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↓『嫉妬の法則』ビートたけし著、角川書店、2013)より引用(05)
結婚なんてしないほうがいい。
誰かとエッチをしてって、その誰かも探さなきゃなんないじゃない。それならば、AVのほうが良かったりしてね。
「結婚するならオナニーのほうがいい」って言ったら、結婚イコールセックスそのままの感覚でいるのも変でしょう。
あいかわらず結納なんてあるんだろ。支度金みたいなの持っていくんでしょう。
それっていかにも買ってるみたいだよね。
その金で「家具をそろえろ」って言うんだろ。
まだしきたりとして残ってるけど、そういう面倒くさいことに気がついてきたヤツは、もうやんないよね。
「女がどこにもいかないように、自分の支配下に置こうとする男」がいて、「最後まで男にたかってやろうとする女」がいれば、結婚制度はいつまでも残るよ。
両方とも現実にはいるんだから。
↑(引用ここまで)
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たけし氏曰く『それっていかにも買ってるみたいだよね』…まさに「結婚 = 男がセックスつき家政婦を雇う」ですよね!
男は男で、「こいつは俺の女だ」と「所有」しようと欲し、女は女で、「家庭に入りたい」と「所有され」ようと欲する。
…もういいかげん、こんな「幻想」「過去の遺物」に振り回されるのやめませんか?
わかりますよ。
「こいつ、俺の彼女だよ」と友だちに紹介する延長線上に、「結婚」があるんでしょう?
「私、今この人の彼女なの」と友だちに紹介する延長線上に、「結婚」があるんでしょう?
その根本は、「所有する」「所有される」という、いわば「ごっこ遊び」なわけです。
こんなこと、口に出すのも憚られるのですが…本来、人間は個人として勝手に生き、死んでいく存在であって、それこそ「奴隷」じゃないんですから、誰か他の人間を「所有」したり、「所有」されたりするなんてのは、おかしな話です。
確かに、「こいつは俺の女」「私は彼だけのもの」と「ロールプレイング(役割遊び)」する快感は私も嫌いじゃありませんが、そんな「ごっこ遊び」を、「共同生活」や「育児」に持ち込むなよ、と言いたいのです。
「共同生活」や「育児」は、この場で幾度となく言わせていただいているとおり、別にやってもやらなくてもいい「人生の負荷」です。
「自分のことは自分で面倒を見たうえで、他人にも献身的に過ごしたい」「日常的な”気配り”という苦労と充実感を楽しみたい」という、テメエ自身のことくらい自分で面倒が見れて、なおかつ精神的にも経済的にも余裕がある「オトナ」だけが参加できる、いわば「大人の嗜(たしな)み」です。
問題なのは、「おまえはずっと俺のことだけ見ていろ」「あなたも、ずっと私のことだけ好きでいてね」という「ごっこ遊び」、すなわち「恋愛」は、自分のことでいっぱいいっぱいな「コドモ」でも、お金がなくてもできちゃうところです。それこそ、小学生でも。
精神的にも「奉仕の心」なんてまるでない「ガキ」で、経済的にも余裕がないのに、「人生の負荷」なんて楽しめるわけがありませんよね。
だから、自分から「人生の負荷」に飛び込んだ自覚もない、大人の顔をした「ガキ」どもが選ぶ道といえば、前例踏襲、「男は仕事、女は家事・育児」という「過去の遺物」スタイルばかりになっていると思うのです。
自分たちで独自のスタイルを思考錯誤しようとしない、その能力がない、そもそもそんな発想すらない、のですから、「思考停止」と評されて然るべきですよね。
…まあ、まれに「主人的」な男(女)と「奴隷(奉仕)的な」女(男)の組み合わせで、「一方は仕事、他方は家事・育児」というスタイルがぴったりな場合もそりゃあるでしょうけど。。
そんなわけで、「私、結婚できないかも」とか「あんな人でも結婚できたんだから…」とか言えてしまう風潮に、私はとても違和感を感じます。
いやいや、「既婚者です」「子どもがいます」と、いっぱしの大人みたいな顔をしている奴らのほとんどが、頭のフタを開けてみたら、精神的にも経済的にも「ガキ」のまま「ゴールイン(笑)」しているんとちゃいますか、と。
「結婚していること」「子どもを持つこと」が、男にとっても女にとっても、ある一定の社会的ステータスみたいに思われがちですが、そいつらに「奉仕の精神」と「精神的・経済的ゆとり」があるかどうかは別問題ですよ、と。
むしろ、「見た目は大人、中身はサル以下」みたいなおっさん、おばはんの方が多いんとちゃいますか、と。
…言い過ぎですかね(笑)。
これだけ言い切るからには、私も「サル以下」なんて評されないよう、周囲や子どもたちに背中を見せて歩かなければなりませんが、街ゆく人の子どもへの関わり方や、夫婦関係なんかを眺めていると、どうにも「見た目は大人、中身はサル以下」な人が大量に存在している気がしてならないのです。
