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↓『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著、幻冬舎、2015)より引用(05)
二宮金次郎は、薪を背負って歩きながら本を読んだから偉いのか。
スマホでメールしながら歩いたら怒られるっていうのに。
誰かにぶつかって危ないのは同じだと思うのだが、なぜ本を読みながら歩いていた二宮金次郎は銅像になって、スマホ片手に歩いている女子高生は目の敵にされるんだろう。
↑(引用ここまで)
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しかし本当に、『スマホ片手に歩いている女子高生は目の敵にされる』のって、なぜなんでしょうね?
私も、個人的な趣向からすれば、電車内や外を出歩くときなど、公共の場で携帯電話の画面ばかりに目を落とす姿は醜いと感じるほうなので、「私は」やりませんが、世のおっさん・おばはんたちが寄ってたかって「歩きスマホ」を目の敵にするのもどうかな、とは思います。
他人に「なんだか醜いと感じる」という個人的趣向を押しつけていい道理はないですよね。
…「危ないから」?(笑)
それこそ、二宮金次郎の例えを出すまでもなく、若者の動体視力をもってすれば、携帯電話の画面見ながら歩こうが、本を読みながら歩こうが、たいていは他人にぶつからないように歩けますって(笑)。
…だって、そんなに大事故につながるニュースにもなってないでしょう?
それよりも私が気になるのは、「危ないから」という、もっともらしい理由をつけておいて、その実は「歩きスマホはなんだか醜いと感じる」という、おっさんやおばはんの個人的趣向を押しつけようとしている「いやらしさ」のほうです。
おっさんやおばはんの美意識からすると、なんだか「歩きスマホ」は醜いと感じる。どこか「他人の目を気にしない」若者の傍若無人ぶりが見て取れてしまう。
「あなた、ちょっとは周りに気を配りながら歩きなさいよ」、と。
「音楽プレイヤー聴きながら自転車」も、「電車の中で化粧」も、根っこは同じだと思うんです。
…「なんだかイヤ」。「自分ならやらない」。それだけです。
だったら「私はその姿が醜いと思う」とだけ言えよ、と私は言いたい。
「危ないから」だの「恥ずかしいと思わないのか」だの、もっともらしい理由を後付けして論理を補強しようとするその姿、その精神性のほうが「醜い」と、私は感じます。
私も、個人的には「どいつもこいつも電車内で携帯の画面見やがって、醜いなあ」とは思います。
一方で、「暇つぶしにネットでも見ようかな」「LINEで連絡入っているかも」と、ついつい携帯電話に目を落としたくなる気持ちも、わからないではないです。
私も電車内でなにか調べ物をしようと思い立っても、「ここで自分が携帯の画面とにらめっこしてたら説得力ないよなあ」と思って、我慢してますもん(笑)。
自分の「見え」を意識して、黙って鞄から本を取り出します。
…でも、それを他人に強制していいかは、別問題。
自分の子どもなら「みっともない。やめとけ」と一蹴しておしまいですが(そもそも携帯電話なんぞ与えませんが)、「個人的にやってほしくないこと」と「社会通念上やってはいけない”ルール”」を混同しない、「誤魔化さない」大人でありたいものです。
