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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(13)


ある日、(伊集院氏が幼少の頃、家族全員で)さあ出かけようという時に、近所にいた物乞いが母親に向かって、「奥さま、先日はありがとうございました」と言うのです。
その瞬間、父は顔を真っ赤にして怒りだし、その物乞いに近づいていって方を揺さぶりながら言いました。


「どうしたお前、ちゃんと二本足で立ってるじゃないか、自分で動けるじゃないか。だったら働け!」


そして母に向かってさらに怒鳴った。


「こいつに何をやったんだ? モノをやったのか。自分で働こうとしないやつにモノをやるから、いつまでたっても物乞いし続けるんだ。それは人間として一番卑怯なやり方なんだ。二度とするな!」


その光景を思い出すと、頭も身体も人並みに動かせるのに働かない若者も、年金が少ないだの言っている老人も、国家に物乞いをしているように見えてきます。


怠けることをよしとし、物乞いに与え続けるような国家はやがて潰れるしかありません。


↑(引用ここまで)
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漫画家の江川達也氏も、「人間は老いても、動けるなら死ぬまで働け」と言っていました。


「○○してくれない」と国や医療に不満をもらしている暇があったら、働けばいい。誇らしく生きて死んでいけばいい。
強くそう思います。


ここでもやはり、その人が「何に多く言葉を費やすか」という問題に尽きると思います。


確かに、「政治」として社会的弱者のフォローは大切。明瞭で安心できる「医療」も大切。
…でも、多く語るべきはそこじゃないでしょ、と。


日々の「生活」や「医療」はあくまで「ベース」であって、そのうえで私たちが、何をして生きていくか、どう死んでいくかのほうが多く語られるべきじゃないんですか、と。


また、テレビやインターネットニュースが、我々庶民を「物乞い」にしてしまっている、という側面もあるかもしれません。
「政府はなぜ○○しないのか」と、「本来もっとしてくれるはずなのに…」という意識を私たちに植え付け、「あなたの○○は大丈夫?」と、ちょっとした「不健康」をネタに私たちの不安をあおる。


そんな報道ばかりを毎日目にしていたら、そりゃあ「政府」や「医療」の寄生虫のようになってしまうのも、わからないではないですよね。
まあ、そういった報道を「見ない」「自分のアタマで判断する」という選択肢を持つ人なら、そんな「物乞い」のような思考ルーチンを植え付けられることもないと思うのですが…。


老いも若きも男も女も、「死ぬまで働く」。
多少の身体の不具合は「こんなものだろう」と自己判断する。
そのうえで、独自性を出しながらおもしろおかしく生きる。


そう皆が生きられたら、どんなに素晴らしい世の中だろうと夢想しつつも、精神的に「物乞い」の人たちの多さを考えると、それは単なる空想にすぎないとため息をつく今日この頃です。


ペタしてね

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↓『ニッポンを繁盛させる方法』島田紳助・東国原英夫著、角川書店、2007)より引用(05)


東国原:もちろん、(モチベーションの高い若者が)県庁にもいないわけではないんですよ。
ただ、公務員は何時間働いても給料が同じだとかいうような意識をやっぱり持っているところが一部、見え隠れする。
コスト感覚やスピード感覚といったものが民間に比べて不足している。


そこで、インセンティブが必要なのかなとも思う。
公僕(公務員)っていうのはパブリック・サーバントだから、県民の皆さんが喜ぶ顔を見て喜ぶべきなのに、ちょっと違ってきているのかなとも感じています。


島田:公務員は難しい。


東国原:公務員の意識改革をするのは難しいですね。でも、できないことはないと思います。


島田:うちの店もやっぱり基本給は低くしている。
でも、売り上げに応じたインセンティブを設けている。
出来高を従業員一同、同じにすると、みんなが売り上げを意識する。
だから、しんどかったとしても、今日一日の売り上げが良かったらみんなで喜ぶ。
結果的にそれが自分にお金として返ってくるから。
でも「売り上げだけ見てたらあかんぞ」とは口を酸っぱくして言っている。
そういうことって民間だからできるけど、相手が公務員だったらどうすれば頑張るのか。


東国原:三月ぐらいにですね、地鶏などを入れて僕が訪問先で渡していた宮崎の紙袋が有名になったんです。
それで、そのデザインを活かして「Tシャツにしませんか」と提案したんです。
「分かりました」と言われてできあがってきたのが八月の半ばですよ(笑)。
春先にお願いして、できあがったときには夏の半分が過ぎていますよ。
色々な手続き等があってある程度は仕方ないけど、それにしてもスピード感覚が足りない。その頃にはもう遅いですよ。


それで、「物産館で販売します」と彼らは言う。
僕が「物産館だけではなく、空港やデパートでも販売しましょう」と提案すると、「いや、物産館に何百枚か置いてみて、その売り上げの統計をとってから採算ベースで割り増ししていく」って言うんですね。


慎重に慎重を期すのは良いと思いますけど、見切り発車で勝負していかなきゃいけないときってあると思うんですよ。


島田:公務員にとってそれは、やる気の出る仕事でないねんな。


↑(引用ここまで)
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公務員に限らず、どんな業種でもそうだと思うのですが、東国原氏のTシャツの提案のような「新しい仕事」が飛び込んでくるときって、我々下っ端の普段の業務が減ってくれるわけではないですから、もちろん普段どおりの業務をこなしながら隙間時間を作って、普段の業務と並行してオーバーワーク気味にやっていくしかないわけです。


だから、東国原氏が言うような『スピード感覚が足りない』という指摘には、半分同意ですが、半分は同情してしまうのです。


ただでさえ、人件費の削減に次ぐ削減で、我々ひとりあたりにのしかかる仕事量は年々増えてきていると感じますし、それは公務員の世界でも同様だと思います。
聞くところによると、絶対に9時~17時では終わらないような事務作業に毎日追われていて、まともに休憩や昼食の時間もとれない部署もあるとか。
県庁勤務なんかになると、繁忙期は、毎晩終電に間に合わないほどの膨大な事務作業が連日続くそうです。
もう、「公務員 = ラクで安定」なんていう時代ではなくなってきているのかもしれません。


そんな毎日忙しい中で、トップから「Tシャツ作らない?」なんて思いつきで提案されても、普段の業務の片手間にやるくらいのモチベーションしか持てないのも、わからないではないです。
…まあ、Tシャツの納期が8月半ばっていうのは仕事のクオリティとしてどうよ、やるならちゃんとやれよ、とは思いますが(笑)。


とはいえ、「現状維持は後退と同じ」なんて言いますし、何か「新しい試み」を日々の業務に挟み込んでいかなければ、どの企業も生き残っていけないというのが昨今の流れなのかもしれません。


忙しい中でも「新しい仕事」を嫌がらずに、なおかつ「Tシャツを8月に納品」なんて「現状維持」男にならないよう、「やるからにはきっちり」「自分や周囲の常識を疑う」自分でありたいものです。


ペタしてね

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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(12)


関心を持つのは年金に医療費、それから安心と安全――老若男女を問わず、最近の日本人はどうも国に頼らないと生きていけないのかね、という感じがします。


年金の支給額が減らされるとか、開始年齢が引き上げられるとか言いますが、払うときに将来いくら年金として返ってくるかなんて考えてなかったでしょうに。
お金をもらえるときが近づいてきたから騒ぎ出しているだけで、今さら自分たちは苦労してきた、もっとよこせ、なんて文句を言うのはどうかしていると思います。


「だいたい、国がそんなことをしれくれるはずがない」


歳を重ねて経験を積んでいるならそういう直感があっていいはずで、こう言いたくもなるのです。


「定年退職して、年金でこの先何年かをどう暮らしていこうか悩むより、今までずっと働いてきたんだから、今度は女房を働きに出させたらいいじゃないですか。
もらうお金だけアテにしていたら、お金に頼るしかなくなって、ダメになっちゃうよ」


それに比べて北海の漁師やアラスカのエスキモー、オーストラリアのアボリジニ、ネイティブアメリカンなどの老人たちは、実にいい顔をしているのはなぜなのか。


もともと自然と自分の身体が頼りで、生きるとは国に頼ることではない、というスタンスがはっきりしている。
だから、年をとってもしゃんとしていられるのです。


都会から遠い僻地であるほど、不便で厳しい環境のもとで生きているほど、精神的に強くいられるということは、やっぱり都会暮らしというのはどこかで人間性を変質させたり壊したりしているにちがいない。


↑(引用ここまで)
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四十・五十歳も過ぎたおっさんやおばはんの多くが、口を開けば「健康」や「医療」、「カネ」の話ばかり。


「何に言葉を多く費やすか」でその人となりがわかる、と私は豪語しているのですが、そんなおっさんやおばはんの「話題」乏しさには辟易とさせられます。
「それしか話すことないんかい」、と。


そりゃあ、私も健康にはそれなりに気を遣っていますし、この歳になれば大きな病気もご多分にもれず経験しています。
しかし、日常的に「健康」のことばかり気にして暮らしているのはむしろ「不健康」、もっと言えば「”生きている”とすら言えないのでは?」とも思うのです。


巷の主婦がスーパーの特売だかクーポンだかの「オトク」のことばかり気にして生きているのも、そうです。
確かに「節約」は大事だけれども、普段の会話、普段の思考がそこにばかり向いてしまうのは「節約奴隷」、「生ける屍」と評されても仕方がないのではないでしょうか。


安くモノを手に入れることで、そんなにも「人生」から多量の時間が奪われるのなら、むしろ多少高くお金を払ってでも、精神的に「ゆとり」を持って暮らしたほうが、より「人間的」「豊かな暮らし」とは言えないか、と私は思うのです。


あなたの周りにもいませんか? 「カネ」や「健康」にばかり「時間」と「精神的ゆとり」を奪われている人は。
…スーパーに行って、手に取る商品が多少高くても、「”ゆとり”をカネで買おうや」と言ってはカゴに入れる私は、ただの「浪費家」なんですかね?(笑)


ペタしてね

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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(11)


私がよく「酒場で騒ぐな」と言うのは、酒場で大勢で騒ぐ人は、他人とつるんでヒマ潰しをしているだけだからです。
そもそも酒場の大声というのは、「私、いま酔っていますよ」とあたりに主張しているようなもの、本来は主張するより謝るべきことです。


仲間と一緒に酒を飲んで騒ぐことで、孤独を忘れられるという人もいる。


しかし、あえて孤塁を守らなければ自分を真剣に見つめることもなく、流れゆく生を見送るだけになってしまいます。


どうしても人の悪口を言いたいなら、大声でばかばか言うがいい。
ただし、一人で。


同じように、公共の場、電車やバスなど乗り物の中では、たとえ友人同士でも少し声を抑えて話すのが大人の礼儀であって、他人に自分の話の内容を聞かせるものではない。


↑(引用ここまで)
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『たとえ友人同士でも少し声を抑えて話すのが大人の礼儀であって、他人に自分の話の内容を聞かせるものではない』。
本当にそう思います。


松本人志氏も、以前どこかで「アホって声大きいですよね」と言っていました。
アホっぽい女が、コンビニで彼氏か誰かに「これ、ちょーおいしいんだよねー!」と大声でしゃべる。
「なんで、オマエの好みをこっちまで聞かされなあかんねん!」と。
…その女がコンビニを出て行ったあと、ちょっとそのお菓子が気になってしまったり(笑)。


そういう輩は、むしろ周りに「聞かせたい」と思ってしゃべっているんじゃないか、と思ってしまうくらい大声で話しますよね。
レストランで大声でしゃべくるおばちゃん然り。店員にやけに強く出るタイプのお兄ちゃん然り。


それどころか、さんざん大声でしゃべくって、隣のテーブルの私が(そいつの話とは関係ないところでたまたま)クスっと笑ったりすると、「俺の話で笑ったの?」みたいな顔でチラっと見てくる奴なんて、腹が立って仕方がありません(笑)。
「お前の話なんて聞いてへんわ!」「というか、もっと小さい声でしゃべれや!」、と。


もっと言えば、これだけうるさくて周囲が迷惑しているんだから、そいつのツレが「もうちょっと静かにしようよ」くらい言ってもよさそうなものなのですが、「類は友を呼ぶ」というか、声のデカい奴のツレが注意するのを見たためしがありません。
…しょせん、周囲に気配りできない奴に寄ってくる恋人や友だちも、周囲に気配りできないタイプの人間ということなのでしょうか。


とはいえ、他者は鏡。
自分もそういった公共の場で、友人と話していてついつい声が大きくなってしまうこともあるので、気をつけなければなりません。
また逆に、たまたま耳に入ってきてしまっただけだとしても、他人の話を聞いてしまうのはマナー違反だと思うので、できるだけ聞かないよう、耳をふさいで素知らぬ顔でいたいものです。


「他人に自分の話の内容は聞かせない、また、聞かない」ようお互い努めることが、伊集院氏も言う『大人の礼儀』だと思うのです。


ペタしてね

2014年は、私自身、仕事と育児に奔走しながらも、友人のS君、Y君が続けて「結婚」に飛び込むという出来事がありました。
転勤もあったT君は、相変わらず忙しそうです。…身体壊すなよ!


私は「”結婚””育児”という”人生の負荷”に自ら飛び込んだのだから、炊事も、洗濯も、育児に関わるすべての雑務を、メインを張って取り組みたい」と思い立ってしまったため(笑)、妻には申し訳ないくらい、「シングルマザーやシングルファーザーだったら、これくらい全部ひとりでやっとるんやし」を合言葉に毎日を過ごしております。
…だって、そんな「面倒くさいこと」がしたくないのなら、「結婚」や「育児」に飛び込まなければいいだけの話ですから。
どうせやるなら、徹底的にやろう、と。


おかげさまで、いろんなことが見えてきました。


「これらすべての雑務を”女の仕事”と決め込んで家でゴロゴロされていたら、そりゃ腹立つやろなあ」とか。
「子どもの食事・排泄・着替え・お風呂・睡眠・保育園の送迎・ケガや病気などのトラブル…これらすべてをひとりで背負って真面目に向き合っていたら、そりゃノイローゼにもなるわ」とか。


世の主婦たちの悩みどころも理解できるようになりましたし、逆に「自分の人生を犠牲にしすぎ」「子どもにばかり時間とカネをかけすぎ」という傾向もわかるようになってきました。
…さすがの私も(?)、日々の仕事に加え、これらの雑務が立て込んでくると、知らず知らずにイライラしていたり、ちょっとしたことで腹が立つようになってしまっている自分に気づくことも、あります。
仕事で夜遅く帰ってきた妻に、なぜだかねぎらいの言葉もかけてあげられない気分になってしまっている自分に気づくことも、あります。


そういう意味では、私も強がっているだけで、世の主婦たちと同じように、家事や育児という膨大な雑務に真面目に取り組みすぎて、やられぎみなのかもしれません。


とはいえ、毎日帰宅が夜9時10時を過ぎる仕事を持つような男性には、私のような立ち回りはできないでしょうし、そういう意味で、結婚に飛び込んだ友人ふたりの生活バランスのとり方が、心配でもあり、逆に楽しみでもある、というあたりが正直な心境です。
私の十年あとを行く若者たちが、いったいどんな「立ち振る舞い」を見せてくれるのか、と。


私も、そんなら彼らに、おもしろおかしい「立ち振る舞い」を見せて生きられるよう、世の「常識」に埋没せずやっていく所存です。


…そんな彼らが、小さな子どものいる私のところに、十年前と変わらず、夜でも遠慮なく訪ねてきてくれることを、たまらなく嬉しく思います。
本年も、よろしくお願い致します。


ペタしてね

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↓『ニッポンを繁盛させる方法』島田紳助・東国原英夫著、角川書店、2007)より引用(03)


島田:俺はほとんど店に行かないんだけど、時々行って、みんなにやる気を起こさせる魔法をかける。
やっぱり知事っていう仕事も県民に魔法をかける仕事だと思う。


東国原:それはもうおっしゃるとおりですね。


島田:従業員たちに夢を語らないといけないし、夢を持たせないといけない。
特に、知事という立場は絶対に「自分が得をしよう」と思ったらいかんよな。


東国原:その気持ちは僕にもいっさいないですね。


島田:その気持ちを東国原知事は県庁職員にまず伝えるべき。
俺にとって店の経営は遊びだけど、遊びだからこそ、失敗したくない。成功させたい。
その心意気がやっぱりみんなに夢を与える。


↑(引用ここまで)
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子どもや若者も含め、周りの人間を「やる気」にさせる方法は、やはり「自分がいかに本気か」を理解してもらうしかないと思うんです。


「なぜやらないんだ」「あいつはダメだな」と愚痴る前に、自分の「熱」を伝える。伝染させる。
自分が、どういう覚悟で臨んでいるのか、どのくらいのレベルを「あたりまえ」と思って臨んでいるのかを伝える。
それを見聞きした周りの人間は、その「熱」に触れて、自分んが「本気でなかった」ことや、覚悟の足りなさを自覚し、改善・成長していく。


それがきっと、紳助氏の言う『魔法をかける』ということなんだと思います。


親や教師、職場の上司や管理職の出来不出来は、そこで決まると言ってもいいかもしれません。
…私はちょっと苦手なんですけどね(笑)。


若者に「うっとうしい」と思われるのもイヤですし、打っても響かなかったときが怖いというか、自分でやれることは多少無理をしても自分でやってしまいがちです。


嫌味なくらいに自分が動いても、伝わらないやつには全然伝わりませんし、言ってもそいつの「常識」はなかなか変わりません。


「自分が得しようと思って、偉そうに言っているわけではない」こと。


「自分がこのくらいの覚悟をもって、望んでいる」ということ。


これを地道に地道にに伝えていくことでしか、子どもや若者の「覚悟」を変えてやることはできない。


…紳助氏は、きっと上手に『魔法』をかけるんでしょうね(笑)。

ペタしてね

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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(10)


二十年ほど前に直木賞をいただいたとき、雑誌のグラビアに祇園で芸者をはべらせて執筆している私の写真が載りました。
ヒドイな、これじゃあ世間がどんな勘違いな反応を示すことか、と内心タメ息をつきながらも、ああ無頼派を演じてくれということか、とも考えました。


演じるというのは、ヤセがまんしてでも恰好をつける、とも言い換えられます。
まだ世間知らずの若者が恰好つけるのは単に色気づいて外見を飾るだけですが、私が言っているのはあくまで”姿勢”のこと。


↑(引用ここまで)
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『演じる』。
『ヤセがまんしてでも恰好をつける』。


そういった「役割意識」というか、あえて損を引き受ける「きっぷのよさ」が、その人を美しく見せる、と最近よく思います。


伊集院氏も、「芸者をはべらせて執筆している、なんて世間から思われたくない」という本音と、「世間が自分に望んでいるであろう”キャラクター”」という役割意識の間で葛藤し、「まあ、仕方ないか」と後者を選びました。


「本音はこうしたい、トクしたい」と「仕方ない、その”役割”に徹してやるか」の間で揺れたとき、そのどちらを選ぶか。


先日、私は職場の先輩が同僚の若い女の子にちょっかいを出していたと聞き、ショックを受けました。
「若い女の子に手を出したい」と「あくまで紳士として、その”役割”に徹する」の間で揺れたのでしょうが、前者に流れ、その子にも「尊敬してたのに、このおっさんも結局ヤリたいだけか」と思わせてしまったことが、残念でなりません。


また逆に、そのことを思うと、「自分は、”おまえも結局ヤリたいだけか”なんて、若い女の子に思われたくないよなあ」「首尾一貫して、紳士的に対応できるおもしろい男もいるんだ、と思わせたいよなあ」と、「役割意識」ばかりが私の心をつつくのです。


『演じる』。
『ヤセがまんしてでも恰好をつける』。


男は特に、性的な衝動がついてまわると知っているだけに、たとえ『ヤセがまん』だとしても、うまく付き合っていかなあかんよなあ、としみじみ思う今日この頃でした。


ペタしてね

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↓『ニッポンを繁盛させる方法』島田紳助・東国原英夫著、角川書店、2007)より引用(02)


東国原:宮崎の雰囲気づくりや県民の親切さが大事なんです。
僕がいつも小・中学校の子供たちに言っているのは、「県外から観光客やお客様がいらしたら必ずあいさつをしてください」ということなんです。
町で会っても、どこで会っても。


あいさつする子供を見ると、都会から来られた方はびっくりしますよ。
知らない子供から「こんにちは」とあいさつされれば、「なんだ!? 宮崎は」と驚かれると思います。
それから「ゴミが落ちていたら必ず拾ってください」「ゴミをそこら中に捨てないでください」というお願いもしています。
子供たちがあいさつをして、ゴミのない県。
こういったところから変えていかなくてはと思っているんです。


↑(引用ここまで)
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やっぱり、誰でも万人に可愛がってもらえる基本は「あいさつ」「ゴミを拾う」。これに限ります。
それは、東国原元知事のように、「仕込み」「半強制」であっても、です。


私は子どもに、それこそ1歳児のときから、自分から先に挨拶するように丹念に仕込んできました。
保育園の先生に、自分から「おはようございます」。
近所の人に出会ったら、自分から「こんにちは」。
保育園の敷居をまたぐときは、「よろしくお願いします」「ありがとうございました」。


最初は私から手本を見せていましたが、最近では、子どもが自分から気づいて言い出すまで、黙っているようにしています。
すると、言い忘れたことにハッと気づいて、「こんにちは」「こんばんは」と言い出します。


ここでポイントなのが、「大人がそばにいなくても、ひとりでいるときでも、言えるかどうか」というところです。
親元を離れたときに、自分から笑顔で挨拶ができて、周囲から可愛がってもらえるかが勝負どころなのですから、いつまでも巷の母親のように「ほら、”こんにちは”は?」とせっついて事前処理をしてあげていては、いつまでたっても「自分から」「挨拶を忘れている自分に気づいて」という習慣は身につかないと思うのです。
せめて、ボーッとしていたら、ケツをボンと蹴っ飛ばして気づかせるくらいにとどめておかないと。


道端のごみを拾うのも同様です。
はじめは親がやって見せてあげます。「ゴミを道端に捨てるなんて最低やな」とか何とか言いながら。手にタバコの匂いがつくのはイヤですが、素知らぬ顔でポイ捨てされたタバコの吸い殻も拾って歩きます。
するとそのうち、子どもの方から「ゴミが落ちてるよ。拾います!」とか言い出して、勝手に拾い始めるもんですよ。
…たまに拾いたくないような汚いゴミでも拾ってきてしまうので、捨て場に困ることもありますが(笑)。


とはいえ、勝負は私がいなくなったときですから、私がいるときにもっと習慣化しといてやらないと、外では実際ゴミを見過ごす奴になっているかもしれませんよね。
保育園の先生や、預け先の祖父母から噂で「ゴミ拾ってたよ。偉いねえ」なんて聞こえてくるくらいでないと。


…とまあこんなふうに、「あいさつ」や「ゴミ拾い」の習慣があるだけで、3歳になったばかりの彼女も、今のところはけっこう周囲から可愛がってもらっているようです。
別に「かわいげ」を仕込んでいるわけではなく、ただ動物の躾のように「習慣」「作法」を仕込んでいるだけなんですけどね。
でも、我々大人が見知らぬ子どもや若者に「かわいげ」を感じるのは、まずそこからというか、彼らがひとりで生きていくうえでの、重要な「処世術」だと思うのです。


「教育は実験だ」と誰かが言っていた気がします(笑)。
どこまで「あいさつ」「ゴミ拾い」が仕込めるか、目下、実験中です。


ペタしてね

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↓『ニッポンを繁盛させる方法』島田紳助・東国原英夫著、角川書店、2007)より引用(01)


島田:かつてダイオキシン問題が騒がれたときに、(小泉純一郎・当時厚生大臣に)俺の番組に協力してもらったことがあった。
そのとき俺は、小泉さんに義理ができたから、「ありがとうございました」と手紙を出した。
そして「今回で義理ができましたから、もしいつか小泉さんが総理になられて、『紳助君、力を貸して欲しい』と言われたら、僕は馳せ参じて立候補します」とも書いた。
まさか、総理になるとは思っていなかったからつい調子に乗って書いたんだけど、ほんとに総理になって、「えらいことになった」と焦ったわ(笑)。
それで選挙の前になって、小泉さんと再び会う機会があった。
やっぱり俺が集める票というのはどこの政党であっても魅力的なはずや。
でも小泉さんは予想外の反応だった。
「以前、小泉さんに頼まれたら立候補しますというような手紙を書きましたけど……」って俺が言ったら、「だめだめだめ。君は政治家になったらだめだ」と。


「君は四百八十分の一の衆議院議員でいるよりも、テレビの中で喋っていた方が国会議員何十人分もの影響力がある。君はそれをすべきだ」とおっしゃった。


東国原:いい言葉ですね。


島田:それを政局が安定していた時期に言ったのならただのかっこつけかもしれないけど、選挙が近づいているときに言われたから、「あ、この人って、偏屈で変わったおっちゃんやけど、信念があるな」って思った。


↑(引用ここまで)
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男気。


やせ我慢。


小泉氏も、紳助さんの票が喉から手が出るほど欲しかったのかもしれませんが、それはおくびにも出さず、自分の信念に従って、きっちり筋を通した対応をする。…まさに「男気」! まさに「男のやせ我慢」です。


まあ、あんまり「男、男」と言うと、「それは女性蔑視では?」という指摘が今にも聞こえてきそうですが(笑)。
言うまでもなく、それは意味としての「男気」であって、それは女でも男でもありうる話です。


…とはいえ、私見ではありますが、私の周りには、そんな「あえて”損”を請け負う」男気・やせ我慢を見せてくれる女性はほとんどいないように思います。…そんなことないですか?(笑)


簡単なところで言えば、職場の飲み会や職員旅行の幹事から、泊まりの仕事、本来自分の業務ではないところへの気配りまで、「家庭が…」「子どもが…」を言い訳にして、そういうことに手を挙げたがらない女性が(少なくとも私の周りでは)多いです。


…そんなこと言ったら、私だって、3歳児と1歳児の保育園の送迎から、炊事・洗濯・掃除を毎日こなしながら、職場でも、誰も手を挙げたがらない雑務も「それ、自分がやりますよ」と男気・やせ我慢を発揮しているんですけれども(笑)。


話が逸れました。


つまり、なんというか、「あえて”損”を請け負う」男気・やせ我慢によって、職場やら、家庭やら、私たちの日々暮らす場所が支えられているというか、もっと平たく言えば、「家庭や子どもを言い訳にして、その”損”を他の誰かに押し付けているくせに、その恩恵を当たり前に受けながら、自分からは決して”男気”を出そうとしない輩が多すぎやしませんか?」ということです。


私だって、疲れて気分が乗らない日もそりゃあ、ありますよ。
でも、職場の皆も疲れていると感じたら、車を走らせて、おやつでも買ってきて、コーヒーを淹れながら、くだらない話を提供するんです。
シュークリームを何十個と買えば何千円とお金はかかりますし、無駄話をしていれば、自分の仕事も滞ります。
六時半には保育園のお迎えだってあります。夕飯の支度だって、洗濯だって控えています。
そりゃあ、「損」ばかりです。


でも、そういった「男気」「きっぷのよさ」「気配り」によって、人間関係が円滑に回ったり、仕事の根回しがしやすくなったりするんだと思うんです。…なんで、みなさんやらないんでしょう?


私だって、何日も家をあける泊まりの仕事はイヤですよ、本当は。子どもも妻の実家に預けて数日お世話になったりしなくちゃいけませんし。
飲み会の幹事だって、職員旅行の企画だって、業者や先方との打ち合わせから参加者募集、集金、当日の司会業務まで、面倒くさいことばかりです。本来の業務も滞りまくりです(笑)。
でも、そうやって誰かが風通しの良い職場を作っていかないと、「普段の会話で得た情報が、どこか別の業務で役に立つ」ようなことがどんどん抜け落ちて行ってしまうように思うのです。


小泉氏の『君は政治家になったらだめだ』然り。
職場や家庭で「あえて”損”を請け負う」男気然り。


…なんだか、「飲み会の幹事」や「差し入れ」みたいな安っぽい例えばかりで申し訳ないのですが(笑)、ともかく、「男気」「きっぷのよさ」「やせ我慢」を見せてくれる人が少ないなあ、それがあるから職場や家庭が回っているんだけどなあ、と感じ、今回こう書きました。


職場の人らが「家庭」や「子ども」を言い訳に、そういう役回りを避けてばかりな姿を見ては、「何を”家事”や”育児”ごときで大変そうなツラしとんねん。自分は両方やっとるぞ。情けないなあ」と思うことしきりです。。
…もし、そうでない人がいたら、是非ご一報ください(笑)。


ペタしてね

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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(09)


西田幾太郎は、「涙をもってパンを食うた事のない人の人生観は、いかほど価値のあるものであろうか」と言ったという。
彼は八人の子どものうち五人を失っています。


人間の世の中は、どれだけ裕福で丈夫に育っても、外へ出たら必ず理不尽がある。
理不尽というと敬遠されますが、山中鹿之助の「七難八苦を与えたまえ」の言葉のように、理不尽こそが人を育てるというのは間違いありません。


↑(引用ここまで)
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先日、久しぶりの同窓会から帰ってきた私の父も、似たようなことを言っていました。
「今までの自分の人生で話して恥ずかしいことなど何もない、と豪語しているヤツがいたが、誰にも話さず墓場まで持っていくつもりのツラい出来事もなかったような人生に、どれほどの価値があるのか」と。


「娯楽」や「便利」ではなく、「理不尽」や「失敗」こそが、結果的に我々の人生を豊かにする。
最近、特にそう思うようになりました。


母が家を出て行った日に食べた飯の味。
悪さをして、父が自分の横で頭を下げるのを涙ながらに見た記憶。


他人から見れば「なくてもいい理不尽」なのかもしれませんが、そういった「理不尽」たちが私を成長させてくれた、人生に深みを与えてくれた、と思います。


だから、というわけでもないのですが(笑)、子どもに少々の「理不尽」を与えるのも悪いことじゃないよなあ、と最近は思うようになってきました。
あんまり「教育的配慮」とは言えなくても、自分が不快に思ったら「不快だ」と怒ってみたり。
別にやってあげてもいいかな、と内心思うことでも、「それはダメだ」と子どもの要求を却下してみたり。


子どもの「なんで?」に耐えられないような「理不尽」であったとしても、それを時折子どもたちに振りかけてやることで、「これをやったら怒らせちゃうぞ」「自分の意見が通らないこともある」と、自分の力ではどうにもならないことがあると痛感したり、「分を弁える」ことを覚えたり、子どもたちが勝手に学習することも多いんじゃないかな、と思うんです。


いろいろな「クレーム」が乱立するこのご時世、「ちゃんと理由が説明できるように」「相手に不快に思われないように」という流れがどうも強いようですから、「理由なんてないわ、ボケ。イヤなもんはイヤなんじゃ」と言ってのける人の少なさを思うと、子どもたちに意識して「理不尽」を与えるようにしてやらないと、そういった波風を通り過ぎないまま大人になってしまう危険性があるんじゃないかなあ、と感じるのです。
それこそ、私の父が同窓会で出会った「つまらない」おっさんのように。


『涙をもってパンを食う』のも、そんなに悪くない。むしろ、そんな経験は必要不可欠ではないか。
多くの親や教師は、子どもから必要以上に「理不尽」を取り除いてやってしまってはいないか。
私自身の人生の「理不尽」を振り返りつつも、目の前の子どもや若者の「人生観」に思いを馳せるのでした。


ペタしてね