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↓『日本人改造論』ビートたけし著、角川新書、2014)より引用(07)


歌舞伎でもなんでも、一応、伝統の芸なんだけど、その時代、時代でかなり奇抜なことやってるわけじゃない。
その積み重ねで続いてきたんだから、歌舞伎が昔どおりのスタイル守んなきゃいけない理由なんて全然無いと思うんだけどね。
どっかの時代で伝統とかなんとか言い出して、進歩や変化とめちゃうのってなんか変だね。


↑(引用ここまで)
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時代に「傾(かぶ)く」者。

まさに「歌舞伎」の語源も「傾(かぶ)く」というところからきているのですから、「伝統を守る」どころか、逆に現代人どもに「なんて奇抜な恰好だ!」「なんて突飛な物言いだ!」と訝って見られてしまうくらいの「攻め」の姿勢を貫いて欲しい、なんて個人的には思ったりもします。
もっと「傾(かぶ)いて」欲しい、と。

微力ながら私も、時代に「傾(かぶ)く」者でありたいと、周囲から「おかしい」「変だ」「もっとちゃんとしたほうがいいよ」と言われても「自分のスタイル」を貫き、また同時にフットワークや仕事ぶりで周囲に「認めさせる」よう努めています。
「あいつはおもしろい奴だ」と言ってもらえるまで、けっこう時間がかかったりもします(笑)。

とはいえ、「傾(かぶ)く」からには、「ただのワガママ野郎」と評されないよう、つまらない輩をねじ伏せるだけの、それ相応の「仕事ぶり」や「愛想」を振りまいて歩き続けなければなりません。

「他人の目を気にしない」鈍感さと、「周囲から一目置かせる」繊細さのバランス。

「わが道を行く」と、言葉にしてしまえば簡単ですが、実践し続けるのはなかなか大変なものだなあ、と改めて思う今日この頃です。
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↓『日本人改造論』ビートたけし著、角川新書、2014)より引用(06)


子供がダメになるかならないかは、あるとこまでいったら子供の責任だよ。
良いほう選ぶか悪いほう選ぶかは子供の自由。
悪くなる権利だってあるんだから。
いいことしかやっちゃいけないって押しつけていれば爆発するんだよ。
子供を敵とは言わないまでも、対立する一人の人格といして見ないと……。


↑(引用ここまで)
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私が子どもに厳しく接していると、「そんなに厳しくしたら、キツい性格の子になっちゃうんじゃない?」とか、「親の前ではちゃんとしているけど、外では嘘をついたりする子になっちゃうんじゃない?」と心配されたりします。

そういう物言いには、私は「それを選ぶのも、そいつ自身だから」と答えることにしています。

確かに、普段の私の言動を見てか、子どもの間で「あーっ、それしちゃダメなんだよ!」と偉そうに注意しあったりする場面を目の当たりにすると、不安になるのもわからないではないです。

でも、「親の影響」だけでそいつが育つわけでもないですよね。

むしろ、一日10時間以上も過ごす保育園の先生だったり、友だちだったりから学習していることも多いはずです。

子どもは子どもで、親や先生、友だちの言動を日々観察しながら、「これは、取り入れよう」「これは、やめよう」と自分の判断で取捨選択しながら、「アイデンティティ」のようなものを構築していっていると思うのです。

いわゆる「反抗期」についても同様です。

「親」よりも、「他で構築した価値観」で生きてみたい、という「自立」のはしりでしょうから、これを逃す手はありません。
「よし、おまえが今まで培ってきたモノだけで生きてみろ」と。

衣食住の確保をしてくれている「親」への一定の「敬意」「言葉づかい」「挨拶」だけは指導してやらねばなりませんが、それ以外は放っておいてやっていいと思うんです。…別に私の「友だち」ではありませんし(笑)。

そいつはそいつの友だちと遊べばいい。私は私の友だちと遊べばいい。それだけです。

ついでに言えば、早いとこ経済的にも「自立」して、出て行ってくれれば「育児」は大成功です。
子どもも、いつまでも親なんかと遊んでないで、さっさと「親離れ」したほうが健全ですし、親も、いつまでもガキなんかと遊んでないで、さっさと「子離れ」したほうが健全です。
…これを読んでいるあなたも、いつまでも「親」なんかと遊んでいなかったでしょう?(笑)


子どもは、子ども自身で日々、「取捨選択」しています。
親に怒られて「ごめんなさい」と表面上言っていても、腹の中ではどう思っているかはわかりません。
「うるせえなあ、早く説教終わらねえかなあ」とか思っていますよ、きっと。…だって私もそうでしたから(笑)。

そういった子ども自身の「判断基準」を軽視する親、とくに母親が多すぎるように思います。
子どもは、そう簡単に「言われるがまま」になんてなりませんし、自分自身の「判断基準」で「ここはこうリアクションしておこう」とか考えて行動しています。
むしろ、親の言うことを100%鵜呑みにするガキなんて、怖いですよね。

子どもが選ぶかどうかもわからない「親の言動」なんて、けっこう適当で大丈夫。
そんなことより、大人自身が日々楽しそうに過ごしているほうが、よっぽど子どもに希望を与えると思うんです。

「なんでそんなことするの!」「ほら、だから言ったでしょ!」なんて眉間にしわを寄せて、ガキなんかに執着するの、やめましょうよ。
もっと大人の友だちと「楽しそうに」遊んでいる姿を見せて、ガキに「ああいう大人になるのもアリだな」と思わせてやるほうが、「健全」な育児だと心底思うのです。

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↓『日本人改造論』ビートたけし著、角川新書、2014)より引用(05)


子供がなんかしちゃったら、はっきり親のせいじゃないって言いきらないといけないね。自分がどんなに悪い親父でも。

今はさ、何か起きると、すぐ本人じゃないとこに責任もっていくでしょ。
子供が悪いんじゃない、そんな子に育てた親が悪いんだとか。
じゃあ、ヤクザの子供はどうするんだっていうんだよ。

父親はね、いろんなパターンはあっていいけど、子供の自主性にまかせないといけないよね。
子供がどうなるかってのは子供の責任なんだから。狼少年じゃないんだから。
これだけ世の中が発達して、いろんなマスコミがあって、頭に入るもの、目に入るもの、いっぱいあるのに、父親だけの責任で子供が歪んじゃうなんてことないよ。


↑(引用ここまで)
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私は日ごろから、とくに巷の母親どもが「子どもに手をかけすぎ」だと言い続けています。

子どもにばかり注目していると、ちょっとした子どもの「失敗」が目につきます。大人の目から「あ、失敗するな」と簡単に予想がつきます。
そうすると、ついついその「失敗」を大人がフォローしてあげちゃったり、後始末を親がやってあげちゃったり、「転んじゃうよ!」「ほら、こぼすよ!」なんて「失敗」の未然防止をしてあげちゃったりするものですよね。

大変危険です。

まず、こぼしたら「こぼしちゃいました」と報告する姿勢が身に付きませんし、失敗したらしたで「自分でやったことは自分で後始末をする」習慣が身に付きません。事前に声かけなんてしてやれば、なおさらです。

失敗したら、そいつから報告があるまでじっと待つ。なかなか言い出さないようだったら「なんて言えばいい?」とヒントを与えてやる。
報告が済んでも、またそいつが拭いたり片づけたりするまでじっと待つ。親が後始末してやればそりゃ早いのですが、「自分でやらなきゃ誰もやってくれない」と意識させるよう仕向けます。
もちろん「あ、こぼすな」と思っても、じっと待ちます。そいつ自身が自分の失敗傾向を学習するチャンスを奪わないよう、できるだけ見ないようにします。

「育児」の目的が、「そいつが精神的にも経済的にも”自立”して外へ出ていくこと」とするならば、こういった「ガキに注目しすぎない」「待つ」姿勢は当然のことだと思うのですが、これができている親(とくに母親)は少ないように思います。

だから、子ども以外のところに積極的に目を向けましょうよ。
大人が自分自身のことや友人たちとの交流に目を多く向けていれば、先述したシーンの多くを「見逃す」ことができます。
「見逃した」結果、気付いたら子どもが食べこぼしをしていたり、お皿を割ってしまっていたり、部屋がめちゃくちゃ散らかっていたりしてビックリしますが(笑)、「事後報告」「自分で後始末」「自分のミスの傾向を知る」チャンスもそこらじゅうに散らばっています。
少なくとも、親が事前に声かけをして「学習のチャンスを奪う」ことはなくなりますよね。

大丈夫ですよ。
たけし氏も指摘するように、『これだけ世の中が発達して、いろんなマスコミがあって、頭に入るもの、目に入るもの、いっぱいあるのに、父親だけの責任で子供が歪んじゃうなんてことない』ですから。

母親ひとり程度の影響力で「そいつの性格が決まる」なんて、おこがましいです。
むしろ、保育園や学校の先生、そいつの友人たちに多く影響を受けて「そいつ自身」が形作られていくほうが自然な流れではないでしょうか?
おそらく、多くの母親たちも、そうして育ってきているはずですよね。
「母親だけの影響を色濃く受けてきた」子どもなんて、なんだか怖いですし(笑)。

「親」なんて、確かに多く子どもに多く関わりはしますが、子どもにとっては選択肢のひとつにすぎない。
そう思えば、家庭から「ほら、だから言ったでしょ!」なんて金切り声も多少減るんじゃないですかね?
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↓『日本人改造論』ビートたけし著、角川新書、2014)より引用(04)


だいたい、成人した大人が親父を尊敬するなんて、まだ甘いんじゃないか。
そんなに尊敬してんならお父さんの一番悲しい部分を見たかって。
自分たちを育てるために会社とかでいやなことや情けないことしなきゃ生きていけない、そういう姿見たかって。
それでも尊敬してますなんて言えるかって。


↑(引用ここまで)
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私の父も、いつだったか「オレも他人や子どもたちに言えないようなことや、墓場まで持っていくつもりの過去だって当然ある」と言っていました。
「自分は後ろ暗いことがひとつもない、なんて言えちゃう大人がいたとしたら、それはそれで”つまらん人生送ってきたな”と思う」とも。

その息子である私も、30年以上も生きていれば、友人たちや家族に言えないような、悪いことや、情けないことを、けっこうしてきました。もちろん、墓場まで持っていこう、と心に決めているものもあります。
そんな過去の自分を思うと、「てめえの所業を棚に上げて偉そうなこと言いやがって」とツッコみたくなるほどです(笑)。

でも、私のところで暮らす子どもたちや周囲の人たちには、そんな過去はおくびにも出さず、「私」というキャラクターを演じて死んでいくのだと思います。
…いやむしろ、そんな数多の「失敗」が、今の「私」を形作る糧になっているとも言えるかもしれません。

私の実感では、少なくとも20代後半から30歳くらいまでには、「父親のああいう面は見習いたくない」と親を反面教師視したり、「私」というキャラクターが自他ともにとりあえず認められるレベルまで達したように思います。…感覚の話で申し訳ないのですが。

そう考えると、たけし氏が『成人した大人が親父を尊敬するなんて、まだ甘いんじゃないか』と指摘したくなる気持ちも理解できます。
25年以上も生きて、オマエ自身のキャラクターの洗練レベルはそんなもんか、いったい今まで何して生きてきたんだ、と。

トーク中に相手や周囲に配慮できない奴。「相手が聞きやすいように」工夫できない奴。
車の運転で自分のことしか考えていない奴。

そんな「大人の皮をかぶったガキ」を目にするたび、「その歳までいったい何やってきたんだよ!」「よくそこを通り過ぎないで生きてきたな!」とツッコみたくなることしきりです(笑)。
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↓『日本人改造論』ビートたけし著、角川新書、2014)より引用(03)


とにかく今の時代、やさしさ、やさしさってやたら強調してるけど、よく考えると、ただの常識まで、やさしさの中に含めちゃってるよ。
電車に乗ってて、おばあさんに席譲るなんてのは、やさしさじゃなくてただの常識ですよ。
常識がなくなっちゃったから、そんなもんまでやさしさになっちゃう。
本当のやさしさとは程遠いようなことが全部やさしさで通用しちゃう。

だからやさしさっていうのは教養なんだって思っていた方がいいね。
あの人は教養があるっていうのと、やさしさがあるっていうのは同じ程度のもんだと思っていれば間違いない。


↑(引用ここまで)
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たけし氏が『やさしさっていうのは教養なんだって思っていた方がいい』と評するように、私も「優しい」=「あたりまえのレベルが高い」などと評するようにしています。

高齢者や妊婦(と思しき方)が近づいたら、黙って席を立つ。
座敷のお店で靴やスリッパが乱れていたら、黙って揃える。

…「あたりまえ」ですよね。
たけし氏風に言えば、そんなもの「教養」の一部ですよね。

もっと言えば、「教養」は、その人にとって「もはや習慣になっている」から「教養」と呼ぶのであって、「他人がどう思うか」とは関係ないところで「自分がそうすべきだと思うから、自然とそうする」レベルまで達していなくては「教養」とは呼べないと思うのです。


身内の話で恐縮ですが、私のところで暮らす4歳児も、2歳児も、何かしてもらったら「ありがとうございました」と言いますし、大人が何か作業をしていれば自分から気付いて「お手伝いします」が習慣づいてきています。
…これは「優しさ」ですか?(笑)
ただの「習慣」ですよね。
そして、それは外で普通に発揮できるようになって「教養」になる。

別に、彼女たちは「自分は”優しい”ことをしている」という意識はないと思うんです。
「あたりまえに、やるべきこと」として、「ありがとう」や「お手伝い」が生活の中に定着しているだけでしょう。

そんな4歳児や2歳児を日々観察していると、しみじみ「”できる、できない”は、習慣化されているか、どうかだけの違いだよなあ」と思わされるのです。
挨拶も、気配りも。

そう考えると、世間でいわゆる「優しくない」と言われる人間は、「教養のない人間」と言い換えると合点がいきますよね。
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↓『日本人改造論』ビートたけし著、角川新書、2014)より引用(02)


よくいるじゃない。彼氏がやさしいのを自慢する女。バカヤロー、何言ってんだ。
だいたい図々しいんだよね。
彼は何してくれました。あれもしてくれました。これもしれくれましたって。
結局与えてもらうことばかりじゃない。
あたしが酔っ払ってゲロ吐いたとき、やさしく介抱してくれましたなんて。
そんならゲロ吐いたおまえは何なんだって。
そんなに好きなら男の前でゲロなんか吐くんじゃねえって。


↑(引用ここまで)
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今回は、だいぶ個人的な私見に偏っている物言いもあるかもしれませんので、読まれる方は、気分を害さないようお気を付けください(笑)。

内容は、たけし氏も指摘する、女性の「消費者根性」「図々しさ」についてです。

自分からはデートやイベントの計画・立案なんて一切しやしないくせに、男には「○○してくれない」「優しくない」とうそぶく。
…「私も少しは相手を楽しませるような提案をしなくちゃ」とか「多少カネや労力がかかっても、相手に喜んでもらいたい」なんて思わないんですかね?(笑)

これは偏った私見かもしれませんが、特に女性は、恋愛に限らず、職場でも友人関係でも、「相手や周囲に楽しんでもらう」計画・立案などの下準備をしたがらない、もしくはヘタクソな人が多いように思います。

こと恋愛に関して言えば、
「私のことが好きなら、もっとマメに連絡をしてくれるはず」とか。
…いやいや、そう言うオマエ自身はどうなんだ、と(笑)。
彼氏や夫のことが好きなら、もっと「相手に喜んでもらいたい」というようなことをしてもいいんじゃないかな、と思わされることは多いです。
「イタリアンが食べたい」とかぬかす前に、自分から店の予約状況や混み具合、定休日まで下調べして「相手にとって魅力的な提案」をしてもいいんじゃないかな、と。
私の知る限りでは、男性の方がそういうことをきっちり調べたうえで提案する人が多いように思います。

もっと言えば、職場で他人がやりたがらない仕事や職員旅行の幹事、飲み会や親睦会の企画・立案に女性が積極的に加わるのも、あまりお目にかかりません。
…「家事や育児がある」から?
そんなこと言ったら私だって日々それらに追われていますよ。
ただ、「面倒なことはやりたくない」「”損”な役回りには入りたくない」だけではないでしょうか?

そりゃあ、男性にだってそういう「損」を請け負いたがらない人は一定数いますし、恋愛では「彼氏に尽くす」ような献身的な女性もいるのはわかります。

ただ、あなたの周囲を見渡してください。

「面倒な、誰もやりたがらないが、必要なこと」を率先して請け負う「きっぷのよさ」を振りまく女性がどれだけいますか?
「彼氏や夫にも楽しんでもらいたい」と「企画・立案・カネを払う」を買って出る女性がどれだけいますか?

残念ながら、私の周りにはあまり見当たりません。

「いや、そんなことはない! そんな”きっぷのいい”素敵な女性、私の周りにはたくさんいますよ!」
…そんな反論が多数あることを期待して、今回はこう書きました。

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↓『日本人改造論』ビートたけし著、角川新書、2014)より引用(01)


今はさ、なるたけみんな平等にっていう時代でしょ。
運動会なんかでも100メートル競走やめようって言うんだよ。
あぶないし、一等、二等、ビリって差がついちゃうし、だからみんなで手をつないで一緒にゴールインしよう、とか。
こんなバカな話ないって。
足の遅い奴は遅い奴で、負けることで人生の勉強すんだし、ほかの面であいつに勝つんだってなるんだから。
そういうのみんななくしちゃってさ、ただ負けた奴がかわいそうだって救済することばかりやってたら、大人になってもっと悲しいことにぶつかったときにどうすんの。
全然耐えられない人間になっちゃうぜ。


↑(引用ここまで)
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…『大人になってもっと悲しいことにぶつかったときにどうすんの。全然耐えられない人間になっちゃうぜ』。

育児に関わるとき、親や周囲の大人の関わり方の原則は、この考え方に尽きると思います。

その場その場でガキどものご機嫌をとるのは簡単です。
失敗も心広く許してやり、お菓子やおもちゃなんかを与えてやればいいのですから。

…でも、ガキどもがそんな日々を送ってしまったら、『大人になってもっと悲しいことにぶつかったときにどうすんの』と思いませんか?

ちょっとでも自分の思いどおりにならなかったら、泣きわめけばいい。周囲の大人たちがご機嫌をとってくれるから。
そんなガキがそのまま大人になったら、ちょっと自分の思いどおりにならないくらいですぐに不満に感じてしまい、ストレスを感じるハードルがとても低い奴になってしまいます。
他の人間がなんとも思わないようなちょっとしたことを日々ストレスに感じて、不平不満をもらしながら暮らすそいつは、とても「幸福」とは言えないでしょう。

だから、負けたらいいんですよ。そして、たまに勝ったらいいんですよ。
スポーツでも、人間関係でも。
大人が必要以上にガキどもに気配りをするのは、結果的にそいつらを「不幸」にすると思うのです。

…なんだか、調子に乗った女の話みたいですね(笑)。
ちょっと顔が整っていたりするもんだから、いつも周りの男どもに甘やかされ、ちょっと怒ればご機嫌をとってもらえる。
くだらない失恋話に、彼氏でもない男たちが夜通し付き合ってくれる。そいつらのちょっとした「下心」に気づきながらも(笑)。

でも、そんな女にもこう言えますよね。
『大人になってもっと悲しいことにぶつかったときにどうすんの。全然耐えられない人間になっちゃうぜ』と。


つまるところ、もちろん私も含め、誰にとっても必要な「負け」「失敗」「孤独」をいたずらに奪ってはいけない、ということです。
特に、将来ある子どもからは。

ペタしてね
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↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(20)


そうやって大昔から、年寄りというものは、若者の行儀だの道徳観だのに難癖をつけ続けてきた。
エジプトのピラミッドだか神殿高に、象形文字で「今の若い者はなっていない」という落書きがあるという話もあるくらいだ。

もしそれがほんとうなら、今頃は若者の行儀も道徳観も、とんでもないことになっていなくちゃいけないはずだ。
だけど、実際にはそうなっていない。

世の中の変化とともに、人や世界とのつきあい方が少しずつ変わっているだけのことだ。

世の中は別に悪くなんかなっていない。
子どもたちの道徳観が乱れているわけでもない。

いやむしろ、より道徳的になっているといってもいいかもしれない。

その証拠に、日本の10代、20代の若者が起こす殺人事件の件数は1960年代半ばから年々減り続けている。
殺人に限らず、性犯罪や窃盗もやはり60年代をピークに減っている。
今の日本の若者は、めったに犯罪を犯さない、世界でも最高レベルの平和な人種だ。

殺人だって強盗だって、50代、60代の大人の方が、よほどたくさん犯している。
今現在もそうだし、今50代、60代の人間が若かった頃と比較してもそうだ。
どっちが道徳的に堕落しているかは、数字を見れば明らかだろう。

道徳教育を徹底しないと、子どもがおかしくなってしまうなんていうのは、年寄りの錯覚でしかない。

錯覚でしかないのだけれど、彼らはそれを「いいこと」だと思い込んでいる。

だから、それを子どもたちに教え込もうとする。

いいことをすると気持ちがいいから。

そんな年寄りの戯言(たわごと)に耳を貸す必要はない。


↑(引用ここまで)
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…『錯覚でしかないのだけれど、彼らはそれを「いいこと」だと思い込んでいる』。

自分を「正しい」と思い込み、世の中の変化を考えずに「今の若者は…」とうそぶくおっさんやおばはんほど、手に負えないものはありません。

仕事の遅刻や欠席の連絡をLINEやメールで済ませる若者。
暇さえあれば、スマホの画面とにらめっこしている若者。

自分を「正しい」と思い込んでいるおっさんやおばはんからすれば、考えられない行動ではないでしょうか。
「今の若者はなっとらん」と(笑)。

でも、生まれたときから携帯電話やテレビ、ファストフードが身の回りにあふれていた若者たちが、悪気なくそうしてしまうのは、ある程度仕方のないことだと思うんです。
「え? それのどこが悪いの?」「電話で連絡するのとどこが違うの?」と。

…私もどちらかというと「おっさん」の部類でしょうから、「便利さ」よりも「相手やに対して敬意を払う」「自分の”見え”を大切にする」ほうを重視してしまいますので、LINEで遅刻の連絡はしません。というか、遅刻しません(笑)。公共の場で可能な限り携帯電話は出しません。

でも、「自分はそうしない」ことと、「若者(他人)の行動をどう見るか」は別問題です。
LINEで遅刻の連絡をしようが、別に仕事がきっちりできていればいいかな、とも思いますし、公共の場で画面とにらめっこしている奴からコンピュータやアプリの使い方を教わる場面だってあるはずです。

だから、問題なのは、若者の行動云々より、それを「自分が現代に生まれていたら…」と少しも考えずに「なっとらん」と否定できてしまうおっさんやおばはんの「安易さ」のほうだと思うんです。

偉そうに言うけど、オマエのほうこそ何様やねん、と。
自分が生きてきた道を「正しい」と思い込みたい気持ちはわからんではないけど、「なぜ若者もオレと同じようにしないんだ! 若者はおかしい」に直結してしまうのは「安易」ではないですか、と。


別に若者に迎合しろ、とか言いたいのではありません。
LINEでの遅刻連絡を許せ、とか言いたいのでもありません。

ただ、「安易な批判」を口にする前に、「”礼儀”という自分の好みを押し付けているだけじゃないか? この先、この若者に必要なことなのか?」と自問する姿勢はあってもいいんじゃないかなあ、と思うのです。

よくよく何が悪いのかと考えたら、おっさんやおばはん世代は「電話」が好き(失礼のない媒体と思い込んでいる)なだけで、若者世代は「LINE」や「メール」が好き(別に失礼のない媒体と思い込んでいる)なだけ、ということなのかもしれません。

「電話」というものが台頭してきた当時の世の中でも、きっとそんな問題はあったはずです。「直接会いに行かずに電話で済ますなんて、なんて失礼な奴だ」と(笑)。

なんで腹立たしいのか考えてみたら、結局は「好み」の問題だったりすることって、けっこうあると思いますよ。

そんなことにも気付かず、せっせと「好みの押し付け」をしているおっさんやおばはんがあまりに多いと感じ、今回こう書きました。
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↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(19)


食い物っていうけれど、それは他の生きものの命だ。


豚や牛はもちろんだけど、魚だって、いや稲だって、菜っ葉だって、それは元はといえば生きていた。
食い物は他の生きものの命そのものだ。
どんなに科学が進歩しようが、それは変わらない。


人間は、他の生きものを殺して生きている。


そんなことは誰でも知っているというかもしれない。


けれど、その認識がほんとうにあれば、自分の目の前に置かれた食い物に対して、そんなに簡単に旨いとか不味いとかいえるものではない。


俺の母親が、食べ物の旨い不味いをいうのは下品だといったのは、そういう意味もあったんだろうと今は思っている。


昔の人は偉かった。
だけどそれは、彼らが俺たちより優れていたからではなく、食い物が今よりもずっと基調で、そして身近にあったからだろう。


鶏肉を喰うには、鶏を殺して、羽をむしらなくてはいけない。


豚肉を喰うには、豚を殺して、解体しなくてはいけない。


そういう現場が、人々の身近にあった。


生きものを殺して、それを喰っているという実感をみんなが持っていた。


自分の手の中で、鶏の命が消えていくのを経験すれば、どんな人間だって、食べるということにもう少しは謙虚になるはずだ。


だけど今や肉や魚は、スーパーの棚に並んだモノでしかなくなってしまった。


そういう意味で、現代人は道徳的に堕落している。


↑(引用ここまで)
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…『自分の手の中で、鶏の命が消えていくのを経験すれば、どんな人間だって、食べるということにもう少しは謙虚になるはずだ』。


レストランやらで食事中に立ち歩く子ども。また、それを注意しきれない親。


平気で食べ物
を残す子ども。大人。


そういう行為の背景には、「食べるということへの謙虚さ」「他の生きものの命をいただいている」という認識の欠如が必ず付いて回るように思います。


豚や鶏を育て、繁殖させ、殺し、解体する過程を、実体験せずともちょっとは想像すれば、解体され調理された肉を目の前に立ち歩くなんてできないはずです。できるだけ残さないようにいただくはずです。


そういうことを、なぜ子どもに教えないのか。
それは、当の親自身が、「殺した命をいただいている」という事実を忘れてしまっているから。
…我々大人自身が「有り難い」と感謝しながら日々「食」と対峙していないのですから、子どもや若者たちに教えられるはずがありませんよね。



「いただきます」「ごちそうさまでした」と、食糧のために殺した「命」に手を合わせる。


「食」と謙虚な気持ちで向き合い、静かにいただく。


私も含め、「食」に関わるその人の態度を見れば、「命に対する姿勢」がわかる、と言っていいのかもしれません。

ペタしてね

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↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(18)


平均寿命がいくら延びたって、人が死ぬことに変わりはない。
人はいつか死ぬ。
それは今も昔も変わりがないはずなのに、そのことには目をつぶる。
死は自然の摂理なのに、まるで人生の不条理か何かのように扱う。


誰かが殺されれば、ニュース番組は殺人の原因を克明に調べ上げ、なぜ殺されたのか、なぜ殺したのかを糾明せずにはいられない。
そういう犯罪を防ぐには、どうすればいいかを口から泡を飛ばして話し合う。
誰かが病気で死んだときでも、同じパターンだ。
どういう病気で死んだのか、どうすればその病気を予防できるかを熱心に説明する。
だけどそれじゃ、死んだ奴は何かとんでもない間違いを犯したのだといっているように聞こえる。


犯罪防止や病気の予防なんていうのはただの言い訳で、死を視聴者には関係のない特別な現象だと説明して、安心させるのがほんとうの目的なんだろう。


まるで死を世の中から隔離しようとしているみたいだ。


↑(引用ここまで)
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…『死は自然の摂理なのに、まるで人生の不条理か何かのように扱う』。


「死」というものに対する、現代人の「本来あってはならない」感は、すさまじいものがあると感じます。


病気や事故があったときに、「なぜ死ななければならなかったのか」「なぜあんなにいい人が…」「将来ある子どもが…」という報道が決めつけ的になされる背景には、「遺族や周囲の人たちへの配慮」があるのでしょうが、それがどうも過敏になりすぎている、と思うのは私だけでしょうか?


「でも、よく生きたと思うよ?」なんて口にしようものなら、「不謹慎だ」「遺族の気持ちを考えろ」と、遺族でも何でもない人たちから(笑)お叱りの言葉をいただくであろうことは、想像に難くありません。


私は、私の父(推定65歳(笑))が明日死んでも、「よく生きた、天晴な生き様だった。あとは俺たち若い世代に任せてくれ!」と言ってやる心持ちでいるのですが、そんなふうにちょっとでも「死を肯定する」発言をしようものなら、「なぜ悲しまないのか」「長生きしてほしかったと思わないのか」「なんて冷酷な奴だ」と評されるであろう現代の一方的な風潮には、違和感を禁じえません。


「死」は別に『特別な現象』ではなく、明日、私たちがそうなるとも限らない。
だとすれば、「死」を肯定してくれる奴、「よく生きた!」と言ってくれる奴、そんな人間がもっといてもいいと思うし、それを「口にしてはいけないことだ」「不謹慎だ」として全面禁止する雰囲気が強すぎるよなあ、とも思うのです。


そりゃ私だって死にたくはありません。
できれば家族や友人たちにも死んでほしくはありません。
しかし、「死」は突然やってくるもの。誰にでもやってくるものです。


少なくとも私は、自分の親や子どもがいつ死んでも「よく生きた」と言ってやれる人間でありたい、とそう思うのです。


ペタしてね