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↓『日本人改造論』ビートたけし著、角川新書、2014)より引用(15)


でもさ、ホントは父親なんてさ、子供にとっては迷惑だと思うよ。どんないい父親だって。
要するに親子の会話なんてしたくないんだから。
なんか、こう親らしくさ、子供にかかわろうったって、子供には子供の世界があってね。
親に踏みこまれるのって、いやなもんなんだよね。


↑(引用ここまで)
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…『子供には子供の世界がある』。

それは誰もがそう思っているのでしょうが、それを実践できている親は少ないように思います。

ついつい口や手を出したがってしまうし、子どもに自分で考えさせて失敗させたほうがいいことでも、「ありがた迷惑な」アドバイスをいちいちしてしまっていますよね。

つまりは、親はついつい「支配」「監視」したがってしまう、ということです。

…でもこれって、「恋愛」やらの対等な人間関係に置き換えて考えると、かなり「ストーカー」的な欲求だと思いませんか?

今日、学校(保育園、幼稚園)で何をしてきたのか、知りたい。
今、何を考えているのか、知りたい。
ちょっとでも危険があると、「危ないよ」と言ってやったり、取り除いてやったりしてしまう。

…なんだか、束縛の強い彼氏や彼女みたいですよね。
相手からすれば、「気持ち悪いな、ほっとけよ」と(笑)。

私たち大人がかつて子ども時代にそう思っていたように、「ガキ扱い」されたくないし、いちいち友だち関係を詮索されたくないし、どんな恋人と付き合って、どこでセックスしてきたかなんて、親には絶対に知られたくなかったはずです。

でも、「親」という立場になったとたん、「なんでも話す子ども」「なんでも親の言うことを聞く子ども」「行儀のいい子ども」「ちゃんと学校やらに通う真面目な子ども」となることを、自分の子どもには要求する。…自分はそうでなかったくせに。
なんて身勝手な発想でしょう!(笑)

だから、私は気をつけることにしています。

子どものことを、知りたがらない。

子どもに、「完璧」「いい子ちゃん」を求めない。

お節介なアドバイスをするより、失敗させて自己学習させる。


子どもとは会話はしますが、子どものレベルに迎合した話題でなく、大人が「おもしろい」「興味がある」ことを「おもしろおかしく」話せば、「知りたがり」「ストーカー的」にはならないと思うんです。
むしろ、子どもが自分から今日あったことを「おもしろおかしく」話さないと、「自分に興味をもってもらえない」と焦らせるくらいがちょうどいい。「オチ」のない話でも「うんうん」と聞いてくれる親がいるから、他人に配慮した話し方のできない、「自分本位」なガキが育つんです。

また、勉強やスポーツができなくても、それはそいつの人生ですし、いじめにあって不登校になる可能性だって十分にあります。小中学生くらいで彼氏・彼女を作って、知識の少ないままセックスだってしてきちゃうかもしれません。それはそれで、そいつの人生です。親として「避けさせてやりたい」失敗でも、一度実際に「痛い目」にあったほうが、そいつは「成長」するのかもしれません。

「子どもの自立」「子離れ・親離れ」を想定すれば、こういう対応は至極あたりまえのことだと私は思うのですが、「勉強やスポーツなんて別にしなくていい」「学校でいじめられてこい」「彼氏・彼女を作って失敗してこい」なんて堂々と言ってくれる「育児の目的を履き違えていない」大人にはなかなかお目にかかれません。

口うるさく、「静観」できない、ガキを自分のモルモットのように扱う「ストーカー」的な親があまりに多いと感じるのは、私だけでしょうか?
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↓『日本人改造論』ビートたけし著、角川新書、2014)より引用(14)


昔はけっこう子供がいっぱいいたからね、親子12人なんて家庭があって親も子供の名前全部わかんないってことがあったんだから。
誰か一人行方不明になって二~三カ月わかんなかったなんて親いるんだからね。
ヨシオはどうしたって言ったらもう二カ月帰ってなくて、どっかで死んでたなんてこともあったくらい。
子供のときには何でもやらせればいいんだよ。
そのかわりね、罰するときは徹底的に、ぶん殴っても罰しなきゃ。

(中略)

この頃は殴らない、悪いことはさせない。
安全に、安全にって、子供が無味乾燥になってるね。


↑(引用ここまで)
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親の精神衛生上のことを考えても、「親離れ」「子離れ」のことを考えても、子どもの「教育的効果」のことを考えても、たけし氏も言う『子供のときには何でもやらせればいいんだよ』には強く同意できます。

『子供のときには何でもやらせればいいんだよ』というのはつまり、「子どもに過干渉になりすぎない」「子どものケガやらケンカやらには手を出さずに、口も出さずにある程度放置する」という意味です。

私に言わせれば、この「手を出さない」「口を出さない」を実行できている親が少なすぎます。
大人がいちいち手や口を挟んでやっていたら、そのガキは大人がいないときに危険回避できない奴になっちゃいますよね。自己解決できない奴になっちゃいますよね。
なぜ「口」や「手」を我慢しないのか。理解できません。

…気持ちはわからないではないですけどね。
子どもが完全によそ見をして、食べこぼしそうになっているのを見たら、「ほら、こぼすよ!」と言いたくなりますよね。
子どもがハサミやら割れ物やら持って何かやっていたら、「気を付けなさい!」「危ないからダメ!」と手を出したくなりますよね。

しかし、それが子どもの自己学習する機会を奪ってしまうのは明らかです。
…そうしていちいち子どもを注意していたら、親のストレスにもなりますしね(笑)。

子どもが食べこぼしをしてから、そいつがどうするかをじっと見ていてやればいいんです。それも大人の側に時間や余裕があるときだけ。
はじめは親に助けを求めますが、「どうしたらいいと思う?」とじっと子どもの出方を見れば、手近な雑巾で自分で拭いて、次からは気を付けようと勝手に学習するもんですよ。大人がいちいち「次から気を付けなさい」なんて言う必要もありません。

子どもがハサミで手を切ったって、お茶碗を割ってケガをしたって、転んで後頭部を打ったって、黙ってそれを見届けてやればいいんですよ。
大丈夫です。たいてい死にゃしませんから(笑)。

我々大人だって、子どもの頃に勝手をやってケガして帰って、「こうしたら自分はケガをするんだな」と自己学習していったじゃないですか。
親の「気を付けなさい!」があったから命が助かった、みたいなことなんて、別になかったはずです。

ちょっと無粋な物言いに聞こえるかもしれませんが、たけし氏も言う『親子12人』みたいな時代のように、「子どもがひとり事故やら病気やらで死んでしまう」のを受け止められるくらいの親の度量も、必要だと思うんです。
それこそ、「仕方ないよ。また次産めばいいよ」と言えるくらいの度量が。

そりゃ当時だって、自分の産んだ子が死ねば親は悲しんだでしょうし、その点について軽口を叩くつもりはありません。
でも、「子どもは確かに大事だけど、不慮の事故か何かで死ぬことだって、当然ある。自分たち大人がそうであるように」と思える度量もないから、「子どもの死」「子どもの病気」「子どものケガ」だけを特別視するようになり、より過干渉、より過保護になっていくと私には思えてならないのです。
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↓『日本人改造論』ビートたけし著、角川新書、2014)より引用(13)


学校の事故やなんかに対する親の態度ね。あれけっこう怖いもんあるよ。
学校で起こった事故で自分の子供がちょっと体こわすかもわかんないけど、それにどう対処をするか覚悟しとかないと。
そういうときって母親なんかカーッとなって何もわからなくなっちゃうんだから。

親の精神のあり方、逆に教育しないとダメだろうね。


↑(引用ここまで)
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保育園の待機児童やら、女性の職場復帰の問題やら、そういう報道を目にするたびに、「仕事と家事・育児の両立の難しさ、社会の不寛容さ」に同調しつつも、一方で、「何より大切なわが子のために」みたいなことを母親が言いだすと、「ガキごときにてめえの人生上書きされてんじゃねーよ」と言ってやりたくもなります。

確かに、やってもやっても終わりのない炊事・洗濯・掃除に加え「育児」も重なってくれば、日々精神的にも肉体的にも余裕がなく、出産前にはあったはずのプライベートな時間もまるで無くなり、「この子のためにがんばってるんだ」と思わなくてはやってられない、という心持ちになるのも、わかります。

でも、「そう思わなければやってられない」ことを口に出したら終わりでしょ、とも思うのです。

私に言わせれば、毎日洗濯をしたり、日々炊事をしたり、ガキの相手をするのは何も「女性特有の業務」ではないし、何より「まず、てめえのために生きろよ」と思います。
もっと言えば、「”あなたのために私は自分のプライベートな時間や仕事を犠牲にしているのよ”なんて言われたらガキはどう思うよ」、とも。

私は男ですが、毎日洗濯をしますし、炊事もしますし、ガキの相手もしています。「シングルファーザーだったら、こう動くだろうな」と考えて、日々家事や育児と対峙しています。…それを「女性特有の問題」みたいに言われることに、だいぶ違和感も感じます。

そして、「育児」は、ガキが精神的にも経済的にも「自立」してさっさと家を出ていくために、適度に「負荷」を与えてやる作業なのですから、「ガキが家庭の中心にならないように、ガキが”勘違い”しないようにしてやる」のは大前提だと思うのですが、「何よりも大切なこの子のために」などと口走る母親には、その前提が微塵も感じられません。「親離れ」「子離れ」の機会を奪われたガキほど不憫なものはありません。

また、「”大人”である自分のように、”自由”も”責任”も楽しめる人間になれ、と日々背中を見せてやる」姿勢も大切だと思うんです。
ガキ以外の人間関係や趣味を大切にして、それを見せてやる。「大人には大人同士の人間関係がすでにあって、自分は新参者だ」「大人って楽しそうだなあ」とガキに思わせてやる。
「あなたが一番大切なのよ」なんて、まるで束縛の強い恋愛関係みたいで、重すぎますよね(笑)。

「子どもを大切に思う」だったり「自己犠牲の精神」だったりは、何かと「美談」のように語られがちですが、ガキにとってはいい迷惑。
ガキにはガキどうしの人間関係があり、そのうち勝手に彼氏彼女をつくって、親とは関係のないところで生きていくものです。…わたしたちだって、そうだったでしょう?(笑)

確かに子どもは「かわいい」ですが、「親離れ」「子離れ」を度外視した「かわいがり」は百害あって一利なし。そんなだったら、ガキを放っておいてパチンコに行くヤンママのほうがだいぶマシですよ、とバランス感覚を失った母親ども、それを助長する報道にも言いたくて、今回こう書きました。
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↓『日本人改造論』ビートたけし著、角川新書、2014)より引用(12)


ただ他の10人と同じことやっててお金稼ごうってのは間違いで、一人で10人分を働けるから10倍もらえるんだから。
みんなと同じことやってて、同じような努力しかしてなくて、お金をみんなの何倍ももらいたいって?
それはとんでもない、図々しいって。


↑(引用ここまで)
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たけし氏や松本人志氏が「ふつうのサラリーマンに比べれば、めちゃくちゃ働いて、めちゃくちゃ税金払ってるのに、そこは評価してもらえない」なんてボヤいたりするのを聞くと、私自身きっと彼らほどは身を粉にして働いていないし税金も払っていないであろうことを思うと、そこはもっと正当に評価されてもいいよなあ、と思ったりもします。

いわゆる「高額納税者」と言われる人たち…それこそ彼らのようなタレントだって、年商何憶とかいうどこぞ社長だって、我々一般のサラリーマンには考えられないくらい少ない休暇、少ない睡眠時間、殺人的なスケジュールで日々才能をすり減らしながら過ごしているわけです。

たけし氏曰く、睡眠時間は日々3~5時間もとれればいいほうで、休みは年に1日あるかないか。番組の収録から、映画の撮影、CMの撮影、インタビュー、またそれらに関わる膨大な打合せや会議が365日続き、ほぼ休みなんてないそうです。

…おそらく、どんなに「忙しい」「休みがない」とボヤくサラリーマンでも、それほどには働いてないと思うんです。
無論私もそうですが、1日5時間以上寝られる日もちゃんとありますし、一年に1日しか休みがない、なんてこともありません。

そう思うと、巷の求人広告か何かで「誰にでもできる仕事です」だとか「働く時間が自由に選べます」だとか「完全週休2日制です」だとかいううたい文句に、どこか「ブラックさ」を感じつつも、それに安易に飛びつく輩の「ヌルさ」「安月給でも仕方ない所以」が見てとれてしまう気がするのです。

スポーツ選手やタレントの高収入をうらやむ前に、たけし氏のように『一人で10人分働けるのか』とまでは言いませんが、少なくとも「1人分きっちり働けるか」「会社に給料分の利益をもたらせるのか」「どのくらい税金を納めているのか」くらいは自省してから発言したいものです。
先日、『グサッとアカデミア』というテレビ番組で、予備校講師の林修氏が「仕事」について話をしていました。

世にある「仕事」を「やりたいし、できる」「やりたくないけど、できる」「やりたいけど、できない」「やりたくないし、できない」の4つに分類したとき、みんな「やりたい」ところを目指すけども、「やりたくないけど、できる」ところを目指したほうがいいのではないか、という話でした。

実際、林氏も「やりたいけど、できない」作家を目指していたけども、「やりたくないけど、できる」予備校講師に落ち着いた、とも言っていました。

彼の言うとおり、「自分が何気なくできてしまうこと」で、実は「他人が苦労してやっとできること」、またその逆のもけっこうあると思うんです。そして、「何気なくできてしまう」奴には、その分野ではどうやっても敵わない、というのも理解できます。

だとしたら、「やりたいこと」に固執するよりも、「何気なくできてしまうこと」を「仕事」にして、「承認欲求」を満たしながら暮らしたほうが幸せではないか、と。


私は、子どもや若者に「夢を持て」だとか「やりたいことを仕事に」だとか言う昨今の世情にだいぶ違和感を感じていて、「てめえがやりたい云々より、まずオマエが社会に合わせろよ。分を弁(わきま)えろ」と言いたくなることは多いです。

それは、子どもや若者自身にというより、周りの大人たちに問題があるような気がします。

ガキには夢なんぞを持たせる前に、「分を弁える」ことだったり、「世の中のほうに自分を合わせる」よう鍛えてやることだったり、与えるべき「負荷」はたくさんあるはずですが、それを実行できている大人は多くないと思います。

「やりたい」「やりたくない」なんて個人的な趣向は、プライベートで個々に勝手に満たしていればいい欲求なのであって、「できる」「できない」という「社会(大人たち)からの要求に応えられるかどうか」だけを考えて「仕事」に臨めよ、甘ったれるな。

…そんなまっとうな指摘を子どもや若者にしてやれる大人がもっといてもいいのになあと思い、今回こう書きました。
あんまり時事ネタは書かないんですけど…

最近(2016年6月現在)の舛添東京都知事が公費を「不適切」に使用し辞職に追い込まれた件について、あまりに気持ち悪いので、書きます。

「議会制民主主義」を採用する現代日本において、責められるべきは、前の都知事選で舛添氏に投票した200万人を超える東京都民であって、知事本人ではない、と思うんです。

報道やネットであれだけ舛添氏本人を叩くなら、「すみません。私が彼に投票したひとりです。人を見る目がありませんでした」と名乗り出ることもなく、黙って息をひそめている、東京都民200万人以上を是非吊るしあげていただきたい!

もっと言えば、息をひそめるどころか、「舛添(元)知事の公私混同には怒りを感じます!」なんてコメントしている奴の中には、実は彼に投票していたり、もしくは投票にすら行っていなかったりする輩だっていると思うんです。

「お前がよくそれを言えるな、恥を知れ」と。

議会制民主主義において、議員や知事は、あくまで我々市民の「代表」「代弁者」です。
無論、投票に行かない奴はそれに口をはさむ資格はないし、「不適切」な人物に投票したとあれば、恥じて反省こそすれ、その「不適切」を非難する道理はありません。

安っぽい例を挙げれば、旦那の愚痴をこぼす主婦や、彼氏・彼女への不満を並べる若者と同じレベルですよね。
「お前の”人を見る目のなさ”を棚に上げて、相手を非難するなよ。お前自身がそいつを選んだんだろう? 恥を知れ」と。

知事にせよ、結婚相手にせよ、「選ぶ」「投票する」という行為には「責任」「だってお前が選んだんだろう?」がついて回るのであって、その大前提を無視した安易な「吊るしあげ」「バッシング」が横行していると感じ、今回こう書きました。
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↓『日本人改造論』ビートたけし著、角川新書、2014)より引用(11)


昔のじいさんは「バカヤロー、若いもんなんかに面倒見てもらわないよ。てめえの命はてめえで始末つけるんだ」って言ったよ。
今、これだけさ、老人福祉、老人福祉って大騒ぎしてるんだから、だれか一人ぐらいさ、「お前らの世話にはならない。厄介者扱いされたくない。自分の生活は自分でやる。お前らの援助なんかいらない」ってタンカ切らないかね。
昔はそういうじいさんがいっぱいいたのに、いないんだね、今は。
気が弱くなっちゃったんだ。


↑(引用ここまで)
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老人でも、変にプライドの高い奴は多いかもしれませんが、たとえやせ我慢でも、『お前らの世話にはならない』とタンカを切って、実行できる人は少ないように思います。それは、老人の話に限らず、仕事でも、育児でも。

たとえば、私の職場で「若者を鍛えるために、朝1時間早く来させる」ことが推奨されているのですが、私の感覚では「若者を朝早く来させると言うのなら、おまえらも来いよ。来て指導してやれよ」と思っています。

だから、私は同僚の間でも、朝早く来る若者にもそれを断言しています。「若者を来させているんだから、私も必ず朝1時間早く出勤する」と。

早朝に子どもたちを叩き起し、飯を食わせ、着替えさせ、保育園によこしてから毎朝1時間早く出勤するのは確かにキツいですが、そこはタンカを切った手前、意地になって数年来続けています。

そして、若者に来いと言っておきながら、自分はのうのうと定時に出勤するおっさんやおばはんを見ては、「それぞれ家庭の事情やらあるのかも知れないが、情けないな。先輩ならタンカ切ってみせろよ」とも思っています。口には出しませんが(笑)。


家事や育児に関しても一緒です。
私は、いろいろなところで「どうせ”育児”に関わるなら、炊事・洗濯・掃除・躾やらの一切合財をやってやる!」とタンカを切ってしまっていますんで(笑)、基本「シングルファーザーだったらこう動く」というのを前提に、家事や育児などの雑務を日々こなしています。

家事も育児も、「誰がやってくれるわけでもない」と思って行動していますので、「○○してくれない」「もっと○○してほしい」なんていう依存的な考え方にもなりませんし、仕事の忙しい妻がちょっとやってくれたことに「有難い」と思えます。

変に「期待する」から「腹が立つ」ことが多くなるものですよね。
島田紳助氏も言っていました。子どもたちや妻に、「愛しているから、期待しない」と。


『お前らの世話にはならない』とタンカを切る、なんて聞くと、孤立主義の寂しい物言いのように聞こえてしまうかもしれませんが、「きっぷのよさ」「あそこまでタンカを切るなんて、天晴(あっぱれ)だ」と周囲に思わしめる「頑固オヤジ」があまりに少ないと思い、微力ながらも実践して歩いている次第です。
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↓『日本人改造論』ビートたけし著、角川新書、2014)より引用(10)


家の中の暴力っていうと、昔よくあったでしょ。
親父がちゃぶ台ひっくり返すっていうの。
あれはね、ちゃぶ台の上にたいした物がのっかってなかったからだね。
なんにもなかったもん。
五円のめざしとか茶碗だって安物だし。
ひっくり返そうが何しようが、あらあらで終わりなんだから。


↑(引用ここまで)
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時代錯誤のような物言いに聞こえるかもしれませんが、「ちゃぶ台をひっくり返す親父」、今の時代にも必要だと思うんです。
ガキどもに「あ、この親父シャレにならねえな」と思わせる場面を、ちょいちょい演出していなかいと(笑)。

子どもには、大人の呼びかけや「○○しなさい」に必ず「はい」と返事をさせる。こちらが何かを言って無言で返すことのないようにする。

食事の後片付けや挨拶など、基本は子どもから言いだすのを待ちますが、気づかずスルーしているようなら「何か忘れていないか?」と問いかけ、気づかせる。

そして、わかっているのにやらなかったり、あまりに時間がかかっていたり、ふてくされたりしたとき、大人に二度めを言わせたとき、ちゃぶ台とはいかないまでも、椅子やら手近なものをぶん投げます。
子どもが恐怖を感じるくらい大きな音がたてられて、それでいて物自体が壊れない程度にぶん投げられればベストです(笑)。

もしくは、「次片付けなかったら捨てるからな」と予告しておいて、次にまたおもちゃやらが出しっぱなしのとき、本当に捨ててやるんです。子どもの目の前で。ゴミ袋を出して。

そんな親父を見た子どもはきっと思うでしょう、「あ、この親父シャレにならねえな」と。

そんな「恐怖体験」を一度でもさせておくと、そのあと非常にやりやすいですよ(笑)。
おもちゃが出しっぱなしのとき、ちょっとにらみをきかせるだけで、ハッと気づいて慌てて片付け始めます。
うちで暮らす子どもたちなんかは、私がゴミ袋を手にしただけで、泣き叫ぶくらいです(笑)。

島田紳助氏も、3人の娘さんと食卓を囲んでいるとき、ひとりでも泣いたりグズったりしようものなら、きまってちゃぶ台をひっくり返していたそうです。
「おまえひとりのせいで、家族みんながイヤな気持ちになるやんか! 台無しや!」と。
…「てめえひとりの気分や都合で、まわりを振り回すな」というメッセージは、「恐怖体験」とともに、確実に定着しますよね。


巷の母親どもが、ガキに「○○しなさい!」「なんでそういうことするの!」なんて小うるさく言うものの、ガキは返事もしない。

周りの大人たちの顔色を伺うどころか、ガキが泣いて叫んでふてくされて、自分の要求ばかりを通そうとする。周りの大人たちは、ガキの従者のごとく、振り回されっぱなしで情けないことこの上ない。

…そんな場面を目にするたび、「日ごろ”ちゃぶ台”、ひっくり返してないんだろうなあ」といたたまれない気持ちになるのです。
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↓『日本人改造論』ビートたけし著、角川新書、2014)より引用(09)


えっ? 人格は三歳ぐらいで決まっちゃう?
それはね、物を売る奴がうまいんだ。
お母さんのおなかの中からすでに教育は始まってますとか言っちゃってね。
モーツァルトを聞かせてあげてくださいって。
聞けるわけないじゃねえか。


↑(引用ここまで)
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「教育」をうたった「商売」。
巷にあふれかえっていますよね。また、それに騙されてカネを払わされている親どもも。

それこそ「アカチャンホンポ」で売っているような知育玩具にはじまり、知育雑誌、習い事、公文式…枚挙にいとまがありません。

なぜ、そんなものが、あたかも「必要ですよ」みたいな顔をして売られているのか。

…「買う」奴がいるからですよね。「カネを払う」奴がいるからですよね。
「商売」として成立しているから、そこにあるわけです。

ついでに言えば、誰もが買う必要なんてないものに、しれっと「必要ですよ」みたいな顔をするのは、「売れる」ための初歩の洗脳工作です。


はっきり言います。
私は、これら「商売」ベースの「おもちゃ」「教材」「習い事」のほとんどが「子どもにとって必要ないもの」「わざわざカネを落とす必要のないもの」だと思っています。

それこそ赤ちゃんがおなかの中にいるときから始める「胎教」にせよ、「ピアノやスポーツをやらせるなら三歳以前から」という「強迫」にせよ、「必要かどうかわからないもの」に、みなさん簡単にカネを払いすぎです。

「子どもの才能の芽をつぶしたくない」「もしその方面で才能があったら…」なんて、よく聞く「言い訳」ですが、問題なのは、そいつに「才能があるかどうか」「早期教育が必要かどうか」ではなく、「親どもが”ガキ”なんぞに執着しすぎ」だという点です。

親が「ヒマ」だから、親が大人同士で楽しく過ごしていないから、「ガキ」なんかに目が向いてしまうと思うんです。

「ガキ」なんて、言い方は悪いかもしれませんが、大人の生活の中の「オマケ」程度。
大人の顔色をうかがいながら、その範囲で勝手に楽しみを見つけて遊んでりゃあいいんです。

そして何より、「ガキに買い与える」という行為の習慣化が、ガキの「既得権益」感を生み、ちょっとしたことに「有り難い」と思える習慣を奪い、大人の貴重な「余暇」と「カネ」を喰い潰させ、親の頭の中の多くの部分を「ガキ」が占めるようになり、ガキごときに「執着」しつづける、「いつまで経っても子離れできない」大人を量産してしまうと思うのです。

…そんな大人にならないためにも、「ガキに買い与えない」「知育商売に乗っからない、カネを払わない」という姿勢を貫くことは大切だと思うのですが、実践できている大人は少ないと思い、今回こう書きました。

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↓『日本人改造論』ビートたけし著、角川新書、2014)より引用(08)


オレはね、バカで図々しいガキには民主主義なんか教えるんじゃないって言ってるの、冗談で。
バカはつるむなって昔から言ってる。

だって子供はまだ動物でしょ。
子供に人格ができるのは働いて食ってから。
他人の金で食ってるうちはボリショイサーカスの熊とほとんど変わらないんですよ。
熊のほうがましかな、芸するから。


↑(引用ここまで)
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私は子どもらと接するとき、『他人の金で食ってるうちは動物といっしょ』くらいに思って扱ったほうがいい、と考えています。
それは、「わが子がかわいい」親であれば、なおさらです。

何かしら子どもの「権利」を認めてやったり、「自分には選択権ある」と思わせてしまうと、それが通用しないちょっとした場面でも「自分には選ぶ権利があるはずだ」「なんで自分の好きにさせてくれないんだ!」といちいち不満に感じ、腐ってしまうことが多くなるからです。
泣きわめいたり、何とか自分のワガママを通そうと暴れ回るガキには、目も当てられません。

だったら、はじめから「権利」など与えなければいいんです。
「”子ども”なんぞに選択権はない」ことが当たり前になっている子どもは、「自分の思い通りにならない」ことにいちいち不満を感じませんし、たまに与える「今日は選んでいいよ」に「ありがとうございます!」と言いながら大喜びです。…甘やかされて育ったガキどもにとっては当然の「権利」だとしても(笑)。

いちばん身近な例で言えば、「食」に関してですね。
アホな親は、コミュニケーションのつもりなのか「今日、何食べたい?」なんて、いちいちガキに聞いてやっています。
そんな「選択権」を日々大人たちから与えられていたら、ガキにとって「自分が食いたいものを食える」ということは「既得権益」のようになってしまいます。…まるで、自分で稼いだカネであるかのように(笑)。

しかし、私のところで暮らす子どもらのように、日ごろから「うるせえ、出されたもんを黙って食え。」というスタンスで接していると、「メシ」とは、与えられた豆腐と納豆と味噌汁と少々のおかずを「ありがたくいただく」もんだと思い込んでいるから、おもしろいものです。

私は、毎日、不満ももらさず豆腐と納豆を食べ続ける彼女たちを見ては、「”権利”は、与えられなければ、それが”普通”になるもんだなあ」と、しみじみと思います。
「幸せと感じるハードルが低い」「日々不満に思うことが少ない」ことは、「幸せ」だなあ、とも。

そういう意味で、たけし氏も言うような『バカで図々しいガキには民主主義なんか教えるんじゃない』『子供に人格ができるのは働いて食ってから』ということは、過激な物言いに聞こえるかもしれませんが、子どもたちがちょっとしたことでも「幸せ」に思って日々を過ごすために必要な考え方だと心底思うのです。