先日、出産したばかりの女性が生後5か月の子どもを連れて友人宅に遊びに来るというので、駅まで迎えに車を出す機会がありました。
学生時代はたいそう明るい人だったらしいのですが、話を聞いてみると、家事と育児に追われる毎日に疲れ果て、ひとり泣く日も多いとか。


「そりゃあ、専業主婦やったら、誰もがそうなるよなあ」が私の第一声。


子どものオムツ替えやミルクは、数時間ごとに昼夜問わずエンドレスにやってくるし、毎日寝不足。
買い物や炊事をサボれば、夫が帰ってきても「夕飯作ってないの?」となってしまう。
洗濯をサボっても、掃除をサボっても、他に誰がやってくれるわけでもなく、自分でやるしかない。
その人が真面目であればあるほど、「結局、誰も手伝ってはくれない」膨大で終わりのない雑務に疲れ果ててしまうであろうことは、想像に難くありません。


たまの休日に夫が「今日はオレが子どもを預かるから、遊びに行っておいでよ」なんて言ってくれても、出先で数時間、ひとりでずっと泣いていたこともあったそうです。
そもそも「預かる」って、「本来、自分の仕事ではないけど」と言っているようなもので、「その言い方はあんまりだ」と彼女は孤独感を強めたといいます。


そんな夫のきまぐれな「気遣い」も、実際には気休めにもならないのが現実でしょう。
数時間の休憩を1回くらいもらったところで、膨大な「育児・炊事・洗濯・掃除」は無くなるわけでもなく、むしろ数時間の間にもそれは山積し、「結局、誰も手伝ってはくれない」雑務に戻らなければいけないわけです。…そりゃあ、「育児ノイローゼ」にもなりますよ。


夫が何を言おうと、たまに会う友人がどんな言葉をかけようと、「日常的に、誰かが代わりに雑務をやってくれる」「日常的に、たとえば”洗濯だけは誰かがやってくれる”」という「具体的分担」がなされない限り、彼女の心が晴れることはないと思うのです。


…やっぱり、「自分がいなくなっても、誰かが代わりにやってくれる」という「安心感」がないと、やってられないですよ。
私事ですが、私はとにかく妻に「自分がいなくなっても、誰かが代わりにやってくれる」と思ってもらえるように、それだけを考えて、毎日「育児・炊事・洗濯・掃除」に勤しんでいます。
個人的な生活リズムでは「洗濯は2日に一度でいいかな」「洗い物は自然乾燥させて、次の日に片づければいいかな」と本当は思っているのですが、そんなふうに放置しておくと、仕事から遅く帰った妻に片づけられてしまうので(笑)、少ない量でも、毎日洗濯機にかけます。洗い物をしたら、早い段階で拭いて片づけます。帰ってくるまでに子どもを寝かしつけます。床を拭き掃除します。
それもこれも、とにかく妻に「自分がいなくても、誰かが代わりにやってくれる」安心感をもってもらうためです。


だから、おそらく妻は「育児ノイローゼ」にはならないと思います。なるとしたら、私のほうです(笑)。
そもそも、仕事もきっちりできて、愛想もいい彼女を好きになったのですから、やっぱり仕事をして、精神的にもゆとりがあって、愛想を振りまく女性であってほしいですよね。
「誰も手伝ってはくれない」とひとり苦しみながら「育児・炊事・洗濯・掃除」のことばかり毎日考えて暮らす彼女がそこにいたとしたら、それはまるで別人です。


逆に、私だって「育児・炊事・洗濯・掃除」に追われてばかりでやつれていたら、それは「魅力的でない男」です。
気づけば「子ども」の心配ごとばかり話していて、毎日家とスーパーと児童館の往復で、思考の世界も狭く、自分自身の日々の立ち振る舞いが傍から見て全然魅力的に見えないとしたら、それはただの「つまらない男」です。


日々の「衣食住」に関する雑務に「育児」が加わると、とたんに「その人が魅力的な一個人でなくなってしまう」危険性がある。
…このことをちゃんと理解して「結婚」や「育児」に飛び込んでいる人は、けっこう少ないんじゃないかな、と私は感じています。
そして、現実問題として、世の主婦の大多数が「魅力的な一個人でなくなってしまっている」とも、感じています。…大きなお世話かもしれませんが(笑)。


「だから、主婦はもっと魅力的でいられるよう努力しろ」だなんて、口が裂けても言えません。
「すべての男が、私のように、一切の家事・育児をやるくらいになれ」なんて、日々の仕事の実労時間と通勤時間を考えたら、ほぼ不可能だという人も多いでしょう。
だから、私は冒頭でお話しした彼女に、何も言ってあげることができませんでした。


わかったことは、「結婚」や「育児」には、必ずと言っていいほど、そういった問題がついて回ってくるということ。
「結婚します」「出産します」と聞けば、人は必ず「おめでとう」と言いますが、「それって本当に”めでたい”のか?」「”雑務”と”苦労”を楽しむ覚悟はあるのか?」「結局、女性にそれらを押しつけることになるんじゃないのか?」と問わずにはいられないのです。


ペタしてね

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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(05)


私は知人から、「できれば息子に会社を継がせたい」みたいな相談をされたりすると、いつもこう答えています。
「絶対にやめたほうがいい。三日で潰れるぞ。だってお前、甘やかしてきただろう」


人は一度甘やかしたらどこまでも甘える。


それが人間の怖いところで、ほかの生き物にはない特徴でもある。
甘やかされた人間はそのあと長くその記憶ばかりが残るから、少々苦境に陥ったぐらいでもたちまち弱さが出てしまう。
会社を任されても、潰してしまうに決まっています。


「天よ、願わくば我に七難八苦を与えたまえ」
とは戦国を生きた武将、山中鹿之助の名言です。
分かりやすく言い換えると、「人生の苦労は買ってでもいいからしなさい」と同じこと。
この教えは長く生きてくるほどに分かってきます。
辛酸と苦節続きでどうしようもなく苦しくて、とてもそうは思えないときこそ、本当の「個」をつくるために必要な時期で実は恵まれているのだ。
そう考えてもらいたいのです。


↑(引用ここまで)
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親の役割。
大人の役割意識。


「親は子どもにとって、”壁”であるべきだ」
「大人は子どもに適切に”負荷”をかけてやる存在でなければならない」
…と、最近強く思います。


それは、巷のアホ親どもを見ていても無論そう思うのですが、最近はむしろ、自分自身が子どもと対峙するときにそれを感じます。


泣きやまない子どもが面倒で、抱っこしてやって済ませたくなるとき。
時間がないときにダダをこねる子どもの言うことを、聞いてやってしまいそうになるとき。


そんなとき、私の脳裏を「大人の役割意識」がよぎるのです。
「おまえのすべきことは、そこで子どもを”甘やかす”ことなのか?」と。
「おまえがそこで”理不尽”を与えてやらずに、いったい誰がそいつに良質な”理不尽”を与えてやれるのか」と。


子どもは、かわいいです。
いちいち勝負せずに、ワガママをさらっと聞いてやったほうが、ラクに決まっています。


でも、それは子どもに「将来的な”不幸”」を与えていることになる…そう思うのは私の思い違いでしょうか?


子どもや若者が、自分から『七難八苦』を求めるまでに成長させるには、大人は何をしてやれるのか。
最近、そんなことばかり考えます。


ペタしてね

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↓『自分を愛する力』乙武洋匡著、講談社現代新書、2013)より引用(03)


(校内車いす使用禁止を、小学生だった乙武氏に命じた担任の高木先生)
「いまだけ乙武君をかわいがってあげることは、いくらでもできる。でも、それが本当に彼のためになるのだろうか」


その後、僕が進学することになる中学、高校、大学は、すべてエレベーターなどの設備が整っていない、バリアフリーとはほど遠い校舎だった。
僕は一階の階段わきに車いすを停めると、そこから座席の下に積んであるカバンを引っぱり出して肩にかけ、自力で階段を登って移動していた。


そうしたことができるようになっていたのは、高木先生の厳しいご指導があってこそ。
もし、僕が甘やかされ、車いすから離れることのできない状態だったとしたら、進学先としても「うちには何の設備もありませんので……」と、受けいれに難色を示していたかもしれない。
先生の厳しいご指導が、僕の可能性を広げ、人生における選択肢を増やしてくださったのだ。


もちろん、ただ厳しくすればいいというものではない。
たとえ同じ指導を受けても、あまりの過酷さにつぶれてしまう子だっているだろう。
きっと、高木先生は長年の経験から、「この子なら、少々厳しくしても食らいついてくる」という確信があったのだと思う。


真の厳しさとは、真の愛である――。


僕がこの社会で力強く生きていくうえでの土台を築いてくださった恩師のことを振りかえると、いつもこの言葉が頭に浮かぶ。


↑(引用ここまで)
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いや~、乙武氏本人は感じていないかもしれませんが、見事なバランス感覚です。


社会学者やら障害者やらが「なぜバリアフリーにしないんだ」「もっと障害者への理解を」と、「設備」や「周囲の人たち」ばかりを問題視する一方で、乙武氏は「周囲を納得させる”自力”と、恩師への感謝」のみに言葉を費やします。


確かに、バリアフリーや障害者への理解はもっと我々に身近なものとして浸透していくべきだと私も思いますが、「そんなものを”お役所”に期待して、ぐちぐちと理屈を並べている暇があったら、自力で現状を打破する努力に時間を費やしたい」という考え方は、「安易なクレーマーにならない」その姿勢は、非常に好感が持てます。


こういうことを言うと、「おまえは”障がい者”(←笑)に、環境整備など望まずに”努力しろ”とでも言うのか?」なんて詰め寄られちゃうんですかね(笑)。
乙武氏も言うように、「自助努力でなんとかする」姿勢をそのままあてはめることのできないような障害を持っている方も、もちろんいるでしょう。介護につきっきりの家族をサポートする環境と、周囲の理解はまだまだ進んでいません。、


ただ、考え方として、「車いす生活の小学生に”登下校以外、車いすを一切使うな”と厳しく指導し、”自助努力”の姿勢を育ててやる」選択肢が、もっとあってもいいんじゃないかなあ、と言いたいのです。
もしかしたら、今現在100%受け身で介護を受けている障害者や老人の中にも、乙武氏の恩師のように、心を鬼にして鍛えてやれば、もっと自力でできることが増えた人がいるかもしれませんよね。


健常者だって、同じです。
川で溺れている人を見て、「なぜ”危ない”と看板がないのか」「ライフセーバーが常駐すべきだ」と、基本は他人任せで、自力で助けに行かないのを棚に上げて、「自分は正しいことを言っている」ツラをした人間であるか。
つべこべ言う前に即座に川に飛び込んで、助けに行ける「泳力」「自力」がある人間か。


あなたは、どちらですか?
他人任せの「安易なクレーマー」になり下がっていやしませんか?
いざというときに「自力」でなんとか解決できる、「筋力」や「きっぷのよさ」を身につけていますか?


「周りに文句言う暇があったら、”自力”を鍛えておけば?」と言える選択肢、そんな「バランス感覚」を、乙武氏の文章に見た気がします。


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↓『自分を愛する力』乙武洋匡著、講談社現代新書、2013)より引用(02)


「そんなこと、私たちがやっておくから」
「それは危ないから、やめておきなさい」
そんな方針のもと、過保護に育てられてしまっていたら、僕はどんな人間に育っていただろう。
待っていれば、きっとだれかが助けてくれる――。
あたかも、親鳥がエサを運んできてくれるのを、ただ巣の中で口を開けて待っているひな鳥のように、ひたすらだれかの手助けを待つ、受身一辺倒の人生になってしまっていたのではないだろうか。


でも、当時の両親の心境を考えれば、きっとやさしい”親鳥”でいたかったにちがいない。
僕があれこれ困ることがないよう、すべて先回りして「やっておく」ことのほうが、親としてはずっとラクだったはずだ。
しかし、父も、母も、けっしてそれをしなかった。
それが僕のためにならないことを理解していたのだろう。
両親の”手を出さない勇気”が、僕を大きく育ててくれたのだ。


↑(引用ここまで)
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今回も、「育児」に関する話です。


いや~、難しいですね、『手を出さない勇気』を実践するのは。
特に、『それは危ないから、やめておきなさい』は言っちゃいますよね。子どもが転ぶとわかっていたら、つい、先回りして言っちゃいますよね。手を貸しちゃいますよね。


これだけ毎回「過保護はやめよう」と大口をたたいている私でも、先回りしてやってあげちゃったり、「危ないよ」といちいち声をかけてあげちゃったりすることも多いです。すみません。


とはいえ、基本は子どもを「放置」させておくよう努めています。
0歳児がハイハイして壁に頭をぶつけることがわかっても、あえて放っておきます。そして頭をぶつけます。泣きます(笑)。
2歳児が食事中によそ見をして、ごはんをこぼしそうになっても、あえて放っておきます。「こぼすよ!」と言いたい気持ちをおさえて。そしてこぼします。「食べているときによそ見するな!」と私に怒られます。「ごめんなさい」と言うまで待ちます。
…こんなことを何回か繰り返しているうちに、子どもは勝手に学習して、自分で気をつけるようになるもんですよ。


「まだ0歳児なんだから、頭をぶつけちゃいそうなら、先回りしてあげてもいいんじゃない?」と言う人もいるでしょう。
「まだ子どもなんだから、”気をつけなさい”くらい言ってあげてもいいんじゃない?」と言う人もいるでしょう。
…「じゃあ、何歳になったら”失敗から自分で考えさせる”んだ?」と私は言いたい。
『待っていれば、きっと誰かが助けてくれる』なんていう根性でなく、「自分で気をつけないと痛い目にあうぞ」という自己管理能力をつけさせてやりたいなら、心を鬼にして、ケガするとわかっていながらケガさせてやらなきゃいかんと思うんです。


「危ないからやめなさい!」「ほら、こぼしちゃうよ!」「なんでそんなことするの!?」
…こんな怒号ばかりの家庭環境では、言うほうも、言われるほうも、それを聞かされるほうも、げんなりしちゃいますよ。
そして、その怒号は、やかましいわりに、教育的効果は薄いという。。(笑)
でも、巷の母親どもって、こんなことばかり言っていると思いません?
結局、「自分がラクしたい」から、先に手を差し伸べちゃったり、先回りして注意しちゃったりするんですよ。


「手を出さない勇気」。
「口を出さない勇気」。
子どもが「失敗から学習する」「自分のアタマで考える」ような人間に育ててやりたいなら、まずは親が「自分のアタマで考え」て、「口を出しすぎ」な自分をいさめないと。
本当は「こぼされたら、後処理が大変」だから子どもに怒号を浴びせているだけなのに、「こぼさないように、自分で工夫するには、どう仕向けたらいいか」なんて教育的効果を考えずに機械的に怒号を浴びせているだけなのに、「自分はちゃんと育児をしている」とプライドばかり高い母親が多すぎるんですよ。
「自分のアタマで考えている」親なら、「効果的に黙って、意図的に子どもを放置して、あえて失敗させる」ようにしないわけがない、と私は思うんです。


…逆に、育児放棄ぎみの、どう見ても賢くないヤンキーみたいな母親の子どもが、まれにメチャクチャいい子なときって、ありますよね?
「どうしてあんな親から、こんなちゃんとした子が?」みたいな(笑)。
それは、母親が化粧やら男やら遊びやら、自分のことに一生懸命で、子どもをがっつり「放置」していることで、自動的に「失敗から、自分で学習する」しかない、自己学習のサイクルがうまく出来上がってしまったケースだと、私は想像します。
偶然、適度な「放置」が作られるくらいでも、いいってことですよね。
やっぱり「関わりすぎ」「しゃべりすぎ」は、よくない。


ペタしてね

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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(04)


かつて私はダメ社員の典型でした。


遅刻、二日酔い、口ごたえ、まさに「超」がつくほどヒドイ新入社員だったのが、それでも懸命に働く男たちを目にすることで、多少なりとも世間といおうものを知ることができた。
それと同時に、いかに自分が勤め人には向いていないかをつくづく思い知らされました。


そんな私が、「これから世の中に出ていく若者に向けて、メッセージをくれませんか」なんて頼まれるようになったのだから、世の中は不思議なものです。


「人とつるむな、弧を知れ」


それが、私がいつも言うことです。


暇さえあればスマホを取り出していじる。


テレビや新聞の言うことを丸呑みする。


いつも誰かと集まって、騒ごうとする。


私に言わせれば、どれも同じように「つるむ」ことでしかありません。


要するに、「弧」を知ることを恐れ、自分の頭で考えようとしていない。
周囲と違う行動をとるより、他人と群れることで安心したがるのは社会的動物たる人間の一側面かもしれないが、人とつるんでばかりだと軟弱な大人にしかなれない。


↑(引用ここまで)
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…『弧を知ること』。


私は、職場の人たちと飲みに行ったり、他人と話したり、コミュニケーションをとったり、そういった「他者と関わるすべて」のことを「パフォーマンスの場」と考えています。


普段ひとりであれこれ考えたり、本を読んだり、ひとりせっせと仕事の準備をしておいたり、自分自身の肉体や思考を鍛える…といった『弧』の時間、「仕込み」の時間の「発揮の場」とでも言いましょうか。
言ってしまえば、普段貯め込んだエネルギーの「浪費」の場と考えるようにしているのです。


だから、あまりに連日飲みに出かけたり、人と会ったりしていると、「浪費」しすぎて、「気配り」だったり「話のタネ」だったり、自分のパフォーマンスが落ちてくるのを肌で感じます。
「あ、そろそろ”ひとりでいる時間”を作らないとダメだな」と。


「私」という人間をプロデュースする、と考えたときに、周囲が私に期待する「役割」に応えられるだけのパフォーマンスをしたい、何かしらいつも心配りのできる男でありたい、と思う。
そのためには、相当量の「仕込み」「自己反省」「自己鍛錬」「話題のアンテナ」「笑いの方法論の洗練」が必要になってきます。
そして、それらを貯金するには『弧の時間』を大切にしていくしかない。そう思うのです。


…そりゃあ、ドラクエ10のレベル上げをせっせとやっていたりと無駄に過ごす時間も多いですが(笑)、『弧の時間』を大切にしない人間は「他者との関わり」もいいかげんになってしまう、と肝に銘じて、「公」と「私」のバランスをとるのに必死の毎日です。


ペタしてね

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↓『自分を愛する力』乙武洋匡著、講談社現代新書、2013)より引用(01)


僕の幼少期の話を聞くと、変わっていたのは身体のカタチだけではなかったようだ。
とにかく、寝ない子だった。夜泣きが激しく、ときには母が夜中におぶって散歩に連れ出したほど。
後年、父から、「あの頃はたいへんだった。オレは、よくおまえを絞め殺さなかったと思うよ」と冗談を言われるほど、両親をひどく困らせていたようだ。
ちなみに、親戚のあいだでは、「一日に三時間しか眠らなかった」と言われるフランスの英雄にちなんで、”ナポレオン”とあだ名されていたようだ。


さらに、僕はとにかくミルクを飲まない子だったらしい。
育児書と照らし合わせても、僕はその時期に飲むべき量の半分も飲むことができなかったのだそうだ。
「これでは、栄養が取れない、成長できないのではないか――」
睡眠時間の件も合わせ、僕の発育に関して、母はずいぶんと頭を悩ませていたらしい。
だが、悩みに悩んだ末、あるとき、吹っ切れたという。
「この子は、生まれたときから”超個性的”だったのだ。いまさらほかの子と比べたって仕方ない」
そこから、育児書のなかにある「平均」や「標準」と比べ、一喜一憂することはなくなったという。


周囲に「手も足もない子」などいなかったからこそ、僕はだれかと比べられることなく、あくまで、僕を基準に育ててもらうことができた。オリジナリティを大切にしてもらうことができた。


むずかしいことはわかっている。
それでも、僕らが「平均」や「標準」というモノサシを捨て、その子なりの特性や発育のペースを尊重してあげることができたら――きっと、幸せな子どもが増えていくと思うのだ。


↑(引用ここまで)
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私の経験上、特に女性は、わが子の発育が「平均」や「標準」におさまっているかどうか、気にしすぎるように思います。
それこそ、「うちの子はミルクを飲まない(飲みすぎる)」とか、「うちの子は夜泣きがひどいんじゃないか」とか。


そんな場面を見るたび、また耳にするたび、私はこう言ってやりたくなるのです。というか、実際に言っています。
「気にしすぎだ。子どもに意識を向けすぎるのは、子どもにとっても、あなたの精神衛生にとっても、非常によくない」と。


子どもの「自己肯定感」「自分はここにいてもいいんだ」を作ってやるために、そりゃある程度、子どもに寄り添ってあげることは私も意識的にやっていますが、適度に「いつもおまえのことばかり考えているわけじゃない」「おまえ中心に世界が回っていると思うなよ」という態度もとって、「分を弁える」ことも教えてやらないと、勘違いした人間に育ってしまう危険性があると思うのです。
恋愛といっしょですね(笑)。
「好き好き」ビームも出しながら、「自分にも都合がある」ことも相手にわからせる、「ちょうどいい距離感」を保つようにしないと、どちらかが調子に乗ったり、依存したりしてしまいますもんね。


また、そうしてあえて自分の意識を「子ども以外のところ」に向けることで、仕事に趣味にある程度忙しくなることで、子どものそんな些細なことにかまってやっている暇はなくなってきます。
子どもが多少熱を出そうが、ワガママを言おうが、いい意味で「いいかげん」に対応できるというか、「過保護」な対応をしてしまうことも少なくなってくると思うんです。
そして、「このくらい大丈夫やろ」「ちょっと今忙しいから黙っといて」なんてじゃけんに扱っていればいたで、子どもの熱なんて3~5日で下がるし、親に相手にしてもらえなければ諦めてひとりでけっこう楽しそうに遊んでいたりするもんですよ。


つまりみなさん、特に主婦(夫)は、「暇」だから、「子どもと向き合える時間が無駄に多すぎる」から、ちょっと熱を出したくらいですぐに病院に連れて行くし、泣いたりワガママを言ったりしたら、すぐに抱いてやっちゃったりするんです。
そりゃ調子にのっちゃいますよ、子どもは。
「いつも自分を一番に考えてくれる」「自分は家庭の中で一番注目されている」と勘違いしちゃいますよ、子どもは。
「泣きわめけば、ワガママを言って気を引けば、抱っこしてもらえる」と大人をナメちゃいますよ、子どもは。
…「暇」が「過保護」を生み、「過保護」が「調子に乗った子ども」を育てるんです。
不幸ですよ、「幸せ」を感じられるハードルが高くなってしまった人間は。
「してもらえない、かまってもらえないのがあたりまえ」の人間は、なにかしてもらっただけで「幸せ」「ありがとう」を感じますもんね。


子どもは、かわいいです。
私だって、子どもが熱を出したら「深刻な病気だったらどうしよう」とハラハラしています、本当は。
子どもが泣いたらうるさくてかなわんし、抱っこしてやりたくなります、本当は。


でも、私は子どもを簡単に病院には連れて行きません。現代の病院はどうせ薬物療法です。「投薬」は即効性があって親を安心させてくれますが、子ども自己治癒力を下げる危険性も大いにはらんでいます。
というか、体内の細菌やウィルスを殺すために熱は上がるのですから、その熱を安易に下げちゃダメですよ。必要だから、熱は上がっているんです。少なくとも3日は、熱によって殺菌させてやらないと。黄色い鼻水を出すまでがんばらせてやらないと。
うちの2歳児も0歳児も、これまで何度も熱を出し、私が仕事中に保育園から電話があって迎えに行きましたが、安易に病院には行きませんでした。それでも、長くて5日も経てば、熱は下がります。病院に行く必要なんて、ないんですよ。…とはいえ、私が仕事を急に休んだりするのは、方々に迷惑をかけて大変でしたが(笑)。


「育児は、片手間にやるくらいがちょうどいい」。
子どもの「幸せのハードル」を下げてやるためにも、自分の精神衛生上の健康のためにも、そう断言しておきます。


ペタしてね

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↓『本能の力』戸塚宏著、新潮新書、2007)より引用(06)


子供は外に出て刺激を受けて、時には何かに怯えたとしても、家に戻って守ってもらえれば、また外に出ていきます。
この繰り返しで強くなるのです。
家庭が完全に保護してくれることが自分で確認できれば、子供は怯えを乗り越えて順調に育って行くのです。


ちなみに本書で「親」という場合には、両親が揃っていることを前提として議論を進めていきますが、これは便宜上の問題です。
子供を保護するのは親でなくてもかまいません。
子供は孤児だろうと片親だろうと、きちんとした「保護者」がいれば、きちんと育ちます。
親は特別の存在のように自分を見ていますが、子供からすれば単なる保護者です。
自分が成長するまでメシを食わせてくれて、保護してくれる存在にすぎません。
冷たい言い方ですが、これが現実です。


↑(引用ここまで)
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『親は特別の存在のように自分を見ていますが、子供からすれば単なる保護者』。
これが真実だと思います。


とかく日本は、「自分の子だから、大切に育てる」だの「血のつながり」だのを盲信しすぎなんですよ。
それは裏を返せば「自分の子でないなら、育てない」「血のつながりがなければ、愛せない」と言っているようなものです。
「愛」だの「血」だの、温かい物言いのように見えて実は、他を切り捨てる、とても冷たい考え方です。
だったら、祖父母に育てられた子は? 孤児として育てられた子は? 子宝に恵まれず、養子として育てられた子は、ちゃんと育てられていないのか? と言いたいのです。


戸塚氏も言うように、孤児だろうが、片親だろうが、養子縁組だろうが、誰かしら大人が「保護」してやりつつ、適切な「負荷」を与えてやれば、ちゃんと子どもは育つのです。
それどころか、まだ日本で3世代以上の「大家族」が一般的だった頃は、手のあいた祖父母が中心となって孫の世話をしていたはずです。それでも、子どもはちゃんと育っていたのです。
というかむしろ、その頃の方が、両親だけでなく、いろんな大人の影響を受けられて、今よりバランスのいい子どもが育っていた、と言ってもいいのではないのでしょうか。両親、祖父母だけでなく、近所のオヤジにも叱られ、隣りに住むおばちゃんに何か頼まれ…といったように。
「子どもは親個人の所有物ではなく、社会のもの。社会が育てるもの」という、「育児」というものに「社会的役割」という側面があることを、大人たちがきちんと認識していたように思います。…私はその時代に育っていないので、想像の話だけで申し訳ないのですが(笑)。


それが、昨今の若い親たちはどうでしょう。
子どもに、「世露死苦」みたいな(笑)、当て字だらけのいわゆるDQNネームを平気でつけたり、親の趣味で着せたい服をたくさん買い与えたりたり。
まるで、テレビゲームの「育成シミュレーション」をプレイしているかのような様相です。
育児の「社会的役割」側面を忘れ、「親なんだから、自分の子どもをどうしようが勝手でしょ」と言わんばかりの傍若無人ぶりです。


…こんなに自分を頼ってくるわが子が、別の大人に育てられたら、普通にそちらを頼るようになる、なんて考えたら、ちょっと寂しい気もします。
「誰が育てても、子どもは育つ」なんて言われたら、毎日の育児の苦労が報われない気もします。
でも、それが事実なのです。
事実は、事実として受け止めましょうよ。私たちは「大人」なんですから。
「報われる」ために「育児」をしてるわけではないのですから。
子どもが、成人するくらいまでに、挨拶ができて、周囲にかわいがってもらえる若者になれば、誰が育てたって、それでいいのですから。


日中は、保育園の先生に躾けてもらえばいい。トイレトレーニングをしてもらえばいい。
熱が出て保育園に預けられない日は、祖父母や友人を頼って、育ててもらえばいい。
子どもは自分ひとりで育てられるものでもないし、自分ひとりの視点ではバランスよく育たないかもしれない。
「育児」は確かに大変かつ大事な作業ですが、子どもになんぞあまり執着しすぎず、自分の「生き方」トータルも、もっと重要視していい。
誤解を恐れず言えば、「子ども」なんて、自分が幸せな人生を過ごすための必須条件ではないのですから。
子どもにばかり意識が行き過ぎないように、「片手間」くらいの意識でちょうどいいのかもしれません。
「おまえばかりいつも注目されていると思うなよ」というメッセージは、子どもにとっても結構大事ですもんね。


育児の「社会的役割」という側面を理解しつつ、「こいつは自分でなくてはダメだ」などと調子に乗らない、バランスのとれた大人でありたいものです。


ペタしてね

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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(03)


かれこれ五年近く人生相談らしきもの(「悩むが花」週刊文春)を続けていますが、近頃感じるのは、以前と違って、ずいぶん個人的なことを聞く人が増えたな、ということです。


「ちょっと好きな男性がいて、だけどその彼氏には今は別の彼女がいて、私は友達でも十分じゃないかと思ってつきあっているのですが、変でしょうか?」


そんな質問になぜ私が答えなきゃいかんのか(人に聞くのか)、と思ってしまう。


「同窓会に行くべきでしょうか?」


というのもありました。
学校というのは出たらそこでおしまいだから、私は同窓会など行かないし、世の中に出た大人たちが何をしているか、そちらのほうがよほど面白そうに見える。
とうの昔に卒業した学校の仲間と何年もつるんでみても仕方ないだろう、と思うのです。


自分が今つきあっている彼氏や彼女のこと。
進路をどうするか、会社の所属部署が気に入らない、取引先とうまくいかない。
背が高い、太っている、クセ毛だとか、自分の身体に関すること……。


何かもっと他の読者にも通じるような普遍的、相対的な悩みというのは浮かばないのかね、と思ってしまいます。


↑(引用ここまで)
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公共性の強いテレビのニュース番組や、新聞、雑誌などが「それは個人的なことだろう」というような内容を恥ずかしげもなく報道するようになって久しく、私はいまだにそこに違和感を覚えます。


天気予報だけならまだしも、「洗濯情報」「おでかけ情報」「傘を持っておでかけください」なんて、大きなお世話だと思いません?(笑)
なぜ洗濯物を干すかどうかや持ち物まで、おまえらに決めてもらわにゃいかんのだ、と。


ニーチェやハンナ・アレントは、「活版印刷技術が誕生した近代以降、公と私の混同はますます進み、その境界線は曖昧になっていくだろう」と言っていましたが、まさにそんな状況になりました。


強調表現、刺激的なコピー…ニュースに耳を傾けてもらうために、クリックさせるために、「公」的な役割を担っているはずの報道が、どんどん内容も言い回しも「個人的な」ものに、誇張されたものになっていってしまっているのだと思うのです。
…昔のNHKのニュースのように、四角四面なしゃべり方やコピーばかりでは、もはや誰も聞いてくれないですよね。


私は、こういった「公私混同」が横行していることに異議を唱える人がほとんどいない状況に、非常に危機感を覚えるのです。


政治家が選挙前に「公」約している内容が、「それ、”政治”か?」とツッコみたくなるような個人の家計の話だったり。


「誰もが知っているべきニュース」みたいな顔をしながら、その実は、別に知らなくてもいいような犯人の育ちや交友関係なんかの「個人」的な話だったり。


芸能人の「私生活」を切り売りするだけの、野次馬根性を煽るだけのバラエティ番組が幅を利かせていたり。


みんながみんな、とっつきやすい「私」「個人」のことばかりにかまけて、「公共」「世の中」なんて七面倒くさいことから逃げている…そんなふうに思えてなりません。


ペタしてね

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↓『嫉妬の法則』ビートたけし著、角川書店、2013)より引用(08)


税金っていうのはみんなお金持ちから取るっていうけどさ、金を人一倍稼ぐヤツは、人一倍苦労してるってことをよくわかってないんだよな。
おいらはずいぶん払ってるけどね。
「たけしさん、お金稼ぐ!」って言うけどね、おいらはさー、一年間休んだことないんだよ。一日五時間も寝られないんだぜ、なかなかないぜ、こんなの。
それで「あんたは金稼いでる! 稼いでる!」って言われたらかなわないって。夢がなくなるじゃない。


昼間働いて、さらに夜働きたいヤツだっているわけだよ。お金が欲しいんだから。
そいつがさ、一生懸命働いたお金をさ、みんなと同じように「税金を払わなきゃいけない」って言われるのもおかしいよ。


(中略)


親の金でね、六本木でチャラチャラしている女子大生とね、何億も税金払ってるおいらとね、選挙で同じ一票だと思ったらイライラしますよ。
かたっぽは「消費税は気に入らないわ」とかさ、「老人福祉にお金払ってくれるんならイイわ」とかさ。


「てめえなんか税金一銭も払ってねえくせに!」これ本音だぜ。


100万円ていうのが、どうも昔の子供みたいでね。お金持っていうと100万円って。なんか条件反射みたいなとこあるじゃないか。
でも、選挙権は最低(納税)100万円だね。


↑(引用ここまで)
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松本人志氏は、以前ツイッターで『高額所得者は、高額納税者でもあることを知れ』なんてツイートして見事に炎上していたらしいですが(笑)、私も納税感覚に関しては松本氏やたけし氏とほぼ同意見で、「税金を払っている奴が偉い」とは言わないまでも、「税金これっぽっちしか納めていないような奴は黙っとけ」みたいな雰囲気はもっとあってもいいんじゃないなかな、と正直思います。


庶民は「金持ちから税金を取ればいい」と安易に言いますが、たけし氏も言うように、金を稼いでいる人は、365日休みなんて皆無で、睡眠時間もほとんどとれない日々を送ってがんばって稼いでいるわけですよ。
おまえら毎日7時間くらい寝てるやろ、って(笑)。
自分がいなくなったら会社が傾くくらいの重圧に耐えながら毎日を送ってないやろ、って。


そりゃあ、所得税も住民税も、年間100万円も払ってない奴らに「今の政治はダメだね」とか偉そうな口叩かれたら、腹立ちますよ。
「オマエ、言うほど税金払ってないやないか」「文句言えるだけの税金払ってから、ものを言えよ」って。


「消費税」に関してもそうです。
庶民は、「自分の払う税金が多くなるから」といった自己本位な理由で「消費税増税」に反対したりしますが、「消費税」の問題はそこじゃないですもん。財政に必要な税金ならば、きっちり払うべきでしょう。


消費税増税で一番問題なのは、小売店とメーカーの間に挟まれた「卸売」企業を圧迫することです。
メーカーから仕入れる価格にはきっちり増税分ものっかっているのに、小売店も価格競争に追われているため、増税前と同じ納品価格が「卸売」業者に要求されます。
「そんな価格で納品したら赤字ですよー(泣)」と泣きついたところで、「じゃあ他から仕入れます」と小売店に言われたらおしまいです。
そんな納品先をいくつも抱えた卸売業者は、いったいどうなってしまうでしょうか?


もちろんこれは卸売業者だけの問題ではなく、たとえば大手自動車メーカーに細かい部品を納入する中小企業なら、鉄やゴムなどの材料の仕入れには消費税がきっちり乗っかるのに、大手自動車メーカーから契約を切られては生きてはいけないので、メーカーの要求通りの従来の価格で納入せざるを得ません。そのぶんの赤字はどうするって? …従業員を解雇したり、コスト削減で従来より質の悪い材料に切り替えるしかないですよね。
それで対応しきれないなら、倒産するしかありません。。…そしたら、大手メーカーその部品の発注先は中国にでもするんですかね?(笑)


「日本のモノ作りを支える中小・卸売企業を、財政的・質的にも圧迫し、また新しい技術の開発に傾ける”ゆとり”をも奪う、そして日本の産業の空洞化は進み、中間業者は海外へ流れ、日本は”自給自足”からどんどん遠ざかる国になる」から、私は「消費税増税」に基本「反対」の立場をとっているのです。
別に、「自分の財布から多くの税金が出ていくことになるから」ではありません。
そりゃあ、子どもも年金暮らしの老人も、高額所得者(納税者)も、同じ消費税を払う「社会的弱者を圧迫」という問題もありますが。


日本共産党なんか、もっとこういうことを声高に言ってもいいと思うんですよ。
でも、言っていることといえば、「国民の暮らしを」「老人が安心して暮らせる社会を」みたいな「庶民の財布のひも」のことばかり。…庶民をアホだと思っているんですかね?(笑)
もしかしたら、言っているのに、テレビやらインターネットやらで取り上げられないだけなのかもしれませんが。


ろくすっぽ納税していない奴。
税金や国政のことをちっとも勉強していない奴。
「そんな人間は恥ずかしい」という雰囲気がもっとあれば、正当な人間が正当に評価される世の中になると心底思います。


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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(02)


ツイッターもフェイスブックも面白いのかもしれないが、進んで苦痛に身を置くべき年頃の若者も、いい歳をした大人も、便利にこき使われる中毒者になってはいないか。


便利なものには毒があり、手間ひまかかるものに良薬は隠れているのです。


↑(引用ここまで)
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「若い頃の苦労は買ってでもせよ」「茨の道を進め」なんて、私が学生の頃はよく耳にしましたが(私だけ?笑)、昨今では、こんな厳格なアドバイスをする大人には、めっきりお目にかからなくなりました。


「便利なもの」「安易なもの」からあえて身を遠ざけ、「自らを律し、鍛える」ことに集中する。
…そんな環境を、大人たちが子どもや若者に意図して作ってやらないと、このご時世ではどうしても、数多ある安易な商業的娯楽に流されてしまいますよね。


たとえば、お寺での「修行」を想起してみてください。
早朝には起床し、拭き掃除、掃き掃除、洗濯、精進料理、座禅、学問、夜更けとともに寝る、そして早朝からのお勤め。
テレビやスマホもない、「俗世間から離れる」時間は、嫌でも「自分と向き合う」ことになるでしょう。
…そこまで極端に遮断しなくても、若いうちからの「寮」生活や、毎日部活動に打ち込む生活なんて、それに近いかもしれません。


実際に寺で修行しようがしまいが、『進んで苦痛に身を置く』という選択肢をもった若者と、そうでない若者では、「商業的娯楽」「安易なもの」「暇」との付き合い方が、ずいぶん変わってくるように思うのは、私だけではないはずです。
今風に言えば、スマホが手元から無くなっても、別にストレスなく「暇」と付き合って過ごせる人物であるかどうか、といったあたりでしょうか。


とはいえ、私たち「大人」だって、みんながみんな『進んで苦痛に身を置く』ことを知る人物かと聞かれたら、「安易な娯楽」に日々流されている大人がほとんどでしょうから、子どもや若者たちに偉そうに「若い頃の苦労は買ってでもせよ!」なんて言えた義理じゃないかもしれませんね(笑)。
どいつもこいつも、暇さえあればスマホの画面に釘付けだし、話すことといえば「グルメ」や「旅行」、安易な「ヤフーニュース」のことばかり。


そう思うと、まず私たち「大人」から、スマホから目を離し、「暇」「無所属の時間」を楽しむ姿勢を若者たちに見せ、「自ら苦労を買って出る」きっぷのよさを振りまいて歩くしかないのでは、と思ったりもします。
そんな「自律」した大人たちの口から発せられる「若い頃の苦労は買ってでもせよ!」なら、若者にもきっと届くはずです。
…無理か(笑)。そんな「自律」したおっさんやおばはんなんて、数えるほどしか知らないですもん。


少なくとも、自分くらいは「自律」しつつ、子どもや若者たちに「茨の道を進め」と言い続ける口うるさいおっさんでありたい。
そう思って、今日も「俗世間」「暇」と向き合います。。


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