珍説・「豐葦(タカツキノアシ)原の瑞穂の国」 

珍説・「豐葦(タカツキノアシ)原の瑞穂の国」 

古事記に載る「豊葦原瑞穂之国」の解釈に付いて、第三の解釈があってもいいのではないかと思い、イネ科ヨシ属の(セイタカヨシ)の登場を願い、此処に珍説を披露するものです。

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 (五)「豐」と「豊」との違いに付いて  


同じ(ホウ)の字でも、「豐」の略字の「豊」になりますと、前項で触れた高杯(タカツキ)の意味付けが消え、(ゆたか)(さかん)(おおきい)の方へと意味合いが移りますので、その辺の間違い易さには要注意です。


では、(セイタカヨシ)の五つの名前の紹介を含め、前置きはこれで終わり、いよいよ本題に入ります。


 (六)太安麻呂(おおのやすまろ)と『古事記』 


ご存知のように太安麻呂とは、和銅4年(711)9月に元明天皇の詔に従って、『古事記』の編纂に着手、稗田阿礼(ひえだのあれ)が語る物語と、下付された史料等を精査・筆録して『古事記』を完成。


翌年の和銅5年1月にそれを朝廷へ献上した人物です。


そして問題は、『古事記』の執務中に起きた安麻呂の心の中に生じた或る迷いでした。


それは・・・国名の「瑞穂国」及び「千秋長五百秋之瑞穂国」を書くそれぞれの段になった時、今まで知られていたこの儘の文章では、今一つ迫力が足らないのではないかと、思った事です。


そこで、安麻呂は静かに瞑想し。


さらに、静かに瞑想した後・・・


数日前に、山野を散策していた時に見た「豐葦原(タカツキノアシハラ)」の風景を思い出し、


稲穂が垂れる程に実った瑞穂の国の風景に対し、


その前文に、今閃いた・・・


葉が上に伸びた葦(アシ)の風景「豐葦原(タカツキノアシハラ)」を配する事で、自身が抱いた不安は治まり、此処に、調和のとれた美しい国名が誕生致しました。


そして、それは丁度、約100年の出来事・・・


聖徳太子が隋の陽帝に送ったとされる国書に載る、『日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなしや・・・』の彼の有名な文章にも比する表現ともなっていたのです。


さて、改めてその国名を記せば、


『豐葦原(タカツキノアシハラノ)瑞穂国(ミズホノクニ)』


であり、又、


『豐葦原(タカツキノアシハラノ)千秋長五百秋之瑞穂国(チアキノナガイホノミズホノクニ)』


であり、これが真実なのです。


 (七)然し・・・ 


安麻呂の真意は、今日まで推察された事は無く。


年月は流れ、そして、再び流れ・・・


風土記・祝詞等の写本、或いは記述の折々に、肝心要の「豐(タカツキ)(ホウ)」の文字が、何故か、略字の「豊(ユタカ)(トヨ)」として捉えられ、更に、長い歴史の中で(トヨ)と読み進まれ、今日では、


「豊葦原(トヨアシハラ)」となっております。


それで、『豊葦原千秋長五百秋之瑞穂国』の現在の解釈は、


(イ)(葦が生い茂って、千年も万年も穀物が豊に実る国の意)日本国の美称。

   {『国語大辞典』編集尚学図書 小学館発行(1992)より}


(ロ)【豐(トヨ)は、国へ係れる祝辞(ほぎこと)なり、葦に係れるに非ず、】

    {『本居宣長全集(古事記)』本居清造 吉川弘文館発行(1938)より}


と、なっておりますが・・・


前々項(四)「豐葦(タカツキノアシ)」の中で述べた、背の高い葦(アシ)を高杯(タカツキ)に見立て、更に、高杯(タカツキ)の意味を持つ「豐(ホウ)」の字をそれに充てたとする。


余り飛躍をしていない、このレポートのその所見を是として頂けるならば、


(ハ)の解釈として、この珍説・『豐葦(タカツキノアシ)原の瑞穂の国』が、候補に挙がっても良いものと思いますが、如何なものでしょうか。


追記 


若し、近い将来、古墳等の発掘調査の折に和歌を綴った木簡が出現し、其処に万葉仮名で「太加川機乃」(たかつきの)と読める五文字が有った時・・・


それは、青丹よし(あをのよし)が奈良を指し、八雲立つ(やぐもたつ)が出雲を指す枕詞と同じで、『葦原の瑞穂の国』を指す枕詞となります。 念の為。 


                               (終わり)



                                     





 




 (三)『高師小僧(たかしこぞう)』 


次に話題を変えて、『高師小僧』と云う、一風変わった名前の鉄鉱石の話に移ります。


『高師小僧』とは、長い年月を経て地下水の中に溶けていた鉄分が、地中の植物の根の周りに水酸化鉄として管状に沈殿して出来た、褐鉄鉱の一種です。


形状は管、小枝の形と様々あり、直径2~5cm、長さ1~10cmが普通ですが、大きな物では直径が30cm以上の物もあるようです。


小僧とは、幼児や小動物に似た愛嬌のある形から来ているそうです。又、鉄分が多く、粘土質な土壌であれば、日本各地で見る事が出来るようです。


中でも、渥美半島の根元に位置する豊橋市の「高師ヶ原」では豊富に産出されたので、その地名を取って『高師小僧』と命名されたようです。


北海道の名寄の『高師小僧』は1939年に、滋賀県別所の『高師小僧』は1944年に、それぞれ国の天然記念物に指定されていますが、名前を貸した「高師ヶ原」の『高師小僧』は、それより遅れて1957年に愛知県の天然記念物に指定されました。


国と県とでは格差があると思いますが、世の中、兎角そんなものでしょう。


さて、この項の本題はこれからです。先ず、「高師」と云う地名から考えました。


「高師」「高師」・・・

「たかし」「たかし」・・・

「タカシ」「タカシ」・・・ 


しかし、幾ら繰り返しても何の変哲も無い言葉で、何の答えも、何のヒントも浮かんで来ません。


ですが、方法はあります。発想の転換が必要なのです。


(仮説) 遠い昔の「卑弥呼」の時代、この地域一帯に住んでいた人達は、川辺に群生していた、特に背の高い「葦(アシ)」を見て、「背の高い葦」即ち、「高葦(タカアシ)と名付け、この辺りを「高葦ヶ原(タカアシガハラ)」と呼んでいた。


そして、200年~300年もの長い年月が流れて行く内に、その名前「高葦(タカアシ)」の語尾に変化が生じて、母音の(ア)の発音が省略され、(タカシ)と詰って発音するようになっていた。


そして、丁度その頃・・・


朝鮮半島から文字が伝来し、多くの文字の中から(タカシ)に相応しい文字として「高師」が与えられ、それ以降、「高師」と「高師ヶ原」と云う地名が残ったものと思われます。


頭の中の言語回線でそれを試してみも、たかあし→たかしタカアシ→タカシ、とその変化は自然であり、スムースです。


従って、「高師」なる地名の由来は、「高葦(タカアシ)」が詰って「高師(タカシ)」となった訳で、それに間違いは無いと思います。 (仮説終る)


さて、その様な訳で、現在の(セイタカヨシ)にはその昔に、愛知県の一地域ではありますが、(タカアシ)と云う別の名前があった事は明らかです。


では、その辺のところを、図書館の資料で検証致しますと・・・


(イ) 近くを走る豊橋鉄道に、「高師駅(たかしえき)」「芦原駅(あしはらえき)」がある。


(ロ) 「角川日本地名大辞典」現行行政地名には、芦村(あしむら)、芦原町(あしはらちょう)がある。


(ハ) 「日本歴史地名大系・愛知県の地名」では、高師山(たかしやま)、高足郷(たかしごう)、高足村(たかしむら)を載せています。


そして、此処で大いに注目して欲しい点は、(ハ)高足(たかあし)と書いて(たかし)と読ませる、その有りの儘の事実、実態です。


従って、この事は(仮説)に於いて触れた様に、(ア)の発音が消去された何よりの証拠かと思います。如何でしょうか。


以上、『高師小僧』に事寄せて色々と書きましたが、現在の(セイタカヨシ)にはその昔に、(タカアシ)と云う今一つの四番目の名前が有った事が、これでご理解頂けたら幸いです。


 (四) 「豐葦(タカツキノアシ)」 


次に、これも同じく遠い昔、「聖徳太子」の時代。


琵琶湖から流れる淀川の流域の或る場所か、又は、奈良盆地を流れる大和川の流域の或る場所かは定かではありませんが、その一帯で呼ばれていた、「豐葦(タカツキノアシ)」と云う名の「葦(アシ)」がありました。


それが、(セイタカヨシ)の今一つの五番目の名前です。


謂われは(このレポートの想像ですが)・・・


当時、朝廷若しくは公家の方々が外出等の折、葉が上に伸びた背の高い葦(アシ)を見て・・・

日頃傍に置いていた高杯(タカツキ)にそれを見立て・・・

更に、高杯(タカツキ)を表す「豐(ホウ)」の字をそれに充てて、「豐葦(タカツキノアシ)」と命名した。


珍説・「豐葦(タカツキノアシ)原の瑞穂の国」 








 





(挿絵の出典)「日本国語大辞典12巻」675頁昭和49年11月(株)小学館


「豐(ホウ)」には他に、(ゆたか)(ゆたかにする)(さかずきだい)の意味や、地名・姓もあります。                          (出典)「大漢和辞典」大修館書店昭和59年豆部645頁通冊11087頁


従って、当時の人々はこの地域一帯を、「豐葦原(タカツキノアシハラ)」と呼んでいたものと思います。


                                (続く)








『古事記』の有名な文章、『豐葦原瑞穂国』に付いての、小生の珍説を書かせて戴く訳ですが、それには、〔〕(ヨシ)に付いての様々な準備と前書きが必要となりますので、暫くの間、お付き合いをして下さい。


 (一)葦(ヨシ)の種類及び(名前)呼び名に付いて 


日本各地の河岸や湿地に群生しているイネ科のヨシ属には、(ヨシ)(セイタカヨシ)(ツルヨシ)の三種類がありますが、此処では、その内の(ヨシ)と(セイタカヨシ)に付いて触れたいと思います。


先ず、その(名前)呼び名の〔葦(アシ)〕の件ですが、アシの音が〔悪しき〕に通じるので、それを忌み嫌って(ヨシ)と呼ぶようになったそうです。(時期は不明・・・)


従って、今日では多くの書物で(ヨシ)を使っていますが、このレポートでは昔の事柄にも触れる関係で〔葦(アシ)〕を使う時もあります。予めご了承下さい。


次の二枚の写真は、2004年10月に横浜市鶴見区の河川敷で撮った(ヨシ)の写真です。


珍説・「豐葦(タカツキノアシ)原の瑞穂の国」 


珍説・「豐葦(タカツキノアシ)原の瑞穂の国」 















又、次の二枚の写真は、同日に鎌倉市笛田で撮った(セイタカヨシ)の写真です。



珍説・「豐葦(タカツキノアシ)原の瑞穂の国」 











珍説・「豐葦(タカツキノアシ)原の瑞穂の国」 












これ等の写真からも分かるように、両者は(高さ)と(葉先の方向)とが著しく異なっております。


その辺のところを、平成2年4月発行の北隆館『野草大図鑑』から抜粋しますと・・・


ヨシ(アシ)  


山間から海辺に至るまで、広く水湿地に生育する。葉は二列につき、風向きによって片葉のヨシとなる。〔高さ〕100~300cm 


セイコノヨシ(セイタカヨシ) 


河岸や海辺の湿地に生え、葉の先がヨシのように垂れずに真っ直ぐに立つことが外観上の特徴である。〔高さ〕200~400cm 


と、書かれています。


これで、(ヨシ)と(セイタカヨシ)に付いてのおおまかな違いを申し上げましたが、(セイタカヨシ)に関しては、他に二つの名前がありますので、次に、それに付いても触れたいと思います。


一つ目の名前は(セイコノヨシ)です。


「西湖」とは中国の淅江省・杭州市にあり。中国十大景勝地の一つと云われる有名な湖で、その名に因んで(セイコノヨシ)と命名されたそうです。

花屋さんが広めた商売上の雅称かと思います。


そして、今一つの名前が(ウドノノヨシ)です。


大阪府高槻市の淀川右岸に群生し、「鵜殿の葭」がその語源で、毎年二月に行われている「鵜殿のよし原焼き」は余りにも有名です。


「鵜殿の葭」は雅楽の管楽器(ひちりき)のリードとして用いられ、又、彼のシーボルトが纏めた「出島の植物(1828)」にも、(ウドノノヨシ)が見られます。


説明が遅れましたが、この(セイタカヨシ)の語源は、読んで字の如く、背の高い(ヨシ)の事です。


以上で、(セイタカヨシ)(セイコノヨシ)(ウドノノヨシ)と云う三つの名前がある事を紹介して、この項を終ります。


 (ウドノノヨシ)に関しましては、予てから「鵜殿ヨシ原研究所」に問い合わせをしていましたところ、過日、ご返事を頂き感謝すると共に、その要旨「鵜殿に群生しているのは(ヨシ)で(セイタカヨシ)ではない」を理解するものですが、このレポートでは名前の列記を主としていましたので、変更なしで進みたいと思います。ご了承下さい。


 (二)名前は(セイタカヨシ)を使用する 


名前(呼び名)が三つもあると少々困った問題が生じます。個人でしたらどの名前を使ってもOKですが、公の場合はその様には行きません。


例えば、前項で紹介した『野草大図鑑』では(セイコノヨシ)(セイタカヨシ)と、併記方式をとっています。


それも、無難な一策ですが・・・


偶々、小生の手元に47都道府県の『植物誌』及びそれに準じる資料(1929~1998)が有りましたので、それに依って名前の頻度を調べたところ・・・


(セイタカヨシ)だけの単記方式                11冊

(セイコノヨシ)   〃                      7冊

(セイタカヨシ)(セイコノヨシ)の併記方式          11冊

(セイコノヨシ)(ウドノノヨシ)    〃             3冊

(セイタカヨシ)(セイコノヨシ)(ウドノノヨシ)の三記方式   1冊


と、あまり差の付く結果が出ませんでしたが、このレポートでは一応有利な(セイタカヨシ)を使わせて頂く事に致しました。ご了承下さい。 


尚、(セイタカヨシ)が分布していない都道府県の『植物誌』等は外しました。


さて、(セイタカヨシ)の三つの名前に付いて書きましたが、この件は次項に続く参考にもなると思います。よろしく、ご承知置き下さい。


                              (続く)   




























 





 ジープ  


運動会を見るのを途中で止めて帰ったところ、店の前で「小川屋」の親父さんに呼び止められた。


清も丁度腹が減っていたので、無理にラーメンを頼んで店に入った。


それで親父さんが云うには、清のパチンコ屋の前に、二人のMPが乗ったジープが一時間近くも停まっていたが、心当たりは無いのかと云う事だった。


清はジープと云われて、直ぐに鰐皮のカバンの件が頭に浮かんだが、親父さんには心当たりは何も無いと答えた。


そして、ラーメンを食べ終わってから暫く、置くの座敷で「小川屋」の小母さんと近所の小母さんの二人が、一緒になって布団作りをしていたので、それを眺めた。


幅広い布団地の上に真新しい綿と古い綿を二重に広げ、それを二人係りで包み込み、次に、縫い糸で仕立て上げるその仕事振りは見事であった。


清はその姿に、熊谷にいる母親を思い出していた。


 急変  


その数日後の夕方、上の方の甥っ子がやって来て、


「今朝早く、お父さんと井上さんがアメリカのジープで何処かへ連れられて行ったが、井上さんは戻ったが、お父さんが未だ帰って来ない」


と、叔父貴の異変を知らせに来た。


清は直ぐに店を閉め、叔父貴の家へ行った。


居合わせた井上さんの話に由ると、数日前に闇ドルの元締めがアメリカ当局に捕まり、その関係で叔父貴まで捕まってしまったとの事。


そして、更に悪い事には、ジープの中で叔父貴が云うには、奴等は本腰の様なので当分帰れそうにないので、叔母達三人は宇都宮の実家に帰り、清には井上さんが仕事先を見つけるとの事だった。


又、井上さんは清のパチンコ屋を再び自分が引き継ぎ、其処で当分の間様子を見る事にした様である。


大黒柱の叔父貴が帰れない以上、他に方法は無く、翌日から慌ただしく事は運び、叔母さん達三人は宇都宮に帰り、清は井上さんの紹介で、京浜急行電鉄の「東品川駅」近くの町工場に勤める事になった。


 東品川  


東品川に移る前の日、清は山川町のパチンコ屋に寄り、井上さんにお礼の挨拶をした後、気になっていた花子を探したが、家にも「幸福食堂」にも見当たらず、止む無く、中途半端な気持ちで帰る事となった。


清が働く町工場は旧東海道の品川宿の近くにあって、ラジオのキャビネットを造っていた。


従業員は四十人程で、木材の板を決められた寸法に切断する清の職場、それをキャビネットに仕上げる職人達の職場、そして、塗装以降の各職場があり、一日中モーターが唸っている忙しい工場だった。


独身寮はあったが、清は工場裏のアパートに住んだ。


アパートの先には有名な商店街があり、休日等にぶらつくには最適であった。


又、昔の「品川宿」の名残りが未だ残っていて、普通の商店に混じって、華やかな二階建ての娼家も点在していた。


 一年後  


清は久し振りに山川町に行き、「幸福食堂」で働いていた美佐子に会えて、花子の近況を知る事が出来た。


アメリカ軍が接収していた高射砲陣地は既に解体と後始末がおわり、去年の十二月には兵隊達も本国に引き揚げてしまった。


それで、花子も美佐子もアメリカ兵と別れ、美佐子はこの店で働き、花子はタクシーの運転手と結婚すると云って、今は、東京の池袋で暮らしているとの事だった。


帰り際に、美佐子が花子の住所を書いたメモを探すと云ったが、清はそれを断り、結婚の祝福を託して「幸福食堂」を後にした。


 更に一年後 


清は班長に昇格し、日々充実した生活を送っていたが・・・

一週間前、その後の花子の消息をしりたくて、久々に「幸福食堂」に行ってみた。


幸い美佐子が未だ店にいて、花子の近況を知る事が出来た。


運転手との東京での生活は結局上手く行かず、半年前には既に別れ、現在は横須賀市の安浦にある、赤線街の「リボン」と云う店で働いているとの事だった。


あれから二年もの歳月が流れ、花子と会える機会は無いものと半ば諦めてはいたものの・・・

居場所が分かった以上、ひよっとしたら会える可能性も出て来た訳である。


若し探し廻って花子に会えたら、「先ず、パンパンと云った、自分の非を謝ろう」と、清は心に誓ったが・・・


本当は、「一目花子に逢いたい」只それだけが正直な気持ちだった。


 そして、今  


清は東品川駅から京浜急行電鉄に乗って、横須賀の「安浦駅」へと向かっていた。

八月の夜空はどんよりと重く、雨が近い事を知らせていた。


「安浦駅」で降り、美佐子から渡されたメモを頼りに赤線街の中を歩き、幾つかの路地を曲がった時、前方に、ネオンで輝く「リボン」の看板を発見した。


清は逸る気持ちを静める為にも、一旦は店の前を通り過ぎる予定だったが・・・


そんな余裕は無く、店の中の柱に寄り掛かっていた赤い浴衣姿の花子と、直ぐに目と目が合ってしまった。


「・・・」

「・・・」


二人共、無言。


花子は、清が何故其処に立っているのか、それが分からず、言葉も出ない。


清の方も、こんなに早く巡り合えるとは考えてもいなかったので、只呆然と立止まるしかなかった。


そして、二人の間の空気が静止して、一秒か二秒経った時!


清がすすっと花子に近付いたかと思ったら、いきなり・・・

花子の頬をピシャっと叩き、


一言も発せず、後ずさりし、その儘向きを変えて「リボン」を後にした。


花子は不思議な眼差しで、去り行く清の後姿を見送り、一方、清も、何故こんな事をしてしまったのか、自分でも自分が理解出来なかった。


更にその時、自分の二つの眼から、数滴の熱い涙が迸ったのを知ったが、それがどんな意味なのか、それも理解出来なかった。


清は頬に流れた涙を拭きもせず、やっと降り出した雨の中、帰りの「安浦駅」に向かって足を速めた。


雨は大粒になり始めていた。


 雨宿り 


雨は「上大岡駅」を過ぎた頃より土砂降りとなり、清は車窓に跳ねる水流を見詰めながら、「リボン」での事を振り返っていた。


あの時、花子を殴ったその動機が今も分からないが、今更それは仕方ない事で、清が車窓の雨に向かって呟いた言葉は・・・


「これで終わりだ」と、云う一言だった。


そして、清の心の中には・・・


さっき自分の両の眼から迸り出た熱い涙の謎と、もう二年前になるが、「桜ヶ丘小学校」の運動会の帰り際に胸にチクッと痛みを感じた、あの時の謎が・・・煙の様に漂っていた。


やがて電車は「六郷土手駅」を過ぎ、雨足も弱まり、「東品川駅」に降りた頃には小降りになっていた。


雨はあと少し待てば止みそうなので、清は改札口を出たところで雨宿りをする事にした。


と、駅舎の裏の方から、「リンゴ追分」の甘酸っぱい歌が聞こえて来た。


             ♪ リンゴの花びらが

               風に散ったよな あああ  


                             (終わり)







 緑色の部屋  


数日後、清は花子の家を訪ねた。

声を掛けると、玄関の戸が開いて母親が顔を見せた。


「パチンコ屋の中条ですが、花ちゃん居ますか」

「花、パチンコ屋の人が来てるよ、どうする」

「分かった、こっちに廻って貰って・・・」


花子の返事と、ガラス戸の開く音がしたので、清がその方に廻ると、赤いワンピースの花子がカーテンを少し開けて立っていた。


「なに?」

「うん、散歩でもと思って、寄ったんだ」

「有難う、でも、今度にして」


と、花子は兵隊が居るのを指で知らせ、ガラス戸を閉めた。


仕方なく、清はその場から離れたが・・・その折に中を垣間見てしまい、部屋の壁が緑色のペンキで塗られていたのには驚いた。


アメリカ兵個人の好みなのか、日米の文化の違いなのか、その色彩感覚には馴染めなかった。


だがそんな事よりも、パンパン嬢の家にアメリカ兵がいる当節の現実を目の前にして、清に嫉妬心が灯った事だけは事実だった。


それで、清は何故か滅入ったが・・・それはその場限りで直ぐに忘れ、散歩がてらに「桜ヶ丘」に登る事にした。


花子の家の裏手を抜け、木立が繁る暗い山道を登る。


十分程で平らな場所に来たので辺りの景色を見渡した。畑が大きく広がり、間に農家が点在、遠くに「桜ヶ丘小学校」の校舎が見えた。


少し行くと、地名に相応しく、太い幹の桜並木が遠くにまで続いていた。今は葉ばかりで愛想がないが、春の花見頃の賑やかさは大いに想像出来た。


そして、暫く散歩した後、清は「桜ヶ丘」を降りた。


 後悔  


二日後、花子が買い物籠を提げて顔を見せた。

相変わらず、可愛くて元気である。


清もパチンコ玉の洗浄が終って一服中だったので、花子と相手になっていた。


そして、「桜ヶ丘」の桜並木の話や、熊谷の荒川土手の桜並木の話等をしていたが・・・一時話題が途絶えた時、清がつい、


「花ちゃんも、パンパンを辞めるんだな」

と、一言忠告染みた事を云った途端!


花子は頬を膨らませ、

「私、パンパンじゃないのよ、オンリーよ!」

と、荒々しい声を残して、帰って行ってしまった。


花子の言い分は変だ。

「パンパンとは不特定多数のアメリカ兵を相手にする女達で、オンリーとは一人のアメリカ兵だけが相手なので、パンパンとは格が違う」とでも云いたいのか・・・


だが、それは、清の言いたい事とは違っていたが、今、それを訂正する気持ちは持っていなかった。


只、その一言で花子の心を傷付けてしまった事は事実だったので、「今度花ちゃんに会ったら、直ぐに謝ろう・・・」と、強く心に決めた。


これは、後になって、店を閉めてから考えた事だが・・・


清は自分を日本人の男性として、高い見地から考えてみた。


「あの太平洋戦争を起こしたのは日本の男性である。そして、戦争に負けた。此処が大事だ。負けた結果、日本の女性がアメリカ兵に媚を売っているが、それに対して男性側からいちゃもんを付けられるのか」


「そもそもが、戦争を起こし、それで負けた男性が悪いんだから・・・」

と、


だが、結局、そんな自問自答となり、先に進むいい考えは生まれて来なかった。


 鰐皮のカバン  


それから数日後の昼過ぎ、清のパチンコ屋に、又も一陣の風が舞った。


店の前に、あの時の赤いアメ車が止まったかと思ったら、見知らぬ青年が飛び込んで来て、

「これは大事なカバンだ。今夜の十一時頃に中条の親父さんに届けて呉れ」


と云って、重そうな鰐皮のカバンを受付に乗せると、慌ただしく帰って行ってしまった。


清はともあれカバンを預かり、急いで表に出たが・・・

もう、赤いアメ車は見当たらず、代わりに、MPが乗ったジープの後姿だけが見えていた。


その夜、鰐皮のカバンを叔父貴に渡したが、中身に付いての説明は無かった。

だが、状況から察しても、札束か何か、意味深なカバンである事に間違いは無かった。


 「幸福食堂」   


毎月十五日は、山川町の全ての商店の定休日になっていたので、その前日の十四日の夜、清は店を閉めてから、ビールを飲みに「幸福食堂」へ行った。


店内には二三人の先客があり、それぞれビールを飲み、食事を取っていた。


清も餃子を注文し、ビールを飲んでいると、例のアメリカ兵二人と花子と美佐子が騒がしく入って来て、背中合わせのテーブルに陣取った。


清は花子を見て声を掛けようとしたが、そんな雰囲気でも無かったのでそれは諦め、再びビールを飲み始めた。


と、暫くすると、彼等の英語混じりの会話が断片的に耳に入って来た。


「明日、桜ヶ丘小学校の運動会、見に行こうよ」

「賛成」

「お弁当は?おにぎり、それともサンドイッチ」

「交番の前に九時半に集まる」

「OK」

「OK」


 運動会  


その朝、清は十時に起きた。


布団を片付けたが、未だ酔いが残って頭が痛い、普段でもアルコールに弱いのに、昨夜は量が過ぎたようだった。


だが、それにしても、酔った頭の中で・・・


「花ちゃんが好きだ。花子が好きだ」


と云う、初めての恋心が芽生えているのに気付き、清はそれに狼狽するが、想いは其処まで。


結局のところ、二日酔いを醒ます為に買い置きしてあった酒を煽り、叔母さんから貰った浴衣を纏って外に出た。


出ると直ぐに、野良猫が一匹足に絡んで来たので抱き上げて懐に入れ、魚屋の勝手口で秋刀魚を一匹貰い、それを与えて又ぶらぶらと歩き出した。


浴衣の襟は野良猫で膨らみ、裾は乱れて赤ら顔、何処から見ても無様な姿だった。


清は朝起きた時には、今日の予定は決まっていなかったが、今は身体が自然とその方向に向かっていた。行き先は、「桜ヶ丘小学校」の運動場である。


隣の乾物屋との間の路地を行き、花子の家の脇を抜けて、木立が繁る山道に入る。

途中、薄暗い坂道に来た時、懐の野良猫が暴れ出したので、食べ残しの秋刀魚と一緒に藪に放り出した。


山道を上がり切り、畑の間を抜け、桜並木を通って「桜ヶ丘小学校」に到着。

校舎の脇を廻って校庭に入り、松の大木が十数本立った小高い場所に腰を下ろす。


其処から見ると、運動会は今がたけなわで、紅白の鉢巻の生徒達が楕円形のグランドを走り、家族の声援が渦巻いていた。


そして、視線を手前に引けば、芝生の中、花子と美佐子と二人のアメリカ兵が、バスケットを囲んで運動会を眺めていた。


清は賑やかな運動会に目をやり、大空の雲を数え、時折、花子達に目を移していたが・・・

ふと、足元に目をやったところ、其処に小さな蟻地獄を発見した。


蟻が誤まってそのすり鉢状の穴に落ちたら、幾らもがいても絶対に出られない蟻地獄。


しかし、今のところ周りに蟻は見当たらず、蟻地獄は平穏であった。


運動会は未だ終っていなかったが、清は帰る事に決め、浴衣の塵を払って立ち上がり、帰り際に、花子達をチラッと見た。


そしてその時、自分の胸にキュッと痛いものを感じたが、その異変を詮索する事はしなかった。


帰りの道、遠くの家のラジオから、「リンゴ追分」の悲しい歌が聞こえていた。


          ♪ つがる娘は ないたとさ 

            つらい別れを ないたとさ  

                             (続く) 



















 パチンコ屋 


昭和二十八年初夏の日、この春二十二歳になった中条清は、横浜市でパチンコ屋を営む叔父貴の中条源蔵の家を訪ねた。


清の両親は健在で熊谷市の外れで農業をやっていて、その父親の弟が中条源蔵である。


横浜市は昭和二十年五月の大空襲で焼け野原になってしまったが、幸いにも、叔父貴が住む借家は中心部から離れていたので、焼夷弾攻撃からは免れた様だった。


戦後になり、叔父貴夫婦は食料品等の担ぎ屋をやっていたが、一年程前からは、住んでいた借家を改修してパチンコ屋を始めた。

子供は二人、小学六年と四年の坊主だ。


実は、叔父貴の仲間の五十嵐さんと云う人が、近くで同じ様にパチンコ屋をやっていたが、都合で店を閉める事になり、それではと、叔父貴が清を呼び寄せ、そのパチンコ屋を継がせる思惑の様であった。


その様な訳で、翌日には早速叔父貴に連れられて、山川町一丁目にあるそのパチンコ屋に行った。


店は閉店してから未だ日が浅かったので、一通り下見した叔父貴がこの分なら二三日で開店出来ると保証してくれた。


店内には、二十五台のパチンコ台が凹並び、中央の突き出た処が、玉の売り場兼ね景品の渡し場である。


パチンコ台には真鍮の釘が規則的に打ってあり、色とりどりの小さな風車がくるくると回り、弾いた玉が当たりに入れば二倍三倍五倍と玉が増える。

パチンコとは中々面白いものである。


奥に、台所と便所と三畳間があって寝泊りは出来たが、暫くは叔父貴の家からの通勤であった。


付近の様子はと云いますと、店から二丁目三丁目と行く両側には一応の商店は揃っていたが、田圃や畑、工場の社宅等も見えていたので、商店街と云える程のものではなかった。


三丁目が終って右に折れると私鉄の「山川駅」に着くが、周りは倉庫群と一軒の売店だけで、駅舎を含め閑散とした場所だった。


私鉄の線路に沿う格好で、通りの後ろ側には「桜ヶ丘」と呼ばれている丘が連なり、「山川駅」に近い小高い場所には、アメリカ軍が接収管理している旧日本陸軍の高射砲陣地があった。


又、例のマッカーサー元帥が東京に行く時に使った厚木街道は、その線路の向こう側で、近くにはアメリカ軍が整備した広大な車両基地があり、その為か、アメリカ兵とパンパン嬢の連れ立っている姿をよく見掛けた。


翌日、叔父貴が三輪トラックで新式のパチンコ台(出玉が一度に十五個出る)五台を運び入れ、旧式五台と交換した。


新台も入り、玉も補充、景品のキャラメルも揃い、これで開店準備は全て整ったと思いきや・・・


夕方になって、赤いアメ車に乗った気障な紳士が店先に現われ、「大型店の工事が遅れているから、是非、応援を頼む」と云って、叔父貴をアメ車に乗せて何処かへ行ってしまった。


そんな訳で、翌日店は開けず、清は昨日に続いて山川町を散策した。


路地を挟んで隣が乾物屋、三軒置いて畳屋と八百屋、少し離れて魚屋と菓子屋、角に交番があった。


又、斜め前には、「小川屋」と書いた暖簾が下がるラーメン屋があった。

専ら出前が多く、座席の方は五人も坐れば満員である。


その「小川屋」で、鶏ガラを煮込んでいた親父さんに挨拶をしてから路地裏に廻り、「小川屋」の小母さんが張り板を立て、ふ糊を使った洗い張りをしていたので、それを見物してから店に戻った。


一寸、実家の母親を思い出す。


予定より二日遅れて、清のパチンコ屋は店を開いた。


初日から三日間はお客さんが少なく心配したが、四日目以降にはお客さんも増え、二週間経った今は順調で、奥の部屋で寝泊りをする様にもなっていた。


売上金は夜九時に店を閉めてから叔父貴の家に届け、その時に必要な連絡を貰う事になっていて、それは毎日実行していた。


 花子との出会い  


清はやっと日々の生活にも慣れ、店の前で日課となっているパチンコ玉の洗浄をやっていた。


細長い布袋に玉と石鹸水を入れて大きく揺らしながら洗い、三回の水洗いの後、乾いた布で水分を拭き取れば終わりである。


これを五回繰り返せば店の全部の玉が洗えるので、毎朝のこの作業は欠かせない。


そして、それ等が終わり、清がその後片付けをやっていた時・・・


「パチンコ玉の洗濯?」

と、いきなり声がしたので振り返って見ると、両腕も顕わな、赤いワンピース姿の花子が其処に立っていた。


二日前の夜、叔父貴の家からの帰り道、清が「山川駅」近くの『幸福食堂』でビールを飲んでいた時、離れたテーブルでアメリカ兵二人とパンパン嬢二人が同じくビールを飲んでいたが、彼等の英語混じりの会話の中で聞こえていたのが、花子と美佐子の二人の名前で、それぞれの顔も自然に覚えていた。


その花子が、可愛い笑顔で、目の前に立っていた。


「うん、毎朝の日課だ」

「パチンコ屋の商売って、面白い?」

「未だ始めたばかりだが、面白いよ。毎日、パチンコ台の裏側から人を見ていると、人間の物欲と云うのが丸見えだからな、で、今日は?」


「暇だから一寸散歩。わたし、山路花子。家はこの横の路地裏だから、何時でも遊びに来て」

「分かった。俺、中条清」

「じゃ、今度ね」


会話が終って花子は帰って行ったが、間近で見た花子の可愛さに、何故か清は胸に動揺を感じ、路地裏に消える花子の後姿に暫し見入ってしまった。


と、隣の乾物屋のラジオから、今朝も『リンゴ追分』の甘い歌が流れて来ていた。


        ♪ リンゴの花びらが 風に散ったよな 

           月夜に 月夜に そっと えええ  


                            (続く)  













 (五) 


「いいか坊主。今は雲に隠れて見えないが、(お日さん)の光はだな、あの天窓から入って、この中に入るんだ」


と、問題の〔上がり湯〕を指しつつ・・・


「で、この中に入った(お日さん)の光はだな、先ず屈折し、次に、この底で反射するんだ。反射とはぶつかって跳ね返って来る事で、その光は一度女湯の方に出て行く」 


「で、その出た光は、偶々其処に立っていた小母さんの・・・否々、小母さん【の】では無く、小母さん【に】だ。いいか、小母さん【に】反射して、再び、この〔上がり湯〕の中に戻って来るんだ」


「そして、戻って来たその光はだな、又屈折して進み、再び底で反射して、今、儂等がいるこの男湯に帰って来る事になっている。坊主には少し難しいが、光と云う奴は皆その様な仕組みになっているんだ」


「で、その結果、坊主の目に、『黒いメダカ』が見えたと云う寸法になるんだ。分かったか坊主」


と、番頭さんはその長い演説を終えると、散らばっている腰掛や桶の整頓に取り掛かった。


さて、勇次と云えば、番頭さんの演説は難しくて理解は出来なかったが、話の中に度々出て来る(お日さん)と云う言葉に、何か秘密が隠されているのではないかと、勇次なりに推測をしていた。


だが、それは未だ半信半疑で確たるものではなかったが、番頭さんの熱弁に答える為にも、云うべきだと考え・・・


「分かった、番頭さん。若しかしたら、(お日様)が『黒いメダカ』を入れた犯人なんだ」


と、その答えを控えめに、番頭さんに告げた。


すると・・・番頭さんは振り返り、


「なに、(お日さん)が『黒いメダカ』を入れた犯人だと?」

と、勇次の答えをその儘、鸚鵡返しの様に繰り返したかと思ったら・・・


「ワハ・・・坊主。上手い事を云うな、そうだその通りだ。あの(お日さん)が犯人だ」

と、笑って答えた。


勇次は自信の無い答えだったが、番頭さんに誉められ、少しは気を好くしたが・・・


それも、束の間。


「そうだ。坊主に云い忘れていた事がある。いいか、坊主。此処で『黒いメダカ』を見たなんて絶対に喋ってはならんぞ。いいか、これは男同士の約束だ」


と、番頭さんは険しい顔。そして、又々、長い演説が始まった。


「実は、去年の夏に天窓の改修工事をやってな、それはそれで良かったんだが・・・そうそう、あれは確か秋の彼岸頃だったか、この〔上がり湯〕の中で(わかめ)を見たと云う、噂が立ってな・・・」


「ああ、あの海の(わかめ)だ。で、噂は忽ち広がり、遠くのお客までもが来る騒ぎになった訳だ」


「それで、儂も変だと思って調べたところ・・・ほら、儂がさっき坊主に話した理屈と同じで、あの天窓から入って来た(お日さん)の光が、その悪さの張本人だと云うのが分かった訳だ」


「で、これは大変と、儂が大屋根に登って天窓に(よしず)を被せ、(お日さん)の光が直接〔上がり湯〕に入らんようにした訳だが・・・昨日の大風でその(よしず)が外れ、今回は、坊主までが『黒いメダカ』を見たと云っている有り様でな」


「まあ、それは兎も角。いつ何時、悪い噂が立たんとも限らんから、坊主。『黒いメダカ』の事は内緒だぞ、いいな」


「さてと、儂も早いとこ大屋根に登って、(よしず)直しに取り掛かるか・・・」


と、番頭さんは一方的なその演説を終えると、勇次をチラッと見ただけで、漸く混んで来たお客さんの間を縫って奥の引き戸に消えてしまった。


勇次はやっとの事、番頭さんの演説から解放されたが、その故事来歴の話は勇次の頭を混乱させ、勇次が唱えた(お日様)犯人説も不確実なものになってしまった。


だが、再確認するにも、番頭さんが居なくてはそれも出来ず。結論は、次に番頭さんと会う迄のお預けにする事にした。


さて、そうこうしている内に帰る時間となり、勇次は傍の蛇口の前に坐ると桶に湯を注ぎ、(両手)にそれを持って五回も浴び、体を拭いて男湯を出た。


 (六) 


『朝日湯』の帰り道、勇次は二つの思いを胸に抱いていた。


一つ目は、番頭さんの為にも三日間だけは、『黒いメダカ』の事件を友達に話さない事。

二つ目は、今頃は、母親が持ち帰った『黒いメダカ』を洗面器に入れて喜んでいる、その子供達の姿を、先輩として甘受している己の心意気に、誇りを持った事である。


斯くして、家路を急ぐ勇次の駒下駄の音は、カランコロンと軽やかな響きだった。


                         (終わり)



 (四)  


勇次は、暫し我を忘れていたが、やっと現実に戻ると・・・

或る疑問にぶつかった。


「どうして、〔上がり湯〕の中に『黒いメダカ』がいたのか?」

「それを入れた犯人は誰なんだ?」

と、それはごく当たり前な疑問だった。


それで・・・無い知恵を絞り、それらしい答えを見出した。


「此処の一切を任されているのは番頭さんだから、番頭さん以外の人は考えられない」

「とすれば、『黒いメダカ』を入れた犯人は番頭さんに違いない」

「そうだ。番頭さんが犯人だ!」


勇次は自分で自分の答えに満足し、些か得意満面。


すると、丁度いい具合に・・・


当の番頭さんが、女湯での仕事が終ったのか、例のねじり鉢巻に股引姿と云う装いで、男湯に向かって来るのが目に入った。


勇次は是はいいタイミングとばかりに、早速、入って来た番頭さんに、


「番頭さん。番頭さんが入れた『黒いメダカ』、女湯の小母さんが全部捕って行ってしまったよ」

と、〔上がり湯〕を指差しながら報告した。


学校で、先生に告げ口をしている様な後ろめたさもあったが、この場合は仕方がない。


だが、番頭さんは・・・

「儂が『黒いメダカ』をどうしたって?」

と、怪訝な顔で寄って来た。


「番頭さんが『黒いメダカ』を入れたんでしょう」

「いや、儂は知らん」

「・・・」

「坊主、その『黒いメダカ』とやらは本当にいたのか」


「はい。僕は見ました、本当です」

「そうか、坊主が見たと云うなら信用しよう。ところで坊主、そいつは一体何匹いたんだ」


と、今度は番頭さんが問い掛けて来た。


「・・・」

勇次は急な質問に戸惑ったが・・・咄嗟に、両手を出して凹型を作り、

「この位の黒い塊で泳いでいたけど、もじゃもじゃしていて数えられなかった」

と、有りの儘を有りの儘に答えた。


すると、番頭さんは眉をひそめて、

「黒い塊が・・・もじゃ・・・もじゃ」

と、変な口調で呟いたかと思ったら、やおら、顔を天上に向け、


「昨日の大風で(よしず)が外れたか?」

と、独り言を云った後、

「ところで坊主。坊主は小学何年生だ」

と、是又、場違いな質問をして来た。


「四年生です」

「四年生か、四年生では少し無理かな・・・いいか坊主。上の天窓を見てみろ、紐が二三本見えているあの真ん中の天窓だ」


番頭さんが右手を上げて天窓を指す、釣られて勇次も其処を見ると、番頭さんの云う通り、真ん中の天窓に紐らしき物が見えていた。


「うん、分かった・・・」

勇次は答えたものの、話が犯人探しから外れて行くのに少し戸惑っていた。


だが、そんな勇次に関係なく、番頭さんは、身振り手振りで演説を始めた。


                         (続く)








 (一) 


晴れた春分の日、小学四年生の宮下勇次は近くの銭湯『朝日湯』に来ていた。


何時もは友達と一緒に行くが、この日は、夕方にお客が来るから早くお行きと母親に云われ、一人で来る事になってしまった。


勇次は番台で風呂銭を渡すと裸になって男湯に入った。


何時も来る夕方の時間帯だと、大勢のお客さんでがやがやざわざわと大いに騒がしかったが、今は昼中のせいかとても静かで、六七人のお客さんしか入っていなかった。


総タイル張りの浴場内には白い湯気が立ち込み、思いの他明るく、段違いになった大屋根の天窓からは昼の陽が斜めに差し込み、丁度森の木漏れ日の様に、幾筋もの光の帯をその白い湯気の中に映し出していた。


『朝日湯』には他とは少し違う所がありましたので、先ず、それから説明させて頂きますと、普通の銭湯では男湯女湯それぞれに〔上がり湯〕が設けられていたのに対し、この『朝日湯』では、男女共通で使えるように中央の仕切り壁をくり貫いた、その真ん中に設けられていた事だ。


昔の『湯屋』の名残かどうかは知らないが、その様に一風変わった造りだった。


大きさは、縦・横・深さが各々約一米の立方体で、お湯が入っていなければ、小さい子供だったら其処を潜り抜けて男湯と女湯の往復が出来る。


又、別々に入った家族が、この〔上がり湯〕を介して石鹸やヘチマの交換が出来たし、赤ん坊を桶に乗せて受け渡しをしていた若夫婦もいた。


一方、欠点と云えば、向こう側から覗かれる心配だが、余程無理な姿勢で覗く者がいない限り、その点も安心だった。


只、人影の動きや、湯を汲む時の桶は見えていたので、向こう側に人がいるくらいは、お互いに分かっていた事だった。


 (二) 


ところで、〔上がり湯〕と云えば、洗髪等でお湯を多く使う時や、(上がる)前に軽く流すのがその使い方だったと思うが、勇次も勇次の友達も今迄この〔上がり湯〕を使った試しがない。


尤も、使い方はお客さんの自由で、大半の人は蛇口の方の水やお湯を使っていたし、使うにしても、その跳ね返りで周りに迷惑を掛けるので、会釈をしてから使う人もいれば、全くお構いなく使う人もいたが・・・


それはそれとして、勇次達が使わなかった理由は他にあった。


そんな不文律な事が何時頃決まったのかは定かでないが、男湯では・・・

〔上がり湯〕を使う時は、(片手)で桶を持ってお湯を汲み上げ、それを肩の上からザザッと掛けるのが決まりである。


と、以前からその様に伝えられて来た。


従って、勇次達の様な子供では未だ腕力が弱いため、(片手)で桶を持ってお湯を汲み上げる事が出来ず、今迄この〔上がり湯〕を使った試しがなく、大人達が気持ちよく浴びている姿を見る度に、羨ましい思いでそれを眺めていたものだった。


尚、(両手)で持てば出来ない事はないが・・・それは、子供心にも美学に欠けるものだった。


 (三) 


さて、勇次は体を洗い終わって、誰もいない湯船に一人ポツンと浸かっていた。


男湯は未だ空いていて、二人のお客さんが隅の方で体を洗い、腰掛や桶があちこちに散らばっていた。


一方、女湯の方は何時ものざわめきで、赤ん坊の泣き声と、お金持ちの小母さんが(流し)を頼んだのか、番頭さんが肩を叩く音がパーンパーンとこだましていた。


湯船の中の勇次は体の向きを変え、背景画の(富士山)をぼんやりと眺めていたが・・・


その時、勇次の頭に、或る悪戯心が芽生えた。


それは、(片手)で桶を持って〔上がり湯〕を浴びているあの大人の真似を、是非やってみたいと云う思いだった。


幸い、今はお客さんも少なく絶好な機会だったし、更に、今さっき考え付いた一つの名案も浮かんでいた。


夜店の(金魚掬い)で金魚を掬う時、容器を水面すれすれにまで持って行けば上手く掬える、あの(金魚掬い)の要領でやれば、必ず成功すると思った。


よーし、これで作戦は決まった。後は、実行のみである。


勇次は湯船を出て、ゆっくりと〔上がり湯〕の前に立つ。


そして、作戦通りに右手に桶を持ち、左手を〔上がり湯〕の縁に置き、肩を下げる為に徐々にお尻を落として行った。


ここまでは順調、目の前には〔上がり湯〕が静かに揺れていた。


さあ、次はお湯を汲む番だ!


勇次は右手の桶を大きくかざし、体を乗り出して〔上がり湯〕を覗いた・・・

と、其処で、勇次は思はぬ物を発見してしまった!


何とお湯の中で、一群の『黒いメダカ』が泳いでいたのだ!

それは正しく、『黒いメダカ』の一群だった。


勇次は驚きと感激で、胸が止まる思い。

振り上げた桶は辛うじて下ろしたが、どうしていいやら自分でも分からなかった。


が、その時・・・


女湯の方から、突然桶が入って来たかと思うと、ザブンとばかりに中の『黒いメダカ』を掬って行き、更に、逃げ残っていた数匹も、二回目の桶が来て掬って行ってしまった。


それは、あれよあれよと云う間の出来事で、勇次は何する術も無く、只々それを眺めているだけだった。


そして、今さっきの『黒いメダカ』を発見した時の感激は消え、代わりに、それを掬って行った女湯の小母さんを羨ましく思うばかりだった。


だが、そんな勇次に関係なく、〔上がり湯〕は、何時もの様にさざ波を揺らせて目の前にあった。


                          (続く)