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↓『自分を愛する力』乙武洋匡著、講談社現代新書、2013)より引用(09)


乙武:ルールに従ってさえいれば、「いや私が判断したんじゃないんです、ルール通りなんです」と言えますから。
自分で考える、自分で判断することを放棄していますよね。


泉谷:「思考停止」状態なんです。
自分で思考できる人は、他人や子どもに対しても「思考停止」を強要しないでしょう。
乙武さんがお子さんになさっているように、自分で考えることを促し、その意味がわかるように失敗すら許容して子供が自発的に行動するように待っている。
そうした子どもへの接し方は、最初は時間がかかるように思えても、子どもは自分で応用を利かせるようになっていくし、物事を理解する力もついて、立派に成長していくんですけどね。


↑(引用ここまで)
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…『自分で思考できる人は、他人や子どもに対しても「思考停止」を強要しない』。


私が、結婚や出産、持ち家を購入するなどの、いわゆる「人生の節目」と言われるような場面で、一番違和感を覚えるのが、こういう『思考停止を強要』してくるおっさんやおばはんです。


「若いうちに子ども作っておかないと、歳とってから子どもの相手は大変だよ~」とか。


「子どもはお金かかるよ~。国立大学コースでもひとり1千万円もかかるんだから、教育費を積み立てできる保険に入ったほうがいいよ」とか。


「家賃を払い続けるなら、早いうちにローン組んで、家買ったほうがいいよ」とか。


…大きなお世話ですよ、と(笑)。


いや、わかるんですよ、好意から言ってくれているのは。
気にかけていただいて、ありがたい限りです。


ただ、そういったありがた~いアドバイスのどれもが、若い世代のオリジナリティを削り取る可能性を持った発言であること、前例踏襲・おもしろくともなんともない人生にさせてしまう可能性を持った発言であることを無視しているのでは、と思えてならないのです。


「結婚」なんてしてもしなくてもいいし、「育児」や「住居」なんて、一番のオリジナリティの出しどころじゃないですか?
いずれ死んでいく者として、世の中に自分の爪あとを残していくのに、一番の工夫のしどころじゃないですか?


「自分のアタマで考えて、周囲におかしい奴と思われても、自分の”おもしろい”に従って実践する」選択肢を潰すようなアドバイス、やめてくださいよ、と。


泉谷氏も言う『自分で思考できる人は、他人や子どもに対しても「思考停止」を強要しない』と、心底思うのです。


…こんなことを言ってしまって、「そう言うオマエの生き方も、別におもしろくないやん!」とツッコまれないよう、「オリジナリティあるおっさん」を演じ続けます。。


ペタしてね

最近、松本人志氏出演の「ワイドナショー」というテレビ番組をよく観るのですが、先日ゲストで来ていた武田鉄也氏が「正義」について話していたのが、非常に印象に残りました。


武田氏曰く、「”正義”ほど怖いものはない」、と。


「自分は間違っているんじゃないだろうか?」「自分の言動が、知らないうちに誰かを傷つけているんじゃないだろうか?」と自問できる人物こそが、「人間として成熟している」と彼は語ります。


「自分は正しい」「これこそが”正義”だ」と思い込んでいる人間ほど、誰かを傷つけたり、周りを困らせたりしている、と。


…確かにその通りだと思いました。


私も、こんな文章を毎週毎週つらつらと書いて偉そうなことばかり言っていますが、毎回怖いですもん、「自分は間違ったことを言っているんじゃないのか」「知らず知らずに慢心していやしないか」と。


やっぱり、宗教家や政治家を筆頭に、職場にいるおっさんやおばはんまで、私が一番違和感を覚えるのは、「自分だけわかったふうな口ぶりで話す」人たちです。


宗教の勧誘然り。インターネットニュースを見て「この○○見た? どうしようもないよね」と物知り顔でしゃべってくる職場のおっさん然り。
「自分は間違っているんじゃないだろうか?」という自問や奥ゆかしさなんて、微塵も感じさせません(笑)。
…武田氏の言葉を借りれば、「人間として成熟していない」人たちなのかもしれません。


そうはなりたくない、「こいつ、偉そうに語るなあ」なんて思われたくない、自分を棚に上げてニュース番組に毒づくなんて恥ずかしい、と強く思って暮らしている(と思い込んでいる?)私にとって、武田氏のこの発言にはヒヤっとさせられました。


どんなに歳を重ねても、「自分は間違っているんじゃないだろうか?」と自問しなくなったとき、そこで「人間としての成熟」が止まってしまう。そして、成熟することをやめてしまっている人間で、世の中はあふれている。
…そんな仲間に入らないよう、今日もせっせと自己懐疑です。


ペタしてね

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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(08)


近年の中学や高校でのいじめというのは、ネットを使った中傷とか、昔とは比べものにならないくらい陰湿で狡猾になったという話がしばしば報じられます。


しかし、いじめの根そのものを誰もが持っている以上、世の中に出てもなくなりはしない。
だから、要は怒れるかどうか。
怒れれば、乗り切れるはずです。


弱くていじめられている子でも、ブチ切れてやみくもに相手に突っかかっていくと、結果はどうあれ、ほんとうの怒りを前にしてみんなたじろぎます。


先ほど教育で一番大事なのは「相手の痛みを知って泣けるか、思いやる感情を持てるかどうか」だと言ったのは、他人事にして逃げない気持ちを持てるか、という意味もあります。
私はいじめに遭っている子には、「怒れ、相手を許すな」と言った。
そいつが「そんなの無理だ、やられちゃう」と言っても、「向かっていってやられたっていいんだ。後のことは後で考えればいいじゃないか」。


そう言ったものでした。
最近は、いじめを目にしたり、知っていたりしても、ほとんど他人事として避けたまま学校を出てくるようです。
いじめた側の人たちも、その後グレてヤクザになるわでもなく、意外と成績もよくて、けっこう名の知れた会社で真面目なサラリーマン生活を送っていたりすることが多いという。


いずれにしても、いじめのような「基準からの逸脱」は人間につきもので、現実の世の中では、人は人を殺したりもする。
そういうことがありうるのだと想像し、予測して対応することを身につけなければいけないのです。


↑(引用ここまで)
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「人は平等」と皆言いますが、学校でも、恋人どうしでも、家族間でも、それぞれ口が達者だったり、腕力に自信があったり、気配り上手だったり、美人・イケメンだったり、さまざまな要素が積み重なって、少しずつ人間関係の「パワーバランス」が傾いていきます。


それは、「スクールカースト」というような暗黙の「優劣」にもなりえますし、夫婦関係でも「3年経てば、もうそこには上下関係が確定している」なんて言われたりもします。


そういう意味では、どんな人間関係でも「陣地の奪い合い」であり、ちょっとでも恋人のワガママを聞いてあげてしまえば「次からもこのワガママは通せる」と彼女は思ってまいますし、友だちにイタズラして怒ってこなければそれは「次からもやっていいこと」になってしまいます。


だから、不快に感じたことはできるだけ「不快だ」と表現し、自分が得意なことは「あいつはそれ得意っすよ」と周囲に言ってもらえるよう努める。それしかないと思うんです。
「自分はこういう人間です」「こういうキャラなんです」「こういうことに怒るんです」ということをアピールしていかないと、周囲にナメられっぱなしになってしまいますよ、ということです。


松本人志氏がいつだか言っていました。
「自分は”お笑い”という山に努力して登りつめたというつもりはない。むしろ、自分はすでにその山のてっぺんにいて、皆にいかにそれを理解させられるかだけを考えてやってきた」と。


自分が内心不快に思うような「いじり」を受けたとき。
個人的には「そのくらい別にいいかな」と思うことでも、今後「そんなことが許される人間関係」にはしたくないとき。


そんなとき、伊集院氏も言うような「怒り」を表現する。
「自分はそれをされたら怒る人間ですよ」とパフォーマンスしておく。


「パワーバランス」をちょっとでも自分に傾ける「アピールする習慣」こそ、いじめに苦しむ子どもや、職場でいきいきと過ごせない若者、子どもにナメられっぱなしの親に必要なんじゃないかなあ、と最近本気で思うのです。


ペタしてね

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↓『自分を愛する力』乙武洋匡著、講談社現代新書、2013)より引用(08)


乙武:たとえば、「スープを飲むときは、片手でなくて両手で飲みなさい」と親は言います。
片手で飲むほうがこぼす確率が高いということが、親はわかっているからですよね。
結果だけ教えられても、なぜ片手で飲んではいけないのかが子どもにはわからないまま、両手で飲まされ続けるわけです。
あるとき「どうして片手で飲んじゃいけないんだろう」と思い、つまづいて、いろいろ迷いが生じる。


今すごく身近な例で話しましたけど、それがもっと大事に至る価値観だったときに、迷いや戸惑いが「新型うつ」というような形になって表れて、それが自分を肯定できないことにつながる気がします。
「あ、片手で飲むとこぼしやすいな」と自分で気づいて、「じゃあ両手で飲めばこぼさなくてすむんじゃないか」と自分で考えて判断する。
自らやってみて怒られたり、失敗だとわかったりして学んでいく。
子どもにはそうやって生きていく人間になってほしい。
だから、なるべく親の立場で「こうしなさい」とは言わないようにしています。


泉谷:乙武さんの育て方は、「意味を自分でつかみなさい」ということを子どもに教えているのだと思うんです。
「両手で飲みなさい」という形だけを伝えると、それはマニュアルにしかならない。
なぜ両手で飲めばいいのか、その理由や意味がわからないと、他のことに応用が利かないですよね。
ところがそれがわかっていると、こういう場合なら逆に片手で飲んでもいいんじゃいかと、臨機応変に応用を利かせることも覚えていくんです。


↑(引用ここまで)
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子どもと関わるとき、ついつい「ほら、こぼしちゃうよ!」「両手で飲みなさい」と親は先回りして注意してしまいがちですが、乙武氏も泉谷氏も指摘するように、そこには「失敗から自学する姿勢」と、「言われなくても自分で気づく習慣」が無視されています。


だから私は、子どもと関わるとき、子どもがこぼすのを、できる限り待ちます。椅子から落ちて頭をぶつけるのを、できる限り待ちます。
一度失敗させてから、「こぼしたよ」と指摘してやります。態度によっては叱ります。
頭をぶつけて泣いたら、「ドンマイ」と言って笑ってやります。…周りが笑っていると、子どもってそんなに泣かないもんですよ(笑)。


私のこういう「あえて失敗させる」「あえてケガをさせる」姿勢を見聞きすると、人はたいてい怪訝な顔をしますが、ではいったいいつ「失敗から自学する姿勢」を身につけさせてやるのでしょうか? 「言われなくても自分で気づく習慣」を身につけさせてやるのでしょうか?


先日、1歳児が台所で棚からお茶碗を取り出して遊んでいるのを「危ないなあ」と思いつつも、夕飯の支度をしながら放置していました。
案の定、勢い余って地面に叩きつけ、割ってしまいました。
1歳のそいつは、パックリ割れた茶碗と私の「コラー!」の声に号泣しましたが、泣きやませて、「食器は割れる」「モノは乱暴に扱うと壊れる」ことを、身振り手振りで説明してやりました。1歳児とはいえ、「自分がいけないことをした」のは十分理解しているようでした。
するとどうでしょう、次から食器棚に手を伸ばそうとするときは、私の顔色を窺いながらそーっとするようになりました(笑)。
私が「それはダメだ」と顔を横にふると、同じように顔を横にふるマネをして、諦めて別のところへ。


まあ、1歳児の彼女が「食器を割ったのが悪いことだ」とどれだけ理解しているかはわかりませんが、「危ないから」と食器棚に近づいただけで「ダメ!」と理由も言わずに制止したり、いちいち「危ないよ!」「やめなさい!」と予防的に怒号を浴びせるのがはたして「正解」でしょうか?


…まずもって、日常的に「危ないよ!」「やめなさい!」「ほら、言ったでしょ!」と怒号を浴びせていては、いざ本当に怒ったときに効果が薄くなるように思います。そして、子どもにお小言を言うなら言うで、その都度「はい」「ごめんなさい」「ありがとう」と返事をさせないとダメですよね。親に何か言われたのに、「無言」でやり過ごさせてしまうのが、一番良くない。
何より、日常的に大人が先回りして注意してしまうことで、「自分で気をつけないと痛い目にあうぞ」という自己管理能力がなかなか身に付かないと思うのです。


我々大人は、「お茶碗を乱暴に扱ったら割れてしまう」ことを経験的に知っています。
でもそれは、過去に「経験」してきているから「知っている」のであって、子どもからその「経験」「実体験」を根こそぎ奪って、「結論」だけマニュアルのように教え込んでしまうのは、非常にかわいそうだと思うのです。
…茶碗の持ち主である妻には大変申し訳なく思っていますが(苦笑)。


やっぱり「先回りして注意してあげすぎ」な状況に陥るほど、「親がヒマ」「子どもに目を向けすぎている」のもどうかな、と改めて思わされた最近の出来事でした。
…親がそこそこ忙しければ、「茶碗を割ってしまったのを見てから叱る」ような場面も増えてくるでしょうから。


ペタしてね

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↓『自分を愛する力』乙武洋匡著、講談社現代新書、2013)より引用(07)


乙武:たとえば、僕の友人で三十歳前後の女性たちの多くは「結婚しなきゃ」と焦っているんですよね。
また、結婚して子どもを生まないと幸せが手に入らないと思っていて、慌てて結婚してみたものの、「あれ?」という人もすごく多い。
それもまさに同じことが言えると思うんです。
みんなが「女性は結婚して子どもを生むのが幸せ」と思っているから、多数派の価値観に感化されて、自分も何となくそうなんだと思ってしまう。
自分でしっかり考えて結論を出す前に、流されて、結婚しなければ幸せになれないんじゃないかと思い込む。


でも、私にとっての幸せは家族を持つことじゃなくて、自分で仕事して、自分の食い扶持を稼いで、自由に海外旅行に行ったり、友達と遊ぶ時間を確保すること。
これが私の幸せだと自信を持って言える人は、大多数の人と価値観の違う少数派かもしれないけど、生涯幸せを感じて自分の道を歩いていくことができると思うんですよね。


泉谷:結婚を焦るような人は、これまた軽口なことを言いますけど、考えていないだけじゃなくて、よく見ていないんですよ。
世の夫婦というのを見ると、必ずしもみんなが幸せで満たされているかというと決してそうじゃない。
言いすぎかもしれませんけど、九割がたが違うんじゃないかな(笑)。
そういうことをしっかり見て判断できていれば、結婚しないと幸せになれないなんてウソだということが見抜けるはずなんですよ。


↑(引用ここまで)
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「結婚しない生き方」「オリジナリティあふれる生き方」には私も大賛成ですが、そんな「自分のアタマで考えた」「世の”常識”に埋もれない」人物、特にそんな女性には滅多にお目にかかれません。


もしそんな話のわかる女性がいても、「そら、男が寄り付かんだけやろ」と言いたくなるような人だったり(失礼)、妙に勝ち気な女性だったりが関の山です。…私の周りにいないだけですかね?


とはいえ、女性の大半が「結婚して子どもを産みたい」と思っているのが現状でしょうから、これを「洗脳」と言わずして何と言いましょうか?


どんなに賢い「自分のアタマで考えられる」女性でも、好きな男ができたら「その男の子どもが産みたい」と思ってしまうものなのかもしれません。
もし私が女に生まれていたら、「まだ結婚してないの?」「結婚できないの?」という周囲の目線に負けて、「いつかは結婚しなきゃ」と知らず知らずのうちに「洗脳」されてしまっていたかもしれません。


でも、それにしても、「この人、自分のアタマで考えてるな~」「この女性の独自性は、素敵だな~」と思わせてくれる人物が少なすぎるように、私には思えてしまうのです。
どいつもこいつも、「いつかは結婚したい」「子どもは産みたい」とアホみたいに口をそろえて言いやがって(失礼)、そういう「”結婚”っていう制度があるなら利用しなきゃ」「”出産”っていう機能が自分にあるんだから利用しなきゃ」「親や周りを安心させなきゃ」っていう安易な発想が、全然魅力的に見えへんわ、と私は心の中でつぶやくのです(笑)。


…そりゃあ、逆に「魅力的に見える男もいないぞ!」と言われちゃえば、そうかもしれないんですけど。。(笑)
男だって大半の野郎は「いつかは結婚しなきゃ」「自分の”家庭”を持ちたい」と漠然と思っていますからね。…炊事・洗濯・掃除&育児を全部自分でやろうなんて、考えもせずに。


私が思うに、現代の「結婚」「育児」に飛び込むのに必要な能力は、炊事・洗濯・掃除&育児一個一個の作業を淡々とこなせるキャパもさることながら、「周りの人間やテレビ・雑誌、親世代の言ってくることを鵜呑みにしないで、自分なりにテキトーにやって平気で笑っていられる、あっけらかんとした物腰」、これに限ります。
つまり、「こうしたほうがいいよ」という周りのおせっかいに耳を貸さず、わが道を行けるたくましさというか、それこそ「自分のアタマで考える」「少数派になるのを怖がらない」考え方が身についているか、どうかです。


「結婚」や「育児」に飛び込めば、不安の連続です。
「私は炊事はレトルトばかり、掃除もあまりしないで平気だけど、これでいいんだろうか?」
「子どもがワガママばかり言うけど、自分の育児は間違っているんじゃないだろうか?」
そこで、「周囲の目」を気にする癖がついてしまっていると、「周りと違う」自分を強く責めることになります。それこそ「育児ノイローゼ」まっしぐらです。
「周りにどう見られても、まあ、これでいいや」と思える、いい意味で「いいかげん」な、「あっけらかん」とした物腰は、必要不可欠だと思うのです。


そんな物腰が身に付いている人物であるかどうか、「自分のアタマで考えられる」人物であるかどうかは、その人が「結婚しなきゃ」「いつかは育児がしたい」という世の風潮に対して、どう自分なりの考えを持っているかを見ればよくわかる、とそう思い、今回こう書きました。


ペタしてね

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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(07)


誰でも最初は生まれ育った家庭で――人によっては養護施設だったりするかもしれないが――人間はこのように振舞うべきだという基準を、親によって目の前に置かれます。


しかし、いざ家から出て学校という集団の中に行くと、まずはいじめに出会います。


程度の差こそあるでしょうが、平然と他人をいじめることができるのが子供の怖さで、それは本来人間が持っている怖さでもある。
その意味では、現実の人間というのはこうあるべきだと教えられる基準からしばしば外れるものだ、という事実を最初に知らしめるものです。


↑(引用ここまで)
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学校や家庭で子どもたちに教えられることは、しょせんは「建前」「教科書通り」にすぎない。そう感じることは多いです。


「他人に迷惑をかけてはいけません」。
「時間を守りましょう」。
「ルールや約束ごとを守りましょう」。


どれも、社会生活を営むうえでの「基本」には違いないのですが、伊集院氏も言うように、ひとたび外に飛び出すと、そんな「建前」「教科書通り」が通用しない人たちや、むしろ真逆の「暗黙の了解」「その業界での常識」で世の中はあふれかえっていますよね。


「自分さえよければいい」と本気で思っているおっさんやおばはんはごまんといますし、他人に迷惑をかけ、陰口を言い、弱い者をいじめ、時間やルールを守らないでいても、なぜか周囲から優遇されている人もいたりします。


まあ、人間が複数人集まれば、どんな集団でも、その中で人間関係のパワーバランスが生まれますし、「こいつは自分より下だ」と思えばいじめ、「この人は自分より上だ」と思えば従うようになるのが普通だとは思います。
それこそ「スクールカースト」ではないですが、その集団における自分のポジションがだいたいわかってくれば、それ相応の「処世術」を自分なりに構築していくのでしょうが、小・中学校にあがった子どもだけでなく、新卒で就職した学生でさえも、一度の「いじめ」に面食らってしまって大きな精神的ダメージを負う、という話は後を絶ちません。


家庭や学校で教えられることは、しょせんは「基本」。そこから逸脱したことも、結構多い。子どもはいじめ、いじめられるもの。
…そんなふうに思って、子どもや若者をひとり立ちさせてやる姿勢こそが、我々大人の側に必要なのかもしれません。


ペタしてね

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↓『自分を愛する力』乙武洋匡著、講談社現代新書、2013)より引用(06)


(乙武氏と、精神科医の泉谷閑示氏の対談より)


泉谷:親が子育てに専念するようになったこと自体の歴史がまだ浅いんですよね。
大家族が多かった時代は、働き盛りの親に代わって、隠居した祖父母や、子どもを育て上げたおじさん、おばさんなど、手の空いた人が子どもの面倒を見ていました。


専業主婦というあり方も近代になってからです。
昔は女性も農業や店を手伝ったりして働いている人が大半だった。
さらに、近年どんどん電化されて、家事が楽にできるようになりましたから、その余ったエネルギーを子どもの教育に思いっきり注ぐようになった。


乙武:数十年前までは、まだまだ生きることに必死な時代でしたから、子育てと言っても、子どもの生命を維持するための最低限の衣食住を整えて、労働力となる大人へと成長させるという側面が強かった。


だけど、先生がおっしゃるように親の側が時間的にも精神的にも余裕が出てきたうえに、家庭のなかで育てる子どもの人数が減ってきたこともあって、「こういうふうに育てたい」という親の理想や意思を子育てに入れ込むようになってきたように思うんです。


それは一見すると子どもにとってプラスのことのように見えますけど、実は親の理想や意思が、逆に、子どもがまっすふに伸びていくことを阻んでしまうことがあります。
もちろん、うまくプラスに働いているケースもあると思いますが、マイナスに働いていることのほうが、もしかすると多いんじゃないかな。


↑(引用ここまで)
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私も「育児」に従事しながら、こうして「どういう育児、どういう生き方をすべきなのか」なんてあれこれ考えられるのは、数十年前に比べて『時間的にも精神的にも余裕が出てきた』世代だからなのかもしれません。


ありていに言えば、良くも悪くも「ヒマだから」。


乙武氏や泉谷氏も指摘するように、父親や母親も忙しく、子どもの数も多かった頃のほうが、親もあれこれ「育児」について悩むヒマなどなく、子どももいい具合に「放置」され、祖父母やおじさん・おばさんなど大勢の大人と関わることができて、「過保護」にされることもなく、比較的バランスのとれた「育児」がなされていたように想像できます。


特に、子ども自身が家庭の中で「そんなに注目されていない、特別扱いされていない」ところがいいですよね。
大人たちには既存の「コミュニティ」があって、子どもも、新参者の自分がオマケ程度の存在であることは嫌でも理解できてしまいます。
そりゃあ中には、祖父母を中心に「過保護」にかわいがられて育った子どももいたでしょうが、少なくとも現代よりは大人たちも皆忙しく、食べることに必死で、ネットやDVDなんていう娯楽ももちろんなく、そこそこ「自分で工夫して暇つぶしをする」必然はあったと想像できます。


それが、現代ではどうでしょうか。
家事が電化されてラクになってきたとはいえ、炊事・洗濯・掃除をはじめ、祖父母やおじさん・おばさんがやってきた子どもへの多様な関わり、そしていい具合の「放置」…これらすべてを主婦(夫)ひとりでこなしている家庭が大多数なのではないでしょうか。
…そりゃあ、主婦の関心事が分散されずに、「育児」「わが子」に偏ってしまうのも頷けます。


「だから、数十年前のように大家族で育てるべきだ」「あの頃はよかった」なんて、安易な懐古主義を展開する気はありません。
ただ、今さら大家族、という時代でもないのは皆さん異論のないところでしょうから、私たちにできることは、あえて「意図的に子どもを放置する」「『こういうふうに育てたい』なんて色気づくのはおこがましい、と考えるようにする」というあたりではないでしょうか。


数十年前では「子どもばかりにかまっているヒマはない」「自分や家のことで忙しい」ことが、良くも悪くも必然的にあった。
でも、現代ではそれがない。
「自由な時間ができた」のではなく、「子どもを適度に放置する時間が”なくなった”」と考えれば、意図的にそういう時間の割り振り方に持っていくしかないのではないでしょうか。


そういう意味では、私もあれこれと、「育児」に意識を傾けすぎなのかもしれません。


ペタしてね

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↓『自分を愛する力』乙武洋匡著、講談社現代新書、2013)より引用(05)


時間になって、保護者が教室に入ってくる。
一礼してから僕の向かいの席にすわると、みなさん、きまって同じセリフを口にするのだ。
「先生、うちの子なんですけどね……」


どの保護者も、判で押したように、わが子に対する愚痴をこぼしはじめることに、僕は驚きを隠せなかった。
さすがに親だけあって、その指摘が的外れなものであるケースは、ほとんどない。
だが、「そこまで厳しい見方をしなくても……」と思わずフォローに回ってしまうことも、たびたびあった。


「先生、うちの子は集中力がなくって……」
――でも、授業中はきちんと集中できていますから、心配ありませんよ。


「家では、おやつ食べながら宿題したりするんですよ。どう思います?」
――僕もよくお菓子を食べながら原稿を書いたりしていたんで……何とも言えないです。


「学校ではいい顔をしてるのかもしれませんが、家ではホントにだらしなくて困ってるんです」
――うーん、僕も世間的には「乙武さんは立派な方だ」とか言われてますけど、やっぱり家ではだらしないんで、それも何とも……。


もちろん、保護者に悪気などない。どの親も、わが子のことを思うからこそ、その粗が目立ち、未熟さが気になるのだ。


↑(引用ここまで)
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巷の母親どもの、子どもに対する細かい注意。
それも、やかましいわりに、子どもに全然響いていなかったりすると、耳に入ってきてしまう側としても、げんなりさせられることも多いです。


「うるさい! ちょっと静かにしなさい」「こら! 走り回らないの!」「何でそんなことするの!」「やめてって言ってるでしょ!」「ほら、言ったじゃない!」と、金切り声をあげるも、子どもはやめる様子もなく、聞き流すばかり。
全然言うことを聞かない子どもにも、言うことを聞かせられない母親にも、だんだん腹が立ってきます。
…なんでその一部始終を聞かせられなあかんねん、と(笑)。


私は基本的に、子どもは何にでも好奇心を持つもので、「あれはなに? これはなに?」とやかましいのは当然だと思っています。
意味なく大声をあげたり、突然走りだしたりしたくなるのも、よくわかります。…だって、私自身がそうでしたから(笑)。


だから、私はできる限り、子どもが委縮しないように、「きっとまた怒られるから、自分から何か行動を起こすのはやめよう」なんて小ぢんまりとした奴になってしまわないように、放置しておくように心がけています。


我々大人が子どもを叱るとき、教育的視点でなく、「うるさい」「汚れる」「面倒なことになる」のを嫌って、そんな大人の都合だけで叱ってしまっていることが、けっこう多いと思うんです。
そりゃあ、レストランで他の客に迷惑をかけるほどのレベルであれば、「黙れ。ここは家ではない」と一喝しておしまいですが、そうでない場では、できる限り発散させてやりましょうよ、と最近そう思うのです。
逆に、普段から口うるさくしないように、家やら保育園やらで十分に発散させてやっていれば、出先で多少黙っているくらいの我慢はむしろしやすいと思うのです。


子どもが多少、だらだら過ごしていたって、いいじゃないですか。
子どもが後先考えずに、おもちゃを散らかしまくったって、いいじゃないですか。
子どもが多少、自分の進路選択を誤ったって、いいじゃないですか。
…所詮、子どもの人生。自分のことではないですし(笑)。
みなさん、特に世の母親どもは、子どもに関わりすぎなんですよ。子どもの細かい欠点を注意しているヒマがあったら、自分の「生きざま」にその注意を向けましょうよ。
育児の目的は、人によって多少は前後するでしょうが、大方は「そいつが親元を離れたとき、周囲にかわいがってもらえる、礼儀と愛想を振りまける人物であるか、どうか」なのですから、それに直接関わらない些末なことは、苦笑いをして黙っていましょうよ。


「効果的に黙ることができる」「適度に関わりすぎないことができる」選択肢の有無が、その人の育児レベル、ひいてはその人の「人生」をも物語っているように思うのです。


ペタしてね

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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(06)


「いいか、金で揺さぶられるな、金がないからといって誰かに揺さぶられるような人間にもなるな」


それが父の口癖でした。
一度たりとも小遣いをくれたことがなく、お祭りや何かの記念日があっても、五円や十円だってもらえない。
だから、弟と一緒に落ちている釘を拾い集めてスクラップ屋に売って駄菓子屋に行っていたし、チビてすっかり短くなったエンピツでも、キャップを付けて書けなくなるまで使い切るようにしていた。


今にして思うと、いい教育だったなと思います。


子どもたちが進学する際には、父の前に正座して「どうか行かせてください」と頭を下げてお願いするのが決まりごとになっていました。
父はその目のまで母親から成績を聞いてこう命じるのです。
「だったら一校だけ、この一番難しいだろうというところを受けさせる。それで落ちたらもう行くな」。


↑(引用ここまで)
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いやー、私も子どもの頃は、学校で通知表をもらうたびに、進学のお願いをするたびに、父親の前に正座してお伺いを立てていましたが、昨今ではそんな話は「時代遅れ」「過去の遺物」くらいにしか思われないのでしょうか。


高校も県立の一本だけ、落ちたら就職。まだ中学3年だった私が受験直前でビビって志望校を下げさせてもらおうとしたら、「甘ったれるな」とゲンコツを喰らいました。
大学も国立の一本だけ。「二十歳までは家に置いてやるが、授業料やその後の生活費を自分で払えるところに行くのなら許す」という条件つきでした。
…今思えば、厳格な親として気丈に振舞いながらも、内心ヒヤヒヤして見ていたんだろうなあ、と想像できますが(笑)。


しかし、子どもに対する教育的配慮という意味では、父の態度は至極まっとうだと感じます。
当時も、別段おかしな対応だとも思いませんでした。「おっしゃるとおり、自分が甘いだけだな。がんばろう」と。


そりゃ、おかしいですよね。
私立大学一校受験するのに3万5千円ですよ?
「受験慣れ」やら「滑り止め」やらも含めて10校も受ければ35万円!
授業料も私立大学なら4年間で400万円はかかります。
少なくとも私の感覚では、親が子どもにかけてやるお金としては限度を超えていると思います。
行きたいなら、自分で金を工面して勝手に行け、と。


そんなことを言いつつも、いざ自分の子どもにも、私の父のような態度をとってやれるのかと考えると、今から身が引き締まる思いです(笑)。


ペタしてね

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↓『自分を愛する力』乙武洋匡著、講談社現代新書、2013)より引用(04)


(乙武氏が教師として小学三年生を受け持った授業中にて)


「先生、新しいページにしたほうがいいですか?」
「ここは一行空けるんですか?」


自分のノートにもかかわらず、どのように書いたら見やすいのかを自分で決められず、教師にすべてを委ねてしまうのだ。
これは危険な兆候だと感じた。
このままでは、自分で考え、自分で決断することを放棄する人間になってしまう。


だからと言って、そのことで子どもたちをなじる気にもなれなかった。
きっと彼らだって好んでそうなったわけではなく、親や教師の影響によって、「自分で決められない子」になってしまったと思うのだ。


子どもとは、本来、好奇心旺盛なものだ。
いくら親が顔をしかめようとも、あれこれとやってみたがる性質がある。
そうした子どもたちのチャレンジに対して、大人たちはどのように受けとめているだろうか。


もしも、それが大人にとって好ましい結果であれば、「よくできたね」「がんばったね」。
ところが、それがいざ大人にとって好ましくない事態に発展すると――。
「何やってるの!」
「もう、だから言ったでしょ」


感情に任せた金切り声をあげて、子どもたちを圧迫してしまう。
こうした言葉をかけられた彼らは、いったいどのように考えるだろうか。
「せっかくがんばったのに、怒られちゃった……」
「大人に言われたことだけやっていれば、きっと怒られなくてすむんだ」
「これからは、自分から何かをするのはやめよう」


世間には、「指示待ち族」と呼ばれる若者たちを揶揄する声がある。
だが、こうして指示されたこと以外をやろうとしない若者を増やしているのは、ほかならぬ大人たちの態度なのではないだろうか。


↑(引用ここまで)
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巷の母親の叱り方で私が特に気になるのは、「何やってるの!」だとか「どうして○○するの!」だとか、「行動の理由を問う」型の叱り方です。


たとえば、
子どもが食べこぼしをした → 母「何やってるの!」 → 子「……」
というやりとりになるのでしょうか。
つまり、「自分が、何をやったのか、どんな悪いことをしてしまったか」をあえて相手に答えさせようとすることで、プライドを傷つけ、再発を防止するという叱り方です。


でも、「何やってるの!」に対して「よそ見してて、こぼしました」なんて「自分が何をやったのか」をきっちり答えようとする子どもはいないですよね。…漫才の「何でやねん!」というツッコミじゃないんですから(笑)。
「何やってるの!」という攻撃的発言に委縮し(もしくは慣れっこになってしまい)、無言になってしまう子どもがほとんどではないでしょうか。…親のほうが一方的に叱り言葉を浴びせて終わるという。
これは、ダメですよね。
そもそも、「はい」と答えづらい叱り方は、子どもとしても困ると思うんです。お説教が締まりにくいというか。


子どもが食べこぼしをした → 親「よそ見しないで食べなさい」 →子「はい」
で、済む話ですよね。
もし「はい」ではなく、口答えを始めたら、一発ひっぱたいて、別室に連れて行って1対1になり、泣きやむのを待って、「ごめんなさい」と言わせてから、「食べるときは、食べることに集中しないとダメだよね?」と諭して、最終的に「はい」と言わせて、食事に戻す。
…ここまでが、「お説教」ワンセットですよね。


「この親は、口答えを許してくれないんだな」「食事中に、立ち歩いたり、よそ見をしたりしちゃいけないんだな」と、「やっていいことと悪いこと」の線引きも子どもにとってわかりやすいですし、そして何より「身の程を知る」機会になります。
そして、このワンセットを一回やっておけば、次また、食事中によそ見をしたら、黙って睨みをきかせるだけで、子どもはハッと気づいて食べることに集中するもんですよ。
いちいち金切り声をあげて「何やってるの!」なんて言う必要はありません。


「はい」「ごめんなさい」と、子どもが答えやすいように誘導する叱り方。
面倒臭くても、子どもが「身の程を知る」お説教タイムを作って(できれば1対1で)、しっかり泣かせて、しっかり謝らせる叱り方。
結局は、親の見ていないところで――保育園で、実家で、「はい」「ごめんなさい」「ありがとう」「こんにちは」が自分から言えて、周囲にかわいがってもらえる奴であるかどうかが勝負どころなのですから、親が見ていないところでも、親の睨みがきいていると子どもが感じるくらいの叱り方を、普段からしていなくちゃいけませんよね。


…少なくとも、「何やってるの!」「どうして○○するの!」と日々罵声を浴びせられて、その場しのぎでしぶしぶ言うことを聞く子どもが、外で愛想よく、かわいがられる奴にはなりづらいよなあ、と心底思うのです。


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