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↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(02)
「いちばんうれしかったことを書きなさい」っていうのもあって、笑ってしまった。
小学一年生に、いちばんうれしかったこともないだろう。
そういうのは歳をとって、昔をふり返って、「ああ、あの頃がいちばんいい時代だったな」と思い出すものだ。
ダンゴムシだの地蜘蛛だのの一匹でも、物珍しくて一日中追いかけ回しているような時期なのだ。
毎日のように目新しいもの、未知の何かに出会って、好奇心を燃やしている子どもに、過去をふり返らせていったいどうしようっていうんだろう。
(中略)
自分の好きな食べ物を書かせておいて、「食事は好き嫌いなく食べましょう」と教える。
自分らしさとやらを大事にするなら、たとえば「自分は一生野菜は喰わない」っていうのが、自分らしさじゃないのか。
勉強は数学しかやらないとか、他の授業は全部サボるとか。
現実の世の中では、そういう奴が案外成功したりするものなんだけど。
ところが学校の先生たちは、野菜も食べなきゃダメだとか、国語もしっかりやりなさい、とかいう。
子どもを、平均的なつまらない人間にしようとする。
↑(引用ここまで)
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「学校」というところは、良くも悪くも「平均化」される場所だよなあ、と最近つくづく思います。
私のところで暮らす4歳児も、家でテレビを見るなんてあまりないはずなのですが、「仮面ライダードライブ」だの「プリキュア」だの、保育園から帰ってくると、そんなことを口にしていたり、興味をもっていたりします。
言葉遣いも「どこでそれ習ってきたんだよ(笑)」みたいなことの連続です。
それがまた、あんまりやってほしくない汚い言葉遣いだったりするので、「家でいくら言い聞かせても、”平均化”されて帰ってくるものだなあ」と痛感させられます。
それこそ、たけし氏が指摘するように、学校の先生たちは『野菜も食べなきゃダメ』とか『国語もしっかりやりなさい』とか、「常識的」な枠内に子どもたちを収めようとしかしないでしょうから、「うるさい、オレはこれで行くんだ!」という「意志の強さ」「偏屈さ」は育ちにくいだろうなあ、とは思うのです。
無責任に言わせてもらえば、いいと思うんですよ。
『自分は一生野菜は喰わない』っていう「偏屈」な奴がいても。
『勉強は数学しかやらない、他の授業は全部サボる』、みたいな「偏屈」な奴がいても。
…自分の子どもがそんなことを言い出しても、ただの「逃げ」や「思いつきのワガママ」でないようだったら、「わかった、それでやってみろ」と言ってやる「度量の大きさ」は持っていたいなあ、と思うんです。
今の時代はそんな「はみ出し者」がいたら、「そんなの健康に悪いよ」とか「みんなと一緒にやらなきゃダメだよ」とか、先生や周りの人間は寄ってたかってそいつを叩きつぶしにくるでしょうから、一度そういう「世間の目」と戦わせる、という経験も与えてみたいですし(笑)。
大丈夫ですよ、野菜なんて食べなくても。戦後、間もない頃の食糧事情を考えたら、栄養バランスなんて「できれば」くらいでいいんじゃないですかね。…そんなに目くじら立てるほどのことでしょうか?
「数学しかやらない」なんて、おもしろい奴じゃないですか。それで不登校になったらなったで、学校に通わずにどんな奴に育つか、楽しみですらあります。…そんなふうに思うのは、私だけでしょうか?(笑)
たけし氏が指摘するように、「学校」や「集団行動」には『子どもを、平均的なつまらない人間にしようとする』要素が多分に含まれていると思うんです。
私も小さい頃から「おまえらの言うようには染まらんぞ」と思っていましたし、そういう「平均化」「世間の目」と少しも戦わずに、他人に言われるがままに流されて大人になってしまう奴のほうが危険だよなあと思い、今回こう書きました。
