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↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(14)
子どもが悪いことをしているのに、気づいていなかったら、それは教えてやる。
なぜそれがいけないのかを、話して聞かせればたいていは理解する。
人としてどうしても許せないことをしたら叱るけれど、そういう機会はめったにない。
子どもだってバカじゃない。ある程度の年齢になれば、親の前でそんな悪さをすることはまずない。
最低限のことしか教えないのは、どんなに厳しく道徳を躾けたところで、子どもが自分からそう思わなきゃ意味はないからだ。
結局のところ、道徳は自分で身につけるものなのだ。
たとえば、俺は弟子にも最低限のことしかいわない。理由は同じだ。
最低限というのは、あいさつと礼儀だ。
芸人の世界は縦社会だ。自分より先にこの世界に入った人は先輩として立てなくてはいけない。
(中略)
それくらいの必要最低限のことを教えたら、あとは放っておく。
冷たいようだけど、それ以上は本人が努力するしかない。
↑(引用ここまで)
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…『それくらいの必要最低限のことを教えたら、あとは放っておく。冷たいようだけど、それ以上は本人が努力するしかない』。
是非、世の主婦や教師たちには、たけし氏の言う「弟子」や「本人」という部分を、「自分の子ども」や「児童・生徒」に置き換えて読んでいただきたいところです。
どうしても、親や教師は子どもにしゃべりすぎてしまうし、「なんとかしてやりたい」と思ってしまうものだと思います。
だから、つい口や手が出てしまう。
ちいさなトラブルを未然に防いであげてしまう。
無駄に情報を与えてしまう。
でも、「口の出しすぎ」や「手のかけすぎ」は、子どもや若者の「自立」するチャンスを奪います。
「自分の失敗の傾向」や「自分の趣向」を知るチャンスを奪います。
「自分のアタマで考えようとする」学習のチャンスを奪います。
子どもたちに注目すればするほど、大人の目から見れば、「あ、食べこぼすな」とわかります。「あ、コイツ転ぶな」とわかります。ケンカやトラブルが収拾つかなくなっていることが、すぐにわかります。
でも、一度食べこぼさせなきゃ。
子どもが食べこぼしてから、「どうしてこぼしたと思う?」→「両手で持たなかったから」と気づかせてやればいいんです。
最初から「両手で持ちなさい!」とトップダウン式にやらせていては、「なぜ、両手で持つのか」なんて考えないまま「とりあえず大人の指示通りやっておこう」という人間になっちゃいますよ。
同じように、一度転ばせて、膝をすりむかせなきゃ。
「調子に乗って走りまわったら、自分は段差のないところでも転ぶんだ」と、自分の失敗の傾向を学習しますから。
ケンカやトラブルも、可能な限り放っておかなきゃ。
いつも大人が仲裁してやっていては、子どもどうしで解決するノウハウがいつまでたっても身に付きませんよ。
…小学校や中学校の友人どうしのトラブルにも仲裁し続けてやるんですか?(笑)
たけし氏も指摘するように、『どんなに厳しく道徳を躾けたところで、子どもが自分からそう思わなきゃ意味はない』。
子どもが自分から「両手で持った方がいいな」とか「ケンカやめようぜ」とか思うまで待ってやる、「静観」という選択肢を持たない大人たちが多すぎると感じ、今回こう書きました。
