とよく似た環境」の惑星デントの空の色があまりにも不自然。これはきっと、ゲームの『大怪獣バトル』のCGっぽさを再現して良い子のお友だちに「アレだ!」と思わせる仕掛けだと睨んでいる。
【第四部】その他もろもろ
劇場パンフでの坂本監督のインタビューによれば「“ウルトラ戦士が弱い”のではなく“ベリアルが強すぎる”印象を与えられるように」と見せ方に工夫をしたらしいが、その工夫はスクリーンから伝わってこなかった。
「ウルトラ戦士、弱っ!」と思ったのは私だけではないハズ。歴代主役をはったヒーローたちがいとも簡単にやられてしまう。特にグレート&パワード&USAの弱さは、前の記事にも書いた『ゴジラ ファイナルウォーズ』でハリウッド版ゴジラによく似た怪獣が異様に弱かったのと同じ笑わせどころであろう。
ウルトラの母のVAについてはほとんどの方がダメ出しをしている。確かに真面目な映画としてみたらダメダメなのだが、ベテラン西岡徳馬さんとの対比で「わざと棒読み」にして笑いを誘うことを狙ったものと考えられる。惜しいのは、ダメ過ぎて笑えなかったことか。
キングの演説は「小泉純一郎の演説」にしか聞こえなかった…。
それで得をしたのは蝶野正洋かな。
ベリアルが幽閉されていたのは「宇宙牢獄」。そのダサイネーミングは、その昔テレビで放映されていたアメリカSFドラマの和訳で、色んなものをイージーに「宇宙○○」としていたことへのオマージュと言えよう。我々の世代には懐かしいじゃありませんか。
ハヤタ、モロボシ・ダン、ヒビノ・ミライの姿でウルトラマンとセブンとメビウスが活躍している。
プラズマスパークのパワーが無いと、その姿を維持するのがやっとだと言う。
つまりは、プラズマスパークを浴びて超人化する前の、地球人と似たような姿だったときの彼らの「本来の姿」があれだったと解釈できる。
が、ハヤタはたまたまウルトラマンが事故った相手だし、モロボシ・ダンは薩摩次郎の姿を借りたものだし、ヒビノ・ミライはバン・ヒロトの姿を模したものだったハズである。
偶然にもそんなに“たまたま出会った地球人”とソックリだったのか。だとしたら逆に敢えて地球滞在時に“実在する地球人”の姿を借りる必要は無かったはず。
また、あのシチュエーションでレイに「ヒビノ・ミライです」と名乗ったメビウス…は、もともと天然で空気を読まないヤツだから仕方が無いか。
ストーリーの中で、アスカ=ダイナが登場する必然性は全く無い。まあ、スペースペンドラゴンを光の国まで案内するという“役割”はあったが。
ZAPの皆さんは「ウルトラマンダイナ」を知っていたみたいな雰囲気だったが、どういう世界観なのか。ダイナはM78星雲の皆さんともけっこう打ち解けていたようだけど、とにかくダイナに関する「説明」は一切省かれている。
ZAPの皆さんの舞台挨拶にはこちらもホロリとさせられるものがあったが、残念なことに劇中でZAPが果たした役割は「レイを光の国に向かわせること」と「暴走したレイ(レイモン)を正気に戻すこと」だけだった。
せっかくレイブラッド星人とベリアルを通じて『大怪獣バトル』と『ウルトラマン』の世界を結びつける設定(是非はともかく)を作ったのに、もったいないというか…。
ついでに、「レイブラッド星人」という名前は間違い無くSF作家のレイ・ブラッドベリから持ってきたものだろう。
「レイブラッド」と「ベリアル」が結びつくことで「レイ・ブラッドベリ」のフルネームが折り込まれたことになる。
…悪役の名前にしちゃっていいのかよ…。SFファンの皆さんはどう感じているのだろう。
3DCGによるキャラはほとんど使われていなかったが、たま~に出てくると思いっきり違和感があるのは今回も改善されていない。
そのぶん前回の『大決戦! 超ウルトラ8兄弟』では町並みのCGは相当頑張っていたと思う。
さらにその前の『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』の合成も見事だったなあ。
が、今回の映画では背景の3DCGが「CGでございます」と思いっきり主張していた。
特にメビウス×ベムラー戦でズズズズズーっと地面を引きずって後退するメビウスのシーンとか、ウルトラの星の建物崩壊シーンとか、違和感出しまくり。背景と合成があんななのに「ほとんど全編グリーンバック撮影だ!凄いだろう!」みたいに言われても、困る。
ウルトラなお友だちの一人であるマック&シュンカナさんの奥さんは音楽にダメ出しをしたとのこと。
音楽が全く印象に残っていないというお友だちもいる。
確かに。
音楽はマック夫人がおっしゃるとおり「流している」だけで「使われて」はいない。そういうのを映画音楽とは認めたくない。
結局、記憶に残ったのは、タロウが守った最後の光でマン&セブン&メビウスが変身するシーンに『ウルトラマンの歌』や『ウルトラセブンの歌』のモチーフが入っていた部分くらい。宮内・冬木両先生の偉大さを物語る。
これが単に音楽の使い方の問題だけなのか楽曲そのものの問題なのか判断出来ないが、ラスト近くで復活したウルトラの星を眺めて佇むゼロのシーンに流れた曲を聴く限りは「ありがちな曲」にしか思えなかった…ちょびっとスターウォーズの音楽を思い出した(具体的にどの曲と似ているのかは指定不能。メロディを全く覚えていないので)。
カメラワークやカット割りは忙し過ぎて、私のような近眼と老眼を完備した目にはキツかった。
実際、お子さんの動体視力に合わせたという話も漏れ聞いているし、「酔い止めの薬を用意したほうがいいですよ」という冗談(たぶん)も出ている。
が、少なくとも私が観た上映(2回)では、「大きなお友だち」の方が多かった。オールドファンにも優しくしてほしい。
ついでに、2回目に観たときは、ベリアル(たち)による劇場用マナーCM が流れた(既にネットでは観ていた)。
「光線もおやめください!」というネタ…まあまあかな…。
以前『スターウォーズ Ep.III』の先行ロードショーの時、劇場スタッフによる「~携帯電話は電源をお切りください。また、他のお客様のご迷惑になりますのでライトセーバーのご使用はご遠慮ください」という注意があって爆笑した。
これは、マジでライトセーバー持参の観客がいるからこそ受けたネタである。
私が見た限りでは今回の映画の観客で光線を撃てそうな人はいなかったからなあ。
「これは良かった」と感じる点が無かったわけではない。
ウルトラマンをBタイプにしたこと。
劇場版の前2作ではわざわざシワシワにしたエセAタイプだった(“Dタイプ”と呼ぶ人もいる)。諸説あるが、ウルトラマンと帰ってきたウルトラマンが同時に登場する時にパッと見分けがつくようにしたという話もある。
いずれにしても、あのただ汚いだけのエセAタイプよりずっと良い。
また、ウルトラマン、ゾフィー、帰ってきたウルトラマンの「覗き穴」が多少改善されていた(父や母は相変わらずだったが…)。
確かに、もはや「覗き穴」は単なる穴ではなく、ウルトラマンの目の一部として定着した感はある。私もあの覗き穴を含めて表情を感じる。
しかし、あれは本来は「無いもの」のハズ。三頭身にデフォルメされたフィギュアにまで覗き穴があるというのはいかがなものかと思っていた。
…もう、いいでしょう、無くても。
キングのマスクは(アクションらしいことをしないから…)ずいぶんと覗き穴が目立たないようになっている。
東映ヒーローみたいに「アップ用」と「アクション用」があってもいいと思うし。
そのへんはもうちょっと頑張ってほしいところ。
アイスラッガーにメッセージを託すというのは、セブンならではの格好良さが出ていたと思う。「回転しながら飛ぶ」アイスラッガーにも(おかげさまで…)もう違和感が無くなったし、良いシーンだった。
…何となくウルトラサインの方がエネルギーを使わずに済みそうな気もするが、やっぱりセブンですからね。
そのメッセージを解読(?)するのが小泉…じゃなくてキングというのは残念。レオがゼロにその役を果たしてほしかった。
あ、ついでに、プラズマスパークで超人化するシーン…せっかく古谷敏さんが出てるんだから、巨大化した後に「ご本人による思いっきりウルトラマンなポーズ」のカットが見たかったなあ。
【第五部】総括
今回の映画で、我々は新しい“ウルトラマン”または“ウルトラマンの世界”を観ることが出来たのだろうか?
基本的には「映画を観る前に書いた感想」と大きく変わるところはない。
そして、中心的に活躍したのは、やっぱり初代ウルトラマンとウルトラセブン(とメビウス)だった。
何が新しかったかと考えると、アクションとスピード感。
…なのだが。
ウルトラマンの世界は「アクション」ではなく「ファンタジー」である。
様々な矛盾をぶっとばすという部分ではアクションもファンタジーも同じかもしれないが、ウルトラマンは40mを越す巨人なのである。宇宙人なのである。光線技を放つのである。…やっぱりファンタジーでしょう。
当然、仮面ライダーや戦隊モノとは違う戦い方や立ち居振る舞いで無いといけない。
むしろ、ハイスピードで撮影(=再生するとゆっくりとした動きになる)した方が良いくらいなのではないか。
既製のキャラクターを使い、(派手な立ち回りなどの)表面的な部分だけで「新しさ」を出すためにそのキャラクターの本質を捨てているとしたら、根本的に間違っている。
だったら別所哲也サンが変身した『ULTRAMAN』のように、全く別物のウルトラマンを生み出してやってくれ、と思う(私はあの作品は“アリ”だと思っている)。
あんまり好きではなかった『ULTRASEVEN X』がちょっと輝いて見えてきたぞ。あっちの方がよっぽど「新しい」。
お子さんたちはけっこう楽しんだらしい。それはけっこうな話である。ウルトラマンは子どもたちのためにある。
が。
極端な話、あれだけ沢山のウルトラマンと怪獣が登場すればどんな設定やストーリーでも楽しめたのではないかと思う。
『ウルトラマン』の最終回では、放送終了後に窓を開けて夜空を眺めた子どもが続出した、という話がある。
まあ、都市伝説のようなものだとは思うのだが、そんな伝説が生まれるのがウルトラマンなのではないか。
今回の映画から、そんな語り継がれるような「新しい伝説」は生まれるのだろうか?
『~ウルトラ銀河伝説』…とタイトルに「伝説」という言葉が含まれているのが皮肉に思えて仕方がない。
だがしかし。
これに懲りずに(懲りて無いと思うが)、ウルトラマンの光は絶やさないでほしい。
それは円谷プロにしか出来ないことなんだから。
…な~んて奇麗にまとめてみたりして。
…てなことはともかく。
私なりの感想を記事として残しておくことにする。
ただし、相当歪んだ見方をしている。
が、こういう見方をすると楽しみが倍増する…例えしょーもない映画であっても。
【第一部】アクションシーン
今回の映画の最大の売りはアクションシーンである。
CGキャラ多用かな~との予想は外れて、思いっきり生身のアクションだった。
ジャッキー・チェンへの憧れからアクションの道に入った坂本浩一監督なので、冷静に考えれば当然の流れではある。正式なアクションの“流派”については詳しく知らないのだが、「アメリカナイズされた香港アクション」というイメージだった。
ところで、劇場パンフの中で坂本監督はインタビューに答えて「ずっとウルトラマンが好きでしたからね」と答えているが、これは社交辞令である。
坂本監督の著書『ハリウッドアクション! ジャッキー・チェンへの道』(フィルムアート社 1996)の中で、監督はこう語っている。「ウルトラマンもいましたけど、大きくなるヒーローよりも、等身大のヒーローのほうが好きだったんです。デカいのがバーッと動くよりも、等身大で投げたり飛んだりするほうが躍動感があるじゃないですか」。そして「一番最初のヒーローですか? それはもう『仮面ライダー』ですね」とも明言している。
まず、ウルトラマンはもちろん、怪獣さんたちは「アクション」にはそぐわない。
ウルトラ怪獣の形態は様々で、もちろんヒューマノイドタイプの宇宙人などもいるわけだが、ずんぐりむっくりの四つ足怪獣とか、グリーンモンスみたいに何だかパンチもキックも効果なさそうなヤツとか、吹けば飛ぶような円盤怪獣とか、千差万別である。そんな奴らに“型”を重視するアクションが向くわけがない。だから、一応とりあえずはパンチやチョップで様子を見て、最終的には光線技で戦いに終止符を打つという流れが多いのではないかと思う。
ま、ベリアルとの戦いに関しては香港アクションというのはアリかな、という譲歩は出来るが。
それにしたって、地球と重力が変わらないと思われる星で、身長40mを越えるキャラたちが戦うのである。
が、今回はその大きさや重量感よりもアクションそのものや「空を飛べる」特徴を重視したようで、いや、軽いこと軽いこと。
…空を飛べない怪獣さんたちも思いっきり軽い動きだったが…。
しかし、視点を変えてみよう。今回の映画のアクションシーンをジャッキー・チェンへのオマージュとして見るとどういうことになるか。
ジャッキー・チェンのアクションは、ブルース・リーのような哲学的とも言える雰囲気を排除し、エンターテインメントに徹している。また、観客に「痛さ」を共感させることに特徴がある。
坂本監督自身、前掲書で「いかに“痛さ”を伝えるか」ということにこだわっている様子が読み取れる。
特に「やられ方」。
殺陣もアクションもこの「やられ方」がキモで、もし主役が下手だったとしても「やられる人」が上手だとそれなりの場面になるものらしい。
さらに香港系アクションの場合、ただ倒れるとか吹っ飛ばされるとかいう芸の無い「やられ方」では許してくれない。
いかに派手にやられるか…そして上記のようにいかに痛そうにやられるかが大きなポイントとなる。
で、今回の映画でもウルトラマンにせよ怪獣にせよそういう「やられ方」だった。
足を払われて倒れるときは、「ひっくり返る」のではなく一度空中に飛ばされて「キリモミ(別名“ホンコン・スピン”)」をして地面に落ちる。
また、投げ飛ばされたり光線で飛ばされたりする時は、ダイレクトに地面に激突するなどという安易なことはしない。必ず一度岩に激突したりとか何かに身体をぶつけてからでないと倒れさせてもらえない。
ウルトラマンたちが「痛たたたた…」という動きをしなかったのは救い。
苦しむウルトラマンは絵になるが、痛がるウルトラマンなんて見たく無い。
香港のアクションではしばしばパンチなどが当たったときにポンと埃が舞う効果が使われる。
これは、「実際に当ててますよ」という説得力を持たせるためである。
さすがにそこまではやらないだろうと油断をしていたら、やっていた。
アスカがゼットン星人と戦うシーン。たぶんその一回だけだと思うが、どうしてもやりたかったんだろうなあ。
一方、今回、タロウ教官には他のウルトラマンとは異なった重要な役割が与えられていた。
やっぱりタロウか…。
タロウの「声」としてすっかり定番になった石丸博也さんは、ジャッキー・チェンの声も当てている。
特にあのベリアルとの一騎打ちシーンで戦っていたのは、タロウと言うよりジャッキー・チェンだったのではないか。
どうせなら徹底的にタロウにはジャッキー・チェンの動きを真似させて、石丸さんにも「タロウではなく、ジャッキー・チェンの吹き替えで」とお願いすれば、オマージュとしては完璧だったと思うのだがどうか。
ついでにゼロの特訓も、足から吊られた状態で腹筋をするとかいうカットが入ればもっとジャッキー・チェンのファンには受けたのではないだろうか。
【第二部】他の映画へのオマージュまたはパロディまたはパクリ
★スターウォーズ
名古屋の重鎮ファンが『スターウォーズ』のような展開になるのでは?と懸念していたが…。
自らの力を過信した未熟者が暗黒面に堕ちて行くあたりは完全にダースベイダー。「そそのかされた」のと「強引に合体させられた」という違いはあるが、根源的な悪に利用されたあたりも同じシチュエーションである。
宇宙牢獄の狭い溝のようなところでのバトルをカメラが追うところはデススター攻撃シーン以外の何者でもない。
氷付けとなったウルトラの星のシーンは氷の惑星ホスだし、変身前のマン&セブン&メビウスの衣装はジェダイをイメージさせる。
ウルトラの星のシーンで空を見上げると夥しい数のウルトラマンたちが空を飛んでいるが、あれもスターウォーズのエピソードI~IIIによく登場した「街中を飛び交う沢山の飛行物」という光景を思い出す。
ウルトラ戦士を目指す若きウルトラマンたちは、パダワンだな。
「ベリアルが溶岩の流れに落ちる→合体怪獣として再生」というシーケンスは、「アナキンが溶岩に焼かれる→ダースベイダーとして再生」へのオマージュのような気もするし、溶鉱炉に沈んで行くターミネーターIIのラストも思い出す。
★猿の惑星(旧シリーズ)
凍りついた「父」を発見して愕然としているところは『猿の惑星』のラストでチャールトン・ヘストンが自由の女神を発見したときの絵を思い出した。
プラズマスパーク以前の「人間と同じ姿だった頃の光の国の住人」の衣装は、『猿の惑星』のオランウータンや『続・猿の惑星』の地底人だろうか。
★スーパーマン(&その他アメリカンヒーロー)
まず、ウルトラの星のクリスタルなイメージは、クリストファー・リーブのスーパーマンでのクリプトン星を彷彿とさせる。
それでですね。
ゾフィ&ウルトラマン&ウルトラセブンが「マントを羽織ったまま」飛ぶシーンがあった。
…まんまスーパーマンやんか。
内山まもる先生を否定はしないが、ウルトラマンのデザインはそもそもスーパーマンやそれに影響された月光仮面などのイメージを払拭するために“着衣なのか裸なのかわからない”というデザインでマントを排除したのではなかったか?
ついでに悪人を超越したパワーで宇宙空間の牢獄に幽閉するというのもスーパーマンの設定にあった。
ベリアルのデザインがスパイダーマンのヴェノムのイメージに酷似していることは以前指摘した。
そのベリアルが「さ~て、やってやるか」という感じで首を回す様子は、アメリカンヒーロー物に登場する“知的とは言えない敵”のお約束アクションと言えるだろう。
冒頭、ワーナーのオープニングタイトルに続いて登場するメビウスは、他のシーンと比べて陰影が非常に特徴的だった。これはティム・バートン版のバットマンだな。
★マトリックス
ストリウム光線を避けるベリアル…思いっきり“後ろにのけぞる”という動きは言うまでもなくマトリックスの有名なシーン。ワイヤーワークによる“空中で何回も繰り出されるキック”もマトリックスでしょうね。どうせならバレットタイムで撮れば完璧だったと思うが、そこは抑えた模様。
★その他
合体怪獣は、全体のフォルムも顔つきも永井豪先生のデビルマン。また、頭部にはベリアルが“パイルダー・オン”をしているので同じく永井作品であるマジンガーZへのオマージュであろう。…仮面ライダーアマゾンの十面鬼の姿も脳裡をよぎったが。
テクターギア状態のゼロは完全に『巨人の星』の大リーグボール養成ギブス。動くたんびに「グギギギギギ…」とスプリングが軋む音が鳴ることで余計に星飛雄馬と化している。特訓の様子を見守るアストラは「明子ねえちゃん」で、キングは川上監督か?
せっかくならメフィラス星人に鍛えてもらえば声が星一徹だったのに。
さらに、テクターギアのヘルメット(?)は、ギャバンとかシャイダーとかシャリバンとかから借りてきたんだろうな。
レイとミライが雪原(?)を滑り落ちるシーンは、予告映像の時から「ん~、何かで見たような気がするな…」と思っていたが、思い出した。リポビタンDの「ファイトぉ~!」「一発!」である。
ダンがレイの手をガッシリと掴むところもリポD(またはブレードランナー)だった。
レイブラッド星人が乗り移る(?)シーンでベリアルが「やめろぉ~!」と叫ぶ様子を見て、『仮面ノリダー』の改造シーン…「やめろぉ~!ジョッカー!」を思い出したのは私だけか?
ちなみに、坂本監督は「ジョッカーのみなさん」として同番組に出ている。
【第三部】セルフパロディ
とにかく「逃げ惑う群集」が全て「戦士ではない一般のウルトラの国の住人」というのは、完全にこれまでの「普通の人間が逃げ惑うシーン」のパロディ。これは純粋に笑いを狙ったとしか思えない。コケる奴までいたもんなあ。
合体怪獣ベリュドラとの最終戦、ひたすら八つ裂き光輪(ウルトラスラッシュ)を連続発射しているウルトラマンにはチャップリンやキートンなど“動きで見せるコメディ俳優”の魂を見た。それでいいのか、ウルトラマン?
ラストのキングの演説で、それに聞き入るおびただしい数のウルトラの星の住民たち。
スターウォーズのエピソードIでのポッドレースのシーンに登場する満場の観客は、何と綿棒に着色したものであった。そんなローテクでも説得力がある群衆シーンが作れるという前例があるにも関わらず、丸っきり一昔前のアニメのような群衆だったのは、『ザ☆ウルトラマン』や『ウルトラマンUSA』というアニメ版のウルトラマンをさり気なく再現したものと思われる。
ゴモラとザラガスの戦いは劇場パンフにもあったように「もともと一つの着ぐるみを改造した怪獣」の戦いというマニアックな見どころを作ってくれたわけではあるが、「地球とよく似た環境」の惑星デントの空の色があまりにも不自然。これはきっと、ゲームの『大怪獣バトル』のCGっぽさを再現して良い子のお友だちに「アレだ!」と思わせる仕掛けだと睨んでいる。
【第四部】その他もろもろ
劇場パンフでの坂本監督のインタビューによれば「“ウルトラ戦士が弱い”のではなく“ベリアルが強すぎる”印象を与えられるように」と見せ方に工夫をしたらしいが、その工夫はスクリーンから伝わってこなかった。
「ウルトラ戦士、弱っ!」と思ったのは私だけではないハズ。歴代主役をはったヒーローたちがいとも簡単にやられてしまう。特にグレート&パワード&USAの弱さは、前の記事にも書いた『ゴジラ ファイナルウォーズ』でハリウッド版ゴジラによく似た怪獣が異様に弱かったのと同じ笑わせどころであろう。
ウルトラの母のVAについてはほとんどの方がダメ出しをしている。確かに真面目な映画としてみたらダメダメなのだが、ベテラン西岡徳馬さんとの対比で「わざと棒読み」にして笑いを誘うことを狙ったものと考えられる。惜しいのは、ダメ過ぎて笑えなかったことか。
キングの演説は「小泉純一郎の演説」にしか聞こえなかった…。
それで得をしたのは蝶野正洋かな。
ベリアルが幽閉されていたのは「宇宙牢獄」。そのダサイネーミングは、その昔テレビで放映されていたアメリカSFドラマの和訳で、色んなものをイージーに「宇宙○○」としていたことへのオマージュと言えよう。我々の世代には懐かしいじゃありませんか。
ハヤタ、モロボシ・ダン、ヒビノ・ミライの姿でウルトラマンとセブンとメビウスが活躍している。
プラズマスパークのパワーが無いと、その姿を維持するのがやっとだと言う。
つまりは、プラズマスパークを浴びて超人化する前の、地球人と似たような姿だったときの彼らの「本来の姿」があれだったと解釈できる。
が、ハヤタはたまたまウルトラマンが事故った相手だし、モロボシ・ダンは薩摩次郎の姿を借りたものだし、ヒビノ・ミライはバン・ヒロトの姿を模したものだったハズである。
偶然にもそんなに“たまたま出会った地球人”とソックリだったのか。だとしたら逆に敢えて地球滞在時に“実在する地球人”の姿を借りる必要は無かったはず。
また、あのシチュエーションでレイに「ヒビノ・ミライです」と名乗ったメビウス…は、もともと天然で空気を読まないヤツだから仕方が無いか。
ストーリーの中で、アスカ=ダイナが登場する必然性は全く無い。まあ、スペースペンドラゴンを光の国まで案内するという“役割”はあったが。
ZAPの皆さんは「ウルトラマンダイナ」を知っていたみたいな雰囲気だったが、どういう世界観なのか。ダイナはM78星雲の皆さんともけっこう打ち解けていたようだけど、とにかくダイナに関する「説明」は一切省かれている。
ZAPの皆さんの舞台挨拶にはこちらもホロリとさせられるものがあったが、残念なことに劇中でZAPが果たした役割は「レイを光の国に向かわせること」と「暴走したレイ(レイモン)を正気に戻すこと」だけだった。
せっかくレイブラッド星人とベリアルを通じて『大怪獣バトル』と『ウルトラマン』の世界を結びつける設定(是非はともかく)を作ったのに、もったいないというか…。
ついでに、「レイブラッド星人」という名前は間違い無くSF作家のレイ・ブラッドベリから持ってきたものだろう。
「レイブラッド」と「ベリアル」が結びつくことで「レイ・ブラッドベリ」のフルネームが折り込まれたことになる。
…悪役の名前にしちゃっていいのかよ…。SFファンの皆さんはどう感じているのだろう。
3DCGによるキャラはほとんど使われていなかったが、たま~に出てくると思いっきり違和感があるのは今回も改善されていない。
そのぶん前回の『大決戦! 超ウルトラ8兄弟』では町並みのCGは相当頑張っていたと思う。
さらにその前の『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』の合成も見事だったなあ。
が、今回の映画では背景の3DCGが「CGでございます」と思いっきり主張していた。
特にメビウス×ベムラー戦でズズズズズーっと地面を引きずって後退するメビウスのシーンとか、ウルトラの星の建物崩壊シーンとか、違和感出しまくり。背景と合成があんななのに「ほとんど全編グリーンバック撮影だ!凄いだろう!」みたいに言われても、困る。
ウルトラなお友だちの一人であるマック&シュンカナさんの奥さんは音楽にダメ出しをしたとのこと。
音楽が全く印象に残っていないというお友だちもいる。
確かに。
音楽はマック夫人がおっしゃるとおり「流している」だけで「使われて」はいない。そういうのを映画音楽とは認めたくない。
結局、記憶に残ったのは、タロウが守った最後の光でマン&セブン&メビウスが変身するシーンに『ウルトラマンの歌』や『ウルトラセブンの歌』のモチーフが入っていた部分くらい。宮内・冬木両先生の偉大さを物語る。
これが単に音楽の使い方の問題だけなのか楽曲そのものの問題なのか判断出来ないが、ラスト近くで復活したウルトラの星を眺めて佇むゼロのシーンに流れた曲を聴く限りは「ありがちな曲」にしか思えなかった…ちょびっとスターウォーズの音楽を思い出した(具体的にどの曲と似ているのかは指定不能。メロディを全く覚えていないので)。
カメラワークやカット割りは忙し過ぎて、私のような近眼と老眼を完備した目にはキツかった。
実際、お子さんの動体視力に合わせたという話も漏れ聞いているし、「酔い止めの薬を用意したほうがいいですよ」という冗談(たぶん)も出ている。
が、少なくとも私が観た上映(2回)では、「大きなお友だち」の方が多かった。オールドファンにも優しくしてほしい。
ついでに、2回目に観たときは、ベリアル(たち)による劇場用マナーCM が流れた(既にネットでは観ていた)。
「光線もおやめください!」というネタ…まあまあかな…。
以前『スターウォーズ Ep.III』の先行ロードショーの時、劇場スタッフによる「~携帯電話は電源をお切りください。また、他のお客様のご迷惑になりますのでライトセーバーのご使用はご遠慮ください」という注意があって爆笑した。
これは、マジでライトセーバー持参の観客がいるからこそ受けたネタである。
私が見た限りでは今回の映画の観客で光線を撃てそうな人はいなかったからなあ。
「これは良かった」と感じる点が無かったわけではない。
ウルトラマンをBタイプにしたこと。
劇場版の前2作ではわざわざシワシワにしたエセAタイプだった(“Dタイプ”と呼ぶ人もいる)。諸説あるが、ウルトラマンと帰ってきたウルトラマンが同時に登場する時にパッと見分けがつくようにしたという話もある。
いずれにしても、あのただ汚いだけのエセAタイプよりずっと良い。
また、ウルトラマン、ゾフィー、帰ってきたウルトラマンの「覗き穴」が多少改善されていた(父や母は相変わらずだったが…)。
確かに、もはや「覗き穴」は単なる穴ではなく、ウルトラマンの目の一部として定着した感はある。私もあの覗き穴を含めて表情を感じる。
しかし、あれは本来は「無いもの」のハズ。三頭身にデフォルメされたフィギュアにまで覗き穴があるというのはいかがなものかと思っていた。
…もう、いいでしょう、無くても。
キングのマスクは(アクションらしいことをしないから…)ずいぶんと覗き穴が目立たないようになっている。
東映ヒーローみたいに「アップ用」と「アクション用」があってもいいと思うし。
そのへんはもうちょっと頑張ってほしいところ。
アイスラッガーにメッセージを託すというのは、セブンならではの格好良さが出ていたと思う。「回転しながら飛ぶ」アイスラッガーにも(おかげさまで…)もう違和感が無くなったし、良いシーンだった。
…何となくウルトラサインの方がエネルギーを使わずに済みそうな気もするが、やっぱりセブンですからね。
そのメッセージを解読(?)するのが小泉…じゃなくてキングというのは残念。レオがゼロにその役を果たしてほしかった。
あ、ついでに、プラズマスパークで超人化するシーン…せっかく古谷敏さんが出てるんだから、巨大化した後に「ご本人による思いっきりウルトラマンなポーズ」のカットが見たかったなあ。
【第五部】総括
今回の映画で、我々は新しい“ウルトラマン”または“ウルトラマンの世界”を観ることが出来たのだろうか?
基本的には「映画を観る前に書いた感想」と大きく変わるところはない。
そして、中心的に活躍したのは、やっぱり初代ウルトラマンとウルトラセブン(とメビウス)だった。
何が新しかったかと考えると、アクションとスピード感。
…なのだが。
ウルトラマンの世界は「アクション」ではなく「ファンタジー」である。
様々な矛盾をぶっとばすという部分ではアクションもファンタジーも同じかもしれないが、ウルトラマンは40mを越す巨人なのである。宇宙人なのである。光線技を放つのである。…やっぱりファンタジーでしょう。
当然、仮面ライダーや戦隊モノとは違う戦い方や立ち居振る舞いで無いといけない。
むしろ、ハイスピードで撮影(=再生するとゆっくりとした動きになる)した方が良いくらいなのではないか。
既製のキャラクターを使い、(派手な立ち回りなどの)表面的な部分だけで「新しさ」を出すためにそのキャラクターの本質を捨てているとしたら、根本的に間違っている。
だったら別所哲也サンが変身した『ULTRAMAN』のように、全く別物のウルトラマンを生み出してやってくれ、と思う(私はあの作品は“アリ”だと思っている)。
あんまり好きではなかった『ULTRASEVEN X』がちょっと輝いて見えてきたぞ。あっちの方がよっぽど「新しい」。
お子さんたちはけっこう楽しんだらしい。それはけっこうな話である。ウルトラマンは子どもたちのためにある。
が。
極端な話、あれだけ沢山のウルトラマンと怪獣が登場すればどんな設定やストーリーでも楽しめたのではないかと思う。
『ウルトラマン』の最終回では、放送終了後に窓を開けて夜空を眺めた子どもが続出した、という話がある。
まあ、都市伝説のようなものだとは思うのだが、そんな伝説が生まれるのがウルトラマンなのではないか。
今回の映画から、そんな語り継がれるような「新しい伝説」は生まれるのだろうか?
『~ウルトラ銀河伝説』…とタイトルに「伝説」という言葉が含まれているのが皮肉に思えて仕方がない。
だがしかし。
これに懲りずに(懲りて無いと思うが)、ウルトラマンの光は絶やさないでほしい。
それは円谷プロにしか出来ないことなんだから。
…な~んて奇麗にまとめてみたりして。
間違いなくヤマトだった『宇宙戦艦ヤマト復活篇』(たいしたネタバレ無し)
宇宙戦艦ヤマトというのは、第一作からして自己矛盾をはらんだ作品だった。
「力による解決は何も生まない!」と叫びつつ武力行使をし、命の大切さを語りながら特攻・自爆する。どこまでが「日本」でどこまでが「地球」でどこまでが「宇宙」なのかがぐちゃぐちゃで、国粋主義と国際主義が交錯している。
もっとも、これは「戦うヒーロー」全てが抱える矛盾ではある。
が、ヤマトの場合、そもそもが戦艦大和を改造したものであり、地球艦隊は日本人ばかりであり、なおかつ戦う相手が完全なる(「外国人かよっ!」とツッコミたくなるくらいに完全なる)ヒューマノイドの宇宙人だったりするので、色々なややこしさが炸裂してしまうのだ。…まあ、戦争映画だしな。
そこらへん、深く言及はしないが、私が絶対に受け入れられない思想がヤマトにはある。
…といったことを含めて『宇宙戦艦ヤマト復活篇』はヤマトそのものだった。むしろこれまで以上に「ヤマトらしい作品」と言えるかもしれない。
言い換えると、様々な矛盾も「私が絶対に受け入れられない思想」もパワーアップしている。
じゃあこの映画を否定するのかというと、否定できないのだ。
納得できない矛盾やら受け入れ難い部分を差し引いたとしても、なおかつ惹かれてしまうくらいの魔力を持っているのが宇宙戦艦ヤマトであり、今回の映画ではその魔力もまたパワーアップしているのだ。
私にとっての魔力とは、まず「宇宙戦艦ヤマトそのものの絶対的な魅力」である。
無骨なのか洗練されているのかよくわからないあの勇姿。それさえあれば許しちゃう。
こういうメカ類は3DCGとも相性が良い。
とは言え、ヤマトは微妙な曲線も多いし、そもそもが2Dアニメであるからして、ここまで「あらゆる方向から観てもカッコイイ」というモデリングをするのは大変だっただろうなあと思う。
質感も重量感もテクスチャと動きで非常に良く表現されていたし、セル・シェーディングのかけ方も絶妙だったので「あ、CGだ」などと余計なことを意識せずに観ることが出来た。
自分が観たかったヤマトの姿はこれだ! と思ったくらいである。…まあ、第三艦橋は赤い方が好きだが。
ついでに、電算室は普通もっと安全なところに設置するだろうと思うのだが…(笑)
そして、宮川音楽。
…なのだが、残念ながら故人となってしまった今、宮川節による『ブラックホールのテーマ』などは望めない。
宮川音楽に対抗(?)すべくぶつけてきたのはクラシック音楽であった。
実は、ちょっと期待をしていた。
ヤマトの音楽…特に『交響組曲 宇宙戦艦ヤマト』には何となくチャイコフスキーのテイストを感じていたので、それもアリかな、と。
試みとしては面白いが、成功したとは言い難い。
実は、というほどのことでもないが、宮川メロディには演歌的な要素が(確信犯的に)含まれている。
それがヤマトという“キャラ”や、若干アレな日本的世界観とマッチしていたのだ。
また、宮川泰先生にしても『交響曲ヤマト』を手がけた羽田健太郎先生にしても、音楽とエンターテインメントというものをよくわかっている人だった。
新しい映像に既存の宮川音楽を乗せても全く違和感は無かった。
しかし、クラシック部分はなまじ有名な曲の有名なフレーズを使ってしまったこともあり、浮いていたというか沈んでいたというか…。
特にチャイコフスキーの『スラブ行進曲』には苦笑してしまった。ベタ過ぎる!
だったら、ご子息の宮川彬良さんに音楽を任せてもよかったのではないかと…。どの曲だったか失念したが、過去作品の中には若き日の彬良さん作曲の劇伴があったはずだし、一連のヤマトの音楽は「宮川家の財産」といった扱いになっているとの噂も聞いたので、父君の作品を汚すことのない曲を作ってくれるのではないかと思うのだが。
今回の映画で、「ああ、宮川先生ご本人の指揮によるヤマトを生演奏で聴く機会があって幸せだったなあ」と妙な感激をしてしまった。
それでもなお。
まあ、権利関係で色々あったりもしたが。
ヤマトはヤマトであった。
で、どうしてくれますかね~、実写版は。
白組の意地を見せてくれることを祈る。
「力による解決は何も生まない!」と叫びつつ武力行使をし、命の大切さを語りながら特攻・自爆する。どこまでが「日本」でどこまでが「地球」でどこまでが「宇宙」なのかがぐちゃぐちゃで、国粋主義と国際主義が交錯している。
もっとも、これは「戦うヒーロー」全てが抱える矛盾ではある。
が、ヤマトの場合、そもそもが戦艦大和を改造したものであり、地球艦隊は日本人ばかりであり、なおかつ戦う相手が完全なる(「外国人かよっ!」とツッコミたくなるくらいに完全なる)ヒューマノイドの宇宙人だったりするので、色々なややこしさが炸裂してしまうのだ。…まあ、戦争映画だしな。
そこらへん、深く言及はしないが、私が絶対に受け入れられない思想がヤマトにはある。
…といったことを含めて『宇宙戦艦ヤマト復活篇』はヤマトそのものだった。むしろこれまで以上に「ヤマトらしい作品」と言えるかもしれない。
言い換えると、様々な矛盾も「私が絶対に受け入れられない思想」もパワーアップしている。
じゃあこの映画を否定するのかというと、否定できないのだ。
納得できない矛盾やら受け入れ難い部分を差し引いたとしても、なおかつ惹かれてしまうくらいの魔力を持っているのが宇宙戦艦ヤマトであり、今回の映画ではその魔力もまたパワーアップしているのだ。
私にとっての魔力とは、まず「宇宙戦艦ヤマトそのものの絶対的な魅力」である。
無骨なのか洗練されているのかよくわからないあの勇姿。それさえあれば許しちゃう。
こういうメカ類は3DCGとも相性が良い。
とは言え、ヤマトは微妙な曲線も多いし、そもそもが2Dアニメであるからして、ここまで「あらゆる方向から観てもカッコイイ」というモデリングをするのは大変だっただろうなあと思う。
質感も重量感もテクスチャと動きで非常に良く表現されていたし、セル・シェーディングのかけ方も絶妙だったので「あ、CGだ」などと余計なことを意識せずに観ることが出来た。
自分が観たかったヤマトの姿はこれだ! と思ったくらいである。…まあ、第三艦橋は赤い方が好きだが。
ついでに、電算室は普通もっと安全なところに設置するだろうと思うのだが…(笑)
そして、宮川音楽。
…なのだが、残念ながら故人となってしまった今、宮川節による『ブラックホールのテーマ』などは望めない。
宮川音楽に対抗(?)すべくぶつけてきたのはクラシック音楽であった。
実は、ちょっと期待をしていた。
ヤマトの音楽…特に『交響組曲 宇宙戦艦ヤマト』には何となくチャイコフスキーのテイストを感じていたので、それもアリかな、と。
試みとしては面白いが、成功したとは言い難い。
実は、というほどのことでもないが、宮川メロディには演歌的な要素が(確信犯的に)含まれている。
それがヤマトという“キャラ”や、若干アレな日本的世界観とマッチしていたのだ。
また、宮川泰先生にしても『交響曲ヤマト』を手がけた羽田健太郎先生にしても、音楽とエンターテインメントというものをよくわかっている人だった。
新しい映像に既存の宮川音楽を乗せても全く違和感は無かった。
しかし、クラシック部分はなまじ有名な曲の有名なフレーズを使ってしまったこともあり、浮いていたというか沈んでいたというか…。
特にチャイコフスキーの『スラブ行進曲』には苦笑してしまった。ベタ過ぎる!
だったら、ご子息の宮川彬良さんに音楽を任せてもよかったのではないかと…。どの曲だったか失念したが、過去作品の中には若き日の彬良さん作曲の劇伴があったはずだし、一連のヤマトの音楽は「宮川家の財産」といった扱いになっているとの噂も聞いたので、父君の作品を汚すことのない曲を作ってくれるのではないかと思うのだが。
今回の映画で、「ああ、宮川先生ご本人の指揮によるヤマトを生演奏で聴く機会があって幸せだったなあ」と妙な感激をしてしまった。
それでもなお。
まあ、権利関係で色々あったりもしたが。
ヤマトはヤマトであった。
で、どうしてくれますかね~、実写版は。
白組の意地を見せてくれることを祈る。



