先日、「クリスマスは子どもに何あげるの?」と同僚に聞かれて、「クリスマスプレゼント」というものが世の中にあることを、なんだか久しぶりに思い出しました。


私はクリスチャンではありませんし、子どもに
安易にモノを与えるのはよくないと思っていますので、「ガキにクリスマスプレゼントを買い与える」なんて考えはこれっぽっちもありませんでした(笑)。
 
誕生日は、別に歳を重ねたそいつ自身が偉いわけでもなんでもないので、「産んでくれた母と、育ててくれた周りの大人たちに感謝する日」として、むしろ母親にケーキを買ってきて差し上げる日と認識させていますし、まあ、そうは言っても、保育園やら祖父母やらに祝ってもらったりモノを買ってもらったりはしているとは思うので、そのくらいでちょうどいいのではないでしょうか。

「お年玉」も社交辞令的にやりとりはしていましたが、毎年親戚で集まる従姉妹が「こういう意味のない金のやり取り、もうやめにしない?」と言ってくれたので、それ以来「お年玉」のやりとりはしていません。

普段の買い物でも、いちいちガキどもにお菓子やらおもちゃやらを買い与えたこともありませんし、基本買い与えないから、ねだられることもあまりありません。
レストランやらで「お子様にどうぞ」とアメやらガムやらをもらっても、「アメ・ガムは大人のたしなみ」と言ってあるので、自然と子どもから大人に預けてきます。
家では基本テレビはつけませんし、テレビを観るときも、「テレビは大人のたしなみ」と(笑)、子どもは大人の観る番組を付随して観させてもらうのが原則です。食事時にテレビをつけるなんて、もってのほかです。

…こう考えると、本当に徹底して、ガキに「何も買い与えていない」んだなあと、我がことながら感心してしまいます(笑)。
いやむしろ、本音を言えば、どの親も「ガキに構いすぎ」「ガキに買い与えすぎ」だと思うんですよね。

子どもたちが、内心どう思っているかはわかりません。
おそらく、保育園やらで「誕生日プレゼント」だの「クリスマスプレゼント」だの「お年玉」だの、お友だちから情報は得てきていると思うので、口には出さずとも「なんでウチはプレゼントがないんだろう」と思っていることでしょう(笑)。
しかし、私に言わせればそれは「良質なストレス」です。
そのぶん、祖父母や私の友人たちに甘やかしてもらえばいいし、「父に内緒ね」と買い与えてもらえばいいんです。

子どもはいつまでも家にいない。だから、お菓子やおもちゃを与えるより、「良質なストレス」を与えるべき。
この年末に、心底そう思いました。
 
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↓『鋼のメンタル』百田尚樹著、新潮新書、2016)より引用(16)
 
自分は他人にどう見られているか――これを気にしない人はいないでしょう。

もし、そんな人がいたとしたら、かなりの馬鹿です。
人は社会的な動物ですから、他人とうまくやっていくことはとても大切です。
それには、自分が他人からどう見られているかを客観的に認識できるかが重要です。

「周囲からちゃんとした人間に見られたい」という気持ちは薄っぺらい見栄などではありません。
それは社会生活を送る人間にとって必要不可欠なものです。
たまにそういう意識が全然ないように見える人がいますが、周囲からすると相当厄介な人間です。
学校のクラスや近所の自治会で決めたルールを無視して皆から鼻つまみ者にされようが平気な人、たまにいますよね。
電車の中ででかい屁をしたり、静かなレストランで大きな声で喋るような人物も、そういう類の人間です。

また人は不特定多数の目だけでなく、特定の個人の目も意識して行動しています。
好きな人には好かれたいと思うのは当然ですし、尊敬している人には自分も敬意を持たれたいと思うのも普通です。
そして人はそうなるように振舞います。
逆に自分にとってどうでもいい人間に対しては、そこまで気を遣いません。

つまり人は常に、自分は他人にどう見られているかを意識しながら行動しているわけです。
ただ、その意識が強すぎると、いろいろと弊害が起きてきます。
自分の言葉で周りから「変な人」と思われないだろうか、自分の行動が周囲の人の顰蹙を買わないだろうかと、気になりすぎて身動きが取れなくなってしまうのです。
 
↑(引用ここまで)
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レストランやらで大声でしゃべくるおばはんも、道端に平気でゴミを投げ捨てる若者も、逆に、周りの目を意識しすぎて「自分はこうしたい」という意思表示が汲み取りにくいおっさんも、結局、自分のことしか見えていない「迷惑者」と言ってしまっていいのではないでしょうか。

自分の「見え」を意識して暮らしていれば、「知らず知らずのうちに声が大きくなって、周囲に迷惑をかけてしまってはいないだろうか?」「道端にゴミを捨てる、そのうしろ姿は醜くはないだろうか? 子どもたちから見てどうだろうか?」と、程度の差こそあれ、そう思うはずです。
逆に「当たり障りがなさすぎて、”つまらない人間””取るに足らない人間”と思われてしまうのではないだろうか?」とも。

要は、バランス感覚。

百田氏も言うように、『周囲からちゃんとした人間に見られたい』という意識を保っていないと厚顔無恥な「自分勝手人間」に成り下がってしまうし、かといって『周囲からちゃんとした人間に見られたい』欲求が過ぎると、「無難に、無難に」こなすだけのうすっぺらい人間(と、少なくとも周囲に思われてしまう)になってしまいそうです。

こんなことを偉そうに言う私だって、公共の場でつい大きい声で話してしまってツレに注意されたりすることもありますし、「今は目立ちたくない」と波風立てずに、自ら群衆に埋もれるときだってあります。

自分の「見え」を意識しつつも、「おもしろみ」「サービス精神」を忘れない。
そんな大人でありたいものです。
 
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↓『鋼のメンタル』百田尚樹著、新潮新書、2016)より引用(15)
 
人は好きなことばかりして人生は送れません。
時として、好きでもないこと、やりたくもないことをしなければならない時があります。
いや、実際はそれがほとんどです。
もっと寝ていたいから寝坊する。
好きな仕事じゃないから手を抜く。
上司が気に入らないから会社に行かない。
ノルマが辛いから仕事をサボる――実生活でこんなことをやれば、おしまいです。

でも子供時代に「嫌なことでも頑張ってやる」ということを学ばなかった大人は、こういう当たり前の事さえするのが大変なのです。

(中略)

最近は日本でも物わかりのいい文化人やしたり顔のジャーナリストたちが、不登校児童や授業中に自由な行動をする生徒を認めるようなことを主張し、それが学校でも受け入れられ、教育現場が大変なことになっていると聞きます。
子供時代に好き勝手なことをしてきた人たちが社会の大半を占めた時、日本は取り返しのつかない状況になっているかもしれません。
 
↑(引用ここまで)
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私も「おっさん」になってきたということなのでしょうか。
年々、私の身の回りの若者が、百田氏が言うような傾向が強くなってきているように感じるのは。

けっこうな頻度で寝坊・遅刻してくる。
仕事を選り好みする。ヘタすると「それ、僕の仕事ですか?」とまで言ってくる。
ウマが合わない同僚との確執に、第三者が介入しないと解決できない。
しょっちゅう「風邪をひいた」と言って休む。

…こんな傾向を持った若者が、私の周りでも、だいぶ増えてきているように実感します。

とはいえ、「最近の若者はなっとらん!」なんて、古代エジプトの壁画にすら書かれていたそうですが、次の世代を育てる立場の「いい大人」がそれを言ってはおしまいな気もするのです。

中世に生きた人たちから見れば、産業革命以降に生きる近代人なんて「どこの誰ともわからない他人の作った飯を食い、他人の作った服を着て、自分の好き勝手に生きるなんて、なんて自立していない奴らなんだ」と批判したくもなったことでしょう。

また、近代人から見れば、我々現代人なんて「電話はおろか、電子メールやらで顔も突き合わせないで重要な連絡をとり、当然のように自分の両親を切り捨て核家族化していくなんて、なんて失礼な奴らなんだ」と批判したくもなるでしょう。

それと同じように、我々大人も、現代の若者を「遅刻や欠席も多く、嫌な仕事は嫌だと言ってやらないなんて、なんて自分勝手な奴らなんだ」と言いたくなってしまうだけなのかもしれません。
…自分たちも若いころは、上の世代の人たちにきっとそんなようなことを言われていたであろうことは棚に上げて(笑)。

私も、百田氏同様、「嫌なことでも頑張ってやる」=「他人からの信用を作る」と考えるほうなので、若い世代にはそれなりに高い「あたりまえ」のレベルを要求して厳しく当たることも多いのですが、だからといって「最近の若者はなっとらん!」と、厚顔無恥に自分の「先人としての役割・責任」を放棄した物言いもしたくないと、悩ましい気持ちにさせられるのです。
 
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↓『鋼のメンタル』百田尚樹著、新潮新書、2016)より引用(14)

私はいろんな成功者を見てきましたが、はっきり言って、それまでたいしたことをしてこなかった人で、五十歳を超えてから成功した人は見たことがありません。
つまり人生で成功しようと思えば、遅くとも四十代までに何らかの形を残しておかないといけないということです。
いや、これもかなり希望的な言い方です。
敢えて残酷な言い方をすれば、実際には四十歳までが勝負だと思います。

つまり人生は八十年ありますが、成功するかどうかは、最初の四十年でほぼ決まります。
四十歳の時点で何らかの業績を残しているか、あるいは頭角を現していなければ、その後の四十年の人生を使っても、社会的な成功はまず掴めないでしょう。
残酷な言い方になりますが、これは事実です。
人が高校を卒業して、あるいは大学を卒業して世に出るのは二十歳前後です。
もちろん中学を出てすぐに働きに行く人もいますし、三十歳くらいまで大学院に残る人もいます。
けれど、まあ平均して二十歳くらいとしましょう。

さきほど「成功者」の資格を得るのは四十歳までと書きましたが、つまり成功に向けて勝負できるのは二十歳から四十歳までの二十年ということになります。
本当のことを言えば、これもかなり幅を持たせて言っています。
現実的には、十年ちょっとくらいと考えていいかもしれません。

平均寿命から見れば人生は八十年以上あるように見えますが、「成功」に向けて勝負できる時間はわずかに十年ちょっとなのです。

↑(引用ここまで)
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「社会的成功」という言葉を聞くと、「年収○千万以上」だとか、「独立して社長となり、年商○億円」だとかそんなことばかりイメージしてしまいますが、私がここで言いたいことは、稼ぎ云々は置いといて、「自他ともに、仕事ぶりやキャラクターを認められ、”社会性”が満足している状態」がそこにあるか、どうかです。

仕事をしていると、アルバイトの子でも、「あいつはデキるな」「バイトにしておくには惜しい」という人物っていますよね。「あいつならどこで働いてもメインを張れるだろう」という人物が。

それは、そいつが人一倍がんばっている、ということもあるのでしょうが、私の経験上、そういう「使える奴」はどこへ行っても「使える奴」だし、その時点で「使えない奴」はいくら歳を重ねても「使えない奴」のまま、と言ってしまっていいいように思います。…言いすぎですかね?

つまり、百田氏も言うような「二十歳からの十年ちょっと」の若い時期に、どこで働こうと「使える奴」「自他ともに仕事ぶりやキャラクターが認められる奴」となっていないような人物は、申し訳ないですが、どこへ行っても「使えない奴」であることが多いのではないか、ということです。

ちょっとした会議やら、友人たちで集まったときでも、そんな「違い」が目に見えてわかることって、ありますよね。
自然とリーダー的な立ち位置になり(いい歳してただの「目立ちたがり」は論外ですが)、要所要所でみんなが納得するような発言もし、話の落としどころも考えて流れを作れる。さらに、他人が嫌がるような役割でも引き受ける「男気」もあったりする。
…何か「集団」ができたときに、その中で、「自他ともに仕事ぶりやキャラクターが認められる奴」と、「そうでない奴」って、だいたい分かれますよね。
その個々人が、また別の「集団」やら「職場」やらへ場所を変えても、その「役回り」「フットワークの軽さ」「周囲に認められる人物か、否か」はあまり変わらないように思うのです。

…逆に、いるんですかね? 「職場ではまるでダメ」だけど、「別の集団では尊敬を集めている」ような人物が(笑)。

まあ、そこまで「リーダー的」でなくとも、「黙ってコツコツやれる”デキる奴”」「仕事は目立ってできるわけではないが、なぜか”愛されるキャラクター”」というタイプもいると思うので、「周囲に認められにくい」個性を否定するわけではないですが、「その歳まで何して生きてきたんだよ!」とツッコみたくなるような、「”社会性”が満足していない」人物も多くいることは異論のないところだと思うのです。
 
私の(数少ない)友人のひとりT君は、いくつかの職を転々としていましたが、そのどの職場でも「あいつはなくてはならない奴だ」と周囲に言わしめるような仕事ぶりと愛想を振りまいていたようです。…仕事を辞める際にきまって「辞めないでくれ」と周囲に引き止められるくらいに。
そんな彼を近くで見ているからか、「”使える奴”は、どこへ行っても”使える奴”なんだな」と妙に納得してしまうところもあり、逆に、「使えないおっさんやおばはん」は、どこへ行っても、いくら経験を重ねても、「使えないおっさんやおばはん」だなあ、と確信めいたものがあったので、今回こう書きました。
 
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↓『鋼のメンタル』百田尚樹著、新潮新書、2016)より引用(13)

私は年賀状は出しませんし、貰っても返事はしません。
令状の類だけは頑張って書くようにしていますが、それさえもしばしば忘れます。
これはさすがに社会人としてはいただけません。

でも昔から私をよく知っている人たちは、「百田はそういう奴だから」と皆、多めに見てくれています。
これに甘えているということは恥ずかしいことなので直さなければならないと思っていますし、決して皆さんにもお勧めしません。

それでも恥を忍んでこんなことを書いたのは、ここまでずぼらな性格でも、本当の友人は見捨てないものだということを知ってもらいたかったのです。
そうなのです。
本当の友人はSNSや年賀状の返事がないくらいでお終いになるということはありません。
むしろそんなことで嫌な関係になる友人なら、距離を置くべきです。

↑(引用ここまで)
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私の(数少ない)友人のひとりY君は、自他ともに認める(?)連絡無精です。
メールやLINEでも返信することはほとんどありませんし、遊びに来るときも、当日の昼に「今から行くねー」と急に電話してきやがります(笑)。
「全然連絡よこさないよねー」なんて周りにツッコまれても、無理に周りに合わせることなく、自分のペースで、連絡したいときだけ連絡するスタイルを貫き、ついには「Yはそういう奴だから」と周囲に言わしめる地位を確立したと言えるでしょう(笑)。

そうなんです。
百田氏も言うとおり、連絡無精であることで彼から離れていった人間もそりゃいるのかもしれませんが、私のように「奴のことが好きだから、それでも友人でいたい」と思える人間は、残るのです。
むしろ付き合う人間の精選ができて、そのくらいがちょうどいいのかもしれません。

同僚や家族が直前まで連絡をよこさなかったら「なんであいつは連絡をよこさないんだ」と腹も立つのですが、「あいつはそういう奴だから」と一度思ってしまうと、腹が立つどころか「個性」とすら思えてくるのだから不思議です。
 
私も年賀状はとうの昔にやめましたし、上司や同僚から年賀状をもらっても返事を書くこともありません。
お中元やお歳暮みたいな社交辞令的なやりとりも一切しませんし、フェイスブックやツイッターも手つかずのままです。
まあ、私の知らないところで「なんであいつは返事や”お返し”をよこさないんだ」と言われているのかもしれませんが、「あいつはそういう奴だから」と周囲に言わしめるくらいの、愛されるキャラクターでいたいものですよね!
 
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↓『鋼のメンタル』百田尚樹著、新潮新書、2016)より引用(12)

これをお読みになっている独身の皆さんに申し上げたいことがあります。

理想の夫や理想の妻を求めるのは悪いことでありません。
でも、相手に理想を要求できるほど、あなた自身は素晴らしい人間なのでしょうか。
もしあなたが誰よりも知的で、教養深く、仕事の能力も抜群で、優しくて包容力があり、人格的にも申し分のない人なら、それに見合うだけの配偶者を求めてもいいかもしれません。
でも、自分は欠点だらけなのに、相手には理想的な人が欲しいというのは、少々虫が良すぎる気がするのです。

↑(引用ここまで)
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いつだか、リリー・フランキー氏が言っていました。
好きなタイプを聞かれて「優しい人」と答える女はよくいるが、そういう場合、その人自身はたいてい「優しくない」ことが多い、と。

結婚を考えている女性からすれば、上手なデートの立案やエスコートもできない、金もない、車もない、優しい声かけもできない、マメな電話やLINEもできない、気配りもできない…そんな男は「ありえない」「恋愛の対象にすらならない」と言うのかもしれませんが、「では自分自身はできているのか?」という思考にはどうやら至らないようです。

だって、考えてもみてください。
あなたが結婚を考える若い女性だとして、その相手(もしくはその候補)から、上手なデートの立案からエスコートまできっちりでき、サービス精神も旺盛、お金も稼げていて仕事もプライベートも充実、いい車に乗り、落ち込んでいればちゃんと気づいて優しく声かけもしてくれる、マメに電話やLINEで楽しいやりとりもしてくれて、いつも相手の立場に立って気配りも怠らない…、そんな女性であることを期待されているとしたらどうでしょう?

…気後れしちゃいますよね(笑)。
とてもじゃないけど、私はそんな完璧な人間じゃない、と。

「自分はできないけど、相手には要求する」というのは、百田氏も言うように「虫が良すぎる」と思うのです。
オマエは何様だ、と。
そんな「消費者根性」いっぱいの女性を見かけると、「彼氏や夫を”好き”と言うのなら、ちょっとくらいテメエからデートの立案でもしろや」と言いたくなることも多いです。
 
とはいえ、逆も然りです。
結婚を考えて「嫁さん欲しいな~」なんて言っている男性の多くは、料理上手で、気立てもよく、洗濯や掃除もきっちりやってくれて、子どもが産まれれば喜んで家庭に入って育児に専念してくれて、また出産後も太ったりせず綺麗なままでいてくれて、なおかつ旦那のことだけ見続けてくれる…、人によって多少の差異こそあれ、そんな女性を期待していると思うんです。

…女性も、気後れしちゃいますよね(笑)。
とてもじゃないけど、私はそんな完璧な人間じゃない、と。
というか、「あんた、それを全部私にやらせる気なの?」と問い詰めたくなってしまいますよね。
…とはいえ、結婚や出産後も炊事・洗濯・掃除・育児を全部自分でやってみよう、なんて考えている男性はまずいないでしょうけど(笑)。
 
つまるところ、こうして文面に起こせば「ああ、けっこう自分は異性にとんでもないことを要求しているんだな」と思えるようなことを、みなさん身勝手に夢想されているのではないか、ということです。

自分でやるつもり、自分ならできることを相手に要求するのならまだしも、自分ではやりもしない、できもしないことを、自分のことは棚に上げて暗に要求している…これが、巷の「恋愛」や「結婚」の現状だと思うのですが、どうでしょう?

島田紳助氏がよく言っていた「愛しているから、期待しない」という「恋愛」や「結婚」にあまりお目にかかれたことがないので、今回こう書きました。
 
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↓『鋼のメンタル』百田尚樹著、新潮新書、2016)より引用(11)

へらへら笑い(意味のない愛想笑い)をする人で、出世した人はほとんど見たことがありません。
これはもう法則と言っていいほどです。
へらへら笑いをしている人は終始笑い顔を浮かべているわけですから、相手から嫌われることはあまりありません。
ですが、ここは重要なところですが、尊敬されることもまずありません。

私は職業柄、会社の会長や社長という成功者と呼ばれる部類の人に会う機会が多いのですが、そういう笑いをする人にはお目にかかったことがありません。
彼らの中にはよく笑う人もいますし、あまり笑わない人もいます。
でも、意味のないへらへら笑いをする人は一人もいません。
少なくとも私が出会った中では記憶がありません。

私はへらへら笑いをする人がなぜそうするのかを考えたことがあります。
これは想像ですが、彼らは他人に嫌われるのが怖いのではないでしょうか。
相手の言うことに笑ってさえいれば、少なくとも嫌われることはないと無意識に思っているのではないでしょうか。
また彼らは、非常に人の顔色を見ます。
ですから、相手にぶすっとした顔をされると途端にうろたえます。

↑(引用ここまで)
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私は、職場やらで同僚や上司なんかとすれ違うときに、聞き取れるか聞き取れないかくらいの声で「…すっ」みたいなことを言って会釈をする人が嫌いです。
なんだか百田氏が言う「へらへら笑い」に通ずるものがあるというか、「相手に嫌われたくない」意味のない挨拶であるように感じるからです。

もともと「挨拶」や「愛想笑い」は、我々ヒトが、それこそ誰がいつ敵として襲ってくるかもわからない原始時代から「私はあなたに敵意はありませんよ」という意思表示としての意味合いが大きい、と聞きます。

とはいえ大人なんだから、「こんにちは」「おはようございます」と大きな声ではっきり挨拶せえよ、とも思うのです。

相手がどんなに年上だろうが、年下だろうが、上司だろうが、絶好のコミュニケーションのきっかけが「…すっ」(会釈)では、なんだかもったいないですよね。

私は個人的には、いつでも可能な限り限り元気に挨拶、用はなくとも「なにしてるんですかー?」と声かけをし、何かしてもらったら「いやー先日はお世話になりました!」「こないだはごちそうさまでした!」と忘れずにお礼を言うようにしています。…それはもう、本当は風邪でつらい日に、上司や同僚に「みっちゃんは、いつも元気だね」と言われるくらいには(笑)。

それが近所でたまにすれ違うだけの人だろうが、たまたま立ち寄ったお店の店員さんだろうが、自分のキャラクターをわかってもらう、また相手のキャラクターを引き出すきっかけとしての「元気に挨拶!」はやらない手はないと思うのです。

百田氏も言うように、「へらへら笑い」だったり「…すっ」みたいな会釈をする人に、「この人と仕事したいな」「この人とまた会いたいな」と思わせる人はいないように思います。
そんな程度のコミュニケーションから、「尊敬」や「興味」を感じることは、まずありません。

「明るさ」「元気」の押し売りをするつもりはないのですが、意味のない愛想笑いで挨拶を済ませてしまったがために、「この人、つまらん人だなあ」と思わせてしまう可能性を考えると、多少の失礼は承知で「なにしてんすかー?」と人懐っこく話しかけるほうを選んでしまうのです。。
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↓『鋼のメンタル』百田尚樹著、新潮新書、2016)より引用(10)

少し前になりますが、あるテレビ番組の企画会議中、それまであまり会議で発言しなかった三十代初めのディレクターが、突然よく意見を言うようになりました。
また以前にはそんなことはなかったのに、企画案も積極的に出すようにもなりました。

私は彼が所属する制作会社の上司に、彼に何があったのだと訊きました。
すると上司は嬉しそうに言いました。
「前とは全然違うやろ」
「うん。お前が何か言うたんか」
「何も言うてへん。あいつはこの前、自己啓発セミナーに行ったらしくて、それですごく感銘を受けたらしい」
「そのセミナー受けて変わったんか」
その上司は頷きました。
「次の日、本人が、自分は生まれ変わりましたって言うたから、最初は本気にせえへんかったんやけど、ほんまに仕事態度がまるっきり変わったんで、びんくりしてるんや。あいつはええディレクターになるわ」
上司は上機嫌で、これから他の若いディレクターたちもどんどん自己啓発セミナーに送り込むと意気込んでいました。

私はしばらく注意してそのディレクターを見ていました。
たしかに仕事に対する態度が前とは変わっていました。
驚いたのは以前は猫背だったのが、背筋がぴんと伸びていることでした。
私は「へー、人間って気持ちが変わると姿勢まで変わるんや」と感心しました。

ところが二週間も経たないうちに、彼の会議での積極的な態度は急速にしぼんでいきました。
同時に、伸びていた背筋もだんだん丸くなっていきました。
そして翌月にはもうすべてが完全に元通りになっていました。

私は、やっぱりな、と思いました。
なぜなら人間というものは簡単には変わらないと思っていたからです。
極端な言い方をすれば、「一日で変わったものは一日で元通りになる」のです。
もっとも彼の場合は元に戻るのに二週間かかりましたが、実質はあまり変わらないでしょう。

↑(引用ここまで)
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私が大学で心理学の授業を受講したとき、初回の授業で先生が「”性格”とは”行動パターン”のことだ」と言っていたのを今でも覚えています。

人の「性格」というと、どこかアナログというか、「心」や「気持ち」などの曖昧なものといったイメージを持っていたのですが、人間は「こういうときには、こう行動する。こういう場面に出くわしたら、こう行動する」という「行動パターン」をそれぞれ持っていて、多少軌道修正しながら、そのプログラムを書き換えていく、という内容でした。

確かに、自分自身の「行動パターン」を思い起こしてみれば、朝起きてから出かけるまでのルーチンワークだったり、他人と会話しているときに「相手がこう言って来たら、だいたいこんなリアクションをする」「自分の中での定型文」のようなものがあったり、けっこうパターン化されていることに気づかされ、妙に納得したことを覚えています。

そう考えると、百田氏が『一日で変わったものは一日で元通りになる』と断言するのも頷けます。

人にはそれぞれ、それまでの人生で積み上げてきた「行動パターン」が脳内にプログラミングされており、たとえば、あまり人前で話をしてこなかった人には「人前で堂々と話す」「おもしろおかしくしゃべる」プログラムが定着していないはずです。
それが、本を一冊読んだり、それこそ「自己啓発セミナー」に一日通ったりしただけで、数十年来プログラミングしつづけたその人の「行動パターン」が急に変わるなんてことは、まずあり得ないでしょう。

そういう意味で私は、百田氏同様「人は簡単には変わらない」と豪語することにしているのです。

それはもちろん私自身にも言えることで、私が経験してきていない、訓練してきていないことは「行動パターン」にはなっていないでしょうし、どちらかというと「苦手なこと」に分類されていることも多くあるはずです。

しかし、手前味噌ではありますが、「周囲の人に対して声かけ・気配りをして歩く」ことだったり、「聞く人に配慮した話し方をする、できる限りおもしろおかしくしゃべる」ことだったり、拙いながらもこうして「文章を書く」「一度決めたことを長く続ける」ことだったり、そういうことに関しては、日常的に訓練していることですから、私の「行動パターン」として、かなり定着していると思うのです。

それは、同年代の友人なんかに久しぶりに会うと、強く実感します。
そいつがどんな「行動パターン」を構築して生きてきたのか。
「相手への気配り」や「しゃべり方」をどのくらい訓練して生きてきたのか。

「こいつ、なかなかの訓練をしてきたな、やりよるな」と感心させられることもありますが、「こいつ、数十年間何して生きてきたんや、ヌルいなあ」と思わされることも多いです。
…もちろん私自身も評価の対象でしょうから、「自分のパフォーマンスが、同年代と比べてどうか」という緊張感はありますが(笑)。

あなたの「行動パターン」はどうですか?
久しぶりに同級生なんかに会ったとき、「いいパフォーマンスをしていた奴」の話を、是非お聞かせください!
 
最近、高齢者の運転免許返納だとか、アクセルとブレーキを間違えたことによる死亡事故だとかがニュースに上がることが多くなってきた気がしますが、加害者側ばかりを責め立てる報道に、なんだか違和感を覚えるのは私だけでしょうか?

確かに、車が急に歩道に乗り上げて、ある日突然子どもが轢かれて死んだとあっては、遺族の立場からすればやりきれないでしょうし、「なぜうちの子どもが…」「今後こういう事故を防ぐには?」「高齢者には免許を返納させるべきでは?」と言いたくなる気持ちもわかります。

ただ、遺族も報道も、その物言いがあまりに一方的過ぎて、現代人が「車社会」を受け入れた前提条件を無視しているように思えてならないのです。

そもそも「車社会」を受け入れるということは、「人を殺す可能性のある道具」を我々の生活の中に受け入れるということで、移動手段が徒歩や自転車だけだった時代には存在しなかった「交通によって死人が出る」というリスクを承知の上で、「車社会」に突入したはずですよね。

「自動車」は便利だけど、人が死にますよ、と。それでも「便利」になりたいですか? と。

そして、我々現代人は「便利」を選んだのですから、その「便利」の代償として「年間交通事故死亡者数○万人」がついて回ることを、場合によっては自分や自分の周りの人が突然死ぬかもしれないことを、受け入れる「覚悟」がなくてはいけないと思うのです。
現代の「便利」は、毎年何万人もの「交通事故死亡者」によって成り立っている、と言い換えてもいいかもしれません。

…というか、「自動車」という移動手段が台頭してきた頃は、その「覚悟」が人々の間にあったのではないでしょうか。
私が子どもの頃でも、外に出るとき親が「気をつけて行ってこい」「車は人を殺す道具だぞ」と言われて出かけることが習慣化されていました。

なんというか、「車社会は、一歩外に出れば”死”と隣り合わせ」という共通認識というか、「もし交通事故に遭ったら、それは外に出たのだから、当然のリスクだ」という、ある種「車社会に対する”覚悟””責任”」のようなものがあった気がします。

そして、そんな「覚悟」「責任」が、最近の交通事故に関する報道や物言いからは、あまり感じられなくなったなあ、と思うのです。

確かに、交通事故は「加害者」が悪いです。「車を運転する側」に責任があります。
ただ、「車社会で暮らす一員」「”便利”を享受する一員」であることに対するオマエ自身の「責任」はどうよ? 、「車が行き交う外に出かける」ことは、もともと「死」と隣り合わせだったはずですよね? 、と言いたくもなってしまうのです。
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↓『鋼のメンタル』百田尚樹著、新潮新書、2016)より引用(09)

もしあなたが「自分は正しく評価されていない」「本当の自分を見てもらえていない」という意識を持っているなら、それはただちに捨てたほうが賢明です。
そういう気持ちはすべて弱い精神から来た「甘え」だからです。
前にも書きましたが、他人はあなたをしっかりと見ています。
信じたくないことかもしれませんが、これは事実です。
そうではない! と反論されるあなたに、申し上げたいことがあります。
あなたが持っていると思っている素晴らしい能力をきちんと発揮していますか。
実際にそれを使って仕事の業績を挙げていますか。
あるいは人間関係において、周囲を魅了する話をしていますか。
多くの尊敬を勝ち取る行いをしてきましたか。
中にはそういう人もしるかもしれません。
でも、多くはそうではないでしょう。
「他人は本当の自分を見てくれない」という人のほとんどの気持ちは、実は、表に現れない内側の自分の能力、美点、長所を見てほしいというものです。その気持ちはわかります。
でもいったいあかの他人の誰が、ふだん表に出さないあなたのそういう部分に、わざわざ目を向けてくれるでしょうか。
周囲の人や会社の上司は、あなたのご両親でもなければ恋人でもありません。
あなたの秘められた素晴らしさを積極的に見つけようとはしてくれませんし、当然ながら、そんな義務はどこにもありません。
周囲の人は、普段の生活であなたが見せている姿だけを見ています。
あなたが出している能力と言動だけを見ています。
そのことで、彼らの人を見る目のなさを非難したくなったならば、その前にあなた自身の甘えを非難すべきです。

↑(引用ここまで)
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百田氏も言うように、「他人から見た自分の評価こそが、結局は正当な評価である」と私も実感します。
しかしながら、『本当の自分を見てもらえていない』なんて、仕事でも恋愛でも「甘え」の常套句ですよね。
恋愛や結婚に際して、「ありのままの私を受け入れてほしい」なんて言う奴(特に女性)が多いのは今も昔も変わらないと思うのですが、「そんな面白味もない、他者への心配りもない、そんなお粗末な”ありのまま”なんて、見せてくんな、ボケ!」と言ってやりたくなるのは私だけではないはずです(笑)。
「ありのままの自分」「本当の自分」なんて、ずぼらで、スケベで、鼻もほじれば屁もこくし、小さいことに腹は立つし、自分の利益ばかり考えている、とてもじゃないけど他人にはお見せできない有様です。…私だけですか?(笑)
そんな「たいしたことない」自分の本質を自覚しているだけに、できる限り周囲に心配りをし、愛想をふりまき、誰もがやりたくない仕事も率先してやる。そうして、ちょっとずつ周囲に「あいつはやるな」と認めていってもらう。…程度の大小こそあれ、みなさん、なんとなくそうしてだましだまし暮らしていると思うんです。
…だから、もう「ありのままの私を云々…」って言うの、やめません?
周囲に「一目置かせ」て、それを演じ続けて死んでいくしかないと、最近本気でそう思うのです。