オルタナティブ協議会、精神医療被害連絡会のサードオピニオン会、勉強会のお知らせ
オルタナティブ協議会編集’減断薬読本’

生物学的精神医学の如何わしさはもう十分指摘してきた。
(数年前と比べても、この問題に気が付いた人が大勢現れ、私の役割は随分と減ってきた。)

薬物治療の社会的転帰がすこぶる悪いこと。
モノアミン仮説が何処までいっても仮説であること。
薬理的にみても、多剤処方やカクテル処方が許容されないこと。
睡眠薬や抗不安薬の依存性や離脱症状の問題。

医学的にも、生物学的にも、まともな人間がきちんと検証すれば、その致命的な誤りは正当化しようがない。
ということは、この事態は、医学的でも生物学的でもない何かによって引き起こされているということだ。

これまで、自分が医療者で無いことから、学術論文や薬理の教科書など客観的に調査できるものをベースに意見を述べてきた。
しかし、この問題の本質が生物学的でも医学的でもないとしたなら、もはや私が発言を躊躇しなければならない理由など何処にもない。
(もともと躊躇する理由などないのだが)
むしろ、その検証は市民の役割である。

ここ一年で学んだのは、社会精神医学と伝統的な精神病理学で、最近は、精神医学を取り巻く社会学と当事者によって作られたリカバリー理論に惹かれている。
社会精神医学からは、精神医学にもその権威や薬に寄らない流派があることが知れる。そこには当事者によって編み出されたリカバリー理論と共通する哲学が流れている。また伝統的な精神病理学では、それぞれの精神疾患に対し、時間をかけて観察した病気の特徴と転帰(予後)が学べる。病気を知るための最重要な文献である。現代のDSMが如何に薄っぺらい代物であることが分かる。日々の診療に当たっている精神科医が、これを全く知らないのは絶望的な状況と言わざるを得ない。

調べれば調べるほど、現代の精神医学が如何にお粗末で幼稚なものであるかが判明する。
そして、ますます、社会としてこんなデタラメが放置される理由がわからなくなる。

実はその答えはある意味簡単だ。
社会もデタラメなのだ。
そして思考停止に陥り、誰もそのデタラメを検証しようとしていないのだ。精神医療はある意味、社会の鏡なのだ。

金儲け・利権
社会的ヒエラルキー
管理・権威主義
お上思考
専門家崇拝
横並び教育
核家族化・コミュニティの崩壊
都市化・都市集中
グローバル経済の浸透
効率主義・経済成長至上主義

20世紀の遺物のようなこうした社会構造の中で、精神医療は役割を拡大していった。
もうそんな時代はとうに終わってるのに、皆が変化を嫌い、その場に居続けている。
管理主義を拡大しているのは、少数派とならざるを得ない利権者の焦りである。
守ろうとすればするほど、矛盾は拡大し、管理を強化する以外にないのだ。

大阪のサードオピニオン会の参加者が言った。
「働いていないと不審者と思われるんです。」

まったくその通り、
働いていない≒不審者
生産性の低い人間≒精神疾患患者
である。これは医学的な言説か?いやこれはもちろん医学的な言説ではない。

ナチスのT4作戦でも、生産能力のない人々がガス室送りになったのである。
その当時のドイツ市民と現代日本人は同じ間違いを犯している。
伝統的な精神病理学さえ維持していれば、それ程の問題は起きなかっただろう。
うつ病にしても統合失調症にしても、これほどの過剰診断をされることはなかった。

しかし、その伝統的な精神病理学も、その歴史的位置づけにおいては、
精神の問題を医学的(厳密には他の疾患とは本質的に異なる)に定義した最初の言説である。
これを扱うには、それ以前の問いを意識しなければならない。精神疾患はそもそも医学的に扱える病気か?と言う問いである。
その問いを持たないまま、精神的な問題を医学が扱うという言説が独り歩きをし、現在の状況に繋がっている。
伝統的な精神病理学は、ある意味、最初の医療化の始まりであったのだ。

この問いは、精神医療が必要であるか否かの問いでもある。
伝統的な精神病理学では、統合失調症と内因性のうつ、躁うつ病を治療の対象とした。
つい20年ほど前までは、これは比較的厳密に守られていた。
ノイローゼとか神経症とか言われた患者や不眠症の患者は彼ら精神科医の主な治療対象ではなかったのだ。
この時代においては、精神医学には功と罪が見て取れる。
重度のうつ病患者や頭の中で大声の幻聴が聞こえるような統合失調症の患者、一直線に退行の進んでいく患者にとっては、助けになっていたと思われるのである。また、同時に前時代的な悪習も残り、施設での収容所的な扱いも共存した時代でもあった。
欧米諸国は、功罪を分けて精神医療の改善に取り組み、入院という抑圧的な治療環境を改善していったのである(社会精神医学)。
この国の精神医学の歴史には、このステップがまるごと欠けている。これが、この国に生まれた我々の不幸である。

また当事者を中心に置くリカバリーモデルは、こうした流れの中で生まれてきたのである。
社会精神医学においても、リカバリーモデルにおいても、その実践において精神科医は自己否定(ジレンマ)に陥ることになる。
これらは医師を頂点とする医療モデルではないからである。その役割ははるかに小さいのである。

20世紀末からの精神医学の暴走は、精神医学の前時代での功績もないがしろにするものであった。
もちろん、A級戦犯は、製薬会社の成長至上主義、それを是とする組織の暴走、それに一人前の医療と扱われたい精神医学、権威を求める精神科医である。だがそれだけでは、この国の惨状は説明できない。
その背後にはやはり、それを容認した社会(文化)があるのである。
いや、実際に当事者の話を聞けば、
その悩みを聞いてみれば、
彼らが危機に陥った理由が、病ではなく、社会(文化)、言い換えれば彼らや彼らの周辺の人々の思考を支配する言説、そのものにあることに気が付く。
(リカバリーモデルでは、当事者やその周辺の人々を支配する言説を理解し、オルタナティブなストーリーを構築するよう働きかける。)

フーコーは、この我が国の惨状を予言していた。
・狂気は文化によって規定される
・その文化によって規定された言説は権力と結びつき新たな管理システムを生む

うつ病や統合失調症においては、まだ医学的な匂いはあった。
だが、ADHDのチェックシートをみて、これを医学的といえるのか?
心からそう思うなら、その人はかなり重症である。精神医学の暴走はここに極まった。
現実に、その医学的でない診断により、発達障害のラベルを貼られた子供は、その後、一生障害者と言う枠の中で生きていくのだ。
それも、デタラメな薬物治療により、悪化させられ、医療と福祉(フーコーの言う生の権力)の飯の種として生きることになる。

誤診だとか薬物治療が間違っていたという話ではない。
第一に我々が検証すべきは、精神医療そのもののあり方であり、その暴走を許した文化そのものである。
障害とは何か、病とは何か。
我々は、日に日に正常の範囲が狭められる文化の中で生きている。
私は検証もせずにそれに流されるのはまっぴら御免である。

我々にはオルタナティブなストーリーが必要なのだと思う。
そして、オルタナティブなストーリーを当人が語ることが出来たならば、こころの病は消える。
これからは、この言説の確認作業に入りたい。

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