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↓『鋼のメンタル』百田尚樹著、新潮新書、2016)より引用(08)

橋下(徹)氏は大阪府知事時代も市長時代も、そんなもの(マスコミの批判)は微塵も恐れず、歯に衣着せず、言いたいことをどんどん言ってきました。
しかも定例記者会見で延々何十分も喋るのです。時には新聞記者相手に激論を交わします。これは大変な度胸です。
橋下氏との食事中、この本のテーマを思い出し、彼に質問しました。
「マスコミやネットの凄まじいバッシングがあるとわかっているのに、なぜ発言をオブラートに包まずに言い続けるのですか」
すると橋下氏は笑いながらこう答えました。
「木星から望遠鏡で地球を眺めてみたら、僕の言ってることなんか、全然どうってことないでしょう」
この答えには私も思わず笑ってしまいました。
たしかに太陽系レベルで見れば、地球の中の小さな列島に住む一人の人間のセリフなどどうってことはありません。

↑(引用ここまで)
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橋下氏が言うように、太陽系や宇宙から我々人間を俯瞰で見たら、ゴミみたいなものだと私もよく思います。
誰がどんな発言をして周囲から叩かれようが、ネットが炎上しようが、誰と誰が結婚しようが、そんなことを「一大事」のように感じているのはその当事者だけで、数億年、そしてこれからも続いていく宇宙空間からすれば、そんなちっぽけな、いち生物の機微など「あってもなくても大差ないこと」ですよね。
私が「占い」やら「予言」やらにどこかうさん臭さを感じてしまうのは、そういう理由からです。
金運がどうだの、恋愛運がどうだの、天変地異が起きるのどうのなんて、星や風水からわかるわけないじゃないですか。
星や方角が、いち個人のことを気にして存在しているとでも?(笑)

だから何もかもがどうでもいい、なんて言いたいわけではないのですが、いまだに「占い」やら「風水」やらに執着する人の多さを思うと、「人間」という存在がそんなに「特別」だと本気で思うのかと、ツッコみたくなってしまうのです。
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↓『鋼のメンタル』百田尚樹著、新潮新書、2016)より引用(07)
 

つい最近、某居酒屋チェーン店で二十代の女性が過労が原因で自殺した事件で、両親に訴えられた会社が責任を認めて和解したというニュースがありました。
記事には、女性の勤務時間は一日十時間を優に超え、しかも休日はほとんど取れなかったと書いてありました。
ひと月の残業時間が百四十時間になる時もあったそうです。
女性は手帳に「辛い」「助けて」と書いていたようです。
 
私はその記事を見た時、少し違和感を覚えました。
たしかにその店は今どきの言葉で言えばブラック企業でしょう。
過労で自ら死を選ぶほどの仕事をさせるというのは大いに問題です。
ですが、女性は店の奴隷ではありません。
また借金のかたに売られたのでもありません。
辞められない契約で縛られたのでもありません。
そう、彼女はいつでも好きな時に辞めることができたのです。
 
二十代で独身の彼女には扶養すべき家族もありませんでした。
辛い労働に耐えなければならない身の上ではなかったのです。
では、なぜ彼女は仕事を辞めなかったのでしょうか。
それは本人以外の人間にはわかりませんが、私は、彼女は非常に責任感の強い人だったのではないかという気がしています。
辛いからと簡単に職場放棄をすることをよしとしないタイプだったのではないでしょうか。
もし彼女がちゃらんぽらんな人間なら、とっくに仕事を辞めていたでしょう。
 

↑(引用ここまで)
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「ブラック企業」がニュースで取り上げられることはあっても、「いつでも辞められた」状況だったり、「自分の耐久力に対する自己評価の甘さ」だったりが取り上げられることはあまりありません。
 
「ブラック企業はけしからん」「労働基準法を守れ」と企業側の非を責め立てることは、そりゃ間違ってはいないのですが、そちら側がクローズアップされればされるほど、「もっとちゃらんぽらんに生きてもいいんじゃない?」という、「考え方」「自己評価力」「”仕事”との付き合い方」という面は置いてけぼりになってしまっていると感じます。
 
私の父がよく言っていました。
「”仕事”なぞ所詮は他人のカネ儲けの手伝い。生き方の優先順位を見誤るな」と。
 
父は、私が知る限りでもかなりの職を転々としていて、自分で喫茶店をやったり、離婚してからはゴルフ場から雀荘、ペリカン便。不動産屋に勤めては土地と家を購入し、3人の子どもにカネがかかるとあっては、早朝から起きてガスの運送業に転身。。
そりゃ仕事を辞めるに際し、子どもらには絶対に見せない一面もあったと想像しますが、そんなことはおくびにも出さず、毎日楽しそうに、いきいきと暮らしていたように思います。
 
もっと言えば、「所詮他人のカネ儲けの手伝い」と豪語する父でしたが、同僚に「彼ほど周囲に気を配ってきっちり仕事をする人はいない」と言わしめるほどの、「やるからにはいい加減なことはしない」男だったようです。
…「仕事なんて片手間にやるもんだ」と言う男に、誰よりもフットワーク軽く動いてきっちり働かれたら、周りの人間はたまったもんじゃないですけどね(笑)。
 
…話が逸れました。
 
つまるところ、特に日本という国では、何か問題が起きると、企業や体制側に原因を求めたがる傾向が強く、それが強すぎるがゆえに、「なんで自殺する前に辞めなかったの?」「仕事はほかにもあるでしょ?」という当然の疑問を自重させてしまう雰囲気があるんじゃないか、ということです。
 
要は、バランスの問題。
百田氏のように、自殺のニュースを前に「もっとちゃらんぽらんに生きても、いいじゃない」と言ってくれるバランス感覚の持ち主が、もっといてもいいんじゃないかなあと最近強く思うのです。
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↓『鋼のメンタル』百田尚樹著、新潮新書、2016)より引用(06)
 

私が言いたいのは、生活と仕事が保障されていると、まずはそれが当たり前となって、そのことで悩むということはなくなり、人間関係みたいなもので悩むようになるということです。
当人にとっては重大事なのでしょうが、そんなことで悩めるなんて、本当はすごく恵まれた環境にいるということに誰も気付いていません。
 
会社がいつ倒産するかわからない、あるいは常にリストラの危機にあるという人は、職場に気に入らない人がいても何とも思わないのではないのでしょうか。
少なくとも、それが一番の悩みということは絶対にありません。
 

↑(引用ここまで)
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いわゆる「マズローの欲求段階説」を百田氏がわかりやすく言ってくれているわけですが、私もかねてから「生理的欲求」や「安全の欲求」を満たされた人間に、「ヒマ」を与えるとロクなことがない、と(偉そうにも)よく言います。
 
職場の愚痴をこぼすサラリーマン然り、ご近所の主婦の悪口に盛り上がるおばはん然り。
 
そりゃあ、愚痴や悪口も半分くらいは話のタネとしての「冗談」みたいなものなんでしょうが、ごく狭い「人間関係」に執着したり、後ろ暗く内容もない話を延々と続けたり、「ほかに話すことないんかい!」「その時間の浪費の仕方はどうよ?」とツッコみたくなってしまうのは私だけではないはずです。
 
いや、わからないではないんですよ。
愚痴や悪口も、しゃべっている間は楽しいですし、ひとり悶々と人間関係に悩んだりすることも、そりゃあります。
 
ただ、百田氏が『そんなことで悩めるなんて、本当はすごく恵まれた環境にいるということに誰も気付いていません』と指摘してくれているように、『恵まれた環境』にいられることを自覚したうえで、「愚痴って楽しいもんだよなあ」とか、「人間関係がもうちょっとうまくいったらラッキーくらいに思おう」とか、「所詮は”人間関係”など、生活が保障されたうえでの”オプション”」くらいに考えて時間を費やせている人は、意外に少ないように思うのです。
 
まあ、早い話が、生活や仕事が保障されたうえで「ヒマ」を中途半端に与えられると、私もあなたも、「愚痴」や「悪口」、「人間関係の悩み」なんかに時間と労力を奪われちゃっていますよ、ということです。
 
そして、そうならないためには、『恵まれた環境にいる』自覚と「時間浪費の配分感覚」しかなさそうです。
 
「職場の誰彼が気に入らない」「あそこの奥さんって…」と話に花を咲かせる人たちにどこか「軽薄さ」が見て取れるのは、自分が置かれた環境に日々「有り難い」と思える「自省」感覚の欠如がそこに見えてしまうからなのかもしれません。
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↓『鋼のメンタル』百田尚樹著、新潮新書、2016)より引用(05)
 

よく一流会社でリストラしたい社員を会社がいじめるという話を聞きます。
部屋の端の窓際に机を置かれたり、誰もいない部屋でまったく意味のない仕事をやらせたり、あるいは一日中便所掃除をやらせたりといったものです。
そういう屈辱に耐えかねて、多くの人が職場を去っていくようですが、私に言わせれば、精神力が弱すぎます。
 
(中略)
 
多くの人はプライドを傷つけられて退職するようです。
プライドってなんでしょう。
同期社員が小便をしている横で便器を洗うのはたしかに楽しくはありません。
でもどうということはありません。
トイレ掃除を本職にしている人は世の中に山のようにいるのです。
彼らはもっと安い給料にもかかわらず、黙々と仕事をしています。
要するにそれに耐えられないというのは、実に薄っぺらいプライドなのです。
 

↑(引用ここまで)
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今回の話のポイントは『トイレ掃除を本職にしている人は世の中に山のようにいる』というところです。
 
「トイレ掃除なんてしてられるか!」と退職する人は、それを生業にしている人たちに対して、非常に失礼ですよね。
 
「仕事上の失敗の責任を取らされて、左遷」みたいな話も同様です。
その、いわゆる「左遷先」で普通に毎日働いている人たちもいるにもかかわらず、「こんなところで働くのは耐えられない!」なんて面と向かっては言えませんよね。だって彼らにとってはそこで働くことが「普通」「あたりまえ」なのですから。
 
「いじめ」に関しても同じです。
私も高校時代に部活の仲間から無視されたり、試合中にもかかわらず仲間からヤジられたり、そこそこ酷い目に遭ってきましたが(笑)、中学校でもっと残酷な「いじめ」を目の当たりにしてきたので、「無視やヤジ程度なら、そこまで酷くもないかな」と、そりゃ毎日楽しくはありませんが、あまり気にせず過ごすことができていました。
 
ちなみに私が通っていた中学校では、ゴミを食べさせられたり、毎日肩パン(痣ができるほどの肩にパンチ)を食らったり、持ち物を隠されたり、机を廊下に出されたり…もちろん私自身もターゲットになったこともありましたし、それでも当時は学校に来なくなるクラスメイトもいませんでした。
 
…それに比べれば、「無視」くらいで、ねえ(笑)。
そんな程度で「つらい」「逃げ出したい」と口にするなんて、当時の私を含む中学校のクラスメイトたちにも失礼ですよ、本当に。
 
つまるところ、私たちは日々過ごすうちに、「あたりまえ」「幸せ(不幸)と感じる」ハードルを上げてしまいがちで、そのハードルを下回る出来事があると、途端に「不幸」と感じてしまう。…勝手な生き物です。
 
好き嫌いを言ってご飯を残す子どもに「世の中には、満足にご飯も食べられない子供たちがいるんだぞ…」と説教するなんて、もはや言い古された台詞なのかもしれませんが、「今の”環境”に不満をもらすなんて、その”環境”で普通に暮らしている人たちに失礼だ」という思考は、自分を見失わない、「足るを知る」生き方をするための大原則のように思えてくるのです。
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↓『鋼のメンタル』百田尚樹著、新潮新書、2016)より引用(04)
 

世の中には、非常に恵まれたように見えるのに、自分は不幸と思い込んでいる人がいます。
悩みを聞いても、それのどこが苦しみなのか、周囲の者には理解できないこともあります。
もちろん苦しみや悩みは極めて個人的なもので、数値化して誰にでも当てはめられるものではありません。
でもここで正直に言えば、現代人の苦しみのハードルは随分下がっているような気がします。
 
おそらく現代人にとって、生きることが当たり前になったからではないかと思います。
 
人は当たり前のことには感謝しません。
高度経済成長以降は、その上、快適に裕福に暮らすことさえ「当たり前のもの」となったような気がします。
ところがここに落とし穴があります。
人は当たり前のものには感謝しないけれども、当たり前のものすら手に入れられなかった時には、激しい怒りと悲しみを味わいます。
 
私は現代人の多くの悩み(あるいは大胆にルサンチマンと言い換えていもいいかもしれません)は、そこにあるではないかという気がしています。
 
現代では、経済的な事情でクーラーもテレビも持てない生活は誰もが耐えがたい不幸と感じることでしょう。
でも、私が幼い頃は多くの家にクーラーもテレビもありませんでした。
それでも誰も不幸とは感じませんでした。
 

↑(引用ここまで)
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百田氏が冒頭で言う『世の中には、非常に恵まれたように見えるのに、自分は不幸と思い込んでいる人』というのは、我々現代日本人のことを指している、と言っても過言ではないのではないでしょうか。
 
どこの国、どの時代と比較しても群を抜いて治安が良く、ハンドバックを持った女性が夜にひとりで平気で出歩ける国なんて、他にはありません。
 
24時間営業のコンビニや自動販売機が夜中でも煌々と光り、DVDや漫画、音楽、グルメに旅行などの娯楽産業にも事欠きません。
 
『信長のシェフ』などのタイムスリップものの漫画やテレビドラマなんかを観ていると、私はそれをよく感じます。
あの信長でさえ、現代日本人が食い散らかしている「コンビニ弁当」みたいなレベルの食事も到底できていなかったし、夏に氷(現代で言うアイスクリーム)を食べることさえ、大変な苦労の上に成り立っていたようです。
 
現代日本では子どもですら、100円玉を握りしめてコンビニに行けば、24時間いつでも信長以上の贅沢が味わえますし、テレビをつければ、美少年や美少女たちが歌や踊りで楽しませてくれます。毎日温かいシャワーを浴びることもできれば、布団もあります。
 
…そう考えると、現代日本人ひとりひとりが、まさに「王様」の様相ですよね。
 
そんな暮らしをしながら、「悩み」があると口にするなんて、そりゃバチが当たるってもんです(笑)。
 
だから、というわけではないのですが、コンビニで何かを買うとき、お風呂に入っているとき、ふと「有り難いなあ」と思うときがあります。
こんなにも簡単に食糧が手に入る。
今日も温かいシャワーを浴びられる。
…どこかで、「こんな”贅沢”を享受して、申し訳ない」という気持ちが拭いきれないのは、私だけなのでしょうか?
 
…「いつその”贅沢”を失っても平気でいられるように、”幸せ”と感じるハードルを上げすぎないようにする」無意識の防衛策なのかもしれませんが。
 
ともかく、百田氏も言うように『現代人の苦しみのハードルは随分下がっている』ことは意識したほうがいいように思うのです。
油断していると、すぐに「不幸」「苦しい」と感じてしまう。
 
日常的に、自分の置かれている状況が『有り難いなあ』と思えていれば、仕事がどうの、人間関係がどうの、育児がどうの、そんな「悩み」なんてオプションみたいなものに思えてきますよね。
 
食後に自分の食器を片付けることが習慣になっている子どもが、その行為を「不幸」「苦しい」と感じないのと同じように、「こんなもんかな」「多くを望まない」という「足るを知る」精神がその人を幸せにすると、最近本気で思うのです。
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↓『鋼のメンタル』百田尚樹著、新潮新書、2016)より引用(03)
 

みんなから「面白い奴」「尊敬できる奴」と思われるのは、どちらかと言えば、ふだんから言いたいことをずけずけ言っているタイプの人間なのです。
たとえ少々失礼なことを口にしたとしても、周囲の人間はたいして気にはしないものです。
いやむしろそうした開けっぴろげな性格の方が、かえって好かれるところもあります。
 

↑(引用ここまで)
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松本人志氏が以前、「お笑い視力」という造語で「笑い」について話をしていたことがありました。
 
誰もが手元で同じように見える近さの、誰もが「そりゃそうだろう」と言うであろう、「当たり障りのない」言動は、おもしろくともなんともない。
逆に、ほとんどの人から見えない遠さの、みんなが「引いてしまう」ほどの言動は、「失笑」を買ってしまう。
 
でも、近くもなく、遠すぎもしない、全員が見えるか見えないかギリギリの距離の、一瞬「ん? なんだそれは」とアタマで想像してみて思わずふきだしてしまうような言動が、「笑い」を生むのだと。
 
ダウンタウンがいわゆる「冠番組」を持ち始めた頃、誰もがビビってしまうような芸能界の大御所にいきなりタメ口をきいたり、アタマをひっぱたいてツッコんだりして「笑い」を生んでいたのは、その最たるものでしょう。
 
ふつうだったら、大御所とは誰もが「当たり障りなく」敬語を使って話します。
相手が激怒するほどの「失礼」では、視聴者が「引いてしまう」でしょう。
そこで、相手が怒るか怒らないかギリギリのところの「失礼」や「裏切り」をやってみせると、「笑い」が起こる、という話です。
 

まあ、私たち一般人が、いきなり他人のアタマをひっぱたくわけにはいきませんが(笑)、ふだんの会話ややりとりで、ある種ギリギリの「失礼」「裏切り」「今ここで普通そんなことしないでしょ」が、「笑い」や「好感」、「あいつ面白い奴だな」を生み、ひいては円滑な、素敵な人間関係を作っていくと思うのです。
 
しかし、それをしようとしない人たちの、なんと多いことでしょう!
 
上司や取引先の人には、「失礼」のないように、いつだって敬語。当たり障りのない会話。
 
職場の会議やふだんの人間関係で、ちょっと思うところがあっても、波風が立たないように黙っている。
 
…いわゆる「おもんない奴」、「お笑い視力」で言えば、「近すぎ」です。
 
百田氏も言うような、ずけずけとものを言える「おもろい奴」「痛快な人間」でありたいものですが、一般ウケを狙いすぎれば、それは「近すぎる」し、まるで空気を読まずに暴言を吐くだけでは、それは「遠すぎ」ます。
 
そんな「お笑い視力」というバランス感覚を大事にしながら他人と対峙し続け、愛想を振りまいて歩きたい、と思いつつも、そんな「配慮」などまるでない、自分本位のコミュニケーションをする人の多さに苦言を呈したいと思い、今回こう書きました。
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↓『鋼のメンタル』百田尚樹著、新潮新書、2016)より引用(02)
 

自分にとって大切な人なら、大いに配慮すべきです。
でも、自分にとってまったくどうでもいい人に対してまで神経を遣って生きるというのは馬鹿馬鹿しい限りです。
 
しかも皮肉なことに、評判ばかり気にしていて言いたいことを我慢している人が、周囲の人に好かれているということはあまりないのです。
その反対に、周囲の人から軽んじられるというか、取るに足りない人物と思われていることの方が多いのです。
さんざん気を遣って、これでは何のために苦労しているのかわけがわかりません。
 

↑(引用ここまで)
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百田氏も言う『自分にとってまったくどうでもいい人に対してまで神経を遣って生きる』タイプの人は、意外に多いように思います。
 
たとえば、好きでもない異性にしつこく誘われて、なかなか断れない人。
「どうでもいい」相手なんだから、適当にあしらえばいいじゃないですか。そいつがフラれて傷つこうが、知ったこっちゃない。
 
でも、そんな人からも「嫌われたくない」のか、相手を傷つけることに気後れするのか、はっきり断ることもできず、ズルズルと連絡をとってしまっていたりする。…そんな人、けっこういますよね。特に女性。
 
自分の身の回りの人間関係も粗選びできずに、悩み、逆に近しい人たちに気を遣わせてしまうなんて、ガキか! …とツッコみたくなることしきりです。
 
自分にとって誰が大切か、誰に多く時間と労力を割くのか、優先順位を決められないような大人の皮をかぶった「ガキ」は、結局自分かわいさというか、「他人のため」と言いながら、結局は自分のことしか見えていない「迷惑者」だと思うのです。 …言いすぎですかね?(笑)
 
口を開けば、職場やらの人間関係の愚痴ばかりの奴然り。
 
自分の人を見る目を棚に上げて「男運がない」みたいなことを口にする恥知らず然り。
 
そういう『面白くない』「付き合いたくない」輩に苦言を呈しつつも、「じゃあ、オマエ自身は人間関係の粗選びが100%できているとでも?」と自問しては我が行いを振り返るのでした。。
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↓『鋼のメンタル』百田尚樹著、新潮新書、2016)より引用(01)
 

たしかに「敗北」というのは心に傷を残します。
勝ちたいという気持ちが強ければ強いほど、負けた時の痛みは大きい。
 
最近は、子供にそうした痛みを味わわせないという配慮からか、クラスで生徒たちの順位をつけないとか、運動会での徒競走を廃止するという学校も一般的になりました。
私の子供が通っていた兵庫県の公立小学校では、徒競走はなく、その代わりに生徒全員リレーが行われていました。
これでは第一走者を除いて、誰が速いのか遅いのかはまったくわかりません。
要するに、子供たちに「敗北の痛み」を味わわせないというものでしょう。
 
しかし「敗北の痛み」を知らないで大きくなった子供は、はたして強い精神力を持った大人になれるのでしょうか。
私にはとてもそうは思えません。
 

↑(引用ここまで)
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子どもには「敗北」を味わわせたほうがいい。私もそう思います。
 
幼児は、ちょっと叱っただけで、簡単に泣きます。「この世の終わり」みたいな顔をして(おそらく本気でそのくらい悲しくて)泣きます。
これも、広い意味では「敗北」を味わっていると言えるでしょう。
叱られた。「勝ち」「負け」で言ったら、「負け」です。
 
でも、泣く子どもがかわいそうだからといって、ここで子どもを追い詰めるのをやめてしまったら、今後もちょっと怒鳴られただけで、「この世の終わり」くらいに思って泣く、メンタルの弱い子どものままでいてしまうと思うのです。
 
「負かす」ときは、徹底的に負かしてやる。
この「負ける」経験の積み重ねで、「怒鳴られる = この世の終わり」なんかじゃないな、とちょっとずつ達観できるようになっていきます。…私たちだって、子どもの頃、そうでしたよね。
 
何度も叱られるうちに、「叱られても、明日は来る」ことを学んだり。
 
「次は同じミスをしないようにする」ためにこの大人は叱っているんだ、と「怒鳴られた理由」を察することができるようになったり。
 
そうして、反射的に泣きたくなる気持ちや、「悔しい」気持ち、自分自身への「落胆する」気持ち、大人から「落胆される」気持ちを抑えて、話を聞けるようになる。「反省」できるようになる。「それでも納得できていない」自分に気づいたりもできるようになる。
 
…そう思うと、安易に子どもたちから「敗北」という経験を奪っちゃいけませんよね。
 

私だって、父親や親戚のおっさんたちにケチョンケチョンに「負かされて」きました。
 
将棋や麻雀でも、わざと負けてくれるなんてことはなく、完璧に「負かされる」。
なにかミスや悪いことをしたら、見逃されることなく、徹底的に叱られ、「負かされる」。
 
私も子どもながらに、「自分が弱い(悪い)から仕方ない」と「涙が出るほど悔しい」の狭間で揺れ動き、しばらくクヨクヨしたあと、「なにくそ」と奮起しようと自分で自分を励ましていたことを覚えています。
 
子どもは、「負かして」やる。
積極的に「敗北」を経験させてやる。
そして、たまに「勝つ」「うまくいく」のを心から喜べばいい。
 
巷の親や教師の多くが、子どもたちから「敗北」の機会を排除してしまっていると感じ、今回こう書きました。
すべての民放で一日皇室報道がされる日なんかは、レンタルDVD店が繁盛するそうですが、先日のリオデジャネイロオリンピックではどうだったんですかね。
 
オリンピック期間中は、どの局も四六時中そのニュースや中継ばかり。
べつに知らなくてもいいような、選手たちの練習風景だったりその背景だったり、「そりゃ応援したくなるわ」と言いたくもなるような計算された報道が垂れ流されます。
 
私は、そんな「押しつけ」報道に嫌気がさして、テレビを消したり、DVDだけを観るようにしたり、できるだけオリンピックの情報が入ってこないように遮断しました。ネットニュースなんかも見ない。
 
確かに、スポーツは面白いし、各選手や競技ごとの背景を知って観戦すれば、よりエキサイティングな時間が過ごせることは、わかります。
 
でも、「お前ら全員、オリンピックに興味があるんやろ?」「日本がメダルを取ると喜ぶんやろ?」と決めつけんばかりの、えげつない報道の仕方には、どこか「横柄さ」を感じてしまうのです。
 
べつにスポーツ以外に観たいニュースや番組もありますし。
 
戦時中の日本や、中国や北朝鮮を笑えない、あまりに「日本びいき」な報道にも、作られた「ナショナリズム」のにおいを感じますし。
はっきり言って怖いです。
 
「ガンバレ、ニッポン!」って(笑)。
 
日本でテレビ放送が始まってしばらくは、テレビ局に苦情の電話があっても、局の人間が「だったら観なきゃいいじゃないですか!」と言い返せる風潮があったそうです。
 
なんだか「観させられている」と感じたら、「観なければいい」。テレビを消せばいい。
 
そんな「選択肢」を持った日本人が少ないから、こんな「押しつけがましい」報道がまかり通っているんだろうなあ、と思って日々テレビを消していたら、いつの間にかオリンピックは終わっていました(笑)。
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↓『日本人改造論』ビートたけし著、角川新書、2014)より引用(16)


で、(親が)けっこう子供に甘いの。
でも、やさしすぎるのってよくない。
子供の一瞬一瞬の精神的フォローを親父が処理するのってよくないよ。
やっぱり悲しませるときは悲しませなきゃ。
お前は弱いから負けたんだって言ってやるべきときってのがあるんだよ。


↑(引用ここまで)
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子どもが何かやらかしたときや、叱ってしゅんとしているとき、泣いているとき。
そんなとき、場の空気の重たさから、ついつい子どもをフォローしてやったり、「気まずい」雰囲気をなくそうとしたりするのって、やっぱりよくないですよね。

たけし氏も指摘するように『悲しませるときは悲しませなきゃ』。

我々大人も、子どもの頃そうだったじゃないですか。
親に怒られたり、「気まずい」雰囲気だったりを、じっと耐えて、なんとかやりすごす。
でもそれが、「反省」「学習」の時間だったんだと、今はわかります。
自分に責任のある「居心地の悪さ」をたっぷり味わってこそ、「同じ過ちを繰り返さないようにしよう」と勝手に決意して、だんだんと行動が「大人」に、洗練されていったと思うんです。

だから、その「居心地の悪さ」という経験を、子どもたちから奪っちゃダメですよ。

我々大人が子どもを叱ったことで生じる「居心地の悪さ」「空気の悪さ」は確かに大人だってイヤなもんですが、バツの悪そうな子どもをしっかり放置しつつ、大人は「通常通り過ごす」パフォーマンスをしてやるべきですよね。

泣きわめくガキを放っておけない親。

ガキの機嫌が悪くなったら、わざわざ大人の側から話しかけてやってしまう親。

「食い物」や「おもちゃ」、DVDなんかでガキの「ご機嫌取り」をする親。

子どもにはもっと、「何もしない」「何も与えない」時間があっていいと思いますし、そういう時間があるから、自分で勝手に工夫して楽しんだり、遊びを見つけたり、自分から大人にコミュニケーションをとろうとする姿勢が育つと思うんです。

前回同様、「泣きわめく彼女を放っておけない彼氏」「彼女の機嫌が悪くなったら、わざわざ話しかける彼氏」「食事やプレゼントで彼女の”ご機嫌取り”をする彼氏」と置き換えると、その情けなさ、子どもの「自立」のなさが想起されて、「空気の悪さ」を我慢できない親が多すぎることを懸念せずにはいられないのでした。