2017年11月5日散策/萬歳山妙義寺
益田市七尾町にある順念寺からすぐのところに、益田氏15代兼堯の銅像があったよ
どこを向いているのかな、七尾城かな
益田兼堯は「益田歴代の兵」と謳われたほど、さまざまな戦いで活躍されたんですって
石碑より
益田越中守兼堯公は益田城第十五代当主で益田氏中興の英主である
幼くして総領職と家督を継ぎ石見地方切っての豪族となる
寛正二年畠山義就と嶽山で戦い戦功により引付衆の一員となり応仁の乱では大内政弘に属して西軍に加わり大内道頓の反乱では女婿陶弘護を助けて鎮定した
また深い文化の庇護者で山口雲谷庵より雪舟を招き中世文化を開花させた
雪舟筆「益田兼堯像」や醫光寺萬福寺庭園は兼堯に対する報恩の表れである
文明十七年菩提寺である萬歳山妙義寺塔頭
大雄庵で死没
法名は大雄院殿全国瑞兼である
もぉ~~~兼堯についていっぱい調べたのに、みんな説明板に書かれてあったよ
大内氏や道頓(山口)、陶氏…なんか山口市に馴染みの名前が出てきて、ちょっと嬉しい
そういや、雪舟って益田で亡くなられているんだよね?スゴッ
兼堯さんが、へぇ😃💡⤴
銅像のすぐ横には、あれもしかしてこれが江戸時代に架けられたという、石で出来た参道橋「妙義寺太鼓橋」かな
この石橋、もとは現在の山口県萩市須佐の御影石が使われていたんだって
そういや関係ないけど、須佐ってスサノオノミコトの伝説があるんですって❗わたし、たった今気付いた∵:.(:.´艸`:.).:∵ブッ
目の前には曹洞宗萬歳山妙義寺
文永年間(1264~1275)臨済宗として創建
応永元年(1394)益田氏13代秀兼が寺領370余石を寄進し曹洞宗に改め菩提寺とする
弘治年間(1555~1558)19代藤兼が長州大寧寺14世繁興存栄和尚を歓請開山とし、末寺22ヶ寺を加え隆興させた
ってある
長州大寧寺とは、現在の山口県長門市深川湯本にある曹洞宗の寺院で、瑞雲萬歳山大寧護国禅寺
大内義隆が自害したことでも有名な大寧寺は、中国地方における曹洞宗の中心的な寺院
妙義寺と大寧寺に強い結びつきを作ることで、藤兼は妙義寺を栄えたかったのね
なんかね、本堂には平安期の十一面観音像・千体地蔵尊が安置されているんですって
へぇ
でもさ朝早いし←そればっかり
19代益田藤兼の五輪塔もあったりするみたいだけど~~~
藤兼って陶氏の死後、大内義長とともに毛利元就の標的にされちゃっているんだよね
そこで吉川元春に助命してもらい、以後毛利氏の家臣になったって聞いたわ
禅寺にはよく見られる梆があったよ
そういや、幕末になるとね、慶應2年(1866)石州戦争の時、村田蔵六(大村益次郎)率いる長州軍がここを本陣、野戦病院にしていたらしいわ
石州戦争って
あっ( ̄□ ̄;)第二次長州征伐の…長州側からいえば四境戦争の時か
お堂には長州藩士の位牌もあるそうだよ
あの四境戦争の石州口の戦いの時、浜田藩・福山藩連合の幕府軍と長州藩で、50人近い戦死者が出たんだけど、そのうちの長州藩士4人(19歳~26歳)のお墓がこの妙義寺にはあるらしく、その中のひとりに乃木三蔵さんのがあるみたいなの
日露戦争後に乃木大将も訪れているみたい
そうなのか………
今回の益田散策は、石見美術館で開催されている「石見の戦国武将」を見にわざわざ2時間以上かけて来たわけで
結局時間がなくて、この近くにある鍵曲がり広場も七尾城跡も、銅像の15代益田兼堯や19代益田藤兼のお墓にも行けなかったんだけど、乃木三蔵さんのお墓も含めて、次は絶対必ず行くぞーーーヾ(。`Д´。)ノ