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↓『子どもの脳によくないこと』小西行郎著、PHP新書、2011)より引用(02)


昔は妊娠しても、特に生活を変えたりすることもなく、普通に家事をし、仕事もこなしていたと思うのですが、最近のお母さんはそうもいかないようです。


確かに昔は農業が主流で、今はサラリーマン家庭が多いわけですから、昔のようにはいかないのかもしれません。
少子化や核家族化の影響もあるでしょう。
祖ごとに一生懸命だと体に悪いから辞めたら? と言われたり、流産したらどうするの? と脅されたり……。


妊娠中に重い荷物を持たない方がよい、と書いてある育児書もありますが、それができる状況にある方がいったいどのくりいらっしゃるでしょう。
お父さんがいつも一緒にいて荷物を持ちますか?
また、子どもも二人目、三人目ともなると、平気でひょいっと抱っこしたりしていますよね。
相当重いですよ、子どもって。
それでもちゃんと下のお子さんは生まれていませんか?


(中略)


新しい生命が自分の体に宿るのだから、できるだけいい環境で育てようということは大切なのですが、胎児だって一個の人、しっかりと生まれる準備をしているのですから、適当に普通の生活をしてください、大丈夫ですよ。


↑(引用ここまで)
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妊娠中や子育て中の人たちに『適当に普通の生活をしてください、大丈夫ですよ』なんて言ってくれる人がもっといてくれればなあ、と思わされることは多いです。
「けっこう雑に扱っても、子どもは死にゃしませんよ」と。


私は一人目の子どもが産まれるとき、赤ん坊に対する助産師さんたちのその雑な扱いにびっくりしました(笑)。
そして、「なるほど、赤ん坊とはいえ一個の人間、ビクビクする必要もないんだな」と妙に納得したことを覚えています。


二人目の出産に際しては、生まれてすぐの赤ん坊をひょいと持ち上げて体重計に乗せ、頭や腰をぐにぐに持ち上げながらメジャーで身長などを測り、助産師さんと20本の指が生えていることを声を合わせて確認して、おぎゃあおぎゃあと泣く中、目をひん剥いて目薬を2発打ち込んで、さっさと布オムツをつけてやって、ひょいと抱き上げて新生児着でくるんでやる。…そのくらいのことが、平気でできるようになりました。
「お父さん、慣れてるね~」と助産師さんに褒められたくらいです(笑)。


「多少雑に扱っても、死にゃしない」という自信(?)が、「子どもを腫れもののように扱わない」「子どものワガママに振り回されない」というスタンスを私に与えてくれたように思います。


妊娠中も、別に神経質にならないで普通に外食を楽しむ。つい食べ過ぎてしまうピザの食べ放題にも行く(笑)。


生まれて数か月でも、手が離せないときは30分くらい泣かせておく。そのうち寝ちゃいますから(笑)。
子どもも赤ん坊ながらに「泣いても自分の思い通りにはならない」ことを学習しますし、親の側としても、「子どもに振り回されない」習慣が身につきます。
「泣いてもすぐに抱いてやらない」ことには賛否あるでしょうが、私は特に後者の理由で「しばらく泣かせておく」選択肢を持つことをお勧めします。
子どもが泣くたびに「どうしたんでちゅか~?」なんて言って(笑)抱いてやる反射的行為が親の側に習慣化されてしまうと、子どもがある程度大きくなっても、「泣けばリアクションしてくれる便利な親」を続けてしまう危険性のほうが大きいと思うからです。


また、子どもが大きくなっても、たとえば「次同じワガママを言ったらメシ抜きだからな」と約束して、子どもが同じミスをしたら、本当に夕飯抜きにしてやればいいんですよ。
その一晩があるだけで「あ、この親シャレにならねえな」と子どもは本気で思いますし、親の側にも「言ったことは守る、守らせる」自覚と責任が定着します。
…私だって、子どもから一食奪うのは心が痛むんですよ、本当は(笑)。
でも、ここで「さすがにやりすぎかも?」と弱気になって前言撤回してしまったら、子どもに「さすがにそこまではせんよな」と足元見られることにもなりますし、ここは心を鬼にして「首尾一貫した態度」を取ったほうがいいと思うんです。
…大丈夫ですよ、一食くらい抜いても。次の日の朝メシが美味しく食べられますよ(笑)。


「子どもは、多少雑に扱っても大丈夫」と、誰も言ってくれないので、仕方ないから私が言い続けることにします(笑)。


ペタしてね

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↓『子どもの脳によくないこと』小西行郎著、PHP新書、2011)より引用(01)


妊娠中は、栄養のバランスについても細かく指導されると思います。
確かに栄養のバランスを全く考えないで、お母さんの好きなものだけを食べ続けるのは、好ましい習慣ではありません。
炭水化物、たんぱく質、ミネラル、ビタミンといった栄養素を考えて食するのは、妊娠中も授乳期も大切なことだと思います。


ただ、無理に食べなくちゃいけないと思う必要はないと言いたいのです。
戦時中のことを考えてみてください、と言っても、今の方には想像がつかないかもしれませんが、栄養のバランスを考えるどころか、卵一つ食べることすら大変な時代でした。
食べられるものは芋だけ。
それも満足な量を食べられるわけでもなかったのですが、それでもお母さんは子どもを産み、育ててきました。
そうやって産まれて育った私たちの上の年代には馬鹿な人間、どうしようもない人間、精神的に不健康な人間、そんな人ばかりしかいないかというと、そんなことはないはずです。
食べ物が人格までを左右することはないと思います。


現代は少し過剰反応になっている気がします。
これがいいと聞けばすぐに飛びつく。
カルシウムが足りない、葉酸は必要量を食事からは取れない、足りない栄養素はサプリメントで補いましょう、と言われれば、何の疑いもなく、すぐにそうしてしまうでしょう?


↑(引用ここまで)
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私も、育児をしながら「戦時中の食糧事情を考えれば、子どもが食べるものに、そんなに神経質にならなくても大丈夫。数日食わなくても死にゃしないよ」と口にすることは多いです。


特に、保育園で食べる「給食」があれば、その1食で相当バランスやエネルギーを考慮してくれていますから、あとは適当でもいいんじゃないですかね? …そんなこと言ったら怒られそうですが(笑)。


そもそも日本人は、大人も子どもも年がら年中食べすぎなんですよ。
「朝昼晩、3食ちゃんと食べなくちゃいけない」と思いこみすぎですし、その実何を食べているのかといえば、炭水化物過多の「娯楽食」ばかり。胃腸は動きっぱなしです。


もっと「食べない」「与えすぎない」「腹が減ったら食えばいい」「食べられることを”ありがたい”と思わせる」といった、ある意味「いい加減」なスタンスで「食」と向き合い、子どもには向き合わせるようにしていかないと、「食べすぎ」「食べさせすぎ」「栄養のバランスを考えすぎて苦しみすぎ」になりがちだと思うんです。


特に、「食べられることを当たり前だと思うな」というメッセージを伝えられている主婦は少ないと感じます。
…そもそも、その主婦自身が「食べられる」ということに日々感謝していなければ、それを子どもに伝えようとも思わないわけですが。。(笑)
そういう意味でも、子どもにマンマを「与えすぎ」。これに尽きると思います。


もっと「食わなくても大丈夫」って声高に言っていいと思いませんか?


ペタしてね

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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(21)


だいぶ前のことですが、海難事故で亡くなった弟の墓を受け入れてくれた寺の和尚に聞いたことがあります。
「神さまって、いるんですかね?」
「わしも会ったことはないが、いたほうが何かと都合がいい」
私はこの和尚が好きでした。


私は親族にかぎらず人の家を訪ねて仏壇があれば手を合わさせてもらうし、奇蹟の地に行けば祈りもします。
でも、自分のために祈ることはいっさいしません。


仏教では輪廻転生、キリスト教なら天国と復活、話としては色々あって世界中の人のざっと半分くらいはそういうものを信じているようです。


何も神や仏を信じるのは馬鹿げているというのではないし、人間の考えること、することを超えた何かがあるというなら、私は「××宗・無頼派」みたいなものです。


牧師さんや坊さんと話をするのも好きだし、ああ話をできてよかったなと思うことだってある。
でもそれは案外少ないようです。
何だか詐欺師みたいだと思うことも多い。


↑(引用ここまで)
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誰かが死んだりしたとき、「ご冥福をお祈りします」だとか、「あの世で幸せに暮らしていることでしょう」だとか、よくもまあ平気なツラして言えるよなあ、と私は思ってしまいます。


伊集院氏も言うように、敬虔な仏教徒やクリスチャンを私も否定はしませんが、日本って、ふだんからそんな信心深い仏教徒ばかりでしたっけ?


「あの世」って(笑)。
「ご冥福」って(笑)。
「生まれ変わったら」って(笑)。


みなさん、とても本気で言っているとは思えないのですが。。やめません? 見たこともない「死後の世界」や「来世」をまるで「ありもん」みたいな前提で「現実の死」を語るのを。
はっきり言って、気持ち悪いです。…少なくとも、私の感覚では。


別に「信じる」「信じない」の話がしたいんじゃないんです。
現代日本の仏教徒やクリスチャンの数、「来世」が本当にあると信じている人の割合を考えれば、どう甘く見積もっても少数派であろう中で、なぜいつまでもそちらをスタンダードにして「死」を扱うのか、なぜ人が死んだときだけ「にわか仏教徒」になって坊主を呼ぶスタイルの葬式をどいつもこいつもやるのか、と言いたいのです。


私に言わせれば、失礼ですよ。死んだ人をまるでライトノベルやテレビドラマのように「あの世に行った」なんて扱いをするのは。

人が死ねば、肉体は朽ち果て、いずれ大気や水に還元されるだけ。
余計な「フィクション」「あるかどうかもわからない世界」のことなど挟まずに、だたその事実だけを、その後も生き続ける世代が受け止めればいい、と心底思います。


…身近な人の「死」は、真正面から受け止めるには辛すぎるから?
…「来世」があることにしておかないと、民衆が悪事ばかりはたらくようになるから?


そういう人のセーフティネットとして、そういう「物語」があってもいいとは思いますが、みんながみんな、そんな非現実的な「物語」をいつまでも信じていないと思うのです。
要は、割合とバランス感覚の問題です。


誰かが「ご冥福をお祈りします」なんて真顔で言ったとき、「冥界(あの世)があると思ってんすね(笑)」とツッコむ人がもっといてもいいんじゃないかなあ、と思って今回こう書きました。


ペタしてね

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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(20)


私はもともと心臓に持病があって、そんなこと(がんの疑い)も重なったので、いま私が余命わずかだと言ったら誰がどう言うのかな、と考えてみました。


一応、最初に女房はどうか。


「今はちょっと困るわ。家のローン全部払ってからにしてくれないかしら」


ちなみに私は生命保険には入っていない。
自分が死ぬことで女子どもに大金が入るのは教育上よろしくないからね。


↑(引用ここまで)
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『自分が死ぬことで女子どもに大金が入るのは教育上よろしくないからね』。


…こんなこと、まだ言ってくれる人が世の中にいたんですね(笑)。


『女子ども』という表現につっかかってくるような、安っぽい平等論者がたくさんいるであろうことは想像に難くないのですが、この話のポイントは『教育上』というところですよね。


私は、大人も子どもも、「自立」を促さないような関係には、必然的に「依存」が入りこんでしまうと、常日頃から考えて暮らしています。
つまり、相手が大人だろうが、子どもだろうが、経済的に自立し、また精神的にも自立しよう、させよう、という「教育的」関係がないと、対等にものがしゃべれないし、おもしろおかしい人間関係にならない、と考えているのです。…ちょっと偉そうでしょうか?(笑)


子どもは手がかかるし、そのぶんだけかわいい、愛着がわく、というのは十分わかりますが、本当におもしろいのは、そいつが「自立」してからだと思うのです。
私の知らないところでおもしろおかしい人間関係を勝手に作ってきて、それを話してくれる。新しい風を外から運んでくれる。
そうなってからが、はじめて「会話」が成立する、と言えるのではないでしょうか。
…というか、それこそが「教育」「しつけ」の目的ですよね。
みなさん、「かわいい」とか「愛着」にばかりかまけすぎなんですよ。
そんなものは、「育児」のオプションにすぎず、ひとりでいるときなんかに、にんまり「かわいいなあ」とほくそ笑むくらいでいい、というのがバランスのいい「育児」へのスタンスだと思うのですが。。


大人どうしだってそうです。
本当に「対等」で「おもしろい」関係は、お互いに、「経済面」「精神面」で自立してから。
そこがあやふやな人間関係には、やはりどこかに「依存」「教育的配慮」が入り込んでしまい、100%楽しめません。
…いつだったか、島田紳助氏も言っていました。
「”友だち”の定義とは、お互いに仕事をして、余暇を楽しむ相手のことだ」と。
「そいつが花屋をやっていたとして、友だちどうしなら、”あいつの店で買ってやろう”とはならない。むしろ”友だちなんだからまけろ”と言う」とも。


だから、私はあまり仕事の話をしません。
妻にも「本当に毎日仕事に行っているの? 仕事に行くふりしてパチンコにでも行っているんじゃないの?」と言われるくらいです(笑)。
仕事は、仕事。
おもしろい話題や人間関係は、また別のところで作ればいい。


「依存し」「依存させる」人間関係が世に数多あることは知っていますし、こと恋愛関係においては、その心地よさも身をもって経験してきましたが、そんな関係は「ロクなもんじゃない」「おもしろくない」と、ここでは断言しておきたいと思います。


ペタしてね

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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(19)


書き手の考え方やものの見方が、学校にいた頃から少しも先へ出ていなくて、読者もそうだとしたら、単純さと平たい言い方しか好まない小中学生レベルの感性、人生観が当たり前になってきているということかもしれません。


学校が教えるのは、人としての感性や本性より規範や論理だから、世間とは常に別ものです。
学校というシステムは生きていく上で本質的なことを教えてくれるものではない。
そこで得たものは卒業した時点で一度捨てるぐらいでちょうどいいのです。


↑(引用ここまで)
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巷の親も子どもも、「学校」という場所を重視しすぎているのでは、と思わされることは多いです。


伊集院氏も指摘するように、学校で学べることなんてたかが知れていますし、「気立てがよく、周りに配慮でき、そこそこ大人にかわいがってもらえる」ような人間に育てば、お勉強ができようが、スポーツができようが、社会に出てしまえば「どうでもいい」話ですよね。


むしろ、「学校」という閉鎖的な場所でしか評価されないような、能力はないくせにプライドだけは異常に高い人間を量産してしまっている側面を考えると、みなさんの評価の観点を、「学校」的なものから積極的に離してみてもいいのかもしれません。


確かに、子ども自身は「学校」で毎日多くの時間を過ごしますから、できるだけ過ごしやすいように、いじめられないようにと、お勉強にスポーツに頑張らせたい親心はわからないではないですが、「閉鎖的な空間でいかに上手に生き残るか」に力を入れるよりも、「外の世界、“学校“以外の価値観を教えてやる」ほうに力を注いでやって、早いとこ子どもを「自立」させてやりましょうよ。


「育児」の目的は、「子どもを“自立“させて、さっさと家を出ていかせる」ことなのですから。
親はいつまでも子どもに併走してやれないのですから。


「学校」でも、その狭い空間で抜きんでようと、「競争」。
就職しても、その狭い空間で生き延びようと、「競争」。
やっていることは同じにしても、人生通して意識がそこにばかり向いてしまうのは、伊集院氏も指摘するように『考え方やものの見方が、学校にいた頃から少しも先へ出ていない』とは言えないか。
もっとみんな勝手に、「枠」からはみ出して、おもしろおかしく生きてもいいのになあと、最近の子どもを見ても、大人を見てもそう思うようになりました。


ペタしてね

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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(18)


この何年か直木賞などの選考委員をしていて若い人の小説を読む機会が増えました。
もちろん、よくできた小説もあるのですが、一つ共通した欠点があることに気がつきます。
それは、自分が過ごした学校でのあり方にしたがって、登場人物たちの性格や存在価値までを決めていることです。


つまり、その人が学校で何をしたか、成績は良かったか悪かったか、異性にモテたかモテなかったか、そういうモノサシに高い価値基準を置いていて、社会に出た後の人生でも、それらをずっと引きずって書いているのです。


中学三年や高校三年の時にどう見えたかではなくて、卒業して学校の門を出た後、その人にどんな世の中の風が当たったか、その中で人としてどう生きてきたのか。
それを描くのが小説というもので、都合良く管理された学校内のことや、生徒同士でどう見られていたかなんて、言葉は悪いが「屁」みたいなものじゃないか――。


学校に寄りかかるのは子どもの小説で、大人の鑑賞にはたえない。


そう苦言を呈すると、「でも学校をベースにすると読者にはわかってもらいやすから」と言うのですが、それは読者の共感以前の欠陥小説だと私などは思います。


↑(引用ここまで)
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伊集院氏が『都合良く管理された学校内のことや、生徒同士でどう見られていたかなんて、言葉は悪いが「屁」みたいなものじゃないか』と一喝してくれているように、「みんな、”学校”が好きだよなあ」と思わされることは多いです。


映画、テレビドラマ、一般小説、ライトノベル、漫画に至るまで、いわゆる「学園もの」は巷にあふれかえっていますし、ちょっと飲みにでも出かければ、中学のときはどうだったの、高校のときはこうだったのと、学生時代の話を延々楽しそうに語らうサララリーマンも多く見かけます。「同窓会」なんて、その最たるものですよね。


私も、高校時代を思い起こせば確かに楽しかったとは思いますが、同窓会なんて一度もやったことはありませんし、もしそんな声がかかっても積極的に行こうとは思いません。
…なぜなら、今の人間関係でじゅうぶん間に合っているから(笑)。


今日にでも会いたい友人は(少ないながらも)いますし、日々の育児やら職場の人たちとの飲み会やらも楽しいですから、「昔はよかった」なんて延々話したり、わざわざ出かけに行ったりする暇なんて、はっきり言ってありません。時間と労力がもったいなさすぎます。


そう言う私も、過去に1回だけ「昔話」をしに出かけたことがあります。
それは「学校」ではないのですが、十数年前まで私が働いていた飲食店の仲間から連絡があって、「久しぶりに会おう」ということになりました。
当時アルバイトで一緒に働いていたこともある私の妹が「行きたい」と言っていたこともあって、妹を連れて行ってきたのですが、そこそこの懐かしさはありつつも、なんだかそんなに楽しくなかったことを覚えています。


私が今ではどんな趣味や趣向を持っているか、彼らは知らないですし、今の私の友人関係や「何を重視して生きているか」も知らない。…わざわざ説明することでもないですしね(笑)。


そうして昔の仲間としばらく一緒にいると、「空気」の違いというか、タバコの吸い方から、周囲への配慮の有無、話のオチのつけ方まで、「何か違うなあ」と感じる点が多くありました。
「当時は楽しかったけど、なんだか一緒にいて恥ずかしいと思う行動も多いし、違和感あるなあ」と。
連絡先は交換しましたが、それ以来、彼らとは全く会っていません。


「学校」や「楽しかった思い出」への執着。
これは、裏を返せば「今、そんなに楽しくない、学校を卒業してから成長していない」ことの表れとは言えないか。


世に「学園もの」「学校談議に花が咲く人たち」があふれているところを見ると、どうやら世の中には「今、そんなに楽しくない、学校を卒業してから成長していない」人たちが多くいるのでは、と想像してしまいます。


それだけ、「自立したオトナ」が少ないということなのでしょうか…。


ペタしてね

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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(17)


今でもどこかで殺人事件が起きると、検事や判事は、普通の人間性とは相容れない蛮行だというスタンスで論理的に追及します。
弁護士はちょっと立場が違いますが、基本的に、人間がつくった法律の枠組みの中で、検察の論理にしたがって反論を考えていくしかありません。


そしてマスコミは犯人が事件を起こした理由がどこにあるかを探し、そうせざるを得ない社会状況というものを背景に置こうとする。


二十年ほど前に神戸で起きた連続児童殺傷事件でも、犯人の酒鬼薔薇少年がヒトラーの『わが闘争』を愛読していて、部屋の中に鍵十字の絵が貼られていたとか、枝葉のとこに理由を見つけ出しては安堵しようとしていました。


もちろん、残虐きわまりない犯行でしたが、妙なものにかぶれたから、あるいはもともと鬼畜のような、自分たちとは違う特殊な人間だったから人を殺したのだと袋叩きにして、ただ遠ざければいいというものではない。
人間はそれぐらいのことをやりかねない。
どこかでそう考えられないとまずいと思うのです。


テレビに出てしたり顔でコメントしているような文化人は、社会正義をタテに話をしたがります。
たしかに、「そういうところもあるのが人間です」なんて言ったら、抗議が殺到するにちがいない。
しかし、殺人や戦争という行為に対して善悪と正義を持ち出すのは、何も言っていないにひとしいではないか、そう考えるのです。


↑(引用ここまで)
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殺人事件なんかがあったとき、ニュース番組のコメンテーターか誰かに、『そういうところもあるのが人間です』なんて、ぜひ言ってもらいたいものですよね(笑)。


人間だれしも、人によって差こそあれ下世話な噂話は好きだし、人間関係やらで追い詰められたら何をしてしまうかかわからない。
小動物をいじめたくなるような攻撃的な衝動も誰もが――それこそ子どもだって――もっているし、仕事やプライベートが全くうまくいかない状態が何年も続いたら、他人に理解できないような破壊的行動をしてしまうかもしれない。


そんな「衝動」をだれしも内包しながら、気分が上がっているときも、落ち込んでいるときも、なんとかだましだまし日々生活しているわけじゃないですか。
それなのに、何が「常人には理解できない行動」でしょうか。「幼少の頃の○○といったトラウマが犯行に及ばせた」とかぬかして、したり顔でいられるのでしょうか。


『そういうところもあるのが人間です』「自分も一歩間違えたら、やりかねないですね」なんて、「自分を棚に上げない」潔さ・正直さを見せてくれる大人が、もっといてもいいんじゃないかなあ、と最近よく思うのです。


いつだったか、武田鉄矢氏が言っていました。
「自分はバカなんじゃないか、自分は間違っているんじゃなかろうか、と常に自問できる大人こそが、”人間として成熟している”と言えないか」と。


自分だけがわかったような口ぶりでしゃべるコメンテーター然り。
自分だけがものを斜めから見れているかのように時事問題を語るおっさん然り。
「自分の中にも、凶悪殺人犯となりうる種があるかもしれない」といった自問や葛藤を感じさせないその傲慢な語り口調には、「人間としての成熟」のかけらも見当たりません。


…そんなことを指摘しつつも、「偉そうに語りやがって。オマエは何様やねん!」などと私自身ツッコまれないよう、今日も自問の日々です。。(笑)


ペタしてね

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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(16)


母は田舎では結構な家の生まれ育ちで、韓国では名家だったんだと自慢していた父のほうが、じつは大した家の出ではなかったことは後で知りました。
その母が父のところへ嫁に行くとき、祖母から言われたことがあったそうです。


その一つは、「男の人殺しが縄をかけられて連れ回されているときに、絶対に石を投げたりしてはいけない」。


もう一つは、「身体を売るために町に立っている女の人に、パンパンとか夜鷹とか絶対に言ってはいけないし、子どもの口からも言わせてはいけない」。


なぜなら、「男三人育てれば、一人は人を殺すかもしれない。女三人を育てたら、皆いいところに嫁がせたつもりでも、そのうち一人ぐらいは身体を売らなきゃいけない立場になってしまうことがある。それが世の中というものだから」。


そう教えられたという。
じつに三分の一の確率で、わが子が人を殺すか、娼婦のようになる可能性がある。
その男にも女にも必ず親というものがある。
だから決して貶めたり蔑んだりしてはならないというのです。


↑(引用ここまで)
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育児に対する「これくらいやらなきゃ親失格かも?」という目に見えないハードル。
これに苦しめられている親、特に主婦は多いのではないかと想像します。


「栄養のバランスを考えて、規則正しく食事を与え続けなければならない」とか。
「非行に走ったり、いじめられたりしないように、子ども気を配り続けなければいけない」とか。
「将来苦労しないように、塾に通わせて、進学できる選択肢くらいは残してあげたい」とか。


私は「子どもは子ども。所詮は他人事、くらいに思って相手をしていないと、どうにも最近の親は過干渉になりがち」と豪語しているのですが、伊集院氏も指摘するように、『三分の一の確率で、わが子が人を殺すか、娼婦のようになる可能性がある』くらいに思って育児に関わる「バランス感覚」が、みなさんもっとあってもいいんじゃないかなあ、と思うのです。


それこそ「学校のお勉強ができる、できない」なんて、どうでもいいじゃないですか(笑)。
そんなことで親が一喜一憂するくらいなら、子どもを放っておいてパチンコに行っているくらいのほうがまだマシです。


子どもが保育園や学校に行けば、腕力の強い奴から、ずる賢い奴までいろんな人間がいるでしょうから、そりゃあいじめにだって遭うと思うんですよ。
どうしても学校に行くのがしんどかったら、行かなきゃいいと思うんです。
私は小学校5年から「学校」という場所に行くのをやめて、子どもながらに単身世界中を旅して、今ではNPOを立ち上げている男を知っています。漢字もろくに書けない彼ですが(笑)、自由に、のびのびと魅力的に生きています。
「学校」なんて閉鎖的なところで学ばなくたって、自分から動けて、挨拶と気配りができて、大人たちにかわいがってもらえる人間に育てばいいのですから、「学校」にそこまで拘る必要はないんじゃないかなあ、と最近よく思います。


それでも、三人に一人は、人を殺すかもしれない。身体を売る仕事をするかもしれない。
いくら食事の栄養バランスを考えてやっても、学校の宿題を一生懸命やらせても、親父が厳しくしつけても、子どもにそんな将来が待っているかもしれない。
それは、誰にも否定のできないことだと思うんです。


男を育てて家から出してやっても、親の知らないところで犯罪者となって帰ってくるかもしれない。
女を育てて無事(?)結婚して家から出してやっても、夫の暴力や子どもの非行で毎日泣いて暮らしているかもしれない。
…ありえない話ではないですよね。


親ができることは、少ない。
子どもに過干渉になって悩むくらいなら、子どものことなんて多少放っておいて、「自分の人生」「自分の生きざま」をもっと意識したほうが、ずっといい。


『三分の一の確率で、わが子が人を殺すか、娼婦のようになる可能性がある』なんて「バランス感覚」を持っていた伊集院氏の母親に感銘を受けつつも、最近の主婦どもはそんな「バランス感覚」なんて、これっぽっちも持ち合わせていないよなあ、「自分の子どもが一番大事!」なんてアホみたいな顔してぬかしてるよなあ(笑)、と思って今回こう書きました。


ペタしてね

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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(15)


しかしまあ、少し前までの日本人一般を考えたら、そのアーティストもどきみたいな(火のついたタバコを平気で吐き捨てるような)人であふれていたとも言える。
始発の横須賀線に乗ると車内は禁煙のはずなのにタバコの煙が充満していて、魚河岸に買出しに行くとおぼしき寿司屋とか、これから現場に出かける肉体労働者たちが、ときどき窓を開けたり、足元で吸殻をひねりつぶしたりしながら平然と吸っていたものです。


世の中が禁煙だ嫌煙だと騒ぎ始める前のことで、私自身がヘビースモーカーだから面白い眺めだな、ぐらいに思ってましたが、今だってタバコが健康に悪いからといって喫煙者を白い目で見るような男を私は軽蔑します。


↑(引用ここまで)
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私はタバコを吸いませんが、伊集院氏も指摘するように、喫煙者をまるで「悪人」と決めつけるかのような昨今の世情には違和感を覚えます。


確かに、ポイ捨てや歩きタバコなど、周囲に無配慮な喫煙者は軽蔑に値すると思いますが、それと「タバコを吸う」行為自体の是非とは別問題なはずです。


むしろ、私の周りにいる喫煙者は「気配りのできる人」が多いです。
携帯灰皿はもちろん、一緒に食事に行けば「禁煙席でいいよ」と自分から言ってくれ、皆が食べ終わるくらいのタイミングで「ちょっと吸いに行ってくるね」と待つ人たちへの配慮も忘れない。
…こんな喫煙者ばかりだったら、世の中がこんなに目くじら立てて「禁煙、嫌煙」と騒がなかったろうになあ、と思うほどです。


そんな喫煙者に囲まれて生活しているからか、私はタバコを吸わないにも関わらず、喫煙者と一緒に出かければ、まず喫煙スペースがあるかどうか、灰皿がどこにあるのかチェックし、ちょっとした待ち時間ができれば「タバコ行ってきてどうぞ」と声掛けするようになってきました(笑)。


とはいえ、世の喫煙者の多くが、子どもやらもいる混雑の中で平気で歩きタバコをし、道路に灰を撒き散らし、吸殻をポイ捨ていることも、もちろん知っています。
でもそれは、世の中に「アホ」「大人の皮をかぶったガキ」のほうが圧倒的多数で、背中に目があるごとく気配りをして歩く「オトナ」なんてほんの一握りしかいない、ということの縮図にしか過ぎないのかもしれません。


タバコを吸う人にだって、「アホ」な人と「まとも」な人がいる。
タバコを吸わない人の中にだって、同じくらいの割合で「アホ」な人と「まとも」な人がいる。
そして、世の中のルールは、「アホ」「マナーの悪いほう」に合わせて作られる。
それだけのことなのかもしれません。


運転中に、前の車のあいた窓からタバコの灰が平然と捨てられ、ついには火のついたままポイ捨て。。
そんな「アホ」を目にするたび、「私の周りにいるような”まとも”な喫煙者たちが肩身の狭い思いをするような世情にしてくれるなよ」と、怒りとも落胆ともつかない思いが、私にクラクションを鳴らさせるのです。
…そのうち刺されるか(笑)?


ペタしてね

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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(14)


経済成長に終わりが見えて格差や貧困が浮かび上がり、就職するのも働くのも、結婚して家族を持つことも、もはや当たり前ではなくなってきた。
子どもを産むのも育てるのもたいへんなのに、国は無策ではないか――そうマスコミでは報じられます。


しかし本来、子どもを持ってリスクがない時代は、昔も今もこれからもありえない。
国や自治体あるいは企業のサポートにせよ、そういう「頼ろうとする」ベクトルが、今の日本人一般のものの考え方の七~八割を占めていて、その点は若者も老人も同じではないかと思うのです。


↑(引用ここまで)
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『子どもを持ってリスクがない時代は、昔も今もこれからもありえない』と伊集院氏は言いますが、比較すれば、そりゃあ現代のほうが「核家族でも育児しやすい」環境が整っているだろうになあ、と私は感じます。


ただ、多少環境が良くなってきた、というだけであって、「育児」そのものに関するリスク、「やらなくてはならない膨大な作業量」に関しては、『昔も今も変わらない』という部分には賛成します。


朝、子どもを起こす。検温して着替えさせ、朝食を用意して食べさせ、洗い物をし、連絡帳を書き、炊飯器をセットして、保育園に送り、仕事が終わったら迎えに行き、洗濯をし、夕飯を用意して食べさせ、洗い物をし、トイレトレーニングをし、風呂に入れ、洗濯ものを干し、布団の用意をして寝かしつける。。
…この「膨大な作業」を、主婦(夫)だろうが、シングルファザーだろうが、夫婦で分担だろうが、実家の祖父母だろうが、結局は「誰かがやらなければならない」のです。


そりゃあ、保育園で子どもの熱が上がれば、仕事中に保育園から呼び出されることもありますし、そういう意味でも、子どもをもつということは『リスク』と言えると思います。


「仕事に支障がでるかもしれない」リスク。


「命を預かる」というリスク。


「誰かに迷惑をかけるかもしれない」リスク。


そういう『リスク』に自ら飛び込んで子どもをもうけたのに、「国は○○してくれない」「○○のサービスがたりない」と不満ばかりもらす輩が多すぎるように感じます。


保育園がいっぱいだったら、両親を頼ったり、友人を頼ったり、その程度の『リスク』に臨機応変に対応できないような「ガキ」が子どもを作っちゃいけませんよね。
もっと言えば、そういった「苦労」『リスク』を楽しむ精神的なゆとり、経済的なゆとりもないような「ガキ」が、恋愛や結婚のマネゴトをしては子どもを作りまくっている現状を思うと、伊集院氏も指摘するような『頼ろうとする』愚民ばかりになるのも、頷ける気がします。…言いすぎでしょうか(笑)。


精神的にも経済的にも「自立」した「大人のたしなみ」としての「育児」。
単に「自分がしたいから」ではない、「社会的役割」という側面もある「育児」。
自分の足でもろくに立てない「依存人間」に、他人を楽しませたり、他人を鍛えたりする「悦び」『リスク』を楽しめるはずがない。最近、本気でそう思うのです。


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