峨嵋山普賢寺/山口県光市室積 | 沸点36℃

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他愛のない日常と歴史散策、主観

2020年9月22日散策/峨嵋山普賢寺


この日は何故、光市へ行ったのか思い出せないんだけど、



行ったところが御手洗湾

そこの波止場はお寺の参道に繋がっていて、常夜灯がありました



臨済宗峨嵋山普賢寺
漁民や航海者の信仰が篤く、かつては船での参拝が多くみられたそうです

寛政10年(1798)建立の立派な山門がありました


そこには3m余りの雄大な木彫の仁王像がありました
大き過ぎてカメラに収まらない(汗)
楼上には国宝級の十六羅漢像が安置されているそうです


境内には平康頼と性空上人の石碑が五基並んでいました

説明文によると、ここ普賢寺は播磨国の書写山円教寺の性空上人が開基とされているのね
もとは室積湾を見下ろす山中にあったらしいけど、室町時代後期に現在地に移されて天台宗から臨済宗にかわったそうです
江戸時代には毛利家の祈願所として寺領9石5斗、俸禄米5石を支給され、藩直営の普請寺として格式高いお寺だったそうで、萩藩主毛利吉就が性空上人の事績を偲んで墓石と石碑を建立したとのこと

それから、平康頼の碑と歌碑がありました
平半官康頼於此地 出家法名性照
終にかく 背きはてけむ世の中を とく捨ざりしことぞかなしき

治承元年(1177)京都鹿ヶ谷の平家討伐の陰謀は多田行綱の密告によって発覚、関係者は次々に捕らえられた事件があったよね
この陰謀に加わった平康頼は、俊寛と藤原成経とともに鬼界ヶ島へ配流となったんだけど、瀬戸内の船で下る途中、しけにあって周防(山口県東部)の室積の浦に泊まり、康頼は近くの小寺で住職の活堂和尚によって仏道に入ったんだそうです
その時に残された一首でした

因みに、昔、その寺は「入道寺」とか「性照庵」と呼ばれていたそうですが、江戸時代に海音山潮松庵と改められ、その後は明治の廃仏毀釈によって普賢寺に合併されて廃寺になってしまったそうです


本堂前には立派な石橋が架かってました
寛政元年に徳山の石工浜田屋平左衛門が建造したもの


平安時代中期 寛弘3年(1006)創建
本尊普賢菩薩が安置されていて、性空が室積の海から引き揚げたという伝承があるそうです
普賢菩薩は延命の仏、海の守護仏だそうで、50年に一度御開帳されるとのこと
前回が平成12年…長生きすれば次は見れるかな(笑)


寛政年間建立と云われている経蔵、転法輪
廻転式の構造で一切経5040余巻が収められていたそうです


他にも、宝暦年間(1751~1764)に安置された子安観音菩薩や、性空上人像、薬師如来像が安置されている開山堂、文殊菩薩堂など見所が沢山ありました

性空上人の命日に因んで毎年5月14日~15日の二日間は普賢まつりが開催されるらしいです

それから、この普賢寺は慶応元年(1865)2月から3月にかけて南奇兵隊の本陣が置かれた場所でもあって、当時約400名の隊士が集結されたそうですよ

南奇兵隊は、四境戦争や戊辰戦争を戦った「第二奇兵隊」の前身ですね


お堀には亀がいっぱい


松岡洋右の碑もありました
そういや松岡さんはここ出身でしたっけ

松岡さんって、満州事変後、日本は国際連盟から脱退(せざるを得なかったのかな?)、日独伊三国同盟を結び、戦争へと導いた軍国主義の人というのが一般的なイメージだと思うんですが、A級戦犯だし東條英機と同様に結構、最悪な印象しか無いんだけれど、

でも最近は再考されてきているのかな


本堂の南側に庭園があるので行ってみました

赤門がありました~毛利家重臣用の門らしいです


一般人なので(笑)こちらからお邪魔します


こちらのお庭は、室町時代後期に作庭されているものらしいです
峨嵋山を背景に前面を池に見立てて、東南部に枯滝…と言われても、私には枯山水庭園の良さがイマイチよくわかりません(汗)
山口市内にある常栄寺の庭園は何度も何度も足を運びますが、雪舟の庭を何回見ても私にはよくわかりません(苦笑)

こちらの庭園、資料はありませんが雪舟が築いたという伝承があるそうです


何気に立ち寄ったお寺が歴史深くて、見学出来て楽しかったです


いたるところに猫ちゃん達の姿があり、癒されました~~~



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