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三学 (戒 → 定 → 慧)
「戒かい」
「戒」とは 戒律のことで、
サンガの構成員である 修行中の僧侶が
守らなくてはならないルール(心得)
のことである。
では これを
僧侶でない一般の人に当てはめると、
どういうことになるだろう?
まったく同様に 単純に考えるなら、
その人の属する集団の
法律などの「決まり」 を守るということだろう。
でも、社会の中で 人々が
争いなく上手く付きあっていくための
「他者のことも適切に考慮しながら生活していく」
ためのルールというふうに、
もっと 広く捉える方がいいだろう。
これは、
社会生活を営むことが必須となった
人類が生きていく上での
最低限の心得といえる。
これが、
必要なものとしての自我の役割である。
【 「戒」 とは、
特定の社会で 「善/悪」 と見なされることを
理解し 内面化して 心の要素として
自分の中に 取り込むことである】
つまり「戒」とは、
この世(此岸・色の世界)で生きるための 前提となる
「適切な自我」 を育てるためのものである。
【 「自我」 は、
社会の善/悪の判断の基準を内面化し、
「善」 を追求し 「悪」 を否定する】
われわれは、まず
自我を確立した上でなければ
社会で生きていけない。
したがって「戒」を守ることは、
生きるための「必要条件」である。
(サンガの構成員であるための必要条件であるのと同じように)
だが
この最低限の心得を過剰に追求してしまうと
それは 自我の 「承認欲求」 に変化してしまう。
【社会から承認されることは 必要条件だが、
「承認欲求」 とは、 過剰な 「善」 の追求欲求】
本来 自我も 社会で生きるための
ツール(機能)に過ぎないのに、
これを過剰に肥大させ、他者の期待を満たそうとする
承認欲求に囚われてしまうと、
「苦悩」が発生することになる。
【いったん 「善」 と見なしたことから
自由になれない】
瞑想(マインドフルネス)は、
この苦悩を解消するためのテクニックであり、
「戒」」 に続く 「定」 とは この瞑想のことである。
しかし その前に
この瞑想修行の「前提」として、
「社会生活をするために自我の確立が必要」
なことを 銘記しておかなくてはならない。
しかし 大前提であるのに、
瞑想修行や仏教の勉強の場において、
このことを指摘して 確認したり
強調したりすることは ほとんど見られない。
この重要なポイントを確認しないことが、
瞑想の実践や仏教理解を歪めている。
多くの修行の場において、
戒の説明が明らかに不適切であるために、
「真面目な修行者」 を惑わせていると思う。
この大前提をけっして忘れてはいけない。
「定じょう」
この 過剰な自我の苦悩から逃れるための
新たな 戒より高次の心得が 「定:マインドフルネス」
である。
「定」は サマーディのことであり、
「集中力」と理解されることが多いが、
それよりも
「受容力」と考える方が適切であろう。
「受容」とは
「否定せず」 に 「認める」 こと である。
【 「悪」 を 否定せずに 受け入れること】
また、
「定」 という一文字の言葉を使っているが、
これは
「正定」 だけを表すのでなく
「正念」 もふくむ言葉(正念正定)であり、
さらには
正念正定をふくむ「八正道」すべて を
代表する言葉でもあろう。
したがって 戒・定・慧の「定」とは、
たんに「集中」のことではなく、
「八正道」のことだと 理解すべきだ。
「八正道」とは、
(善/悪二元論を超えて)ありのままの世界を
「受け入れて」生きる道(生き方)であり、
「善」 を手放し、 「悪」 を受け入れる 生き方
である。
【そのためには、善/悪とは 「虚構」 である
ことに 「納得」 できなければならない】
すると「戒・定・慧」とは、
まず 適切な自我を確立した上で、
さらに八正道(マインドフルネス)の修行をすれば
智慧を得ることができる、 という意味になる。
つまり「定」 とは、
過剰な自我の 「過剰さ」 を削ぎ落とすため
のものである。
したがって まだ 自我が確立されていない
「未熟な自我」 にとっては、
「戒」 によって 自我を確立することが
先決であり、
いきなり「定」 を試みても、
得るところは少ないだろう。
【 「過剰さ」 は
「善/悪などの価値を判断する思考」 によって
もたらされる】
また、 忙し過ぎて疲れ果てていたなら
「定」 というトレーニングを行うことは
無理だろう。
「定」 のトレーニングのためには、
時間的に余裕があることも前提条件である。
そして
「定」 のもとで すべての 「考え方:思考」
を疑い、自ら 検証してみることでしか
智慧を手に入れることはできない。
宗派も 教義も 経典も 師も 友も
すべて 参考意見であり、
最終的には
自らの 心の奥底の座の声だけが頼りだ。
【自灯明】
あと一つ。
よくある勘違いは、今までと同じように
自分の付加価値を高めるために 「瞑想」 という
新たな技術を身につけようとすること。
たしかに 瞑想によって 「集中力」 をつけて
世俗世界を有利に生きていくことは 可能だが、
この 「定」 の目的は それと全く真逆であり、
「身につける」 ことでなく、今まで
「身につけた」 ものを 削ぎ落とすことである。
これらの前提条件を踏まえ、
心してトレーニングに向かうべきであろう。
「慧え」
智慧というのは
小さな真理の気づきの積み重ねであり、
「気づき(マインドフルネス)」 というのは、
自分の 体の姿勢や動き(色)に
気づくことであり
→ 自分の 快/不快(感受)に
気づくことであり
→ 自分自身の 心の状態(想や行)に
気づくことであり
→ 最終的には「識は空である」 という
【四念処:
身随観 → 受随観 → 心随観 → 法随観】
心の要素と心の座という
(心の)座 = 涅槃に 気づくことであり、
最終的な智慧は
「自分とは何ものなのか」
それは「空くうの世界・彼岸」を
理解することであり、
「空の理解」は
「すべてありのままで OK」
「今のままの自分で 大丈夫」
という 究極の安心感(愛の感覚)
を呼び起こす。
それが「般若という智慧」である。
「愛の感覚」 を阻はばんでいたものは
「思考」 であった。
「定」 によって
「思考の虚構性」 を見抜くことで
「愛」 が復活する。
この 「愛」 を復活させるものが
「般若の智慧」 なのだ。
【思考から逃れ、、
それを相対化するものが「智慧」 である】
「愛」 とは 「善」 の追求はほどほどにして、
(批判することをやめ)
ムリにではなく「悪」 を受け入れることである。
【 「悪」 とは、ダメなとこ・嫌なとこ・・】
[追記]
2018年12月13日の 阿部敏郎さんのブログで、
こんなことが書かれていた。
「依存から自立へ。 自立から相互依存へ。
これが大雑把に見た 成長の三段階です」
「依存 → 自立 → 相互依存」って、
「 戒 → 定 → 慧 」
と同んなじことだと思った。
つまり
依存→[戒]→自立→[定]
→相互依存→[慧]
という順番で、一つの流れの形になる。
戒によって 依存を脱して自立し、
定によって
相互依存の在り方を見いだし、
最終的な智慧を得ることができる。
自立とは
適切な自我を確立することであり、
阿部さんのいう「相互依存」とは
ティクナットハンのいう 「interbeing」
と同じで、
その中に 正しく自分を位置づけることが
「智慧」であろう。
【経済学の 「生産関係」 という言葉も同じ】
「縁起」とは、
意図する としないとに関わらず
「他者に貢献」 することで成り立っていて、
意図する他者貢献とは 「愛」 のことである。
【この「自然な気持ち」による「他者貢献」と
「承認欲求」による「他者貢献」は 違うもの】
そして「縁起」とは
「無我」の 別の表現でもあって、
『すべては 「関係性」 によって成立していて
変わらずに 固定して 独立した主体など、
この世に存在しない』
ことを言い表している。
(最終改訂:2022年4月26日)