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↓『無頼のススメ』伊集院静著、新潮新書、2015)より引用(17)


今でもどこかで殺人事件が起きると、検事や判事は、普通の人間性とは相容れない蛮行だというスタンスで論理的に追及します。
弁護士はちょっと立場が違いますが、基本的に、人間がつくった法律の枠組みの中で、検察の論理にしたがって反論を考えていくしかありません。


そしてマスコミは犯人が事件を起こした理由がどこにあるかを探し、そうせざるを得ない社会状況というものを背景に置こうとする。


二十年ほど前に神戸で起きた連続児童殺傷事件でも、犯人の酒鬼薔薇少年がヒトラーの『わが闘争』を愛読していて、部屋の中に鍵十字の絵が貼られていたとか、枝葉のとこに理由を見つけ出しては安堵しようとしていました。


もちろん、残虐きわまりない犯行でしたが、妙なものにかぶれたから、あるいはもともと鬼畜のような、自分たちとは違う特殊な人間だったから人を殺したのだと袋叩きにして、ただ遠ざければいいというものではない。
人間はそれぐらいのことをやりかねない。
どこかでそう考えられないとまずいと思うのです。


テレビに出てしたり顔でコメントしているような文化人は、社会正義をタテに話をしたがります。
たしかに、「そういうところもあるのが人間です」なんて言ったら、抗議が殺到するにちがいない。
しかし、殺人や戦争という行為に対して善悪と正義を持ち出すのは、何も言っていないにひとしいではないか、そう考えるのです。


↑(引用ここまで)
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殺人事件なんかがあったとき、ニュース番組のコメンテーターか誰かに、『そういうところもあるのが人間です』なんて、ぜひ言ってもらいたいものですよね(笑)。


人間だれしも、人によって差こそあれ下世話な噂話は好きだし、人間関係やらで追い詰められたら何をしてしまうかかわからない。
小動物をいじめたくなるような攻撃的な衝動も誰もが――それこそ子どもだって――もっているし、仕事やプライベートが全くうまくいかない状態が何年も続いたら、他人に理解できないような破壊的行動をしてしまうかもしれない。


そんな「衝動」をだれしも内包しながら、気分が上がっているときも、落ち込んでいるときも、なんとかだましだまし日々生活しているわけじゃないですか。
それなのに、何が「常人には理解できない行動」でしょうか。「幼少の頃の○○といったトラウマが犯行に及ばせた」とかぬかして、したり顔でいられるのでしょうか。


『そういうところもあるのが人間です』「自分も一歩間違えたら、やりかねないですね」なんて、「自分を棚に上げない」潔さ・正直さを見せてくれる大人が、もっといてもいいんじゃないかなあ、と最近よく思うのです。


いつだったか、武田鉄矢氏が言っていました。
「自分はバカなんじゃないか、自分は間違っているんじゃなかろうか、と常に自問できる大人こそが、”人間として成熟している”と言えないか」と。


自分だけがわかったような口ぶりでしゃべるコメンテーター然り。
自分だけがものを斜めから見れているかのように時事問題を語るおっさん然り。
「自分の中にも、凶悪殺人犯となりうる種があるかもしれない」といった自問や葛藤を感じさせないその傲慢な語り口調には、「人間としての成熟」のかけらも見当たりません。


…そんなことを指摘しつつも、「偉そうに語りやがって。オマエは何様やねん!」などと私自身ツッコまれないよう、今日も自問の日々です。。(笑)


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