最近、松本人志氏出演のテレビ番組『ワイドナショー』をよく観るのですが、先日「晩婚化」について討論する場面がありました。
元サッカー選手の前園氏が「僕はあまり結婚の必要性を感じないというか…炊事も洗濯も別にイヤじゃないですし」と発言したところ、ある女性アナウンサーが間髪入れず、「別に家事をやってもらうために結婚するんじゃないでしょ!?」と喰ってかかったのです。…私はその女性アナウンサーの発言にどこかひっかかりを感じました。


私の率直な疑問は「だったらオマエ(失礼)は何のために”結婚”するんだ?」です。


その女性アナウンサーの言わんとするところはわかります。「女は”家政婦”じゃないのよ」でしょう?
であるならば、「オマエ一個人が”セックス付き家政婦”以上のどんな魅力を持っているというのか?」と是非聞いてみたいのです。
世の男性が、オマエに「何」を求めて「求婚」すると考えているのか。思い上がるな、と。


別に、「女は”セックス付き家政婦”であるべきだ」なんて言いたいんじゃありません。個人的にはむしろ真逆です。
「セックス付き家政婦」を否定するなら、それに取って代わる「結婚」のスタイルを提示してみせろや、と言いたいのです。
そんなオリジナリティ・独自の考えも持ち合わせていないくせに、プライドだけで『別に家事をやってもらうために結婚するんじゃないでしょ』とかぬかしてんじゃねーよ、と言いたいのです。…言葉が汚くてすみません。


前園氏の発言どおり、世の男性の多くは、まだまだ「結婚」に「料理や掃除など、身の回りの世話をしてくれる女性と一緒になる」という期待を持っていると思います。むしろそれを「あたりまえ」に思っている男性も少なくないかもしれません。
もっと言えば、女性ですら、「結婚」に「料理や掃除など、好きな男の身の回りの世話がしたい」なんてイメージを持っている人が大多数なのではないでしょうか。


「結婚したら、夫と妻で、家事を分担する」。それもいいでしょう。
「出産したら、夫にも育児に参加してもらう」。それも最近よく聞きますね。
ただ、「そこに”結婚”に対するオマエらの独自性、独自の解釈はあるのかい?」と問いたいのです。


私は、これまでこの場でもお話しさせていただいているように、「結婚」は「してもしなくてもいい人生の負荷」「精神的にも経済的にも自立した男女が”苦労”を味わい、楽しむ場」と解釈しています。
それは、自分のない頭をしぼって編み出した「私独自の考え」です。


皆が皆私と同じ解釈である必要はもちろんありませんが、せめてこのくらいのことは考えてから、「女は家政婦じゃない」『別に家事をやってもらうために結婚するんじゃないでしょ』と口にしろや、と心底思ったのです。


というかむしろ、そういう思考の欠落こそが、「精神的に自立していない」ことの表れなのかもしれません。
世の「結婚」「家庭」に対するホンワカしたイメージ、それも前時代的な「男が嫁をもらう」「女が男の家に入る」名残りを多く引きずったままの「結婚」イメージを、そのまま鵜呑みにして大人になった「精神的ガキ」が「結婚」とかぬかしてんじゃねーよ、と。


はっきり言います。
「結婚」は「過去の遺物」です。役所が戸籍や税金を管理するための、しょうもない、古めかしい制度です。
私は、妻の父親の顔を立てるために、またそれを申し訳なく思う私の父のために、「結婚したい」と思う妻のために、「結婚」しました。
もし妻の父親が「結婚」に対して、「前時代の名残りだ」という独自の解釈を持っていてくれたなら、私は「結婚」なんていう制度を利用しなかったでしょう。できれば、そこでも「オリジナリティ」を出して、若者たちに「そんな生き方もある」と背中を見せて死んでいきたかったのですが。。(笑)
…「毎週ブログで偉そうなことを言っておきながら、結局あいつも時代には逆らえなかった」と評されても、文句は言えません。


また、ついでに言うと、「結婚」していることで、「収入は妻との合算」と見なされ、夫婦で完全に独立した収支でやりくりしていたとしても、役所に納めている子どもの保育料も、ひとりめ毎月5万円、ふたりめ以降毎月2万5千円と、合計すれば家賃並みに高くなってしまっています。私ひとりの収入だけなら、もっと安くおさまるんですけどね(笑)。
ちなみに、「ひとり暮らしの延長だから」と、家賃も光熱費も保育料も、毎月20万円近くを私ひとりで支払っています。それ以外でも、妻とは全くの別会計です。…それでも「収入は妻との合算」ですよ?(笑)
つまり「結婚」は「過去の遺物」どころか、経済的マイナスすら及ぼすことすらあるのです。少なくとも、私のような生き方をすると。


男も女もその親も、「別に”結婚”なんてアホな制度利用せんと、”育児”に飛び込みたいなら産んだらええやん」と全会一致で決められる時代は、まだまだ先なんですかね。。
…ん? 私と私の娘から始めればいいか?(笑)


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3歳5か月検診のお知らせが事前に市役所から来ていたので、行ってきました。


今回は、事前に視力検査・聴力検査・尿検査の簡易キットみたいなものが同封されていて、家でやってから結果を回答票に記入して当日持っていく、というシステムでした。


まず、視力検査は「C」の穴が開いた方を指さす、というルールを理解させるのに時間がかかりました(笑)。
聴力検査は、子どもの耳のそばで指をこすって手を挙げさせたり、こちらの口元を隠して小声で言った単語と同じ絵を指ささせるといったもの。こちらは比較的簡単にできました。


当日は、いつもどおり12時整理券配布 → 13:20受付 → 13:30問診、体重、身長、触診、ブラッシング指導など。14:30には終了。


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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(01)


昔、吉行淳之介さんが「街角の煙草屋までの旅」という粋なエッセイを書かれていた。
「私たちが飲み屋や角の八百屋まで歩いて行くときでさえ、それが二度と戻って来ないことになるかもしれない旅だということに気が付いているだろうか?」(ヘンリー・ミラー)という文章を引いて、近所の煙草屋まで歩いて煙草を買いに出かけることも一つの「旅」、都会の中を動くこと自体が旅なのだという話です。


近頃は、電車の中でも喫茶店や飲み屋、あるいは歩きながらでもスマホをいじる人が多くなりました。
ひとときの間でも何かにめぐりあうのが生きるということなら、ちょっと画面から目を離して車窓の外を眺めたり、何か感じたりするだけでいい、それが「無所属の時間」でもあるのにな、そんなことを考えます。


↑(引用ここまで)
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私は若かりし頃、美容院で髪を切ってもらうときに目の前にドサッと出される雑誌が嫌いでした。当時はそれに手もつけませんでした。


大学に入って「哲学」「ものを考えるということ」「”暇”を愛すること」にかぶれていた私は、「なぜ、髪を切ってもらっている”今”を噛みしめて生きないんだ」「誰もが”暇を持て余す”ことを嫌う現代人だと思うなよ」なんて斜に構えていました(笑)。


今でこそ、仲良くなった美容師さんの方から、私の好きな伊藤理佐の4コマ漫画が載っている「オレンジページ」を持ってきてくれたり、特に何もないときは放っておいたりしてくれるようになったので、基本は目をつむり、じっと物思いにふけっていたり、会話を楽しんだりしています。
…可能な限り、伊集院氏で言うところの『無所属の時間』、「暇」「”今”を生きること」を大切にしようとしているのです。


電車の中でも、何かの待ち時間でも、我々現代人は、ちょっとでも「暇」を持て余すとスマホの画面に見入ったり、新聞や雑誌に手が伸びてしまいがちですが、そこでちょっとその手を引っ込めて、その時間・空間・「暇」である自分を楽しむ、という選択肢がもっとあってもいいように思うのです。


我々がスマホの画面をつい見てしまうのも、「”暇”という時間とどう対峙するのか」ということも、自分の人生という「旅」の一部であり、「生きざま」です。
そういった旅の途中、道すがらの自分の「見え」「生きざま」を思えば思うほど、「こんなちょっとの”暇”も恐れるような人間になり下がったか、この現代人めが」と自分を戒め、周りの景色に目をやるのです。


…もしアリストテレスやニーチェがこんな我々現代人の姿を見たら、「こんなにも”暇”を恐れるなんて、現代人の病理だ」と評されちゃいますよね。


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↓『嫉妬の法則』ビートたけし著、角川書店、2013)より引用(07)


全然今の親の人の感覚が分かんない。
おいら、子供大好きだけど、子供との付き合いは勝負だと思ってるから。一生戦いだと思ってるからね。
手つなぐ時は、くたばるちょっと前くらいだろうね。そうじゃないと、とても子供なんかについていけない。


その子供だって、大人になったら自分の子供と対決するわけだから、一応はおやじと息子っていうのは絆はあるけど。
相当覚悟しなくちゃさ、ファミリーって感覚でやってたらおかしくなっちゃうぜ。


↑(引用ここまで)
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…『子供との付き合いは勝負だと思ってるから』。
いい言葉です。


私は、いつからだったか、父に「子どもは3歳までが勝負だ。それまでに”分を弁(わきま)える”ことができるよう仕込んでやらないと、とても不幸なことになる」と教えられていた気がします。


子どもは、家族の「尻尾」、おまけの存在である。
大人は大人どうしの人間関係がすでにあって、子どもが話題の中心になることなんて、めったにない。
子どもが何か要求するとき、「信用」という背景と、「説得力」という技術がないと、大人には聞いてもらえない。


…こんなことが、「あたりまえのこと」として、刷り込まれていた気がします。
子どもは、「自分の思い通りにならない」ことがあたりまえ。「自分の思い通りにならない」ことをいちいちストレスに感じるように育ってしまった子どもは、とても不幸である、とも。


私も、2歳くらいのときにスーパーかどこかで「あれ買って!」とご多分にもれず泣き叫んだことがあったそうです。
そのときの父親は、「置いて行くからな」と言い残して、泣き叫ぶ私を置いて、本当に店を出て行ったのです。
後で聞くと、陰に隠れて様子を見ていたそうなのですが、「これは本気だ。まずいぞ」と思った私は、さっさと泣きやみ、親を探しに店を出たらしいのです。
それ以降、私が買い物について行って「あれ買って」と言うことはなくなったそうです。
…「買ってもらえない、自分の要求が通らないのがあたりまえ」が刷り込まれた瞬間ですね(笑)。


こんなふうに、子どもに「買ってもらえないのがあたりまえ」「自分の思い通りにならないのがあたりまえ」「自分が話題の中心でなくてあたりまえ」であることを受け入れられるよう、日々「勝負」している親や教師が、いったいどれだけいるでしょうか?


買ってあげて黙らせるのは簡単です。
言うことを聞いてあげてご機嫌を取るのは簡単です。
外に連れ出して、泣きやませて、泣きやんだら言って聞かせて、いちいち膝を突き合わせて「勝負」するのは、時間も労力もかかります。
逆に、泣きわめくのをあえて放っておいたり、転んだり頭を打ったりしてもすぐに駆け寄らず自力で立ち上がるのを待ったり、テレビやDVDも大人が観たいものを観て子どもに擦り寄らないようにしたり、子どもに構ってあげすぎないよう演出するのも、けっこう気を遣います。


でも、私の父も言うように、「なんで買ってくれないの!?」と、買ってもらえないことにいちいちストレスを感じる子どもが、はたして幸せでしょうか? 今日もご飯を食べさせてもらえることに感謝する人間に育つでしょうか?
「なんで私の言うことを聞いてくれないの?」と、自分の思い通りにならないことにいちいちストレスを感じる子どもが、はたして幸せでしょうか?
自分が転んだら、大人の方からすぐに駆け寄ってくれることが「あたりまえ」と思って育った子どもが、ひとり社会へ出て、自分から愛想を振りまいて、周囲の大人たちにかわいがってもらえる人間になるでしょうか?


子どもは子どもで自分の要求を通そうと、自分に注目させようと、泣いたり叫んだり、わざと怒られるような「罰を請う行動」をして大人を試したり、いろいろ試行錯誤してきやがります。姿かたちが「ちっちゃくて、かわいらしい」と大人に感じさせることすら、そのひとつなのかもしれません(笑)。
ガキのそんな要求を、私たち大人それぞれの基準で、聞いてやったり、聞いてやらなかったりする。その「基準」は、大人によって違っていいと思うんです。一貫性があれば。
「あのオヤジの前では静かにしないと叱られるぞ」みたいな頑固オヤジが近所にいたっていいですよね。一貫性のある「理不尽」ですから。子どもは大人の顔色を伺いながら、その中でのびのびやればいいんです。


…みなさん、目先の「不快」、ガキの「泣いたり叫んだり」に構いすぎなんですよ。もっと「知らんぷり」しなきゃ。もっと「興味がないふり」しなきゃ。度が過ぎたら、時間がなくても、外に引っ張り出して一対一で「勝負」しなきゃ。


家賃や光熱費も払えないガキにスマホやゲーム機を買い与え、黙らせるために出先でもそれらをいじらせておく親なんて、みんなガキとの「勝負」の敗北者、「育児放棄者」と言って差支えない、とそう思います。


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おとついは仕事終了後、保育園お迎え → 帰宅次第、保育園バッグ準備&洗濯 → 子どもらに夕飯&洗い物 → 乾燥機&物干し → 風呂入れ → 寝かしつけ → 私も就寝 …パターン。


昨日は飲み会 → 深夜帰宅で就寝。。




そんな翌朝は、ドトールの「朝カフェセット」。こちらは定番のAセット「ハムタマゴサラダ」&ドリンクで390円。318kcal。




こちらが新作Bセット「ポテトサラダとリオナソーセージ」&ドリンクで390円。306kcal。

けっこうサラダっぽくて美味しいです。


S君が遊びに来たので、夕飯の時間まで子どもらと遊んでもらっています。。


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↓『ニッポンを繁盛させる方法』島田紳助・東国原英夫著、角川書店、2007)より引用(12)


島田:俺だって、日本を繁盛させたい。儲かって、幸せになりたいとは誰しも思うことだろう。
でもちょっと待て。


日本って、そもそも「すでにめっちゃ繁盛しているやん」とも思うんや。


公園や駅など、どこに行っても、水がただで飲める。「治安が悪い」と言っても、世界から見ればそれほど劣悪というわけではない。
「女の子が夜、一人で歩いたらいけない」「手提げバッグは盗まれるから注意」というような国は世界にたくさんある。


そういった国々に比べたら、全然、安全な国だし、繁盛しているよ。これ以上、繁盛させて何をしたいのか。


俺がこの本で言っている「繁盛する」というのは、何もお金を儲けてこれ以上豊かになろうということではない。


日本が元気になって、夢のある国にしたいということ。


日本はいま、古びた商店街のようになっている。
すぐ隣に「中国」という、商店街とは比べものにならない規模の大きなショッピングセンターができたものだから、ちょっと困ったことになっている。


でもいまさら日本という商店街が中国のようなショッピングセンターになろうとしてもしょうがない。


↑(引用ここまで)
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「不景気、不景気」とみなさんおっしゃいますが、「では、いったいどうなったら”好景気”なのか」という話にはあまりなりませんよね。


すべての会社の商品が飛ぶように売れ、全員の給料が上がり、失業者がゼロになる…こうなったら「好景気」ですかね?


ありえないですよね(笑)。


GDPがこれから爆発的に伸びることなんてない、と日本人の誰もがわかっているはずです。
どの会社も、人件費と「みんなモノを買わなくなっている」ところに工夫を凝らして、なんとか騙し騙し生き残っているのが現状だと思うんです。
もちろん、一部の金持ちや中国人観光客も大事な収入源としてマーケティングしていかないとやっていけないでしょう。


これが、「豊かになった社会」の「普通」だと思うのです。
高度成長期のように、モノが「ない」状態から「ある」状態へは進みやすいですが、「ある」状態・モノが行き渡った状態からは進みにくい。…経済に関して素人の私ですら、そのくらいのことは理解できます。
紳助氏の言葉を借りれば、『日本って、そもそもすでにめっちゃ繁盛しているやん』です。


普段からそういう心もちでいると、「もっと景気がよくならないですかね~」みたいなことをぬかす輩を見ると、こいつアホなんじゃないか、と訝って見てしまうのです。
「いまさらモノがメチャクチャ売れるようになるとでも? というか、オマエ自身、そんなにモノを買いまくってないやろ」と。


経済成長頭打ちの、モノが「ある」状態の日本で、「みんなが爆発的にモノを買うようになる・カネを使うようになる」→「景気が良くなる」なんて図式はもはや成り立たない、と言ってやりたくなってしまうのです。


自分自身は「浪費」しないくせに、「みんな”浪費”して、経済活性化しないかな」に等しいことを口にする。


そんな「不景気」発言が、「自分を棚に上げている」身勝手な発言であることにすら気付かない輩には、苦言を呈さずにはいられないのです。


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昨年末から関西方面でスタートした「セブンカフェ・ドーナツ」。

聞くところによると、ミスタードーナツ並のクオリティで、セブンイレブンのコーヒーにぴったりだとか。




東京のすぐそこで働くSさんが、買ってきてくれました。

…確かに美味しい。というか、ミスタードーナツに近いクオリティ。

そしてすべて税込100円~110円という安さ!


特に、写真右の「もちもちいちごリングドーナツ」はミスタードーナツの「ポンデ・リング」に匹敵するもちもち感。

いちごコーティングの甘さがあるぶん、苦いコーヒーに合うというか、「ポンデ」? の数が少ないだけで、本家より好みかも。


これはいよいよ、全国のセブンイレブンでコーヒーと200円で手軽に買えるようになったら、ドーナツチェーン店は危ないか!?


…あ、でも、手土産用に大きめのテイクアウトボックスが欲しいところかも。


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↓『嫉妬の法則』ビートたけし著、角川書店、2013)より引用(06)


出版とか活字に対してさ、日本人は特別な意識で見過ぎるんだよ。たいしたことないのにさ。
活字になるってことを文化とか教育とかってすぐそっちのほうで考えてさ、必ずタメになるとかって言うでしょ。
「もっとタメになるものなんだから」っていう設定があるからおかしいんじゃない?
ただ人に伝達する方法として、活字を使っているだけなんだから、いいものもあれば、悪いものもある。
それをいいほうばかり取り上げるの、おかしい。


「こういうものを出すから悪い」じゃなくてさ、「こういうものを読むガキを作ったオマエが悪い」んだから。


↑(引用ここまで)
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インターネットがこれほど普及し、識字率がほぼ100%と言っていい現代日本において、いまだに「活字離れ」なんて口にする人の気が知れません。
それはもちろん、紙媒体の出版業界や新聞業界関係者が売り上げを伸ばしたくて吹聴しているだけでしょうし、問題なのは、それに踊らされて「子どもに本を読ませなくては」とか何とか言っちゃっている教育関係者や主婦のほうです。


「マンガはダメ」?
「エロ本はダメ」?
「小説ならいい」?


…その基準も理由もフワッフワしていませんかね(笑)。


「なんか子どもによくなさそうだから」?
「そもそも自分が”嫌い”だから」?
「小説なら”学校のお勉強”っぽいから」?


そんなもん、子どもは興味があったら、親や先生がいくら禁止しても、嫌でもそっちに傾いていきますって(笑)。
それこそ、たけし氏も言う『こういうものを読むガキを作ったオマエが悪い』ということでしょうか。


私個人としては、「子どもに何を買い与えるか」ということよりも、「子どもに買い与えること」自体に大きなリスクがあると思っているので、マンガも、小説も、食べ物も、おもちゃも、基本的に買い与えません。
やっぱり、大人が、大人の稼いだお金で、自分の買いたいものを買う。見たいテレビを見る。聴きたいCDを聴く。子どもはそれに興味があれば乗っからせてもらう。…それでいいんじゃないでしょうか。
変にガキに気を遣ってやっちゃうから、図に乗るんですよ。
適度な「放っておかれている」感を演出してやることも、大切だと思うんです。


福井県では、子どものおもちゃのことを「孫渡し用品」なんて呼ぶ習慣があるらしいです。
つまり、「子ども用玩具なんて、しょせん祖父母の”孫の喜ぶ姿見たさ”を満たす程度のものだ」というくらいの認識があるということです。


店先にあるガチャガチャも、子供向け雑誌も、教育玩具も、子どもや親が興味を惹くようにデザインされているに決まっているじゃないですか。売るために。
ボーっとしていたら、そりゃ買いたくなっちゃうんです(笑)。


だから私は、子どもの要求に対して「必要ない」「そんなものにかけるお金はない」が基本スタンスです。
子どもが店頭のガチャガチャにしがみついても、「ちょっとこっちへ来い」と、ふたりっきりで膝を突き合わせて話したら、2歳児でもけっこう納得するもんですよ。
2回目からは、ガチャガチャの前を通っても、気にはしているようですが、私の手をギュっと握って通り過ぎます。…2歳児なりに我慢しているんですね。
この「我慢」「辛抱強さ」は生きていくうえで、大きな武器になります!
何か買い与えて一時的に喜ばせるより、ずっといいモノを手に入れているように思うのは、私だけでしょうか?


…話が横道に逸れました。「活字」の話でしたね。
ゴシップ記事盛りだくさんの週刊誌やマンガ、もしくはマンガのような入っていきやすいストーリーの小説ばかりを読みふけるおっさんやおばはんを見ればわかるように、やっぱり大人でも、刺激の強い、安易なエンターテインメントに流されているわけですよ。
そいつらが子どもに「本を読みなさい」と言ったところで、何の説得力もないわけです。


「活字離れ」を問題視する人らだって、ヤフーのトップページを開けば、ゴシップ記事やスポーツニュースばかりをクリックしちゃっているんでしょうから、偉そうに教育問題語るなら、他人をどうこう言うよりもまず、自分の「安易さ」から何とかせえよ、と言ってやりたくなります。


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金曜仕事あがりで職場の同僚たちと那須塩原はハンターマウンテンまでスキーをしに行ってきました。

帰ってきたのは昨晩遅く。Sさんの滑る姿がカッコよかったです!(^_^)




そんな日曜の朝も、Sさん出勤と同時に朝6時半から子どもたちに起こされ、美容院へ。

3歳児も1歳児も前髪をちょい切り落としてもらいました。


その後、S君がコストコに行きたいというので、現地で合流。

その待ち時間にモスバーガーで子どもらに昼食。


私はちょっと前から気になっていた「XO醤チキンバーガー」を。

…美味しいけど、まあ普通かなあ?(笑)


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↓『嫉妬の法則』ビートたけし著、角川書店、2013)より引用(05)


結婚なんてしないほうがいい。
誰かとエッチをしてって、その誰かも探さなきゃなんないじゃない。それならば、AVのほうが良かったりしてね。
「結婚するならオナニーのほうがいい」って言ったら、結婚イコールセックスそのままの感覚でいるのも変でしょう。


あいかわらず結納なんてあるんだろ。支度金みたいなの持っていくんでしょう。
それっていかにも買ってるみたいだよね。
その金で「家具をそろえろ」って言うんだろ。
まだしきたりとして残ってるけど、そういう面倒くさいことに気がついてきたヤツは、もうやんないよね。


「女がどこにもいかないように、自分の支配下に置こうとする男」がいて、「最後まで男にたかってやろうとする女」がいれば、結婚制度はいつまでも残るよ。
両方とも現実にはいるんだから。


↑(引用ここまで)
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たけし氏曰く『それっていかにも買ってるみたいだよね』…まさに「結婚 = 男がセックスつき家政婦を雇う」ですよね!


男は男で、「こいつは俺の女だ」と「所有」しようと欲し、女は女で、「家庭に入りたい」と「所有され」ようと欲する。
…もういいかげん、こんな「幻想」「過去の遺物」に振り回されるのやめませんか?


わかりますよ。
「こいつ、俺の彼女だよ」と友だちに紹介する延長線上に、「結婚」があるんでしょう?
「私、今この人の彼女なの」と友だちに紹介する延長線上に、「結婚」があるんでしょう?
その根本は、「所有する」「所有される」という、いわば「ごっこ遊び」なわけです。


こんなこと、口に出すのも憚られるのですが…本来、人間は個人として勝手に生き、死んでいく存在であって、それこそ「奴隷」じゃないんですから、誰か他の人間を「所有」したり、「所有」されたりするなんてのは、おかしな話です。
確かに、「こいつは俺の女」「私は彼だけのもの」と「ロールプレイング(役割遊び)」する快感は私も嫌いじゃありませんが、そんな「ごっこ遊び」を、「共同生活」や「育児」に持ち込むなよ、と言いたいのです。


「共同生活」や「育児」は、この場で幾度となく言わせていただいているとおり、別にやってもやらなくてもいい「人生の負荷」です。
「自分のことは自分で面倒を見たうえで、他人にも献身的に過ごしたい」「日常的な”気配り”という苦労と充実感を楽しみたい」という、テメエ自身のことくらい自分で面倒が見れて、なおかつ精神的にも経済的にも余裕がある「オトナ」だけが参加できる、いわば「大人の嗜(たしな)み」です。


問題なのは、「おまえはずっと俺のことだけ見ていろ」「あなたも、ずっと私のことだけ好きでいてね」という「ごっこ遊び」、すなわち「恋愛」は、自分のことでいっぱいいっぱいな「コドモ」でも、お金がなくてもできちゃうところです。それこそ、小学生でも。


精神的にも「奉仕の心」なんてまるでない「ガキ」で、経済的にも余裕がないのに、「人生の負荷」なんて楽しめるわけがありませんよね。
だから、自分から「人生の負荷」に飛び込んだ自覚もない、大人の顔をした「ガキ」どもが選ぶ道といえば、前例踏襲、「男は仕事、女は家事・育児」という「過去の遺物」スタイルばかりになっていると思うのです。
自分たちで独自のスタイルを思考錯誤しようとしない、その能力がない、そもそもそんな発想すらない、のですから、「思考停止」と評されて然るべきですよね。
…まあ、まれに「主人的」な男(女)と「奴隷(奉仕)的な」女(男)の組み合わせで、「一方は仕事、他方は家事・育児」というスタイルがぴったりな場合もそりゃあるでしょうけど。。


そんなわけで、「私、結婚できないかも」とか「あんな人でも結婚できたんだから…」とか言えてしまう風潮に、私はとても違和感を感じます。
いやいや、「既婚者です」「子どもがいます」と、いっぱしの大人みたいな顔をしている奴らのほとんどが、頭のフタを開けてみたら、精神的にも経済的にも「ガキ」のまま「ゴールイン(笑)」しているんとちゃいますか、と。
「結婚していること」「子どもを持つこと」が、男にとっても女にとっても、ある一定の社会的ステータスみたいに思われがちですが、そいつらに「奉仕の精神」と「精神的・経済的ゆとり」があるかどうかは別問題ですよ、と。
むしろ、「見た目は大人、中身はサル以下」みたいなおっさん、おばはんの方が多いんとちゃいますか、と。
…言い過ぎですかね(笑)。


これだけ言い切るからには、私も「サル以下」なんて評されないよう、周囲や子どもたちに背中を見せて歩かなければなりませんが、街ゆく人の子どもへの関わり方や、夫婦関係なんかを眺めていると、どうにも「見た目は大人、中身はサル以下」な人が大量に存在している気がしてならないのです。


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