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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(18)
この何年か直木賞などの選考委員をしていて若い人の小説を読む機会が増えました。
もちろん、よくできた小説もあるのですが、一つ共通した欠点があることに気がつきます。
それは、自分が過ごした学校でのあり方にしたがって、登場人物たちの性格や存在価値までを決めていることです。
つまり、その人が学校で何をしたか、成績は良かったか悪かったか、異性にモテたかモテなかったか、そういうモノサシに高い価値基準を置いていて、社会に出た後の人生でも、それらをずっと引きずって書いているのです。
中学三年や高校三年の時にどう見えたかではなくて、卒業して学校の門を出た後、その人にどんな世の中の風が当たったか、その中で人としてどう生きてきたのか。
それを描くのが小説というもので、都合良く管理された学校内のことや、生徒同士でどう見られていたかなんて、言葉は悪いが「屁」みたいなものじゃないか――。
学校に寄りかかるのは子どもの小説で、大人の鑑賞にはたえない。
そう苦言を呈すると、「でも学校をベースにすると読者にはわかってもらいやすから」と言うのですが、それは読者の共感以前の欠陥小説だと私などは思います。
↑(引用ここまで)
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伊集院氏が『都合良く管理された学校内のことや、生徒同士でどう見られていたかなんて、言葉は悪いが「屁」みたいなものじゃないか』と一喝してくれているように、「みんな、”学校”が好きだよなあ」と思わされることは多いです。
映画、テレビドラマ、一般小説、ライトノベル、漫画に至るまで、いわゆる「学園もの」は巷にあふれかえっていますし、ちょっと飲みにでも出かければ、中学のときはどうだったの、高校のときはこうだったのと、学生時代の話を延々楽しそうに語らうサララリーマンも多く見かけます。「同窓会」なんて、その最たるものですよね。
私も、高校時代を思い起こせば確かに楽しかったとは思いますが、同窓会なんて一度もやったことはありませんし、もしそんな声がかかっても積極的に行こうとは思いません。
…なぜなら、今の人間関係でじゅうぶん間に合っているから(笑)。
今日にでも会いたい友人は(少ないながらも)いますし、日々の育児やら職場の人たちとの飲み会やらも楽しいですから、「昔はよかった」なんて延々話したり、わざわざ出かけに行ったりする暇なんて、はっきり言ってありません。時間と労力がもったいなさすぎます。
そう言う私も、過去に1回だけ「昔話」をしに出かけたことがあります。
それは「学校」ではないのですが、十数年前まで私が働いていた飲食店の仲間から連絡があって、「久しぶりに会おう」ということになりました。
当時アルバイトで一緒に働いていたこともある私の妹が「行きたい」と言っていたこともあって、妹を連れて行ってきたのですが、そこそこの懐かしさはありつつも、なんだかそんなに楽しくなかったことを覚えています。
私が今ではどんな趣味や趣向を持っているか、彼らは知らないですし、今の私の友人関係や「何を重視して生きているか」も知らない。…わざわざ説明することでもないですしね(笑)。
そうして昔の仲間としばらく一緒にいると、「空気」の違いというか、タバコの吸い方から、周囲への配慮の有無、話のオチのつけ方まで、「何か違うなあ」と感じる点が多くありました。
「当時は楽しかったけど、なんだか一緒にいて恥ずかしいと思う行動も多いし、違和感あるなあ」と。
連絡先は交換しましたが、それ以来、彼らとは全く会っていません。
「学校」や「楽しかった思い出」への執着。
これは、裏を返せば「今、そんなに楽しくない、学校を卒業してから成長していない」ことの表れとは言えないか。
世に「学園もの」「学校談議に花が咲く人たち」があふれているところを見ると、どうやら世の中には「今、そんなに楽しくない、学校を卒業してから成長していない」人たちが多くいるのでは、と想像してしまいます。
それだけ、「自立したオトナ」が少ないということなのでしょうか…。
