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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(03)


かれこれ五年近く人生相談らしきもの(「悩むが花」週刊文春)を続けていますが、近頃感じるのは、以前と違って、ずいぶん個人的なことを聞く人が増えたな、ということです。


「ちょっと好きな男性がいて、だけどその彼氏には今は別の彼女がいて、私は友達でも十分じゃないかと思ってつきあっているのですが、変でしょうか?」


そんな質問になぜ私が答えなきゃいかんのか(人に聞くのか)、と思ってしまう。


「同窓会に行くべきでしょうか?」


というのもありました。
学校というのは出たらそこでおしまいだから、私は同窓会など行かないし、世の中に出た大人たちが何をしているか、そちらのほうがよほど面白そうに見える。
とうの昔に卒業した学校の仲間と何年もつるんでみても仕方ないだろう、と思うのです。


自分が今つきあっている彼氏や彼女のこと。
進路をどうするか、会社の所属部署が気に入らない、取引先とうまくいかない。
背が高い、太っている、クセ毛だとか、自分の身体に関すること……。


何かもっと他の読者にも通じるような普遍的、相対的な悩みというのは浮かばないのかね、と思ってしまいます。


↑(引用ここまで)
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公共性の強いテレビのニュース番組や、新聞、雑誌などが「それは個人的なことだろう」というような内容を恥ずかしげもなく報道するようになって久しく、私はいまだにそこに違和感を覚えます。


天気予報だけならまだしも、「洗濯情報」「おでかけ情報」「傘を持っておでかけください」なんて、大きなお世話だと思いません?(笑)
なぜ洗濯物を干すかどうかや持ち物まで、おまえらに決めてもらわにゃいかんのだ、と。


ニーチェやハンナ・アレントは、「活版印刷技術が誕生した近代以降、公と私の混同はますます進み、その境界線は曖昧になっていくだろう」と言っていましたが、まさにそんな状況になりました。


強調表現、刺激的なコピー…ニュースに耳を傾けてもらうために、クリックさせるために、「公」的な役割を担っているはずの報道が、どんどん内容も言い回しも「個人的な」ものに、誇張されたものになっていってしまっているのだと思うのです。
…昔のNHKのニュースのように、四角四面なしゃべり方やコピーばかりでは、もはや誰も聞いてくれないですよね。


私は、こういった「公私混同」が横行していることに異議を唱える人がほとんどいない状況に、非常に危機感を覚えるのです。


政治家が選挙前に「公」約している内容が、「それ、”政治”か?」とツッコみたくなるような個人の家計の話だったり。


「誰もが知っているべきニュース」みたいな顔をしながら、その実は、別に知らなくてもいいような犯人の育ちや交友関係なんかの「個人」的な話だったり。


芸能人の「私生活」を切り売りするだけの、野次馬根性を煽るだけのバラエティ番組が幅を利かせていたり。


みんながみんな、とっつきやすい「私」「個人」のことばかりにかまけて、「公共」「世の中」なんて七面倒くさいことから逃げている…そんなふうに思えてなりません。


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