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↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(08)


一人の人間が一日、どれくらい他人と「会話」しているのか見当もつかないけれど、大雑把に平均したら、その半分くらいはSNSだのメールだのを経由しているんじゃないか。


そういうものを経由しているってことは、そこにカネを払っているということだ。


実際にカネを払っていることもあれば、間接的に支払っている場合もある。
無料だからといって安心していたらいけない。
世の中の人がSNSに費やしている膨大な時間は、いろんな仕掛けでカネに換算されるのだ。


その昔、日本では、米だけではなくていろいろなもので税を払っていた。
アワビだの昆布だの猪だの、特産品で払う税もあれば、労働力で払う税もあった。
今では自分の時間を、税として払っているというわけだ。


スマホだのパソコンだのの性能が上がって、いろんなインターネットのサービスが増えて、世の中はますます便利になった。
昔では考えられないくらいたくさんの人と「会話」ができるようになった。
地球の裏側にいる、今まで一度も会ったこともない人とだって、簡単に話せる世の中だ。


昔に較べて世の中は自由になったということなんだろうけれど、その反面で、俺たちは知らない間にどこかの戦国大名の領民になっているってこともわかっていた方がいい。


領民ならまだいい方で、彼らは俺たちを牧場の羊くらいにしか見ていないかもしれない。


↑(引用ここまで)
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…『無料だからといって安心していたらいけない。世の中の人がSNSに費やしている膨大な時間は、いろんな仕掛けでカネに換算されるのだ』。


テレビにせよ、インターネットにせよ、SNSにせよ、「”無料”という顔をした”間接的商法”」に、いまだにみなさん手玉にとられているよなあ、とよく思います。それは、私も含めて。


そういう商売人たちは、まずは魅力的な「無料」コンテンツで、庶民を喰いつかせる。まず「時間」を奪うことを考えます。
とにかく「時間」さえ奪えれば、確率論的に、広告バナーをクリックしてもらえるからです。
そりゃあ、「無料」の範囲だけで楽しむ人も大勢いるのでしょうが、そのうち数パーセントが、広告にひっかかってくれればいいのです。
一定数の人間に、有料スタンプを購入してもらえば十分儲かるのです。なにせ、母数が膨大ですから。…「一千万ダウンロード突破!」とか、よく言っているでしょう?(笑)
1パーセントでも十万人ですよ!?


「オレオレ詐欺」がなくならないのと、仕組みは同じです。
ほとんどの庶民は「なんでそんな手口にひっかかるの? アホちゃうか」と考えます。
でも、「数撃ちゃ当たる」という言葉の通り、騙す側の立場からすれば、営業の電話をかける如く(笑)、地道に地道に騙しの電話をかけ続ければ、そりゃあ一定数「騙されやすい人間」は存在しますから、確率論的に大金を振り込んでもらえる、というわけです。
…「カネにならない」「騙されない」「普通の」人間の母数が多ければ多いほど、中には必ず「ひっかかる」「カネになる」人間がいるわけです。


だから、自称「頑固者」の私はよく言うのですが、私たち庶民が、そういう商売人たちに抵抗できる術は、ひとつしかないわけです。
「見ない」。
「時間をかけない」。
それしかありません。


電車の中では、携帯電話を見たくても、我慢して本を読む。
家やらで「無駄にネットサーフィンしてるなあ」と感じたら、パソコンを閉じる。携帯電話やタブレットを置く。
「デジタル」からちょっと身を離して、友人や子どもやらと話したり、遊んだり、料理したりする。


私がこういうことを言いだすと、「精神論」みたいになってくるきらいがありますが(笑)、「やせ我慢」「無駄に頑固」という選択肢を持っていることが、その人を精神的に「自由」にしてくれると、私はよく思うのです。「自分は、”牧場の羊”ちゃうぞ」と。


そこのあなた!
「無料」だと思って、「時間」ばかり奪われる『牧場の羊』になり下がっちゃいませんか!?


ペタしてね

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↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(07)


日本人には宗教がないから、道徳心が足りないなんていう人もいる。


たしかに、神様を信じている人の方が、道徳を守る率は高いだろう。


誰も見ていなくても、神様は見ているわけだから。


昔はよく、お天道様が見てるよ、といったものだ。
そういわれると、人のいない場所でも、悪いことをしてはいけないような気がした。
みんなが立ち小便する場所に、鳥居のマークを描いたら、立ち小便が減ったというのも同じ話だ。


それはある種の”人目”だけど、それを気にすることと、自分の良心の声に従うことは、実質的にほとんど同じだ。
親にやってはいけないといわれたことをやってしまうときに疼くのも、心の同じ部分だろう。


心理学では、それを「超自我」なんて呼んだりするらしい。


難しくいえば、「内在化した親の価値観」というやつだ。


もっとも、いつまでも親の価値観というわけではなくて、人が成長するにつれて、この内在化する価値観の主は、教師や尊敬する人、憧れの人、もしくは本で読んでなるほどと思ったことなど、とにかくその人間に影響を与える人格に変わっていく。


↑(引用ここまで)
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…『超自我』。『内在化する価値観』。


私は子どもや若者と接するとき、「他人が見ていなくても、自分で自分の行動を律することができるかどうか」を、どこか念頭に置いているように思います。…ちょっと偉そうに聞こえるかもしれませんが(笑)。


口うるさい私の前で、礼儀正しいのはあたりまえです。
私が黙ってじっと睨みつけていれば、はっと気づいて「ありがとうございました」と言えたり、出しっぱなしの椅子を入れたりできる。私のところで暮らす2歳児でもそうします。
…でも、私が見ているところでできても、そいつが外に出て自動的にそれをできなくては、意味がないのです。
周囲の仲間や大人たちにかわいがってもらえるようなフットワークや礼儀作法が身についていなければ、意味がないのです。


だから私は、『超自我』…私なんかよりよっぽど厳しい「自分自身を律する目」が、どうやったらそいつに身につくか、ばかりを考えて接することにしているのです。


とはいえ、公共のトイレで個室の床に転がったトイレットペーパーの芯や包み紙、席を立っても引かれたままの椅子、近所で会っても挨拶ひとつできない隣人の多さを思うと、みなさん、たいして『超自我』を育てずに歳を重ねてらっしゃるなあ、と思ってやみません。


『超自我』。
「誰が見ていなくても、投げ捨てられたゴミを拾えるか」。


「それを見て見ぬふりをする自分自身を許せない」という、他人の目よりも厳しい「自分自身を律する目」が身についたとき、そいつはようやく「自立」したと言えるのではないでしょうか。
…そんなことを言ったら、世の中の大勢の大人が「自立していない」ことになってしまうかもしれませんけども(笑)。


ペタしてね

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↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(06)


夢を追いかけるといえば聞こえはいいけれど、それはつまり輝ける明日のために今日を犠牲にするということだ。
ほんとうのことをいえば、人も羨むその「輝ける明日」なんてものは、いつまで経ってもやってこないというのに。
人がほんとうに生きられるのは、今という時間しかない。
その今を、10年後だか20年後だかの明日のために使ってどうしようというんだろう。
昔はそういう人間を、地に足が着いていないといった。


夢なんかより、今を大事に生きることを教えるほうが先だったのだ。


まだ遊びたい盛りの子どもに塾に通わせて、受験勉強ばかりさせるから、大学に合格したとたんに何をすればいいのかわからなくなる。


夢なんてかなえなくても、この世に生れて、生きて、死んで行くだけで、人生は大成功だ。


おれは 心の底からそう思っている。


どんなに高いワインより、喉が渇いたときの一杯の水の方が旨い。


お袋が握ってくれたオニギリより旨いものはない。


贅沢と幸福は別物だ。
慎ましく生きても、人生の大切な喜びはすべて味わえる。
人生はそういう風にできている。


そんなことは、誰でも知っている。


だけど、そんな大切なことも教えないで、夢を追いかけろという。
頑張って勉強して、スポーツやって、起業したり、有名人になったりしなければ、幸せになれないと脅す。


そうしないと経済成長が止まって、大変なことになってしまうからだ。


だけど、大変なことになるのは、いったいどこの誰だろう。


少なくとも、清く貧しく美しく生きている奴ではない。


↑(引用ここまで)
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…『慎ましく生きても、人生の大切な喜びはすべて味わえる』。
本当にたけし氏は、うまいこと言ってくれますね。


塾にお稽古にと毎日通わされている子どもや、通わせている親に、是非とも聞かせてやりたい言葉です。


とはいえ、「習い事」の波は、保育園や幼稚園にも当然押し寄せます。
ピアノに英会話、お習字にスイミングまで、よその子が通い始めた、なんて聞くと「うちの奴にも通わせた方がいいかな」なんて、なんだか焦らされているような自分に気づいたりもします。


…でも、そんなものは、何ひとつ習わなくても、幸せに生きていけますよね?


私が思うに、皆さん、子どもに「カネ」と「労力」をかけすぎなんですよ。
またそれは、子どもの教育上もよくない、と思っています。


子どもは「自分が家族から注目されている、自分に簡単にカネをかけてくれる」ことを、どこか「当然」のように思って育ってしまうでしょうし、親は親で、ガキにカネをかければかけるほど、「子どもなんていなくても充実していた、若い頃の自分の生き様」を忘れていってしまうと強く感じます


ガキなんぞに余分なカネをかけてやるくらいなら、大人の友だちとガンガン遊びに出かけて行ったほうがいいと思いますし、ガキ自らがどうしてもと「続けられる」ことを条件に土下座して懇願するのなら、多少カネを払って習い事をさせてやってもいいかな、くらいのスタンスがちょうどいいくらいだと思うんです。


「塾」や「スポーツ」に関しても同じです。
「お勉強」なんて、できてもできなくもいいし、スポーツなんかもそいつがやりたくなったら、学校やら部活動やらで勝手にやればいい。
我々大人が「自分なら、こうする。こうしたい」という思いがあることと、そいつの人生は別ですもんね。


また、言うまでもないことですが、「塾」や「スポーツ」は、あくまで「ビジネス」です。
あえてこちらから門を叩いて、すすんで月謝を払って、その業界を潤してやることもないですもんね(笑)。


そんなことよりも、事あるごとに、自分から「ありがとう」「お願いします」「こんにちは」と挨拶ができて、周囲の仲間や大人たちに可愛がってもらえる人間であることのほうが、よっぽど大事でしょう。


…そこのお母さん!
支払い能力のないガキんちょに、わざわざ「カネ」と「時間」を使って「習い事」なんてやらせる必要、ないですよ。
それはどこまでいっても、「カネもち日本人の道楽」にしかなりませんから。
貧乏な家庭では、「塾? ふざけるな。勉強なんて自分でやれ」と言っているでしょうし、道具を買うカネもなければ、部活動もさせていないでしょう。
もし多少経済的ゆとりがあっても、ガキの「どうしてもやりたいです」なんて懇願に「そんなカネがどこにある、アホが」と門前払いでちょうどいいくらいだと思うんです。


「子ども」なんて、そいつにはそいつの人生があるわけで、それは我々大人の人生とは別モノなわけですから、自分の「カネ」と「労力」は、自分自身と、大切な友人や親に使いましょうよ。
ガキが万が一…、万が一ですが、ある方面で突出した才能があったとしても、親がどれだけ止めても、そっちの方向へ勝手に興味を持って、勝手に開花するでしょうから、わざわざ親がレールを敷いてやる必要なんて、ないですよ。


たけし氏が指摘するように『地に足がついていない』ガキや親どもが、あまりに多いと感じ、今回こう書きました。


ペタしてね

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↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(05)


二宮金次郎は、薪を背負って歩きながら本を読んだから偉いのか。
スマホでメールしながら歩いたら怒られるっていうのに。


誰かにぶつかって危ないのは同じだと思うのだが、なぜ本を読みながら歩いていた二宮金次郎は銅像になって、スマホ片手に歩いている女子高生は目の敵にされるんだろう。


↑(引用ここまで)
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しかし本当に、『スマホ片手に歩いている女子高生は目の敵にされる』のって、なぜなんでしょうね?


私も、個人的な趣向からすれば、電車内や外を出歩くときなど、公共の場で携帯電話の画面ばかりに目を落とす姿は醜いと感じるほうなので、「私は」やりませんが、世のおっさん・おばはんたちが寄ってたかって「歩きスマホ」を目の敵にするのもどうかな、とは思います。
他人に「なんだか醜いと感じる」という個人的趣向を押しつけていい道理はないですよね。


…「危ないから」?(笑)
それこそ、二宮金次郎の例えを出すまでもなく、若者の動体視力をもってすれば、携帯電話の画面見ながら歩こうが、本を読みながら歩こうが、たいていは他人にぶつからないように歩けますって(笑)。
…だって、そんなに大事故につながるニュースにもなってないでしょう?


それよりも私が気になるのは、「危ないから」という、もっともらしい理由をつけておいて、その実は「歩きスマホはなんだか醜いと感じる」という、おっさんやおばはんの個人的趣向を押しつけようとしている「いやらしさ」のほうです。


おっさんやおばはんの美意識からすると、なんだか「歩きスマホ」は醜いと感じる。どこか「他人の目を気にしない」若者の傍若無人ぶりが見て取れてしまう。
「あなた、ちょっとは周りに気を配りながら歩きなさいよ」、と。
「音楽プレイヤー聴きながら自転車」も、「電車の中で化粧」も、根っこは同じだと思うんです。
…「なんだかイヤ」。「自分ならやらない」。それだけです。


だったら「私はその姿が醜いと思う」とだけ言えよ、と私は言いたい。
「危ないから」だの「恥ずかしいと思わないのか」だの、もっともらしい理由を後付けして論理を補強しようとするその姿、その精神性のほうが「醜い」と、私は感じます。


私も、個人的には「どいつもこいつも電車内で携帯の画面見やがって、醜いなあ」とは思います。
一方で、「暇つぶしにネットでも見ようかな」「LINEで連絡入っているかも」と、ついつい携帯電話に目を落としたくなる気持ちも、わからないではないです。
私も電車内でなにか調べ物をしようと思い立っても、「ここで自分が携帯の画面とにらめっこしてたら説得力ないよなあ」と思って、我慢してますもん(笑)。
自分の「見え」を意識して、黙って鞄から本を取り出します。


…でも、それを他人に強制していいかは、別問題。
自分の子どもなら「みっともない。やめとけ」と一蹴しておしまいですが(そもそも携帯電話なんぞ与えませんが)、「個人的にやってほしくないこと」と「社会通念上やってはいけない”ルール”」を混同しない、「誤魔化さない」大人でありたいものです。


ペタしてね

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↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(04)


大人が率先して席を譲って、子どもにこれがマナーだよって教えてやらなくてはいけない。


それを真似して席を譲って、辛そうに立っていた年寄りに「ありがとう」といわれて、それで「ああ、なんだかいい気分になった」というのが順序だろう。


だけど、そのいい気持ちになったというのは、道徳の教科書に書いて、子どもに教え込むことではない。
手品のタネを明かしてしまうのと同じだ。面白くともなんともない。


誰かに親切にして、いい気持になるっていうのは、自分で発見してはじめて意味がある。


それをクスリの効能書きかなんかのように、いいことをしたら気持ちいいぞ、気持ちいいぞ、って書いてあるのが道徳の教科書だ。薄っぺらいにもほどがある。


まるで、インチキ臭い洗脳だ。


洗脳される子どももいるかもしれないけれど、そういう奴はどうせロクな大人にはならない。
妙に素直な分、気の毒ですらある。
どこかの新興宗教に洗脳されて、わけのわからない仏像だとか壺だとかを売り歩くようになるんじゃないか。


↑(引用ここまで)
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…『洗脳される子どももいるかもしれないけれど、そういう奴はどうせロクな大人にはならない』。


世に出回っている多くの標語や訓話に、いったいどれほどの意味があるのか、と私はよく思います。


それこそ道徳の教科書から、電車やらでの車内放送、トイレによく貼ってある「いつもきれいに使っていただきありがとうございます」まで、見ていてこっちが恥ずかしくなるような物言いに、「この標語が必要な人って、いったいどんな人だろう?」と思わされることは多いです。


常にマナーよく、周囲に心配りをしながら歩く人は、誰に言われなくてもそうするでしょうし、ゴミやタバコの吸い殻を平気でポイ捨てし、公共の場でも大声で話すような人は、そんな標語を見たところで、行動をあらためやしないだろうなあ、と思うのです。


…つまりは、たけし氏の指摘と同じです。
「そういう標語を目にして、”マナーを守らなきゃ”と思う奴はいるかもしれないが、人に言われてはじめて気付いて、形式だけまねているような奴は、ロクな人間じゃない」と。


いや、わからないではないんですよ。
「標語」「貼り紙」「車内放送」くらいのことで、そういう中途半端な奴らに「形式だけでも」マナーよくいてもらえる確率が増えてくれるのですから、そのぶんトイレ掃除もラクになりますし、「マナーが悪い」とクレームを言ってくる人も減れば大助かりです。


…でも、それをペタペタと恥ずかしげもなく貼り紙したり、「譲り合ってお掛けください」といちいち放送したりする「美意識のなさ」「節操のなさ」には、どうにも閉口させられてしまうのです。


逆に、電車やらで老人や妊婦(と思しき方)を見かけて、自然と自分から席を立っているのに、「車内放送で言っているから譲った」みたい思われるのも癪じゃないですか(笑)。
公共のトイレに入って、前の人が散らかしていったトイレットペーパーの芯やらゴミやら便座やらをただ自然に掃除しているだけなのに、「貼り紙がしてあるから掃除した」と思われるのもイヤですよね。…まあ、誰も見ていませんけど(笑)。
「そんなつもりでやってへんよ」って。


アホのレベルに合わせて「○○しましょう」なんて堂々アナウンスされてしまうと、もともと他人の目なんて気にせずにやっていたことなのに、「いい人と思われたいからやってるんとちゃうか」なんて自問してしまったりして、「やりたいからやっている」ところに変な「気恥ずかしさ」が混入させられているようで、まるで不本意です。
…やりづらいったら、ありゃしません。


「言われてからやっているようでは遅い」と、幼少の頃からよく叱られたものですが、「言われないと動かない」「自分から気づけない」輩がそれだけ多くいる、ということなのでしょうか。


…それにしても、「貼り紙」や「車内放送」でマナーを強要するのは、マナーにうるさい側として言わせてもらうと、あまりに節操がなさすぎるので、早いとこやめていただきたい。


ペタしてね

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↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(03)


俺が子どもの頃は、年寄りに席を譲るのが当たり前だと教えられた。
年寄りが立っていて、子どもが座っていたら、生意気だってひっぱたかれたものだ。


優先席なんて、あの頃は必要なかった。
本来、電車の席は、全部が優先席だ。
前に年寄りが来たら、子どもは有無をいわずに立つ。
そこに理由なんて必要ない。


ところが、今の道徳では、年寄りに席を譲るのは、「気持ちいいから」なんだそうだ。


席を譲るのは、気持ちがいいという対価を受け取るためなのか。


だとしたら、席を譲って気持ちよくないなら、席なんか譲らなくていいという理屈になる。


年寄りに席を譲るのは、人としてのマナーの問題だ。美意識の問題といってもいい。


マナーにわざわざ小理屈をつけて、気持ちいいから譲りなさいなんていうのは、大人の欺瞞以外の何ものでもない。


↑(引用ここまで)
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…『席を譲るのは、気持ちがいいという対価を受け取るためなのか』。


私も小さい頃、親や先生なんかに「友だちを大切にしなさい」「人のためになることをしなさい」なんて言われると、決まって「なんで?」と聞き返していたように思います。
それは、「なんでオマエにそんなことを言われなきゃならないんだ?」という意味で。…くそ生意気なガキですよね(笑)。


そう聞き返すときまって、大人たちは「何かがあったとき、頼りになるのは友だちなのよ」だとか「いつか自分に返ってくるから」だとか言いやがるのですが、それがいつも不満でなりませんでした。


「何かあったときに助けてもらうために、友だちをつくるのか?」
「いつか自分に返ってくるから、人のために動くのか?」
…子どもながらに、いつもそんなことばかり考えていました。
大人の「欺瞞」、「その場しのぎの”当たり障りのない”回答」に、いつも「オマエ、本当にそれ自分の頭で考えたんか?」「つまらん大人だなあ」と思っていました。


「友だちを大切にする」のは、そいつのことが好きだから。
「人のために動く」のは、周囲の人に喜んでもらいたいから。過ごしやすくいてもらいたいから。


それによって「私もうれしい」だったり、結果的に「私も過ごしやすくなる」という、「自分に返ってくる」側面もそりゃありますが、それは後から勝手にやってくるもので、はじめに「自分に返ってくる」ことありき、は順番が逆だと思うのです。
別にそんなつもりでやってねーよ、と(笑)。


また、何かにつけて「わざとじゃないから」などと言い訳をする人にも、同じような「欺瞞」を感じます。
問題なのは「他人に迷惑をかけたこと」なのであって、やられた側からすれば、そこに悪意があろうがなかろうが、どうでもいいことです。
「悪意がなければ、罪が軽くなる」「わざとじゃなければ、許される」とでも言いたいのでしょうか?
「ごめんなさい」の一言でいいじゃないですか(笑)。
少なくとも、「わざとじゃないから」という言葉からは、相手に対して心から「申し訳ないことをした」という気持ちはくみとれませんよね。


「清々しい気持ちになるから、老人に席を譲りなさい」。
「わざとじゃないから、許して」。
…どちらも、「いらない理由」をくっつけて体裁を整えようとしているように思いませんか?
そんな中途半端な態度をとるから、ガキどもにナメられるんですよ(笑)。


「つべこべ言わずに立て」。
「ごめんなさい」。
そう言い切れる人物であるかどうか、子どもや若者たちにじっと見られている。
…そんなふうに感じて日々暮らしているのは私だけでしょうか?


ペタしてね

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↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(02)


「いちばんうれしかったことを書きなさい」っていうのもあって、笑ってしまった。


小学一年生に、いちばんうれしかったこともないだろう。
そういうのは歳をとって、昔をふり返って、「ああ、あの頃がいちばんいい時代だったな」と思い出すものだ。
ダンゴムシだの地蜘蛛だのの一匹でも、物珍しくて一日中追いかけ回しているような時期なのだ。
毎日のように目新しいもの、未知の何かに出会って、好奇心を燃やしている子どもに、過去をふり返らせていったいどうしようっていうんだろう。


(中略)


自分の好きな食べ物を書かせておいて、「食事は好き嫌いなく食べましょう」と教える。


自分らしさとやらを大事にするなら、たとえば「自分は一生野菜は喰わない」っていうのが、自分らしさじゃないのか。
勉強は数学しかやらないとか、他の授業は全部サボるとか。


現実の世の中では、そういう奴が案外成功したりするものなんだけど。


ところが学校の先生たちは、野菜も食べなきゃダメだとか、国語もしっかりやりなさい、とかいう。
子どもを、平均的なつまらない人間にしようとする。


↑(引用ここまで)
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「学校」というところは、良くも悪くも「平均化」される場所だよなあ、と最近つくづく思います。


私のところで暮らす4歳児も、家でテレビを見るなんてあまりないはずなのですが、「仮面ライダードライブ」だの「プリキュア」だの、保育園から帰ってくると、そんなことを口にしていたり、興味をもっていたりします。


言葉遣いも「どこでそれ習ってきたんだよ(笑)」みたいなことの連続です。
それがまた、あんまりやってほしくない汚い言葉遣いだったりするので、「家でいくら言い聞かせても、”平均化”されて帰ってくるものだなあ」と痛感させられます。


それこそ、たけし氏が指摘するように、学校の先生たちは『野菜も食べなきゃダメ』とか『国語もしっかりやりなさい』とか、「常識的」な枠内に子どもたちを収めようとしかしないでしょうから、「うるさい、オレはこれで行くんだ!」という「意志の強さ」「偏屈さ」は育ちにくいだろうなあ、とは思うのです。


無責任に言わせてもらえば、いいと思うんですよ。
『自分は一生野菜は喰わない』っていう「偏屈」な奴がいても。
『勉強は数学しかやらない、他の授業は全部サボる』、みたいな「偏屈」な奴がいても。


…自分の子どもがそんなことを言い出しても、ただの「逃げ」や「思いつきのワガママ」でないようだったら、「わかった、それでやってみろ」と言ってやる「度量の大きさ」は持っていたいなあ、と思うんです。


今の時代はそんな「はみ出し者」がいたら、「そんなの健康に悪いよ」とか「みんなと一緒にやらなきゃダメだよ」とか、先生や周りの人間は寄ってたかってそいつを叩きつぶしにくるでしょうから、一度そういう「世間の目」と戦わせる、という経験も与えてみたいですし(笑)。


大丈夫ですよ、野菜なんて食べなくても。戦後、間もない頃の食糧事情を考えたら、栄養バランスなんて「できれば」くらいでいいんじゃないですかね。…そんなに目くじら立てるほどのことでしょうか?


「数学しかやらない」なんて、おもしろい奴じゃないですか。それで不登校になったらなったで、学校に通わずにどんな奴に育つか、楽しみですらあります。…そんなふうに思うのは、私だけでしょうか?(笑)


たけし氏が指摘するように、「学校」や「集団行動」には『子どもを、平均的なつまらない人間にしようとする』要素が多分に含まれていると思うんです。
私も小さい頃から「おまえらの言うようには染まらんぞ」と思っていましたし、そういう「平均化」「世間の目」と少しも戦わずに、他人に言われるがままに流されて大人になってしまう奴のほうが危険だよなあと思い、今回こう書きました。


ペタしてね

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↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(01)


世界が狭くなって、戦争や紛争があちこちで起きている。
それは結局のところ、価値観のぶつかりあいだ。


ひとつの国がひとつの価値観でまとまっていたら、違う価値観は叩き壊さなきゃいけなくなる。
独裁国家というのは、つまり独裁者一人の価値観で国中を染めるということだ。


いろんな価値観があったほうがいいのだ。
価値観がいろいろあれば、道徳だっていろいろあることになる。
道徳というのは、価値観の上に乗っかっているものなのだ。


価値観がたくさんあった方がいいといっても、人間を殺して喰うのはいいことだって価値観の奴がいたらどうするんだという人もいるかもしれない。


いたって問題ないだろう、と俺は思う。


価値観は心の中のものだ。
そこにしまっておく限り、誰にも迷惑はかけない。


人間は妄想の生き物だから、いろんな考えが心に浮かぶのはどうしようもない。


俺だって昔、漫才のネタを考えていた頃は、とんでもない妄想がいっぱい浮かんだ。
妄想は飯のタネみたいなものだ。
浮かんでくるものを、押し潰すことなんてできない。
それを喋って、笑って、ガス抜きすればいい。
文学なんてものも、半分はそういう妄想の産物だろう。
映画だってそうだ。


実際にそれをやっちゃったらどうするんだって、心配症はいうかもしれないけど、そういうときのために法律がある。
もともとこの世にはさまざまな価値観の人間がいて、好き勝手にやらせたら世の中がうまくまとまらないから、人間は法律を作ったわけだ。


その法律を押しつけているんだから、それで十分だ。


人の頭の中にまで手を突っ込むようなことをしてはいけない。


↑(引用ここまで)
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「子どもが真似したらどうするんだ」「模倣犯が出たら大変だ」と、やたらと心配したがる世情の中、北野氏の『いたって問題ないだろう、と俺は思う』と言ってのけるバランス感覚のよさには、頭が下がります。


小学生どころか、いい歳した大人までもが「戦争はこの世からなくなってほしいです」だの「平和な世の中になってほしいです」だの口にすることが、どこか気持ち悪いと感じるのは、「自分の価値観を正しいと信じ切っている」から。
もっと言えば、「この価値観なら、他人に押し付けてもいい」とすら思っているんじゃないか、という「過信」が見え隠れするからです。


「紛争中のど真ん中に行って、それを言ってこいや。聞いてもらえないから(笑)」というツッコミは置いておくにしても、「いろんな価値観があっていい」「相手の価値観も認めよう」なんて一方では言いながら、シリアの反政府勢力の背景について何の勉強もせずに「戦争ってよくないよね」と「価値観の押しつけ」ができちゃう神経が、私は気持ち悪くて仕方ありません。


「戦争はよくない」。…そりゃそうです。
「平和な世の中になってほしい」。…私もそう思います。


でも、その「価値観」とぶつかる「価値観」もあるということ、万人にとって「正しい価値観」などないということ、それを理解したうえで言葉を口にしたい、と心底思うのです。


「人を殺して喰うのはいいことだ」と聞いて、ノータイムに「そんなことダメに決まってるだろう!」と自分以外の「価値観」に目くじらを立てるのでなく、「そんな奴もいるでしょうよ。で…?」とバランス感覚をもって対峙できる大人でありたいものです。


ペタしてね

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↓『子どもの脳によくないこと』小西行郎著、PHP新書、2011)より引用(14)


あるアスペルガー症候群の人が書いた本があります。
『発達障害当事者研究――ゆっくりていねいにつながりたい』(綾屋紗月・熊谷晋一郎著、医学書院)という本です。


ゆっくりとした時間をくれたなら、私たちはあなたと同じ世界に住めます。
急かされるから、私たちはうろたえるのです。
だから時間がゆっくりあったなら、私たちはつながれます。
そんな内容の本です。


↑(引用ここまで)
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『ゆっくりとした時間をくれたなら、私たちはあなたと同じ世界に住めます』だなんて、子どもたちに言われている気がしませんか?


子どもたちは、大人と同じように素早く効率的に動くなんて、できません。
すべての経験が少なくて、親の言いつけを一回聞いただけで守れるわけがありません。


子どもたちは、すぐに食べ物や飲み物をこぼします。
ちょっとした段差で転んでケガをします。
何かに気を取られて、すぐによそ見をします。
着替えるのも、靴をはくのも、時間がかかります。
もちろん歩くのも(大人より)遅いです。
「○○しなさい」と言われてから行動に移すのに時間がかかります。
3歩あるいたら忘れます(笑)。


なのに、世の母親たちは、子どもたちをいつも急かしているように思います。
「早くしなさい!」
「ほら、こぼすよ!」
「○○しなさいって言ったでしょ!」
「なんで言われたらすぐにやらないの!」
「どうしてそんなことするの!」


…あなたは、小さい頃、それらがすべて完璧にできていたとでも?(笑)


少なくとも、特別支援学校の先生たちは、発達に障害をもつ生徒たちにそんな言葉を浴びせたりはしませんよね。
「できなくて、あたりまえ」。
「時間がかかって、あたりまえ」。
「他人のことを考えて動けなくて、あたりまえ」。
そんなふうに心にゆとりをもって、子どもたちと接しているはずです。


だから私は、子どもに「なんで…」「どうして…」という問い詰め方はしないようにしていますし、「子どもは大人と同じスピードで動けるわけがない」のを前提に、基本「待つ」ようにしています。
そりゃあ、外に出て大人の言うことを一発で聞かずにふてくされるようでは困りますから、「ここぞ」というときはシメますが、たいていは子どものペースでやらしてやったほうがいいと思うんです。
子どもどうしの争いごとも、できるだけ子どもどうしで解決させる。「どうしたら仲良くできる?」とヒントくらいは出してやりますが、うるさいからといって、いつもすぐに親が怒鳴って解決してやっていては、いつまでたっても「自己解決」能力が身につきません。


子どもを、急かさない。
「なんで…」「どうして…」と問い詰めない。
時間がないときでも、できるだけ「待つ」姿勢でいてやる。
「できなくて、あたりまえ」と心にゆとりをもって接する。


親が介入せずとも、子どもはそのうち自立していきます。
中学生にでもなれば、もう食べこぼしもしないでしょうし、オムツもとれているでしょう(笑)。
だから、子どもなんて、基本放っておいて、大丈夫ですよ。


すぐに「答え」「結果」を求めすぎな母親どもに「ゆとり」「待つ姿勢」をもってほしくて、今回こう書きました。


ペタしてね

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↓『子どもの脳によくないこと』小西行郎著、PHP新書、2011)より引用(13)


こんな話を聞いたことがあります。


三歳になる男の子のお母さんでしたが、一人っ子ということもあり、いつも子どもとお菓子なんかをはんぶんこにして食べていたそうです。
ある時、仲のよい女の子と、そのお母さんと四人でドーナツ屋さんに行った時のこと。
その女の子は自分の母親が買ってきたドーナツが気に入らなかったらしく、食べようとしません。
聞いても理由も言わず、ただふくれっ面をするだけ。
その時です。
男の子が、自分が持っていたドーナツを半分に割り、黙って女の子に差し出したそうです。
二人はニコニコしてドーナツを食べ始めました。
この光景を見たお母さんは、涙が出そうだったと私に話してくれました。


↑(引用ここまで)
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先日、3歳児と1歳児を妹のところにお泊まりに行かせたのですが、妹からこんなことを学んで帰ってきました。


「1個しかなかったら、はんぶんこ。はんぶんこできなかったら、じゅんばんこ。じゅんばんこのときは、おさきにどうぞ」と。


帰ってきた晩に、おもちゃの取り合いをしている子どもらふたりに「どうしたらいい?」と尋ねたら、3歳児が急にそんなことを言い出したので、びっくりしました(笑)。


そのとき想起したのが、小西氏のこの話です。
子どもが「どんな人間になって家を出て行ってほしいか」と考えたとき、「待てる人間」「我慢のできる人間」「他人を思いやれる人間」…というあたりは、どなたも異論のないところでしょう。
とすれば、妹のその手法は至極まっとうだなあ、と感心せずにはいられなかったのです。


妹は「この合言葉で、ウチの子どもたちは争い事が激減したよ」と言っていましたが、子どもたちが学校や社会に出て行って、「待つ」「我慢する」「他人のことも考える」ことが、あまりストレスなく普通にできるようになるには、幼い頃からそういう「訓練」をして然るべきだよなあ、と思わされました。


ほかにも、「咳やあくびのとき、口に手を当てる」とか、「玄関先で靴を揃える」とか、細かいことですが、「こんな大人になってほしい」「こんな”まとも”が育ってほしい」と思うのなら、幼い頃から「訓練」させて然るべきだよなあ、と思うのですが、これも私自身、妻から学んだことです。
…「訓練」の甲斐あってか、1歳児も帰ってきたら、当然のように靴を揃えて「ただいま」と言います。
「あたりまえ」と思わせちゃえば、何のストレスもなくやっているようですから、おもしろいものです(笑)。


しかしそう考えると、「必ず”ハイ”と返事をさせる」「ありがとう、こんにちは(こんばんは)、いただきます、と挨拶させる」「挨拶のときは相手の顔を見させる」など、気づくことはできるだけ習慣化するよう「訓練」させてはいるのですが、妹や妻の指摘がなければ先述した「思いやり」や「マナー」のようなことは抜けていたわけですし、つくづく「ひとりで抱え込んで育児はできんよなあ」と思わされたのでした。


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