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↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(03)


俺が子どもの頃は、年寄りに席を譲るのが当たり前だと教えられた。
年寄りが立っていて、子どもが座っていたら、生意気だってひっぱたかれたものだ。


優先席なんて、あの頃は必要なかった。
本来、電車の席は、全部が優先席だ。
前に年寄りが来たら、子どもは有無をいわずに立つ。
そこに理由なんて必要ない。


ところが、今の道徳では、年寄りに席を譲るのは、「気持ちいいから」なんだそうだ。


席を譲るのは、気持ちがいいという対価を受け取るためなのか。


だとしたら、席を譲って気持ちよくないなら、席なんか譲らなくていいという理屈になる。


年寄りに席を譲るのは、人としてのマナーの問題だ。美意識の問題といってもいい。


マナーにわざわざ小理屈をつけて、気持ちいいから譲りなさいなんていうのは、大人の欺瞞以外の何ものでもない。


↑(引用ここまで)
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…『席を譲るのは、気持ちがいいという対価を受け取るためなのか』。


私も小さい頃、親や先生なんかに「友だちを大切にしなさい」「人のためになることをしなさい」なんて言われると、決まって「なんで?」と聞き返していたように思います。
それは、「なんでオマエにそんなことを言われなきゃならないんだ?」という意味で。…くそ生意気なガキですよね(笑)。


そう聞き返すときまって、大人たちは「何かがあったとき、頼りになるのは友だちなのよ」だとか「いつか自分に返ってくるから」だとか言いやがるのですが、それがいつも不満でなりませんでした。


「何かあったときに助けてもらうために、友だちをつくるのか?」
「いつか自分に返ってくるから、人のために動くのか?」
…子どもながらに、いつもそんなことばかり考えていました。
大人の「欺瞞」、「その場しのぎの”当たり障りのない”回答」に、いつも「オマエ、本当にそれ自分の頭で考えたんか?」「つまらん大人だなあ」と思っていました。


「友だちを大切にする」のは、そいつのことが好きだから。
「人のために動く」のは、周囲の人に喜んでもらいたいから。過ごしやすくいてもらいたいから。


それによって「私もうれしい」だったり、結果的に「私も過ごしやすくなる」という、「自分に返ってくる」側面もそりゃありますが、それは後から勝手にやってくるもので、はじめに「自分に返ってくる」ことありき、は順番が逆だと思うのです。
別にそんなつもりでやってねーよ、と(笑)。


また、何かにつけて「わざとじゃないから」などと言い訳をする人にも、同じような「欺瞞」を感じます。
問題なのは「他人に迷惑をかけたこと」なのであって、やられた側からすれば、そこに悪意があろうがなかろうが、どうでもいいことです。
「悪意がなければ、罪が軽くなる」「わざとじゃなければ、許される」とでも言いたいのでしょうか?
「ごめんなさい」の一言でいいじゃないですか(笑)。
少なくとも、「わざとじゃないから」という言葉からは、相手に対して心から「申し訳ないことをした」という気持ちはくみとれませんよね。


「清々しい気持ちになるから、老人に席を譲りなさい」。
「わざとじゃないから、許して」。
…どちらも、「いらない理由」をくっつけて体裁を整えようとしているように思いませんか?
そんな中途半端な態度をとるから、ガキどもにナメられるんですよ(笑)。


「つべこべ言わずに立て」。
「ごめんなさい」。
そう言い切れる人物であるかどうか、子どもや若者たちにじっと見られている。
…そんなふうに感じて日々暮らしているのは私だけでしょうか?


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