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↓『子どもの脳によくないこと』小西行郎著、PHP新書、2011)より引用(12)


この時注意しなくてはならないのは、先回りや後追いをしないことです。
せっかく、自分で考えて行動をしようとしている子どもに、予想の付く失敗を先回りして回避させたり、「どうしてこうしなかったの?」と根掘り葉掘り尋ねた挙句にお説教していたのでは、何にもなりません。
親の側は、ぐっとこらえて我慢しなくてはいけないということです。


↑(引用ここまで)
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これは、自戒の念も込めて言いますが、先回りしちゃってる親、多いですよね~。


「ほら、こぼすよ!」とか。
「気をつけて歩きなさい!」とか(笑)。


そりゃあ誰だって、汚れたものを処理するのは面倒ですし、ひょいと親が回避してあげてしまったほうがラクであることは十分わかります。


…でもそれは、子どもから「失敗する」「失敗から学ぶ」「危険を予測する」経験を奪ってしまうことになりますよね。
先回りしてくれる「親切な」大人のいないところでは、そいつは「ポンコツ」扱いされかねません(笑)。


やっぱり、親の側に「子どもにばかり注目しない」習慣が身についていないとダメだと思うんです。
毎日子どもと向き合ってばかりいると、どうしても「先回り」してあげたくなるような場面に出会いやすい。
親の目が比較的外に向いていれば、子どもは子どもで勝手にひとり遊びするようになりますし、親の見ていないところで勝手に失敗して、勝手に修正していくもんですよ。
…麦茶をこぼして勝手に拭いて、子どもの拭き忘れた個所がびちょびちょでビックリしたりしますけど。。(笑)


また、「後追い」もよくない。
子どもが失敗してから、「なんで○○したの!?」「どうして○○しなかったの!」と怒号を浴びせる母親は少なくないと思うのですが、その「疑問形」による追いつめ方はやめたほうがいいんじゃないかなあ、とよく思います。


「なぜ、そうしたのか?」 …いやいや、子どもはやってみたかったんでしょうよ(笑)。
「どうして、きちんとやらないのか?」 …子どもはそんな上手にできませんって。あなたが子どもの頃は、一発できちんとできたとでも?(笑)


「なんで…」「どうして…」と、「疑問形」で追いつめるのは、絶対によくないですよ。
その詰問自体に、意味がないんですもん。
ただただ、失敗したそいつを非難しているだけなのですから。


私は、子どもが同じ失敗を二度したら、「こら、ボケー」と一喝しますが、そのあとは「うわー、やっちまったなあ」→「ごめんなさい」→「ドンマイ」と、軽めのやりとりで終わるようにしています。
子どもの失敗の後処理は、洗濯や掃除がついて回るものなのでそりゃイヤですが、感情的になってこれでもかと追いつめなくたって、子どもは学習するもんですよ。


子どもには、一度こぼさせる。走って転んで擦りむかせる。命にかかわる重大なケガをしそうな場面以外は、放っておく(ふりをする)。
親が「先回り」してやっている限り、「自学自習」の姿勢は身に付きにくい。


そして、子どもが何かやらかしても、「後追い」しない。
「なんで…」「どうして…」という詰問は、教育的効果を下げるばかりで、いいことはありません。


…そのどれもこれもが、「子どもと乳繰り合うより、大人どうしのつながりを大切にする生き様」を体現することで、「子どもから適度に目を離す」ことができて、だいぶ回避できるんじゃないかなあ、と思い、今回こう書きました。


ペタしてね

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↓『子どもの脳によくないこと』小西行郎著、PHP新書、2011)より引用(11)


どこで調べてくるのやら、子どものための学習教材のDMが送られてくると聞きます。
子どもは恰好の儲かるビジネスですからね。
それを「いいかも」と安易に買っているから、というわけではないでしょうが、昨今、多くの学習教材を子どもに与えている家庭が本当に増えています。
インターネットで手軽に買えることもあり、種類も増えているようです。


フラッシュカードで単語を覚えるもの、ドッツのカードで算数を教えるもの、キャラクターの外国語習得のもの、同じくキャラクターで読み書きを教えるもの、パズルで地図を教えるもの、金融について教えるものまであるのですから、もう数え上げればきりがありません。


ここで忘れならないのは、これは企業のビジネスだということです。
これが枕だ、布団だと言えば「うちは結構です」と断れる人も、子どものためなら……とお金を払ってしまうのです。
そこに狙いをつけた商売であることをまずしっかり認識してください。


↑(引用ここまで)
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「所詮は”商売”だから」と、私はよく口にします。


「アカチャンホンポ」や「西松屋」なんて、主婦の方々にとっては行きつけのようなお店でしょうが、本っ当~に、「これ、必要か?」というものまで平然と売られています。
それこそ「知育」モノから、赤ん坊の「歩行補助器」なんてものまで、あたかも「○か月になったら、これを買って始めるのがスタンダード」みたいな顔をして陳列されているのです。
…そりゃあ、育児に不安で右も左もわからない主婦層は、思わず手にとってしまうだろうになあ、と感心してしまうほどです。


アンパンマンやキティちゃん、ディズニーキャラクターなんかを使って、それはそれは魅力的に作らていますよ。
…少なくとも、幼児が通りかかったら、ついつい「あれ買って」と親にせがむくらいには(笑)。
ディズニーキャラクターものなんて、むしろ母親のほうが「これ、かわいい」なんて言って、買ってしまうかもしれません。


しかし、私に言わせれば、どれもこれも「本来、必要ないもの」「購買意欲を煽るよう作られた”商品”」です。


「子どもは、外に出て大人にかわいがってもらえる”自立心”と”愛嬌”が育ってくれればいい」
「大人は、できるだけ子ども以外のところに目を向けて”魅力的なひとりのオトナ”でいたほうがいい」
…と、常日頃から豪語している私としては、どうにも「子どもにカネをかける」ことに抵抗がありますし、「商売人の誘導に乗っかってしまう」のもなんだか癪に障ります(笑)。


だから、子どもの「あれ買って」には、基本乗っかりません。基本乗っからないから、あまり要求してこなくなります。


妻が「これを買ったら便利」と提案してきても、基本は「必要ない」「それがなくてもやっていける」と答えることにしています。


習い事も、「保育園に週一でピアノの先生が来るらしいけど、習うか?」と子どもに聞いて、「やらないです」と答えたら、別にそれ以上深追いはしません。
…将来、幼稚園や保育園の先生を目指すのに必要だとしても、そうなったら、そのときにそいつが頑張ればいいだけの話です。


そう考えると、世に売られているどんなものも、「必要ないもの」に見えてきます。


「必要なもの」なんて、オムツと石鹸と歯磨き粉…くらいなもんですかね(笑)。


ペタしてね

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↓『子どもの脳によくないこと』小西行郎著、PHP新書、2011)より引用(10)


一方で、叩かない方針のお父さんやお母さんは、その場合、言葉で理詰めによって、言って聞かせようとします。
いつもこうだとどうでしょう?
それこそ、評論家のような理屈っぽい子どもに育ってしまうのではないでしょうか。
後にも述べますが、最近、特に多いですね。人ごとのように自分のことを話す子どもが。
「あなたのことなんだよ」そう言いたくなるような子どもがいます。


↑(引用ここまで)
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私もけっこう「○○だからダメだ」「○○だからこれはいいよ」なんて、いちいち理由をつけて子どもを諭すほうなので、「理屈っぽい子どもに育ってしまわないように」と気をつけています。


子ども自身が、ある程度「納得して」叱られることが原則だとは思いますが、ときには「ダメなものはダメだ!」と問答無用で一蹴するパターンもはさんでいかないと、小西氏も指摘するような『人ごとのように自分のことを話す子ども』になってしまう危険性は大きいのではないかと思うのです。


というか、これは何も子どもに限ったことでなく、世のおっさんやおばはんの多くが、そうですよね。
「自分だけがわかったような口ぶりで話す」おっさん然り。
「自分のことは棚に上げて、ワイドショー番組に毒づく」おばはん然り。
…「オマエは何様やねん?」とツッコみたくなることは多いですもん。


その「自分だけがわかったような」語り口に感じる「違和感」「サブい感じ」の要因はおそらくふたつ。
ひとつは、「自分は間違っているんじゃなかろうか」という自己懐疑や向上心の欠如。
もうひとつは、「聞く人への配慮」、もっと言えば「サービス精神」の欠如。
…「自分は正しい、自分だけは斜めからものが見れている」「自分がしゃべりたいからしゃべる」人の話って、つまらないですもんね。できれば聞きたくない(笑)。


とはいえ、明日は我が身です。
「オマエも自分だけが正しいと思ってしゃべってるやろ!」「聞く人の気持ち考えてしゃべってる?」なんてツッコまれないよう、自分の立ち位置のバランスを考えながら、話の端々に「笑い」や「オチ」をはさんだりして、気をつけて話すように心掛けています。


「評論家」のような子ども、「評論家」気取りの大人、そのどちらも多いと感じ、今回こう書きました。


ペタしてね

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↓『子どもの脳によくないこと』小西行郎著、PHP新書、2011)より引用(09)


「自分の都合だけで叱るな」とよく言われます。
確かにその通りだと思いますが、時には自分の都合で叱ることがあってもいいのではないかと、私は正直なところ思っています。
常に完璧な態度で、冷静であり、子どもの行ないについて注意する、そんな聖人君子のような人、いるのでしょうか?


「今日はお父さん、ちょっと機嫌が悪いみたい」


そう言って、人の顔色を見ては近寄らないようにしたり、調子よく返事をしたり、そんな経験はありませんか?


「今日は課長、なんかイライラしてないか?」


そう言って、その日はなるべく避けて通る、とか?


昔は、カミナリおやじが、どこにでもよくいたものです。
今では怒っちゃダメ、褒めましょう、間違って怒ってしまったら謝りましょう、などと育児所に書かれていて、その通りにしていらっしゃる方も多いのではないかと思います。


果たしてそれでいいのでしょうか?


最近の子どもは理不尽なことに慣れていません。
近所のおじさんに無関係にいきなり怒鳴られたり、弟や妹が悪いのに自分が全部まとめて怒られたり、そんな理不尽さに慣れていない今の子どもたちは、ほんの少しの矛盾に遭遇するとすぐに、落ち込む、すねる、キレる……。


子どもを叱らないで育てるなんて、有り得ません。ガラス細工の子どもを作り出しているようなものです。
悪いことは悪いと、確固とした態度で叱るべきです。
顔色を見ることがまるで悪いことのように言われていますが、顔色を見られるということは大切なことです。
相手を気にしてコミュニケーションが取れているからこそ、相手の顔色も見られるのです。
これも社会勉強、経験だと思うのですが、どうもこの辺りの考え方がいろいろと異なっているような気がしています。


↑(引用ここまで)
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子どもや若者を叱るとき、「相手にどれくらい耐久力があるか」「すねたりして聞く耳持たないんじゃないか」と考えて叱れば叱るほど、「子どもや若者の顔色をうかがいながら言葉を選んで話す」自分に気づかされます。…そしてそれは、本末転倒であることにも。


本来、子どもや若者は、大人の逆鱗に触れないように、大人の顔色をうかがいながら、その中である程度自由に過ごすものですよね。
それは別に「パワハラ」みたいな権力主義ではなくて、「分を弁える」「自分がまだ勉強中であることを自覚して暮らす」、どこに行ってもかわいがってもらえる若者を育てる、という意味合いを含んだものです。


だから、子どもや若者の言動が自分にとって「不快だ」「おかしい」と感じたら、ストレートに怒ったっていいと思うんです。
小西氏の言葉を借りれば、『時には自分の都合で叱ることがあってもいい』と。


もっと、大人の都合、「快・不快」で子どもを振り回してもいいし、「理不尽」な叱り方をしてもいい。


ただでさえ、昨今の少子化で、大人たちの意識が子どもひとりに向かいやすく、祖父母だけでなく、全体的に「子どもに甘い」世の中になってきているでしょうから、「オマエに嫌われても、痛くも痒くもないよ」と一貫した態度で叱れる「父性」を持った大人がもっと周りにいてもいいと思うんです。…というか、絶対的に数が足りないのが現状ではないでしょうか。


私も、どちらかというと「甘い」部類の人間だと自覚していますから、「役割意識」として、「父性」を演じて歩く側面は大きいと思います。
みなさん、嫌われたくない気持ちはわからんではないですが…「父性」を他人任せにしないで、自分で「ダメなものは、ダメだ」と言いません?
…ガキどもに大人がナメられないためにも!(笑)


ペタしてね

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↓『子どもの脳によくないこと』小西行郎著、PHP新書、2011)より引用(08)


三歳神話がもう絶対でないとしたならば、お母さんはどんどん外に出ていくべきだと私は考えます。
なぜなら、そのほうが子どもをみんなで育てられるからです。
いろいろな人の目が子どもに注がれるからです。


昔は、三世代の同居なんて当たり前でした。
だからお祖父さん、お祖母さんの育児の担当部分も多かったのです。
お父さんやお母さんの子どもの頃の話を教えてもらったり、知恵袋の知識で助けてもらったり。
お父さんにひどく叱られた時には、お祖母さんが優しくフォローしてくれたり……。


今、進化心理学ではおばあさんという存在が注目されており、子どもを産めなくなった女性が生き残っているのは育児をするためであろうと言われているのです。
これはヒトという生物のみに見られることだと言われています。


今でも福井県のほうでは、お祖母さん育児が主流のようです。
お祖母さん一人では子育てはできませんから、必然的にみんなで子どもを見ることになります。
そして家族だけではなく、社会全体で育児ができるようになります。


一人で育児を抱え込むと、お母さんの精神的負担がどうしても重くなって、極端な発想になっていってしまうおそれがあります。


↑(引用ここまで)
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世の主婦たちが「子どものため」「子どもが大事」とか言うのなら、『いろいろな人の目が子どもに注がれる』環境を作るほうが先じゃないのか、と言いたくなることは多いです。


平たく言えば、「てめえひとりで、バランスのいい”育児”ができると思うな。思い上がるなよ」ってことです。…言いすぎですかね(笑)。


「子ども」は、個人の所有物などではなく、どちらかというと「社会のもの」。
できる範囲でバランスよく、周囲の大人たちにかわいがってもらえるような若者に仕立て上げて社会に出してやることが「育児」のおおかたの目的であることは、みなさん異論のないところでしょう。


だから、ひとりで抱え込むの、やめましょうよ。
できる範囲で、自分の友人たちやら、職場のおっちゃんやおばちゃんやら、祖父母やら、いろいろな大人に子どもを関わらせるようにしましょうよ。
そして、子どもなんかと乳繰り合ってないで、もっと大人どうしで仲良くなって、楽しい毎日を送りましょうよ。…大きなお世話ですかね?(笑)


私もどちらかというと、ひとりで抱え込んで、なんでもかんでも自分でやってしまうタイプの人間ですから、あまり「子ども」にばかり意識が向かないように気をつけています。


多少うるさくても、放っておく。
ケンカやトラブルがあっても、いきなり大人が介入せずに、まずは子どもたちだけで解決させてみる。
友人たちに頻繁に遊びに来てもらって、子どもらと遊んでもらう。泊まりにも行かせてもらう。大人どうしでも遊ぶ。
子どもを職場の飲み会や旅行にも連れて行かせてもらう。いろんな大人に遊んでもらう。


子どもを「家庭」に閉じ込めない、大人も「家庭」に閉じこもらない。


いろいろな人の目が子どもに注がれたほうが、子ども自身も、いろんな人たちの影響を受けて、バランスよく育つでしょう。
「自分が目を離しても大丈夫」という環境が多くあることは、大人の精神衛生上にとってもいいことだと思うんです。


街中で、「やめなさい」なんて言いつつも、子ども一匹言うことを聞かせられない母親なんかを見ると、「母親ひとりで育児を抱えているのかなあ」「いろんな大人が関われていれば、ああはならんだろうになあ」と、勝手にもそんなことを思いながら眺めてしまうのです。


ペタしてね

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↓『子どもの脳によくないこと』小西行郎著、PHP新書、2011)より引用(07)


日本子ども学会で、アメリカでの十二年に及ぶ調査の結果が発表されました。
乳児期の赤ちゃんの母親が早期に就労復帰したことで、その後の子どもの問題行動に影響を及ぼすかを追跡調査した結果です。
十二歳までの調査にはなりますが、母親が早期に就労復帰しても、子どもへの問題行動には関係がないという結果が出ています。


この結果からも、子どもが三歳までは母親が育児をしなくてはならない、母親の愛情が絶対に必要、そう思い込むのは、もう終わりにしていいと思います。


↑(引用ここまで)
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「母親が○○するものだ」「○○は女性の仕事」という先入観に苦しめられている女性は、いまだに多いと感じます。
もしくは、世の男性たちが(女性自身すらも)「女がやるものだ」と思い込んでいる現状に疲れ、あきらめ、「自分がやるしかないのか」と、献身的に家事に育児に忙殺される毎日を過ごしている人がいるであろうことも、想像に難くありません。


小西氏が指摘するように、『そう思い込むのは、もう終わりにしていい』と思いませんか?


子どもは、誰が育てても大差ない。
もっと言えば、「親」である必要もない。


料理だって、洗濯だって、誰がやっても大差ない。
どこのレストランでも、プロの料理人はむしろ男性ばかりですよ?


「母親の愛情」「母性」なんてフワフワしたものが、「ありもん」みたいに扱われている現状に、私はとても違和感を覚えます。


私は男ですが、毎日ご飯を炊いていて、ちょっと量が少ないと思ったら、自然と子どもの分を増やして、自分の分を減らしますよ。普通のことです。
これを母親がやったら、「母性本能」とか言うんでしょう(笑)。
そんなもん、「母性本能」でも何でもないですよ。男の私でも多少の「自己犠牲」なんか苦にならないんですから。


だから、私は「女性ならではの発想」「母親目線」みたいな物言いには懐疑的です。
別に女性だからといって、「子育て」の能力が男より高いわけでもない。「料理」の腕前が優れているとも限らない。
むしろ、やらないだけで、それが得意な男性だって多いのかもしれません。


ただ、世の「主婦」の多さを見れば、「育児」や「料理」のスキルが必要に迫られている女性が多いことは、わかります。
そして、それは格好の「商売」のターゲットになりうることも。


「子育て」や「料理」は、女性誌やネットの世界ではもはや一大産業でしょうから、「母親の愛情」「母性」というワードすら、出版業界の宣伝文句として作り上げられたものじゃないか、と勘繰ってしまうくらいです。


そう思えば思うほど、中途半端な「女性らしさ」をうたう輩には、疑いの目を向けてしまうのです。
…「それ、本当に”女性”じゃなきゃできないの?」と。


ペタしてね

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↓『子どもの脳によくないこと』小西行郎著、PHP新書、2011)より引用(06)


中国では一人っ子政策の中で「一・二・四症候群」と呼ばれる子どもが少なくないと言われています。
一人の子どもに両親とその祖父母、つまり一人の子どもに六人の大人が振り回されていて、かえって非行や引きこもりを増やしたのではないかと言われているのです。


↑(引用ここまで)
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ガキの一挙手一投足に振り回されている大人、多いですよね~(笑)。


「やめなさい」「ほら、言ったでしょ」なんて母親が一応大声をあげるものの、大人をナメくさったガキが聞くわけもなく、やりたい放題。自分の思い通りにならないとすぐ泣く。周りの大人たちはガキひとりに言うことを聞かすこともできず、おどおどするばかり。。
まるで、バカ殿様とその従者たちです(笑)。


小西氏が中国の「一・二・四症候群」を引き合いに指摘するように、まずもって、大人たちがガキひとりに注目を浴びせすぎなんですよ。
いつも注目されている、黙っていてもメシは出てくる、ちょっと泣けばご機嫌をとってくれる…こんな待遇を毎日受けていたら、そりゃあ勘違いしちゃいますよ。…デートで奢ってもらうことを当然と思っている調子に乗った美人のように(笑)。


もっと周りの大人たちが「子どもに興味ないふり」「大人には大人同士の楽しみがある、という姿」を見せるようにしなくちゃいけませんよね。
泣いたら泣いたで30分くらい放っておけば、子どもからこちらの顔色をうかがってきますから。…うるさいからといって、お菓子やDVDを与えて黙らせるなんて、愚の骨頂です。
こちらがガキの顔色をうかがう図式が出来上がっちゃいますもんね。ここは、うるさいのを我慢して、「オマエになんて興味ないよ」って顔をしておかないと。
…ガキはガキで、わかっているんですよ。うるさく泣きわめけば、こちらが不快に思うのを。
だから、根くらべです。
ガキが泣き疲れるのが先か、大人が「うるさくてかなわん」と折れるのが先か。
「生まれて間もないオマエごときに、我慢くらべで負けるか、ボケ」と意地になるべきでしょう、ここは。


そして私は、そういった「根くらべ」場面では、親がどんなに急いていようと、大人が「全勝」することが重要だと思っています。
「子どもである自分の要求は、基本通らない」ことを痛感させてやることが大切です。


だってそのまま大きく育ってしまったら、「幸せのハードル」が高いまま学校や社会へ出ることになってしまうから。
ちょっと自分の思い通りにならなかったら、不満を口にする。泣く。
自分が注目されなかったり、なにか壁に当たったりするだけで、すぐにストレスを感じる。
…こんな感受性が身についてしまった子どもは、「幸せ」とは言えないですよね。
世の中へ出たら、自分の思い通りにいかないことばかりです。
だから、せめて親や、そいつの周りの大人くらいは、「幸せのハードル」をできるだけ下げてやるように努めてあげましょうよ。


私のところで暮らす1歳児も、2歳が近くなって、いよいよ「勝負」してくるようになりました。


家に帰って「ただいま」を言い忘れたことを指摘しただけで、後には引けないと思ったのか、への字口でだんまりを決め込みます。こちらの出方をうかがっているのです。
ここは負けるわけにはいきません。
そいつが「ただいま」「ごめんなさい」を言うまで根くらべです。


…私の父の遺言(まだ死んでいませんが…笑)では、「3歳までで勝負は決まってしまう」とのことです。おそらく真実でしょう。


子どもの「幸せのハードル」を下げてやるために、みなさんもっと「勝負」しませんか?


ペタしてね

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↓『子どもの脳によくないこと』小西行郎著、PHP新書、2011)より引用(05)


おもちゃを与えられれば、赤ちゃんは喜ぶでしょう。
福井県のほうでは、おもちゃのことを「孫渡し用品」と言い、お祖父さんやお祖母さんが買って手渡すのだそうです。
赤ちゃんが好むというより、お祖父さんやお祖母さんが好きなものを買って渡すのです。
だからおもちゃもじいちゃん・ばあちゃんの好みに沿って作ってあると言えるかもしれません。


またたくさんおもちゃの溢れているご家庭も多いですが、新しいおもちゃを一方的に渡していたら、その赤ちゃんは考えることをしなくなってしまうでしょうね。
与え方によって、赤ちゃんが自分自身で考えるようになるのか、それとも受け身になってしまうのか、よく考えてみるべきでしょう。
最初は少し要求を出させてみるというか、赤ちゃんを少し困らせてあげるくらいでいいのではないかと思います。
考えさせてあげる余裕が大事なんですね。


↑(引用ここまで)
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育児をはじめて実感することは、「おもちゃなんて、別にいらねえな」ということです。


おもちゃなんて買い与えていなくても、子どもは勝手に、あき段ボールから、チラシの裏紙から、ゴミとして出したはずのペットボトルから、なんでも即席の「おもちゃ」として引っ張り出して、勝手に遊んでいます。


大人から見ればただのゴミのようなものでも、それはそれは楽しそ~うに1時間でも2時間でも遊んでいます。


本当は録りためたテレビ番組でも観たいのですが、あまりに楽しそうに、一心不乱にチラシを折り込んでいるので、テレビをつけるのをためらうくらいです(笑)。


だから、福井県の『孫渡し用品』という呼び方には非常に好感が持てます。
しょせん「おもちゃ」など、メーカーが「売りたい」から、親や祖父母に「金を出させたい」から、「商売」として成立しているものなのであって、「子どもにとって必要」というよりは「大人が買ってあげたい」という一方的な欲求を満たすものにすぎない。
…そんな「きっぷのよさ」というか、「買ってあげて、喜ぶ顔が見たいんだからいいじゃない」という「おもちゃとの付き合い方」がその呼び名には表れていると感じます。


また、「おもちゃ」や「テレビ」「DVD」は、あくまで「コミュニケーション」「共感」の道具だよなあ、と子どもたちを見ていて感じさせられます。


一心不乱にチラシを折り込む子どもも、10分に1回くらいは、「ねえ、これなんだと思う?」とか、「こんなのできちゃった」「ねえ、ここハサミで切ってください」とこちらに話しかけてきます。


子どもらと全話一緒に観たテレビドラマ「ワカコ酒」も、餃子やビールが食卓に上がるたびに、「共通の話題」として「おもしろかったよねー」「ぷしゅー」なんておしゃべりができます。非常に楽しい「共感」ですよね。


そしてそれは、我々「大人」が世に数多ある「エンターテインメント」とどう付き合っているのか、にも表れると思うんです。
私自身も、誰かと「コミュニケーション」「共感」できるから、「ドラクエ10」もやりますし、「おい! ピータン」も「よつばと!」も読みます。そして友人にも勧めます。生活の至るところに「これって”ピータン”のあの話みたいだよね」が転がっていますから。
だから、個人的には、3DSで「ドラクエ7」を買っても、好きな漫画を買っても、誰も「共感」する人がいないものは、タンスの肥やしにしかならないことがわかってきたので、誰かと「コミュニケーション」がないゲームや漫画は買わないようになってきました。


子どもと「コミュニケーション」「共感」のないおもちゃやDVD、テレビ番組は与えない。
私は子どもらに、私が興味のないような子供向けテレビ番組を見せて放置することはしませんし、おもちゃも特段買い与えません。
それは私が、「子ども」相手とはいえ、「大人」の友人たちと同等の「コミュニケーション」「共感」ができる人間関係を求めているからかもしれません。


ペタしてね

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↓『子どもの脳によくないこと』小西行郎著、PHP新書、2011)より引用(04)


今の日本の育児環境の中で、ないがしろにされているのが、この「触る」という感覚だと私は思っています。
汚いとか、危ないとか、後始末が大変だからとか、様々な理由を挙げてお母さんは、赤ちゃんにものを触らせないようにしてしまっています。
視聴覚が中心となり、触覚など置き去りにされてしまっています。


生後五カ月の赤ちゃんは、ものを立体視することができません。
それを触って、口に入れて、まずその形状を確認します。
そして初めて、立体として認識することができるのです。
この動作を積み重ねて、赤ちゃんは口に入れなくても、それが立体であることがわかるようになっていきます。


その地道な確認作業に比べ、視覚や聴覚は素早い速度で情報が入ってきます。
ですから処理するほうもすぐに解釈や判断をしなくてはいけませんが、触覚だけは、ゆっくりと確認することができます。
触りながら見ます。
そして「なんだろう?」と考えます。
赤ちゃんが自分からコントロールすることができる唯一の感覚。
それが触覚なのです。


そのことを常に頭に置いて、赤ちゃんが触覚を使って確認しているのを、温かい目で見守ってあげようではありませんか。


赤ちゃんと呼ばれる乳幼児の頃に赤ちゃんにとって大切な育児とは、「赤ちゃんのやることを邪魔しない」ということに尽きます。
自発的な行動を邪魔することなく受け入れてやることです。
強迫観念にかられて、何かをしなくてはならないと思わないことです。
それには時間をかけてじっくり待つということを、心得てほしいと思います。


↑(引用ここまで)
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小西氏が指摘するように、他人の育児を見ながら『時間をかけてじっくり待つということを、心得てほしい』と感じさせられることは多いです。これは、自戒の念も込めて言っています。


たとえば、子どもをチャイルドシートに乗せるとき。
そりゃ子どもは大人に比べて動きが遅いですから、大人がひょいと抱えて乗せてしまえば簡単です。
でも、1歳児がなんとか「地面→車の足場→シートの上」の順に自力で登っていこうとしていたら、私は時間の許す限り待つことにしています。


「子どものやることを邪魔しない」。
「自発的訓練の場を奪わない」。
これに限ります。
…おかげで、1歳児のくせに、自力でチャイルドシートまで登れるようになっています。


また、同じ理由で、階段や段差のあるところでも、できるだけ手を貸さないようにしています。
子どもの手は汚れるし、抱っこを要求してくるのを突っぱねるのも一苦労だし、遅いしで、ついつい手を貸してやりそうになりますが、そこはグッとこらえます。


「親がやってしまえば早く済む」というところに、「自主性」や「礼儀」を仕込むチャンスは転がっています。これを逃す手はありません。


そんなこんなで、すでに3歳児が習得していることで言えば…
保育園から帰ったら、「ただいま」と大きな声で挨拶をしてから、靴をそろえる。自分で洗濯物を出す。出した洗濯物の数から逆算して、明日の着替えを用意する。お箸セットとコップをキッチンに自分で持って行って洗う。ゆで卵の殻を剥いたり、夕飯のお手伝いをする。夕飯を食べ終わったら「ごちそうさまでした」と言って、食器を片付ける。「洗ってください」「お願いします」と一言も添える。…次のお題は、「洗い物を手伝う」ですかね(笑)。


これらの行動が3歳児として標準かどうかはどうでもよくて、ポイントなのは「自分のことは自分でやって当然」「やってもらうことに関しては”ありがとう””お願いします”を言う」という姿勢が身についているか、どうかだと思うのです。
そして、これらの行動は、ふとした「自力でやってみたい」「他人の役に立ちたい」きっかけを見逃さずに、またそれを面倒臭がらずに、やらせてやること。失敗させること。それを「失敗するだろうなあ」と思いながらじっと見守ることで徐々に習得されていきます。


みなさん、ガキに手を貸しすぎなんですよ。


ついでに言えば、声もかけてやりすぎです。「あぶないよ」とか。…そんなん、一回危ない目にあわなきゃ本人は実感わかないですよ(笑)。
ギリギリまで声をかけるのを待って、一度失敗させてから、すぐにその場で「どうして失敗したと思う?」と原因と結果の整理を手伝ってやれやればいいんです。


「ほら、こぼすよ」とか。
「一度こぼさせて、ひっぱたいてやればいいのに」と思いますもん(笑)。
いつもいつも親が懇切丁寧に声かけして未然防止してやっていたら、保育園やら実家やらひとり外に出たとき、声をかけてくれる人がいない状況では「こぼす奴」になっちゃいますよ、と。
そいつが外に出たときにどんなパフォーマンスができるかが「育児」の勝負どころなのに、家にいるときに失敗させてやらなかったら、一体いつ学習させるのか、と。


そりゃあ、急いでいるときやら、面倒くさいときやら、つい手を引いてあげちゃったり、事前に声かけしてやっちゃったりするときもあるのですが、基本的に子どもは大人と同じペースで動けませんから、『時間をかけてじっくり待つ』スタンスを忘れちゃいけないと思うんです。
…「介護」や「発達支援」の世界では、そんなことは基本中の基本ですもんね。


ペタしてね

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↓『子どもの脳によくないこと』小西行郎著、PHP新書、2011)より引用(03)


親子のスキンシップ、これも曲者です。
スキンシップって何なのでしょうね?


基本的にスキンシップとは、肌と肌が触れ合うことによる心の繋がり、お互いに触り触られの状態を言います。
日本では、どうもお母さんや、最近はお父さんもですが、一方的にベタベタ触っていきませんか?
本来は、赤ちゃんが触ってくる(求めてくる)、だからお母さんやお父さんが触り返してあげる(応じてあげる)、そんな大切なコミュニケーションだと思うのですが、成り立っていないように感じています。


↑(引用ここまで)
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子どもは確かにかわいいですが、どいつもこいつも「触りすぎ」「かまってやりすぎ」。そう思わされることは多いです。


特に、親の精神状態として、「子どもに無関心を装う」「子ども以外のいろいろなことに関心をもって、”楽しそうなオトナ”を体現してやる」ことは、子どものためにも自分のためにも重要だと思うのですが、それを感じさせてくれる親は、ネグレクト(育児放棄)ぎみのヤンママくらいなものです(笑)。


いつもいつも子どものことばかり気にかけて、注目を浴びせる大人ばかりに囲まれて暮らしていたら、「自分は注目されて当たり前」「いつも話題の中心にいないと気が済まない」「泣けば、大人たちの注目を集められる」と勘違いしてしまいますよ、ガキは。


逆に、大人の側も、いつもいつも子どもにばかり注目して、振り回されて暮らしていたら、「魅力的なひとりのオトナ」でいることを忘れてしまいますよね。
結婚・出産前は、美人で愛想もよく、仕事にプライベートにあんなにはつらつとして魅力的な人だったのに、出産して子どもが大事なのはわかるけど、それを差し引いてみても、とても一個の「魅力的な女性」「魅力的な生き様」に見えない。。そんな「もったいない」女性を私はたくさん知っています。


それはもちろん男性にも言えることで、私は育児・炊事・洗濯やらを日々こなしながらも、子どもができる前と変わらず「魅力的な」「おもしろおかしい」生き様を体現しようと気を付けながら暮らしています。
…子どもができる前と同じように、夜中に友人が遊びに来てバカ騒ぎできる環境や雰囲気・人間関係づくりをしていますし。
…多少子どもらを連れて出かけるのがおっくうでも、友人たちにも子どもの相手をしてもらうことで、頻繁に外食やら買い物やらに出かけることもしていますし。
そんなときは、いいと思うんです、友人たちやおじいちゃん・おばあちゃんにベタベタ触ってもらっても。
むしろ、ちっちゃくてまんまるいあんな個体は抱っこしてやりたくなって当然ですから(笑)、子どもとのスキンシップをどうぞ楽しんでください、と。
ちっちゃい子どもを持つ側が、周りの大人たちに提供してあげられる「エンターテインメント」ですよね。
子どもも、そんなときくらいは、たっぷり「注目」を浴びて遊んでもらったらいいんです(笑)。


私の職場にも、育児を終えた50過ぎのおっちゃんやおばちゃんはたくさんいますから、機会を見ては子どもらを連れて行くようにしています。…へたな職員より、私の子どもらの方が飲み会出席率は高いかもしれません(笑)。


「家庭」に閉じこもらない、「育児」に閉じこもらない、魅力的な大人(特に女性)がもっといてもいいのになあ、と思いながらも、いないなら自分が体現して歩くしかないのかなあ、と勝手なプレッシャーを自分にかけては日々暮らしております。。


…あ、「キャラ弁」やら「収納術」やら「料理研究家」やら、その発想が「子どものため」(←笑)から一歩も外へ出ていない「カリスマ主婦」どもは、全然「魅力的」とは思っていませんから(笑)。


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