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↓『自分を愛する力』乙武洋匡著、講談社現代新書、2013)より引用(03)


(校内車いす使用禁止を、小学生だった乙武氏に命じた担任の高木先生)
「いまだけ乙武君をかわいがってあげることは、いくらでもできる。でも、それが本当に彼のためになるのだろうか」


その後、僕が進学することになる中学、高校、大学は、すべてエレベーターなどの設備が整っていない、バリアフリーとはほど遠い校舎だった。
僕は一階の階段わきに車いすを停めると、そこから座席の下に積んであるカバンを引っぱり出して肩にかけ、自力で階段を登って移動していた。


そうしたことができるようになっていたのは、高木先生の厳しいご指導があってこそ。
もし、僕が甘やかされ、車いすから離れることのできない状態だったとしたら、進学先としても「うちには何の設備もありませんので……」と、受けいれに難色を示していたかもしれない。
先生の厳しいご指導が、僕の可能性を広げ、人生における選択肢を増やしてくださったのだ。


もちろん、ただ厳しくすればいいというものではない。
たとえ同じ指導を受けても、あまりの過酷さにつぶれてしまう子だっているだろう。
きっと、高木先生は長年の経験から、「この子なら、少々厳しくしても食らいついてくる」という確信があったのだと思う。


真の厳しさとは、真の愛である――。


僕がこの社会で力強く生きていくうえでの土台を築いてくださった恩師のことを振りかえると、いつもこの言葉が頭に浮かぶ。


↑(引用ここまで)
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いや~、乙武氏本人は感じていないかもしれませんが、見事なバランス感覚です。


社会学者やら障害者やらが「なぜバリアフリーにしないんだ」「もっと障害者への理解を」と、「設備」や「周囲の人たち」ばかりを問題視する一方で、乙武氏は「周囲を納得させる”自力”と、恩師への感謝」のみに言葉を費やします。


確かに、バリアフリーや障害者への理解はもっと我々に身近なものとして浸透していくべきだと私も思いますが、「そんなものを”お役所”に期待して、ぐちぐちと理屈を並べている暇があったら、自力で現状を打破する努力に時間を費やしたい」という考え方は、「安易なクレーマーにならない」その姿勢は、非常に好感が持てます。


こういうことを言うと、「おまえは”障がい者”(←笑)に、環境整備など望まずに”努力しろ”とでも言うのか?」なんて詰め寄られちゃうんですかね(笑)。
乙武氏も言うように、「自助努力でなんとかする」姿勢をそのままあてはめることのできないような障害を持っている方も、もちろんいるでしょう。介護につきっきりの家族をサポートする環境と、周囲の理解はまだまだ進んでいません。、


ただ、考え方として、「車いす生活の小学生に”登下校以外、車いすを一切使うな”と厳しく指導し、”自助努力”の姿勢を育ててやる」選択肢が、もっとあってもいいんじゃないかなあ、と言いたいのです。
もしかしたら、今現在100%受け身で介護を受けている障害者や老人の中にも、乙武氏の恩師のように、心を鬼にして鍛えてやれば、もっと自力でできることが増えた人がいるかもしれませんよね。


健常者だって、同じです。
川で溺れている人を見て、「なぜ”危ない”と看板がないのか」「ライフセーバーが常駐すべきだ」と、基本は他人任せで、自力で助けに行かないのを棚に上げて、「自分は正しいことを言っている」ツラをした人間であるか。
つべこべ言う前に即座に川に飛び込んで、助けに行ける「泳力」「自力」がある人間か。


あなたは、どちらですか?
他人任せの「安易なクレーマー」になり下がっていやしませんか?
いざというときに「自力」でなんとか解決できる、「筋力」や「きっぷのよさ」を身につけていますか?


「周りに文句言う暇があったら、”自力”を鍛えておけば?」と言える選択肢、そんな「バランス感覚」を、乙武氏の文章に見た気がします。


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