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↓『自分を愛する力』乙武洋匡著、講談社現代新書、2013)より引用(02)


「そんなこと、私たちがやっておくから」
「それは危ないから、やめておきなさい」
そんな方針のもと、過保護に育てられてしまっていたら、僕はどんな人間に育っていただろう。
待っていれば、きっとだれかが助けてくれる――。
あたかも、親鳥がエサを運んできてくれるのを、ただ巣の中で口を開けて待っているひな鳥のように、ひたすらだれかの手助けを待つ、受身一辺倒の人生になってしまっていたのではないだろうか。


でも、当時の両親の心境を考えれば、きっとやさしい”親鳥”でいたかったにちがいない。
僕があれこれ困ることがないよう、すべて先回りして「やっておく」ことのほうが、親としてはずっとラクだったはずだ。
しかし、父も、母も、けっしてそれをしなかった。
それが僕のためにならないことを理解していたのだろう。
両親の”手を出さない勇気”が、僕を大きく育ててくれたのだ。


↑(引用ここまで)
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今回も、「育児」に関する話です。


いや~、難しいですね、『手を出さない勇気』を実践するのは。
特に、『それは危ないから、やめておきなさい』は言っちゃいますよね。子どもが転ぶとわかっていたら、つい、先回りして言っちゃいますよね。手を貸しちゃいますよね。


これだけ毎回「過保護はやめよう」と大口をたたいている私でも、先回りしてやってあげちゃったり、「危ないよ」といちいち声をかけてあげちゃったりすることも多いです。すみません。


とはいえ、基本は子どもを「放置」させておくよう努めています。
0歳児がハイハイして壁に頭をぶつけることがわかっても、あえて放っておきます。そして頭をぶつけます。泣きます(笑)。
2歳児が食事中によそ見をして、ごはんをこぼしそうになっても、あえて放っておきます。「こぼすよ!」と言いたい気持ちをおさえて。そしてこぼします。「食べているときによそ見するな!」と私に怒られます。「ごめんなさい」と言うまで待ちます。
…こんなことを何回か繰り返しているうちに、子どもは勝手に学習して、自分で気をつけるようになるもんですよ。


「まだ0歳児なんだから、頭をぶつけちゃいそうなら、先回りしてあげてもいいんじゃない?」と言う人もいるでしょう。
「まだ子どもなんだから、”気をつけなさい”くらい言ってあげてもいいんじゃない?」と言う人もいるでしょう。
…「じゃあ、何歳になったら”失敗から自分で考えさせる”んだ?」と私は言いたい。
『待っていれば、きっと誰かが助けてくれる』なんていう根性でなく、「自分で気をつけないと痛い目にあうぞ」という自己管理能力をつけさせてやりたいなら、心を鬼にして、ケガするとわかっていながらケガさせてやらなきゃいかんと思うんです。


「危ないからやめなさい!」「ほら、こぼしちゃうよ!」「なんでそんなことするの!?」
…こんな怒号ばかりの家庭環境では、言うほうも、言われるほうも、それを聞かされるほうも、げんなりしちゃいますよ。
そして、その怒号は、やかましいわりに、教育的効果は薄いという。。(笑)
でも、巷の母親どもって、こんなことばかり言っていると思いません?
結局、「自分がラクしたい」から、先に手を差し伸べちゃったり、先回りして注意しちゃったりするんですよ。


「手を出さない勇気」。
「口を出さない勇気」。
子どもが「失敗から学習する」「自分のアタマで考える」ような人間に育ててやりたいなら、まずは親が「自分のアタマで考え」て、「口を出しすぎ」な自分をいさめないと。
本当は「こぼされたら、後処理が大変」だから子どもに怒号を浴びせているだけなのに、「こぼさないように、自分で工夫するには、どう仕向けたらいいか」なんて教育的効果を考えずに機械的に怒号を浴びせているだけなのに、「自分はちゃんと育児をしている」とプライドばかり高い母親が多すぎるんですよ。
「自分のアタマで考えている」親なら、「効果的に黙って、意図的に子どもを放置して、あえて失敗させる」ようにしないわけがない、と私は思うんです。


…逆に、育児放棄ぎみの、どう見ても賢くないヤンキーみたいな母親の子どもが、まれにメチャクチャいい子なときって、ありますよね?
「どうしてあんな親から、こんなちゃんとした子が?」みたいな(笑)。
それは、母親が化粧やら男やら遊びやら、自分のことに一生懸命で、子どもをがっつり「放置」していることで、自動的に「失敗から、自分で学習する」しかない、自己学習のサイクルがうまく出来上がってしまったケースだと、私は想像します。
偶然、適度な「放置」が作られるくらいでも、いいってことですよね。
やっぱり「関わりすぎ」「しゃべりすぎ」は、よくない。


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