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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(21)
だいぶ前のことですが、海難事故で亡くなった弟の墓を受け入れてくれた寺の和尚に聞いたことがあります。
「神さまって、いるんですかね?」
「わしも会ったことはないが、いたほうが何かと都合がいい」
私はこの和尚が好きでした。
私は親族にかぎらず人の家を訪ねて仏壇があれば手を合わさせてもらうし、奇蹟の地に行けば祈りもします。
でも、自分のために祈ることはいっさいしません。
仏教では輪廻転生、キリスト教なら天国と復活、話としては色々あって世界中の人のざっと半分くらいはそういうものを信じているようです。
何も神や仏を信じるのは馬鹿げているというのではないし、人間の考えること、することを超えた何かがあるというなら、私は「××宗・無頼派」みたいなものです。
牧師さんや坊さんと話をするのも好きだし、ああ話をできてよかったなと思うことだってある。
でもそれは案外少ないようです。
何だか詐欺師みたいだと思うことも多い。
↑(引用ここまで)
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誰かが死んだりしたとき、「ご冥福をお祈りします」だとか、「あの世で幸せに暮らしていることでしょう」だとか、よくもまあ平気なツラして言えるよなあ、と私は思ってしまいます。
伊集院氏も言うように、敬虔な仏教徒やクリスチャンを私も否定はしませんが、日本って、ふだんからそんな信心深い仏教徒ばかりでしたっけ?
「あの世」って(笑)。
「ご冥福」って(笑)。
「生まれ変わったら」って(笑)。
みなさん、とても本気で言っているとは思えないのですが。。やめません? 見たこともない「死後の世界」や「来世」をまるで「ありもん」みたいな前提で「現実の死」を語るのを。
はっきり言って、気持ち悪いです。…少なくとも、私の感覚では。
別に「信じる」「信じない」の話がしたいんじゃないんです。
現代日本の仏教徒やクリスチャンの数、「来世」が本当にあると信じている人の割合を考えれば、どう甘く見積もっても少数派であろう中で、なぜいつまでもそちらをスタンダードにして「死」を扱うのか、なぜ人が死んだときだけ「にわか仏教徒」になって坊主を呼ぶスタイルの葬式をどいつもこいつもやるのか、と言いたいのです。
私に言わせれば、失礼ですよ。死んだ人をまるでライトノベルやテレビドラマのように「あの世に行った」なんて扱いをするのは。
人が死ねば、肉体は朽ち果て、いずれ大気や水に還元されるだけ。
余計な「フィクション」「あるかどうかもわからない世界」のことなど挟まずに、だたその事実だけを、その後も生き続ける世代が受け止めればいい、と心底思います。
…身近な人の「死」は、真正面から受け止めるには辛すぎるから?
…「来世」があることにしておかないと、民衆が悪事ばかりはたらくようになるから?
そういう人のセーフティネットとして、そういう「物語」があってもいいとは思いますが、みんながみんな、そんな非現実的な「物語」をいつまでも信じていないと思うのです。
要は、割合とバランス感覚の問題です。
誰かが「ご冥福をお祈りします」なんて真顔で言ったとき、「冥界(あの世)があると思ってんすね(笑)」とツッコむ人がもっといてもいいんじゃないかなあ、と思って今回こう書きました。
