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↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(16)
難しい交渉ごとをする場合、どちらかが正しいかよりも重要なことがある。
相手のいうことにも理があると気づくこと、自分が間違っている可能性を検討することだ。
昔から「盗人にも三分の理」という。
どんな悪党のいうことにも、多少の理屈はあるということだ。
誰かと誰かが喧嘩をする。
それぞれに言い分があるわけだけれど、どちらか一方が100パーセント正しくて、もう一方は100パーセント間違っているなんてことは、まずない。
だから江戸時代には、喧嘩両成敗だったわけだ。
↑(引用ここまで)
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誰かと話をしていたり、本を読んだりしているときに、「この人はまともなことを言うなあ」とか「この人の話は聞く気になる」とか感じるときはきまって、『自分が間違っている可能性を検討する』という「自己懐疑の姿勢」がその人の言葉尻に表れているように思います。
いくら話の内容が正しくても、「オレは正しい」「どうだ見たか!」というグイグイ感が言葉尻に見え隠れしただけで、なんだかその人の話を聞く気をなくします。読む気をなくします。
逆に、「自分は間違っているんじゃないだろうか」「聞く人はどう思うだろうか」と検討しながら謙虚に話す人は、聞いていて(読んでいて)「イヤな感じ」がしない。好感が持てます。
だから、私は他人と話すときも、こうして文章を書くときも、「自分だけがわかったふうな口をきかないようにする」とか「できる限り自分を棚に上げないようにする」とか、聞く人・読む人が「イヤな感じ」に受け取らないように、できる限り配慮しています。
どこぞのおっさんが「こないだ電車乗ったらさー、全員下向いてスマホいじってて、気持ち悪いったらありゃしないね!」とか偉そうにしゃべくる姿にどこか「イヤな感じ」を受けるのは、きっとそんな理由からです。
むしろ私も「内容的にはおっさんと同意見」なのですが、『自分が間違っている可能性を検討する』姿勢のなさ、「聞く人はどう思うだろうか」という配慮のなさが、おっさんの話を聞きにくくしていると思うのです。
とはいえ、明日は我が身。
自分では聞く人(読む人)に配慮して話をしているつもりでも、「おまえの話、聞く気にならんわ」と言われたらおしまいです。
『自分が間違っている可能性を検討する』姿勢が、私の言葉尻や文面からにじみ出るくらいに習慣化されていなければ、と思うと日々身が引き締まる思いです(笑)。
