カムキエン師の
「知らない を 知る に変える」
こんなふうに修行をすれば、
誰もだましたり だまされたりはないよ!
。。。。。。。。。。。。。。
いま こんなふうに、
動きを通して気づきを高めていくとね、
悪しきことから離れていくことができますよ。
そして良きことを もうね、 なしているんです。
そして 心も純粋になっている。
なぜなら今、
この時に気づいているでしょう?
手をこうしてね、あげたこの時。
そこに、
戒(戒律)・定(集中)・慧(智慧)は
すべて もうあるわけです。
三学(戒・定・慧のこと)がね、
ここに もうあるんです。
悪しき言葉を 語ることもなく、
悪しき思考に くっつくこともなく、
今 気づきがある。
自分自身を感じることに、
続けて 心を向けていくことです。
すると サマーティ(定)が生じます。
【 「サマーティ」 とは、「受け入れる」 こと。
出来事や状況に対して、
それを無理に否定したり追求することなく、
受け入れる(ただ感じて観ている という
意識で心を向ける)ことが できるようになる】
はまりこんだ時には、
それに気づいて 知識とすることができます。
【受け入れられずに 否定したり追求している
(はまり込んでいた)ことに気づけば、
気づいた時点で あぁ そうだったのかと、
それを 教訓(智慧)とすることができる】
知るということに変化させられるわけですよ。
【 「知らないを 知るに」
「はまり込みを 気づきに」 変えることで、
「学ぶ」 ことができる】
修行【学び】とすることができるわけです。
ですから、 智慧となっていける。
【気づき→ 学び→ 智慧】
もう一緒、 一緒に来るんですよ。
【気づきと 学びと 智慧が】
まとまって 一緒に生じるわけです。
【気づきを智慧に変えるものは 学び。
瞑想の修行だけでなく 学びも必要】
【動きに注意を向ける「いまここ」への
正しい気づき:正念正定であれば、 自ずと
あぁ そういうことかという 智慧が生じる】
もし 善きことが生じたら もう それも一緒。
不善が 生じても、 それも一緒。
善にも 不善にも、気づいていくこと。
【快に対しても 不快に対しても、
同じように気づきの意識を向ける。
いつも、向ける】
無駄なことは 何もありません。
これが ブッダが教えられたことですよ。
騙されるんじゃないか、
と 怖がる必要はありません。
あの人に 騙されるんじゃないか、
この人に 騙されるんじゃないか。
誰も 誰かを騙したり、
騙されたりはできないんですよ。
こんなふうに修行をしている【自灯明】
とね。
先生も 弟子を騙すことはできないし、
弟子も 先生を騙すことはできない。
できないですよ。
なぜならね、 自分でやってみる【自灯明】
ものだから。
自分でやって、 自分で見えてくる【自灯明】
ものです。
だから もう それは一緒なの。
誰と どんな人と共にいても そう。
何百人、何万人いようと、 そう、
同じですよ。
今ここで、
自分自身で試す【自灯明】ことができる。
今ここで、
自分で確かめる【自灯明】ことができる
んですから。
。。。。。。。。。。
浦崎感想
いやあ、今日も
カムキエン師の優しくて力強い語り口が
聞こえてきそうなメッセージでした。
瞑想実践は、 まさに 実践【の学び】が伴うもの。
「信じなさい」というアプローチではなく、
「やってみてください」というスタンス。
やってみれば、自分でわかってくる。
なので
「この教えを信じれば救われますよ」 という、
思考を生じさせて信じるフェーズとは
ちょっと違います。
信じるモード(他者を信じて 依存するモード)
で瞑想を始めると、
手動瞑想や歩行瞑想をやる時でも、
「これやったら、何が起きるかな?」とか
「本当かな?」と、
結果を期待しちゃうモードになっちゃうなと、
私は感じています。
【一方 やってみるモードというのは、
他者に依存することなく、
自分自身を信じるモード。
自灯明とは、自分自身を信じるモードのこと】
気づきというのは、
結果ではなくて 原因づくり。
よき原因を淡々と作っていく
心の作業なのですね。
【 「原因」 とは、
「智慧を生じるもと」 という意味。
よき原因を作っていけば 智慧が生じる。
智慧が生じてナンボ、みたいな感じ。
智慧が生じなければ 意味がない。
ここが、
たんにパフォーマンスを高める 「瞑想」 と、
「気づきの瞑想」 の もっとも大きな違い。
小さな気づきを たくさん積み重ねて、
最終的に 大きな(究極の)智慧を得る】
それを やっていることで、
あー! これかー! など、
納得する瞬間【智慧が生じるとき】も
来るかもしれません。
ですから、
自分で 自分に生じることを確認していく
【自灯明】ので、
今日のカムキエン師がおっしゃるように、
他から騙しようがない。
「信じなさい」で 信じていると、
思い通りにならなかったら 騙された
となりますが、
「確かめてごらん」 というメッセージなので、
実践によって自分で確かめるという その点が、
修行として 非常に大切なのだ と思います。
今日一日もまた、
一瞬一瞬の「気づいてみよう」という
原因づくりに
お互い 励んでまいりましょうね。
(最終改訂:2022年4月26日)