------------
↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(10)
二十年ほど前に直木賞をいただいたとき、雑誌のグラビアに祇園で芸者をはべらせて執筆している私の写真が載りました。
ヒドイな、これじゃあ世間がどんな勘違いな反応を示すことか、と内心タメ息をつきながらも、ああ無頼派を演じてくれということか、とも考えました。
演じるというのは、ヤセがまんしてでも恰好をつける、とも言い換えられます。
まだ世間知らずの若者が恰好つけるのは単に色気づいて外見を飾るだけですが、私が言っているのはあくまで”姿勢”のこと。
↑(引用ここまで)
------------
『演じる』。
『ヤセがまんしてでも恰好をつける』。
そういった「役割意識」というか、あえて損を引き受ける「きっぷのよさ」が、その人を美しく見せる、と最近よく思います。
伊集院氏も、「芸者をはべらせて執筆している、なんて世間から思われたくない」という本音と、「世間が自分に望んでいるであろう”キャラクター”」という役割意識の間で葛藤し、「まあ、仕方ないか」と後者を選びました。
「本音はこうしたい、トクしたい」と「仕方ない、その”役割”に徹してやるか」の間で揺れたとき、そのどちらを選ぶか。
先日、私は職場の先輩が同僚の若い女の子にちょっかいを出していたと聞き、ショックを受けました。
「若い女の子に手を出したい」と「あくまで紳士として、その”役割”に徹する」の間で揺れたのでしょうが、前者に流れ、その子にも「尊敬してたのに、このおっさんも結局ヤリたいだけか」と思わせてしまったことが、残念でなりません。
また逆に、そのことを思うと、「自分は、”おまえも結局ヤリたいだけか”なんて、若い女の子に思われたくないよなあ」「首尾一貫して、紳士的に対応できるおもしろい男もいるんだ、と思わせたいよなあ」と、「役割意識」ばかりが私の心をつつくのです。
『演じる』。
『ヤセがまんしてでも恰好をつける』。
男は特に、性的な衝動がついてまわると知っているだけに、たとえ『ヤセがまん』だとしても、うまく付き合っていかなあかんよなあ、としみじみ思う今日この頃でした。
