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ユヴァル・ノア・ハラリは
イスラエルのマクロ歴史学者であり、
世界中で1200万部を超える
ベストセラーとなった書籍
「サピエンス全史」 の著者です。
その本の中の 仏教についての説明が
とても分かりやすく
よくまとまっていると思ったので、
私のコメントを加えつつ 紹介します。
なお 私のコメントを理解するために、
について説明した
別のブログ記事を参照して下さい。
タップすると、
そのブログの記事を読むことができます。
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仏教の中心的存在は
ゴータマ・シッダールダという人間だ。
ゴータマは、紀元前500年ごろの
ヒマラヤの小王国の王子だった。
この王子は、
自分の周りの至る所で見られる苦しみに、
深く心を悩ませた。
【他者の苦しみを見ることで 自分が苦しんだ】
老若男女が みな、
戦争や飢饉のような災難ばかりではなく、
不安や落胆・欲求不満といった、 すべて
人間の 一生とは切り離せなさそうなもの
にも苦しんでいた。
人々は 富や権力を追い求め、
知識や財産を獲得し、
息子や娘をもうけ、家や御殿を建てる。
それなのに
何を成し遂げ(doing)ようと、
けっして満足しない。
【doingでは、 心の平穏:beingは得られない】
貧しい暮らしを送る者は 富を夢見る。
巨万の富を持っている者は
その倍を欲しがる。
倍が手に入れば 十倍を欲しがる。
【まだまだ もっともっと と追いかけ続ける】
金持ちで高名な人でさえ、
満足していることは珍しい。
彼らも たえず不安や心配につきまとわれ、
挙句の果てに
病気や老齢・死【老病死】によって
それに 終止符を打つ。
人が蓄え、積み上げたものは すべて、
【死によって 結果的には】
煙のように消えてなくなる。
【死によって 「すべて」がなくなるのだから】
人生は意味のない 愚かで激しい生存競争だ。
どうすれば、 そこから 抜け出せるのか?
【どうすれば、 そこに意味を見出せるのか?
人間にとって「意味を見出す」 ことが、
「納得し、満足できる」 ことにつながる。
つまり、 人間が満足するためには
人生の意味が必要なのである。
ブッダは やがて その認識に到達した上で
さらに、 人間には
なぜ 意味が必要なのかについて追求した。
そして、
「結果」 的に なくなるので意味がないなら、
なくなってしまう 「結果」 ではなく
絶えず変化し続ける 「過程」 に意味があり、
その意味によって 満足できるのではないか
と思いついた】
ゴータマは 29歳のとき、
家族も財産も後に残して
夜中に王宮を抜け出した。
住む場所もない放浪者として
インド北部を歩き回り、
苦しみから逃れる【心の平穏】方法を探した。
修行所を いくつも訪ね
聖者の教えを乞うたものの、
完全には 解脱【心の平穏】できなかった。
つねに 何かしら
不満が残る【足るを知らない】のだった。
だが 彼は絶望しなかった。
完全な解脱の方法を見つけるまで、
【心の自由は 知足によって得られる】
苦しみについて
「自分の心を使って 調べつくす」
ことを決心した。
人間の 苦悩の本質や 原因・救済【四聖諦】
について、 6年にわたって瞑想しつつ考察した。
【教えを乞うのでなく、 (教えはヒントに過ぎない)
自分自身で探し 見つけだそうとした】
そして ついに、
苦しみは 不運や 社会的不正義・神の気まぐれ
【のような 自分の外側のもの】
によって生じるのではない ことを悟った。
苦しみは【自分の内側の】心の振る舞い方
【五蘊のシステム】から生じるのだった。
【五蘊のシステムは 本来、 生き延びるための、
すなわち 死を否定するためのシステムであるが、
「すべての生きものは かならず死ぬ」 という
リアルな現実(自然の摂理)から
逃れることはできない。
したがって 自然の摂理を無視して
五蘊のシステムに拘こだわり続ける限り、
苦しみ(苦悩)から 逃れることはできない】
心は たとえ何を経験しようとも、
渇愛【五蘊の 「行」 】をもって それに応じ、
渇愛【行:サンカーラ】は つねに不満を伴う
【足るを知らない】 というのが
ゴータマの悟りだった。
【サンカーラには 渇愛と取の二種類があり、
このハラリの文章は 多くの人々の誤解と
同様に 「取」 のことを無視している。
渇愛が 肉体レベルの欲求であるのに対し、
取は 精神レベルの欲求である】
心は
不快なもの【五蘊の 受の 「苦」 】を経験すると、
その不快なものを取り除く【否定する】
ことを渇愛【行】する。
快いもの【五蘊の 受の 「楽」 】を経験すると、
その快さが 持続し、
強まることを渇愛【行】する。
【 「受」 の 「楽または苦」 に対して、
人の行は それを 追求または否定しようとする。
追求 または 否定しようとする
欲望・欲求・願望・想いなどの
切ない気持ちが 「行:渇愛や取」 である。
「行ぎょう」 のことを 「サンカーラ」 ともいう。
行という欲求に、 ストッパーはついてない】
したがって、
心は いつも 満足することを知らず
【足るを知らず】 落ち着かない。
【人は かならず死ぬのだから、 永遠に
「生き延び続ける」 ことは不可能であり、
それ故に 「五蘊という自我システム」 には、
元々 「これでいい」 という
ストッパーが装備されていないので、
死を超える 「生きる意味」を 獲得することで、
初めて 「これでいい」と 満足できるようになる。
すなわち、「生きる意味」 によって やっと、
死を乗り越え 満足することが 可能になる。
宗教や哲学は この意味を求める手段である】
痛みのような 不快なもの
【五蘊の受の 「苦」 】を 経験したときには、
これが 非常に明白になる。
痛みが続いているかぎり 私たちは不満で、
何としても その痛みをなくそうとする。
【痛みは「苦」であり、
それを「受け入れる」ことができず、
「なくそう」 とすることが「行」である。
「なくそう」として なくなればいいが、
なくならないときに
(どうすること:doing もできないときに)
受け入れられなければ、
「苦」が「苦悩」に変わり、苦しむ】
だが、快いもの【これは 受の 「楽」 】を
経験したときにさえ、
私たちは けっして満足しない。
その快さが 消えはしないかと 恐れたり
【転換苦を恐れる】
あるいは 快さが 増すことを 望んだりする。
【恐れたり 望んだりするのが 「行」 で、
「行」 は 永遠の生を望む限り 足るを知らず、
「意味」 によって 死を超えることで 足るを知る】
人々は 愛する人を見つけることについて
何年も夢見るが、
見つけたときに 満足することは稀だ。
相手が 離れていきはしないか
不安になる人もいれば、
たいしたことのない相手で
よしとしてしまったと感じ、
もっと良い人を見つけられたのではないか
と悔やむ人もいる。
不安を感じながら悔やんでもいる人さえいる。
【不安や 悔やむことは 「行」 に付随する感情。
人は、「本当に愛する」 ということが
どんなことなのかを知らない。
愛することは 絶えず変化する過程であり、
そして その変化を超えて愛し続ける意志と
愛し続ける過程が、「本当の愛」 である】
偉大な神々は 雨を降らせてくれるし
社会的機関は
正義や医療を提供してくれるし、
幸運な偶然で 大金持ちになる人もいるが、
そのどれにも、
私たちの五蘊という基本的な精神パターンを
変えることはできない。
【自分の外側を どう変えようとも、
(人類の生存戦略として鍛え上げられた)
内側の 五蘊のシステムは変わらない】
そのため、
どれほど偉い王であっても 不安を抱え
たえず 悲しみや苦悩から逃げ回り、
より大きな喜びを
永遠に追い求めて 生きる定めにある。
【 「行」 に駆り立てられて 生きている】
ゴータマは この五蘊のシステムによる悪循環
から脱する方法があることを発見した。
心が何か快いもの【楽】 あるいは
不快なもの【苦】を経験したときに、
【 「心の座」 という視点からながめることで】
物事を ただあるがままに理解すれば、
【現実を 現実として ただ 受け入れられば】
もはや 苦しみ【苦悩】はなくなる。
人は 悲しみを経験しても、
悲しみ【=苦 を受け入れて】
が去ることを 渇愛【行】しなければ、
悲しさは 感じ続けるものの、
それによって 苦しむこと【苦悩】はない。
【 「受」 の 「楽や苦」 を追求したり、
否定しようとしたりしなければ、
つまり 悲しみという 「苦」 を ムリに
否定しよう(なくそう)としなければ、
その結果としての 「苦悩」 は 発生しない。
「受に対して 行を発動させなければ」
苦しむことはない。
そして 悲しさも また無常であり、
いつか かならず 消えてなくなるものだ】
実は、悲しさの中には豊かさもありうる。
【悲しみを経験することによって、
より深く喜ぶことができるようになる。
そして たんに
「苦」 を 「苦悩」 に 変えない だけでなく、
「苦」 に対して意識的・主体的に取り組み
これを克服することができれば、
「苦」 を 大きな喜びや 価値に変えられる
こともある】
喜びを経験しても、
その喜び【受の楽】が 長続きして
強まることを 渇愛【行】しなければ、
心の平穏を失うことなく喜びを感じ続ける。
【その喜びも また 無常であり、いつか
消え去ってしまうことを知っていれば、
また 新たな喜びを手にすることができる】
だが、心に渇愛することなく
物事を あるがままに受け容れる
【行を機能させないため】には
どうしたらいいのか?
どうすれば 悲しみを悲しみとして、
喜びを喜びとして、 痛みを痛みとして
受け容れられるのか?
ゴータマは、渇愛することなく
現実をあるがままに受け容れられるように
心を鍛錬する、一連の瞑想術を開発した。
この修行で 心を鍛え、
「私は 何を経験していたいか?」
という欲求 ではなく
「私は 今何を経験しているか?」:過程 に
もっぱら注意を向けさせる。
【「〜したい:行」 から 「〜である:感覚」 に
注意を向けさせる。
「欲する思考」 から 「いまここ」 の 「感覚」 に、
非リアルから リアルへ 意識をシフトする】
このような心の状態を達成するのは
難しいが、不可能ではない。
【瞑想の技術(マインドフルネス)が
「行の無効化」に寄与する】
ゴータマは この瞑想術の基礎を、
人々が 実際の【暮らしの】経験に集中
【定:サマーデイ:三昧ざんまい】し、
渇愛【行】や空想【想 :思考】に陥るのを
避けやすくなるように意図された
一揃いの倫理的規則
【五戒を始めとする戒律】に置いた。
彼は 弟子たちに、
殺生や邪淫・窃盗を避ける【五戒】
ように教えた。
そうした行為は 必ず
(権力や 官能的快楽や 富への)
渇愛の火を掻き立てるからだ。
渇愛の火を 完全に消してしまえば、
それに代わって
完全な満足と 平穏の状態が訪れる。
それが、 「涅槃」 として知られるものだ。
【 「戒」 とは、涅槃に至る
三学(戒→定→慧)という修行の段階の
最初のステップである。それは
「渇愛の火のもとの制御」 であると同時に、
「社会(集団)生活をするための規範」
でもある。
次の 「定」 が、
マインドフルネスに相当する。
そして「涅槃」を見いだす智慧が、
最後に置かれた「慧」 である。
五蘊のシステムの主語である
エゴを見極めれば:捕まえれば、
五蘊エゴでない 「わたし」 すなわち
二重になった心の 内側の より深い方にある
「心の座:涅槃」 を見つけることができる】
涅槃の境地に達した
【 「心の座である本当の自分」 を見つけた】
人々は、
【 「エゴ」 から解放された結果として】
あらゆる苦しみからすっかり解放される。
彼らは 空想や迷いとは無縁で、
この上ない明瞭さをもって
【ビビッドに】現実を経験する。
依然として
不快さや 痛み【苦】を経験することは
ほぼ確実だが、
そうした経験のせいで
苦悩に陥ることはない。
【渇愛する主体は エゴ(識)であり、
エゴが足るを知らないものであったので】
渇愛しない人は、苦しみようがないのだ。
【不快さや痛みという「苦」はあっても、
それを 否定しようとしないので、
「苦」 が 「苦悩」 に変換されない】
仏教の伝承によると、
ゴータマ自身は 涅槃の境地に達し、
苦しみから 完全に解放されたという。
その後 仏陀ブッダ」 と呼ばれるようになった。
ブッダとは、 「悟りを開いた人」 を意味する。
ブッダは
誰もが苦しみから解放されるように、
自分の発見【苦悩についての 四聖諦】を
他の人々に説くのに 残りの人生を捧げた。
【諦とは 真理のことで、
四聖諦とは 苦悩についての聖なる真理を
四つに分けて説明したものであり、
四聖諦ししょうたいは、
仏教の教えの 全体の エッセンスである】
彼は 自分の教えを
たった一つの法則に要約した。
『苦しみは 渇愛【と取からなる行】から
生まれるので、
苦しみから完全に解放される唯一の道は
渇愛から 完全に解放されることであり、
渇愛【と取】から 解放される唯一の道は、
【戒と 定(マインドフルネス)によって】
心を鍛えて
【リアルな現実を 非リアルな虚構(思い込み)
に変換して それに向かうのではなく】
現実を あるがままに経験する
【現実を 現実として受け入れる】
ことである』
というのがその法則だ。
【四聖諦を一言でいうと このようになる】
「ダルマ」として知られるこの法則を、
仏教徒は『普遍的な 自然の法則』と
見なしている。
『苦しみは 渇愛タンハーから生じる』
【 「苦悩」 は 「欲望:行:サンカーラ」 から生じる。
ただし、
苦悩は苦と違い 欲望は欲と違うものであり、
「苦」 が 「欲」 から生じるわけではない*
* 参考ブログ記事:苦と苦悩は違う】
というこの法則は、
【実は 渇愛だけでなく 「取」 からも生じる】
現代物理学の『E=mc2』のように、
常にどこでも正しい。
仏教徒とは この法則を信じ、それを
自らの全活動の支えとしている人々だ。
仏教の第一原理【四聖諦の 冒頭の 「苦」 】は、
「苦しみ【苦悩】は【わたしの心の 二重に
なった内側の より浅いところに】存在する。
それから どう逃れるか?」 だ。
【逃れるためには、二重になった内側の
より深いところを探さなくてはならないが、
その前提である 自分の苦しみに
気づいていない人もいる】
【 「苦」 も存在するが、それからは
無理に逃れようとしてはならない】
仏教は、 経済的繁栄や政治的権力のような
【幸せになるための】 途中の地点ではなく、
【内側の浅いところにある
渇愛の充足である 途中の地点ではなく】
苦しみからの完全な解放【解脱】という
「究極の目的地」 を目指すように人々を促した。
【 「途中の地点」 は、 「自分の外側」 のこと。
「最終目的地」 は、 「自分の内側」 の
さらに「その内側」 のこと。
本来は、最低限の衣食住の充足が
エゴの最終地点だったのに、
本当の幸せ:座 にとっては 必要条件
としての 「中間地点」 に過ぎない
外側にある 経済的繁栄や政治的権力が、
五蘊のシステム:エゴ にとって
「最終地点:究極の目的地」 として輝いている。
しかし その最終地点に至っても、
人(エゴ)は 満足し安らぐことができない】
[後編に続く]
(初稿:2022年3月19日)