蜘蛛の糸は誰のもの?
芥川龍之介の短編小説、蜘蛛の糸。太宰治の走れメロスと並び、短編として超が付くくらい有名な作品ですよね。芥川龍之介の初の児童文学小説らしいです。言うまでもないことですが、ちょっとだけあらすじをプレイバックします。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・お釈迦様が極楽の蓮池の周りを散歩なさっておりました。地獄の様子が気になったお釈迦様は池の底をのぞき込みます。(白雪姫の中に出てくる魔法の鏡よろしく、見たいものが映し出されるシステムなんですね)そこにいる一人の男に目を留めるお釈迦様。男の名は【カンダタ】。生前、強盗、放火、人殺しなど悪行の限りを尽くして地獄に落ちたのです。お釈迦様は、このカンダタが生きている間のたった一度の善行を思い出します。足元にいた蜘蛛を踏みつぶそうとして、ふと心変わりを起こしてやめたことです。お釈迦様は一本の細い蜘蛛の糸を極楽から地獄のカンダタに向かって垂らします。カンダタはこれに掴まってよじ登れば極楽に行ける!と思い、昇り始めます。途中で一休みして下を見ると、地獄からあまたの罪人が糸に掴まって登ってきていることに気が付きます。「これは俺さまの糸だ!他のやつらは手を放しやがれ!」と大声で喚き散らすカンダタ。その途端、蜘蛛の糸はプツリと切れて、カンダタ含め罪人たちは地獄に落ちていくのでした。お釈迦様はその様子をとても悲しそうな顔でご覧になっておりました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・初めて読んだときに気になったのは、【カンダタ】という名前です。日本人っぽくないなと。その後、お釈迦様と言えば仏教だし、もしかしたらインドの名前なのかもなと思っていました。特に調べもせずに生きてきましたwどうやらこのお話は芥川のオリジナルストーリーではなくて、伝えられていた民話を小説にまとめたというようなものらしいです。そういうものって、よくありますよね。グリム童話とか遠野物語とかもそうでしょうし、走れメロスなんかもそうじゃなかったでしたっけ?この手の手法で書かれた素晴らしい文学というものは存在するので、パクリだなんだと騒ぐのはお門違いって話です。ポール・ケーラス著【カルマ】というものが1894年に掲載され、翌年にトルストイによって翻訳されたロシア語版も出たそうです。その中に登場するのが≪カンダータ≫という名の男。1898年には【日本版カルマ(英語)】が鈴木大拙によって翻訳された『因果の小車』が出版されます。そのストーリーは蜘蛛の糸とほぼ同じです。【日本語版カルマ】の中にはTHE SPIDER WEBという題が付けられているんだって。↑因果の小車同じような挿絵が載っていますね。ちなみに、ドストエフスキーの【カラマーゾフの兄弟】の中に、『一本の葱』というお話が語られるシーンがあるそうです。そのお話は、蜘蛛の糸ではなくて、一本の葱が天国から伸びてくるところが違いますが、生前のたったひとつの善行に対して、神様から慈悲を与えられるという流れは同じです。そして、強欲な面が出てしまって地獄に逆戻りというオチも同じです。カラマーゾフの兄弟は1879年に連載開始ってことなので、既にロシアには似たような物語が民話として伝わっていたってことなんでしょうかね。ポール・ケーラスはドイツ人の東洋哲学者ってことでしたから、このような教え(戒め)もご存じだったのかもしれません。そこは不明ですけどね。トルストイも「あれ、これ一本の葱と似た話だなぁ」と思ったんじゃないですかね、知らんけど。ただまあ、わたしの勝手な印象ですけど、極楽の蓮池から輝く細い糸がスルスルと下りてくるというのは、あまりにも美しい光景だなって思うんです。それが、葱ってなると、ずいぶん印象変わるなぁ~wロシアの葱ってどんなのか分かんないけど。蜘蛛の糸は1918年発表。子どもが読んでも分かりやすくて読みやすい物語に仕上げたという感じなのかも。カンダタって名前を追っていたらトンデモナく長くなっちゃったんですけど、気になった点は他にもあります。なんだったら、名前なんてどうだって構わない。これが気になりポイントの大本命といって過言ではないです。それは、たったいっこの善行があまりにも小さすぎる。それなのにカンダタは天国行きのチャンスをもらえているという不可解さでした。同じように思った方いませんか?命に大きい小さいは無いので、蜘蛛の命を軽いとは思いません。ただ、「蜘蛛の命を救った」というより、ちょっと気が変わって踏みつぶすのをやめただけだよね?そんなことを言い出したら、殺虫剤を作って売っている人も買って使用している人も全員地獄行き決定ですよ。屁理屈?ええ、そうなんです。屁理屈です。でも、どーしても納得できなかったの!不公平過ぎない?それともお釈迦様は最後はカンダタが強欲な面を出してこんなオチになるって分かっていたの?いや、万が一、そんなことが起きないかもと信じていたの?そしてもし、カンダタが無事に蓮池までたどり着いていたらなんて説明するつもりだったの?「お前は生きていた間にたったひとつ善行をしたので救ったよ、ラッキーでしたね。心を入れ替えて生き直しなさい」と?納得がいかん。お釈迦様の意図が分からない。こんな逸話を話すことで人間が「はあ、やはり悪いことはいけないことですねぇ」と戒めるストーリーとして利用しやすいのはわかる。理解できる。わからないのはお釈迦様の意図なのだ。カンダタとまではいかずとも、人は生きている間に罪をおかす。嘘をついたり、ズルをしたり、人を妬んだり、神様なんているかー!!と叫んだり。そして、善行もしている。道を譲ったり、落とし物を届けたり、自分の分のお菓子を年下の者に分けたり。カンダタと共に地獄の世界にいた者も、生前にはカンダタレベルの善行ならやったに違いなかろう。どうして糸はカンダタにだけ垂らされたのですか?どうして一緒に地獄に逆戻りしなきゃならなかったのですか?そして、わたしはこの長年の納得いかない謎がやっと最近わかったのです。小説【蜘蛛の糸】は主人公がカンダタだったというだけなのだと。別のストーリーでは、別の者が主人公となって、糸だったり葱だったり梯子だったり空飛ぶマントだったりしてチャンスを与えられているのだろうと。全員に、平等にチャンスは与えられているのだろうと。カンダタストーリーだけが唯一の世界観ではないということだと。わたしにも、あなたにも、同じように救いのチャンスは与えられており、そしてそれは拒否したり気が付かなかったり、たとえ自らダメにしたりしちゃったことがあったとしても、もう二度と救いの手は差し伸べられないよ、残念でした~ってことにはならないのだと思うんです。わー、もうチャンスは二度と無いよ~と思い込んでるのはエゴです。ラストチャンス、ファイナルアンサーなんて、別に誰にも言われてないからね。