------------
↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(17)


本能を否定するつもりはない。
ただ、本能なんてものは、本来はちょっと隠しておくぐらいがちょうどいいんじゃないか。


セックスだって本能だけど、やりたい気持ちをおおっぴらにする人間はあまりいない。


うんこしたいって、叫ぶ奴もいない。


それは、本能のままに行動する自分を、他人に見られるのがなんだか気恥ずかしいからだ。


その気恥ずかしさが、食いものに関してだけは、なぜかなくなってしまった。


そうなった時期と、日本が外国からたくさん食い物を輸入して、スーパーだのデパートだのにいろんな食い物が山盛りにされ、ファミレスだのファストフードだのの外食産業が盛んになった時期は重なっているはずだ。


旨いと感じるのは人間の本能だろう。


だけど、その本能を商売に利用されているだけのことなんじゃないか。


↑(引用ここまで)
-----------


…『その気恥ずかしさが、食いものに関してだけは、なぜかなくなってしまった』。


おいしいものを食べたい。
たくさん食べたい。
そりゃ誰もがそうは思っているのでしょうが、それがいつからか、「公言しても恥ずかしくないこと」になってしまった。
…ひと昔前の日本人たちが現代の我々を見たら、「恥を知れ」「下品だ」と評されてもおかしくないくらいに。


私の好きな海外SFドラマ「スタートレック」で、「口を開いて摂食する姿」を見せることは、「うんこをする姿」を見られるのと同種じゃないか? 人間は恥を知りなさい、と指摘した異星人の話を想起しました。
単細胞生物では口と肛門が共通の穴ですし、「摂食も排便も、本来的に、他人にみせるものではない」という感覚はわからいではないですよね。
そういう意味では、その異星人のエピソードは、「摂食行動に関しては厚顔無恥になってしまった現代人」へのアンチテーゼとして取り上げられたのかもしれません。


「おいしいものを食べたい!」なんて公言するのは、本来恥ずべきこと。
「たくさんむさぼり食う」姿を他人に見せるなんて、本来恥ずべきこと。


確かに、私たち現代人は、「食うこと」に関してずいぶん鈍感になっているのかもしれません。
少なくとも、私たちの親や祖父母の世代には、「食えるものがあるだけ有り難い」「他の生き物を殺生して”いただいている”」という意識がまだ強くあったように思います。「おいしいものが食べたい、たくさん食べたい、なんて下品なこと言うもんじゃない」という意識が。


いつだったか、漫画家の江川達也氏が言っていました。
「なぜ、現代人は”食うこと”にこんなにも執着するのか」と。
「摂食行動」に本能的「快感」がついて回るのは理解できるが、それ以外にいろんな「楽しみ」「快感」で世の中は満ちているだろうに、どうしてこうも「食うこと」ばかりに必死なのか、滑稽ですらある、と。


夏休み前に「何したい?」とレポーターにマイクを向けられた子どもが「おいしいものをたくさん食べたい」。
アホっぽい女がコンビニかどこかで食い物を指さして「これ、ちょーおいしいんだよね!」
…確かに品がない感じがします。


たけし氏も指摘するように、「食」なんて、『本来はちょっと隠しておくぐらいがちょうどいい』のかもしれません。
そうでもしないと、食糧を供給する側・商売人たちの思うツボですよね!


ペタしてね

------------
↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(16)


難しい交渉ごとをする場合、どちらかが正しいかよりも重要なことがある。


相手のいうことにも理があると気づくこと、自分が間違っている可能性を検討することだ。


昔から「盗人にも三分の理」という。
どんな悪党のいうことにも、多少の理屈はあるということだ。
誰かと誰かが喧嘩をする。
それぞれに言い分があるわけだけれど、どちらか一方が100パーセント正しくて、もう一方は100パーセント間違っているなんてことは、まずない。


だから江戸時代には、喧嘩両成敗だったわけだ。


↑(引用ここまで)
-----------


誰かと話をしていたり、本を読んだりしているときに、「この人はまともなことを言うなあ」とか「この人の話は聞く気になる」とか感じるときはきまって、『自分が間違っている可能性を検討する』という「自己懐疑の姿勢」がその人の言葉尻に表れているように思います。


いくら話の内容が正しくても、「オレは正しい」「どうだ見たか!」というグイグイ感が言葉尻に見え隠れしただけで、なんだかその人の話を聞く気をなくします。読む気をなくします。


逆に、「自分は間違っているんじゃないだろうか」「聞く人はどう思うだろうか」と検討しながら謙虚に話す人は、聞いていて(読んでいて)「イヤな感じ」がしない。好感が持てます。


だから、私は他人と話すときも、こうして文章を書くときも、「自分だけがわかったふうな口をきかないようにする」とか「できる限り自分を棚に上げないようにする」とか、聞く人・読む人が「イヤな感じ」に受け取らないように、できる限り配慮しています。


どこぞのおっさんが「こないだ電車乗ったらさー、全員下向いてスマホいじってて、気持ち悪いったらありゃしないね!」とか偉そうにしゃべくる姿にどこか「イヤな感じ」を受けるのは、きっとそんな理由からです。
むしろ私も「内容的にはおっさんと同意見」なのですが、『自分が間違っている可能性を検討する』姿勢のなさ、「聞く人はどう思うだろうか」という配慮のなさが、おっさんの話を聞きにくくしていると思うのです。


とはいえ、明日は我が身。
自分では聞く人(読む人)に配慮して話をしているつもりでも、「おまえの話、聞く気にならんわ」と言われたらおしまいです。
『自分が間違っている可能性を検討する』姿勢が、私の言葉尻や文面からにじみ出るくらいに習慣化されていなければ、と思うと日々身が引き締まる思いです(笑)。


ペタしてね

------------
↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(15)


汝の敵を愛せよ、とキリストはいった。
ローマ帝国に支配された当時のユダヤ人にとって、それは過激な思想だったに違いない。
いや、今現在だって、十分に過激なのかもしれない。


過激な道徳を作れというわけではないけれど、どこかの誰かに押しつけられた道徳じゃなくて、自分なりの道徳で生きた方がよほど格好いい。


高倉健さんは格好よかったけれど、あれはあの人が高倉健という人間を演じたからだ。


それが彼の、いうなれば道徳だった。


自分なりの道徳とはつまり、自分がどう生きるかという原則だ。


昔の人にはそれがあった。


道徳なんて言葉は使わなかったけれど、自分の哲学で自分の行動を律していた。
今の大人たちの性根が据わっていないのは、道徳を人まかせにしているからだ。


↑(引用ここまで)
-----------


…『道徳なんて言葉は使わなかったけれど、自分の哲学で自分の行動を律していた。今の大人たちの性根が据わっていないのは、道徳を人まかせにしているからだ』。


誰に言われたわけでもないのに、自らに独自の「哲学」「制約」を課して、そのルール従って生きる。
その「哲学」「制約」が、世の人たちからいくら「非常識」と言われようとも、頑固に続ける。


漫画「ハンター×ハンター」で、自らの行動に「制約」と「誓約」を課すことで、強い「念能力」を得ることができる、という設定がありましたが(知らない人、ゴメンなさい(笑))、「なんでそんな厳しいルールを自分に課すの? 意味ないやん」と周囲から言われようが、それを遵守することで、誰よりも誇り高く、強くいられるキャラクターたちが印象に残っています。


たけし氏も指摘するように、『性根が据わっている』大人がどうにも少ないと感じるのは、現代人に特有の効率主義で、周りから「ヘンだ」と言われれば不安になり、周囲の目を気にしてばかりの、「こだわり」のない人たちで世の中があふれかえっているからなのかもしれません。


いつだったか、イチロー選手が言っていました。
「他の誰よりも厳しい基準で自分を律していない者に、”個性”などとうそぶく資格はないと思う」と。
実際に、誰よりも厳しい独自のトレーニングと、食事や日々のルーティンワークを徹底して「個性」を磨き続けた彼が言うのですから、説得力がありますよね。


他人から「なんでそこまでするの? 意味ないやん」と言われようが、自身に課した「哲学」「制約」を遵守して歩く。


私なんて、「公共の場で携帯電話やらの画面を開かない」とか「どうせやるなら相手に喜ばれるようにやる」という程度のささいな「制約」ばかりで自分を縛りつけて暮らしていますが、そういった「こだわり」が「私らしさ」を形作っているとも感じます。


「少なくとも自分は、その姿がみっともないと思う」。
「そうすることが”粋”に感じる」。
そんなささいな「こだわり」を体現して、徹底して演じて歩く。
そんな「頑固オヤジ」のひとりでありつづけたいものです。


ペタしてね

------------
↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(14)


子どもが悪いことをしているのに、気づいていなかったら、それは教えてやる。
なぜそれがいけないのかを、話して聞かせればたいていは理解する。


人としてどうしても許せないことをしたら叱るけれど、そういう機会はめったにない。
子どもだってバカじゃない。ある程度の年齢になれば、親の前でそんな悪さをすることはまずない。


最低限のことしか教えないのは、どんなに厳しく道徳を躾けたところで、子どもが自分からそう思わなきゃ意味はないからだ。


結局のところ、道徳は自分で身につけるものなのだ。


たとえば、俺は弟子にも最低限のことしかいわない。理由は同じだ。


最低限というのは、あいさつと礼儀だ。
芸人の世界は縦社会だ。自分より先にこの世界に入った人は先輩として立てなくてはいけない。


(中略)


それくらいの必要最低限のことを教えたら、あとは放っておく。


冷たいようだけど、それ以上は本人が努力するしかない。


↑(引用ここまで)
-----------


…『それくらいの必要最低限のことを教えたら、あとは放っておく。冷たいようだけど、それ以上は本人が努力するしかない』。


是非、世の主婦や教師たちには、たけし氏の言う「弟子」や「本人」という部分を、「自分の子ども」や「児童・生徒」に置き換えて読んでいただきたいところです。


どうしても、親や教師は子どもにしゃべりすぎてしまうし、「なんとかしてやりたい」と思ってしまうものだと思います。
だから、つい口や手が出てしまう。
ちいさなトラブルを未然に防いであげてしまう。
無駄に情報を与えてしまう。


でも、「口の出しすぎ」や「手のかけすぎ」は、子どもや若者の「自立」するチャンスを奪います。
「自分の失敗の傾向」や「自分の趣向」を知るチャンスを奪います。
「自分のアタマで考えようとする」学習のチャンスを奪います。


子どもたちに注目すればするほど、大人の目から見れば、「あ、食べこぼすな」とわかります。「あ、コイツ転ぶな」とわかります。ケンカやトラブルが収拾つかなくなっていることが、すぐにわかります。


でも、一度食べこぼさせなきゃ。
子どもが食べこぼしてから、「どうしてこぼしたと思う?」→「両手で持たなかったから」と気づかせてやればいいんです。
最初から「両手で持ちなさい!」とトップダウン式にやらせていては、「なぜ、両手で持つのか」なんて考えないまま「とりあえず大人の指示通りやっておこう」という人間になっちゃいますよ。


同じように、一度転ばせて、膝をすりむかせなきゃ。
「調子に乗って走りまわったら、自分は段差のないところでも転ぶんだ」と、自分の失敗の傾向を学習しますから。


ケンカやトラブルも、可能な限り放っておかなきゃ。
いつも大人が仲裁してやっていては、子どもどうしで解決するノウハウがいつまでたっても身に付きませんよ。
…小学校や中学校の友人どうしのトラブルにも仲裁し続けてやるんですか?(笑)


たけし氏も指摘するように、『どんなに厳しく道徳を躾けたところで、子どもが自分からそう思わなきゃ意味はない』。
子どもが自分から「両手で持った方がいいな」とか「ケンカやめようぜ」とか思うまで待ってやる、「静観」という選択肢を持たない大人たちが多すぎると感じ、今回こう書きました。


ペタしてね

------------
↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(13)


子どもはなんだかんだいって、親や学校に教わった道徳観の下で生きている。
大人になるということは、その誰か他の人が作ってくれた道徳の傘の下から出て、自分なりの価値観で生きる決断をするということだと思う。


↑(引用ここまで)
-----------


育児の目的は「周囲の大人たちや仲間にかわいがってもらえる下地を仕込んでやって、自立させる」ことだと私は定義しています。


では、いつ親や学校の『傘』から飛び出すのか。
では、いつ「あとは自分で考えて生きてゆけ」と野に放つのか。


そう考えて、赤ん坊や幼児なんかと接すると、「過保護」や「過干渉」といったミスは犯さないように思います。


小学校の先生が「6年間、こういうことを学んで卒業していってほしい」と教育目標や計画を立てて仕事に臨むように、世の母親たちも「いつか自分の”傘”から出ていく」「むしろ自分以外の”傘”から学ぶことのほうが多いかもしれない」と意識しながら「育児」に臨んでくれたら、余計な怒号やお小言が家庭からずいぶん減るだろうになあ、と思ってやみません。


「ほら、こぼすよ!」 …何度かこぼさせて、可能な限り自分で後処理させれば、そのうちイヤでも学習しますって。


「気をつけて歩きなさい!」 …「危ねえなあ」と内心思いながら、ギリギリのところまで黙って見ていましょうよ。「気をつけないとケガするぞ」と子ども自身が実感しないと、自分で気をつけるようになりませんって。


「ほら、ごあいさつは!?」 …黙って待ってやらないと、いつまでたっても自分から言い出すようになりませんよ。


世の母親どもに、あまりに「待つ」「黙る」「自分で考えさせる」姿勢が足りないように思うのは、私だけでしょうか?


子どもをまるで「自分の所有物」のように扱い、「わが子が一番大事」とカネと手間をかけすぎるその姿には、「親の”傘”から自立させる」という育児本来の目的が微塵も感じられません。


とはいえ、私が子どもらに挨拶や気配りをいくら仕込んでも、それらを取捨選択して外で実行するかどうかは、そいつら次第。
逆に、そんなことを何も教えない親の下で暮らしていても、学校やら友だちやら、外で勝手に学んで「気配り上手」になる子どもだっていると思うんです。


そう思えば思うほど、「育児」なんて、「自分が育てたいから育てる」のではなく、「子どもは社会のもの」だよなあ、としみじみ思ったりもするのです。


ペタしてね

------------
↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(12)


道徳の教材を何回めくっても腑に落ちない。


「規則正しく気持ちの良い毎日を」とか「よく考えて節度ある生活を」とか「役割と責任を自覚し集団生活の向上を」とか……。
何気なく読み飛ばしてしまえば、何が悪いのかわからないかもしれない。
机だのロッカーの中だのを整理整頓しようとか、早寝早起きをしようとか、親の手伝いをしようとか、これだけ見れば何も悪いことはないと思うかもしれない。


親にとっても、ロッカーだの本棚だのがきちんと整理できる子どもは、いい子どもかもしれない。
朝は早起き、夜は早寝、親の言うことをよく聞いて、勉強をちゃんとやって、ついでに年寄りには親切で、誰にいわれずともゴミを拾うなら、きっと自慢の子どもだろう。


ただ、俺は疑問に思う。
いい子どもかもしれないけれど、それは教師や親にとって都合のいい子どもというだけのことなんじゃないか。


整理整頓だの規則正しい生活が悪いというわけじゃない。
俺は掃除が大好きだ。何回もいうけれど、飲み屋の便所が汚れていたら掃除をせずにはいられない。


だからといって、世の中の子どもたち全員にそれを押しつけるような教育が正しいとは思わない。
なぜなら、世の中には、いろんなタイプの子どもがいるからだ。


整理整頓が得意な子どももいるだろう。
だけど、そういうことがまったく性に合わない子どももいる。
捕まえてきたトンボだのコオロギの死骸をロッカーに突っ込んでおく子どもを、道徳の教科書に照らし合わせて叱ってはいけないと俺は思うのだ。


それは子どもの好奇心の芽を摘み取るのと一緒だ。


↑(引用ここまで)
-----------


…『いい子どもかもしれないけれど、それは教師や親にとって都合のいい子どもというだけ』。
いや~、胸に突き刺さりますね(笑)。


私自身は別段「整理整頓」が好きなほうではないと自覚しているのですが、子どもが虫の死骸やら、大人の目からはゴミにしか見えないようなものを宝物のようにしまっておいたら、それを許せるか、という「度量」「許容量」を測られているような気分です。


テレビやコンセント周りはホコリだらけ。洗濯や洗い物も毎日やらなくてもいいんじゃないかなあ、と内心思っている、ずぼらな私ですら自分のそういった「許容量」に自信を持てないのですから、世の母親たちを思うに、子どもの「汚れ」「ゴミ」「よそ見」「行動の遅さ」をもっと許せないんじゃないのかあ、とは容易に想像できます。


「汚いから触っちゃダメ!」
「そんなもの捨てなさい!」
「ほら、こぼすよ!」
「早くしなさい!」
…と、日々怒号を浴びせる母親は多いと思っているのですが、そんな母親たちを想像しては、同じように注意したくなる自分を抑え、「静観する」という選択肢を持つように気をつけてはいます。


子どもから必要以上に「バイ菌」を排除すれば、そいつの腸内細菌バランスや細菌に対する耐性が育ちませんし、ちょっとした細菌やウィルスで簡単に風邪をひくようになってしまいます。
いつまでも親が「ほら、こぼすよ!」「早くしなさい!」と注意してやっていては、自分で考えて気をつけようとする姿勢が育ちにくくなります。


そして何よりも、たけし氏も指摘する『子どもの好奇心の芽を摘み取る』発言になってしまっている、というところがキモですよね。
親や教師にとって都合のいい子どもに仕立て上げようと怒号を浴びせる日々のどこに、「そいつらしさ」を育むチャンスがあるというのでしょうか?


多少汚れたっていい。
子どもなんだから、遅くてあたりまえ。


基本「待つ」という姿勢が我々大人に備わっていないと、子どもが「自分のアタマで考える」「自分のミスの傾向を自覚する」「自分の趣向を知る」機会を摘み取りまくってしまうんじゃないか、と私は思うのです。


ペタしてね

------------
↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(11)


たとえば、道徳の教科書で、小学一年生に真っ先に教えるあいさつにしても。
朝、誰かに会ったら、「おはようございます」とあいさつしましょう。
あいさつをすると、自分も相手もいい気持になる。
円滑な人間関係のためには、まずあいさつを憶えましょう、というわけだ。


それは、間違っていない。
俺も、弟子にはあいさつと礼儀だけは、厳しく教える。


だけどそうするのは、弟子を良心的な人間にしようとしているからではない。


芸人として生きていくには、円滑な人間関係は欠かせない。
だから、あいさつはきちんとしなきゃいけないと教える。
それは、弟子の良心とはなんの関係もないことだ。


良心は人間にとって大切なものだと思うけれど、あいさつをいくらしたって、良心が発達するわけではない。


↑(引用ここまで)
-----------


人間は、特に日本人は、「きちんとしていること」に弱い。
それは、我が身を振り返っても、そう思います。…あくまで、個人的な印象なのかもしれませんが。


朝、見知らぬ人から爽やかに挨拶された。
席を立つとき、消しゴムのカスを手で集め、引いた椅子を戻し、ゴミ箱へ向かった。
玄関の靴を、誰が見ているわけでもないのに、自分以外の靴も揃えていた。
ちょっとしたことでも「ありがとう」を言う。


こういった「きちんとした」行為のどれもが、「おお、さすが。やりよるな」と、なんだか嬉しい気持ちにさせてくれますよね。
その上、ふりまく笑顔が素敵だったら、男でも女でも簡単に好感を持ってしまいそうです。…それは私だけでしょうか?(笑)


たけし氏も言うように、こういった「礼儀作法」は「技術」「習慣」として身についていると、「生きやすい」。「周囲に笑顔になってもらいやすい」。「好感をもってもらいやすい」。
これは間違いないと思います。


だから、私は、自分のところで暮らす子どもたちには、「処世術」として、「挨拶」を仕込みます。
保育園の敷居をまたぐときには、「よろしくお願いします」「ありがとうございました」を言わせます。
靴を揃え、事あるごとに「はい」と返事をさせ、そいつ自身の行動で「周りのみんながどんな気持ちになるか」を日常的に考えさせます。
そして、私の目が届かないところでも自然と実践できるよう、「ほら、挨拶は?」「こういうときは、何て言うの?」とせっつかないようにもしています。基本的に自分から言い出すまで待ちます。本人がボーっとしていたら、ケツをたたいて気付かせるくらい。


それらは、彼女たちを確実に「生きやすく」してくれるから。
2歳や4歳でも、ちょっと挨拶できるくらいで、おじさんやおばはんは、「よくできるね~、かわいいね~」と、笑顔になりますもん(笑)。
彼女たちが大人になって、誰が見ていないようなところで、自然と道端のゴミを拾って歩けるようになったら、どれだけ周囲にかわいがってもらえるか…、だけを考えて現在目下、仕込み中です。


とはいえ、子どもの自発的行動を促すには、まずは私がやってみせるところからですよね。
いつも、子どもたちや若者の目線が背中に突き刺さっていると想定して、挨拶をして歩く日々です。。(笑)


ペタしてね

------------
↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(10)


「天下取っても二合半」という諺(ことわざ)がある。
どんなに偉くなっても、一食に食える飯は二合半でしかないということだ。


それと同じ話で、どんなにたくさんの情報が手に入るようになっても、消化できる情報の量が変わるわけではない。
最新の論文が読めるといっても、理解できなければ話にならない。
インターネットにつながればなんでもできるといっても、消化不良で苦しむのがオチだ。


今の世の中は、そういう消化不良がそこら中で起きている。


結局やっているのは、自分の理解力の範囲で生半可な知識を集めて、世の中に対してやたらと憤ったり、意見をしたりしているだけのことだ。
パソコンにかじりついているだけで、世界が変えられるとでも思っているのか。


そういうのをスラックティビズム、怠け者の社会運動という。
まあ、それはWikipediaに書いてあったんだけど……。


自分は何もしないで、世の中を変えようっていうんだから虫がいい。


インターネットのおかげで増えたのは、人類全体の知識の量ではなく、自分が世界中のことを何でも知っていると勘違いして、自分は絶対に正しいと思い込む人の数だ。


何が危険といって、こんなに危険なことはない。


ソクラテスはきっと今頃、草葉の陰で笑っているはずだ。


↑(引用ここまで)
-----------


どんな成功者でも、一食に食える飯の量は、庶民と同じ『二合半』ですし、脳内で処理しきれる「情報」、またそれに割ける「時間」も限られている、というのはみんな一緒ですよね。あたりまえのことです。


そんな中でも私が気になるのは、「時間」の消費の仕方についてです。


気がつけばだらだらと何時間もネットサーフィン。テレビの流し見。。
べつに、とりたてて忙しく「何か趣味を持ちましょう」とか言いたいわけでもないのですが、コンピュータや携帯電話を閉じ、テレビを消し、「無駄に画面とにらめっこするのをやめてみる」という選択肢を持たない現代人は、まるで「機械に操られる奴隷」のようだなあ、と最近よく思うのです。それは、私も含めて。


たけし氏も指摘するように、我々が一生のうちに処理しきれる「情報量」や「時間」は限られています。
だとしたら、それらの多くを、どうでもいい芸能ニュースやらブログやらツイッターやら動画の閲覧やらに割くのでなく、家族や友人たちと顔を合わせて楽しい時間を過ごすほうに費やしたほうがいいんじゃないかなあ、と思うのです。


そう言う私だってネットサーフィンはしますし、こうしてパソコンの画面に向かって長時間文章を書いたりもします。テレビも流し見ちゃったりすることもあります。
でも、「画面から目を離す」「不毛な”情報”に時間を割きすぎている自分に気づき、バランスをとる」という選択肢を持つように気をつけていないと、「何が自分にとって大切なのか」「どんな”生き様”を見せて死んでいくのか」というところから離れたまま、大切な「時間」を浪費していってしまうのでは、と私は思うのです。


どんなに輝いて見える芸能人も、『二合半』。毎日ステーキは食っていないでしょうし(笑)、庶民と同じように、仕事以外の多くの時間を、携帯電話の画面とにらめっこして過ごしていることでしょう。


要は、自分自身の「見え」や「生き様」を意識して日々を過ごしているか。
いったい何に、時間と労力を多く割いて過ごしているか。
そんな「時間の消費の仕方」を見れば、どんな有名人であろうが、一般庶民であろうが、その人のレベルがわかると、最近そんなふうに思って、自分や他人をじっと見てしまうのです。


ペタしてね

------------
↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(09)


これはあくまで印象だが、誰も彼もがインターネットを使うようになって、世の中が昔より不寛容になった気がする。
自分と違う意見の人間、異端児とか異分子に手厳しくなった。
正義感を振りかざし、誰かが何か間違ったことをしたら、徹底的に叩きのめさなくては気がすまない、みたいな奴がやたらと多い。


↑(引用ここまで)
-----------

たけし氏が指摘するような、世間の「不寛容さ」は私もよく感じます。


政治家やら公務員やらの不祥事にせよ、殺人事件にせよ、そんなニュースが報道されるや否や、「絶対的悪は、叩きのめすべし」と言わんばかりの容赦ない風潮には、「おまえらは何様だ?」と言ってやりたくなることも多いです。


脱税も、いじめも、殺人も、世間で「悪」とされているどんなことも、「明日は我が身」。…そうは思いませんか?
一歩間違えれば、私だって、あなただって、十分ありえる話だと思うんです。


目の前に大金を得る話が転がっていれば乗っかってしまうかもしれませんし、職場の嫌いな奴を我慢できず注意したら、思いつめて自殺されてしまうかもしれません。こじれれば、殺人や傷害なんかに発展する可能性なんて、誰もが内包していると思うんです。


そう思えば思うほど、他人の間違いや悪さを責めきれない自分がいるのです。


毎日毎日、テレビのニュース番組でも、インターネットニュースでも、新聞でも、「こんな事件があった」と野次馬根性を煽るだけの(と私には見える)報道が垂れ流されています。
確かに、悪いことは「悪い」ですが、それを徹底的に叩きのめしていいほど、私たちは「正義」でしょうか?


煽られるのにまかせて、「これもダメ」「あれもダメ」と目くじらを立てる日々を送っていると、ちょっとした他人のミスも許せない、しかし自分のことは棚に上げたままの「最低野郎」になっちゃいますよ?


『自分と違う意見の人間、異端児とか異分子』を許せない、平均化・画一化されたものばかりを望む「つまらない人間」「許容量の狭い人間」を量産しているように思えてなりません。


ペタしてね

年齢のせいでしょうか。
大晦日や新年を迎えても、これといって何も感じないようになってしまったのは。


年末も友人たちと集い、モンハンをやったり、子どもらと遊んでもらったりするのは楽しく、嬉しい。
年が明けても、友人たちの口から「お年玉」「お年賀」「初詣」なんて言葉が飛び出すこともなく、時間をみつけては集い、余暇を楽しむ。
ただ、それだけです。


彼らから「あけましておめでとうございます」なんてメールやLINE、ましてや年賀状が届くこともなく、私のところで暮らす子どもらに「お年玉」なんて、いらない金のやりとりも一切ない。
…まあ、そんなものがいらないくらい日頃から顔を合わせている、ということなのかもしれませんし、十数年来の付き合いで、私がそういう不毛なやりとりに違和感を覚えるという性質を、彼らがよく知ってくれているだけなのかもしれません。


彼らと一緒にいるときには、そんなことは特に考えたりもしないのですが(そんな暇がないくらいモンハンやらに明け暮れているだけなのかもしれませんが(笑))、ふと彼らが帰ったあとに、「あいつら、”お年玉”だなんて一言も言わなかったなあ。素敵な連中だ」としみじみ感慨にふけってたりもするのです。


子どもらは、夜も10時になれば「子どもは寝る時間だ」の一声で勝手に布団へ行って寝てくれますし、大人たちは安心して深夜までモンハンができます(笑)。
そんな場面からも、子どもらへの「仕込み」がだいぶ進行していることを確認できます。


年末年始に「特別」な感じがないことが、いいことなのか悪いことなのかわかりませんが、確実に「世間に踊らされない」素敵な人間関係がそこにあることを嬉しく思った正月でした。

ペタしてね