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↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(07)
日本人には宗教がないから、道徳心が足りないなんていう人もいる。
たしかに、神様を信じている人の方が、道徳を守る率は高いだろう。
誰も見ていなくても、神様は見ているわけだから。
昔はよく、お天道様が見てるよ、といったものだ。
そういわれると、人のいない場所でも、悪いことをしてはいけないような気がした。
みんなが立ち小便する場所に、鳥居のマークを描いたら、立ち小便が減ったというのも同じ話だ。
それはある種の”人目”だけど、それを気にすることと、自分の良心の声に従うことは、実質的にほとんど同じだ。
親にやってはいけないといわれたことをやってしまうときに疼くのも、心の同じ部分だろう。
心理学では、それを「超自我」なんて呼んだりするらしい。
難しくいえば、「内在化した親の価値観」というやつだ。
もっとも、いつまでも親の価値観というわけではなくて、人が成長するにつれて、この内在化する価値観の主は、教師や尊敬する人、憧れの人、もしくは本で読んでなるほどと思ったことなど、とにかくその人間に影響を与える人格に変わっていく。
↑(引用ここまで)
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…『超自我』。『内在化する価値観』。
私は子どもや若者と接するとき、「他人が見ていなくても、自分で自分の行動を律することができるかどうか」を、どこか念頭に置いているように思います。…ちょっと偉そうに聞こえるかもしれませんが(笑)。
口うるさい私の前で、礼儀正しいのはあたりまえです。
私が黙ってじっと睨みつけていれば、はっと気づいて「ありがとうございました」と言えたり、出しっぱなしの椅子を入れたりできる。私のところで暮らす2歳児でもそうします。
…でも、私が見ているところでできても、そいつが外に出て自動的にそれをできなくては、意味がないのです。
周囲の仲間や大人たちにかわいがってもらえるようなフットワークや礼儀作法が身についていなければ、意味がないのです。
だから私は、『超自我』…私なんかよりよっぽど厳しい「自分自身を律する目」が、どうやったらそいつに身につくか、ばかりを考えて接することにしているのです。
とはいえ、公共のトイレで個室の床に転がったトイレットペーパーの芯や包み紙、席を立っても引かれたままの椅子、近所で会っても挨拶ひとつできない隣人の多さを思うと、みなさん、たいして『超自我』を育てずに歳を重ねてらっしゃるなあ、と思ってやみません。
『超自我』。
「誰が見ていなくても、投げ捨てられたゴミを拾えるか」。
「それを見て見ぬふりをする自分自身を許せない」という、他人の目よりも厳しい「自分自身を律する目」が身についたとき、そいつはようやく「自立」したと言えるのではないでしょうか。
…そんなことを言ったら、世の中の大勢の大人が「自立していない」ことになってしまうかもしれませんけども(笑)。
