珍説・「豐葦(タカツキノアシ)原の瑞穂の国」  -2ページ目

珍説・「豐葦(タカツキノアシ)原の瑞穂の国」 

古事記に載る「豊葦原瑞穂之国」の解釈に付いて、第三の解釈があってもいいのではないかと思い、イネ科ヨシ属の(セイタカヨシ)の登場を願い、此処に珍説を披露するものです。

 (五) 


浩一は土間に入った。

家の中は暗く、蚊帳が吊ってあった。


囲炉裏の火は消え、草鞋や地下足袋が散らばり、傍に赤い鼻緒の駒下駄があった。


浩一は息を殺して蚊帳に近付き、中を覗く。

手前の布団に菊枝さん、離れた向こうの布団に小母さん、二人共ぐっすり寝込んでいた。


何故か、周りの空気が重く感じられたが・・・

後は、菊枝さんの足元に廻ってズロースを盗むだけである。


浩一は縁側に上がり、菊枝さんの足元の方に移動、次に、方膝ずつ畳の上を進み、蚊帳を持ち上げて体を半分潜らせた。


と、藪っ蚊が一匹、プーンッと蚊帳の隙間から逃げて行った。


そして、浩一は、蚊帳に半分入った儘の姿勢で・・・


菊枝さんの肌蹴た寝姿を目にすると同時に、見てはならない物を見てしまった!


有ろう事か、菊枝さんが自分のズロースの上に両手を載せて、もぞもぞと動かしながら、意味不明な寝言を洩らしていた。


驚いた浩一は、初めはその事態が理解出来なかったが・・・

それがどんな意味を持っているのかは、直ぐに推察出来た。


「さっきの藪っ蚊が、ズロースの上から菊枝さんの土手を刺したんだ。それで、刺された場所が痒いから掻いているんだが、ズロースの上からでは思う様に掻けない・・・それで、いらいらして寝言の様な事を云っているんだ」


と、浩一なりの答えを出した。


そして、そうなれば、「困っている菊枝さんを助けてやらなければならない」

と、珍しく義侠心を起こし、直ちに手助けに取り掛かった。


先ず、更に蚊帳の中に体を入れ、左手を伸ばして菊枝さんの手首を握り、次に、右手でズロースを持ち上げ、その隙間に菊枝さんの手首を差し込んでやった。


待つ事暫し。


と、案の定、ズロースがゆっくりと波打ち始め・・・


それと判る清音と濁音の音が、♪シャリシャリ♪じゃりじゃりと、蚊帳の中に響き渡った。


予期せぬ大きな音に、浩一は心臓が止まる思いだったが、菊枝さんも小母さんも我関せずに眠っていた。


そして、やがてズロースの動きも、その音も消え・・・

菊枝さんはこれで気が済んだのか、目を覚ます事もなく、ズロースから手を抜くと、寝巻きを直して寝入ってしまった。


浩一は自分の手助けの結果を目の当たりにし、少しばかり自尊心を擽られたが、誰にも気付かれなかった事の方に安堵した。


尚、あの♪シャリシャリ♪じゃりじゃりの音に付いて一言添えさせて頂きますと・・・


発生した場所が場所なので、当然、隠避な音に聞こえて当たり前の事ですが、何故かあの時はその様には聞こえず、大袈裟に云えば、天上の神々達の会話中に零れた駄洒落の音に聞こえ、それは又、本家の婆様の云う天女の足音とも違うもので・・・


世の中全く巧く出来たものです。


さて、とんだ道草で時間を費やしてしまった浩一は、再び、本来の目的に掛かるべく気を新たにしたが・・・


時、既に遅く!


小母さんがいきなり起き上がり、厠に行くのか蚊帳を捲くって出て行った。

浩一には気が付かなかった様である。


さあ、大変だ!

続いて菊枝さんに起きられたら、更に大変!


小母さんが厠から帰って来る前に急ぎ退散だ。


浩一は後ずさりしながら蚊帳を出、土間に降り、足音を忍ばせて外に出た。

その素早い事。


でも、逃げる途中で、土間にあった赤い鼻緒の駒下駄のその片方を失敬していた。


帰りの駄賃と云う奴で誉められたものではないが、これが後のなって役に立つとは、何をか云わんやである。


 (六)  


夜が明けたその日の午後、浩一は(健兄い)の処に行き、昨夜の結末を少し偽って報告した。


「土間に入って蚊帳の近くに行ったところ、先ず小母さんが厠に立ち、戻って来たら今度は菊枝さんが厠に立った。だから、それ以上動く事が出来ず、隙を見て逃げて来た」


「本当だよ、菊枝さんのこの赤い駒下駄が何よりの証拠です」

と、例の駒下駄を前にかざした。


(健兄い)は証拠を見せられれは文句も云えず、


「よし判った、これでハーモニカの件は取り消してやる。駒下駄は返して来い」

「・・・」

「野良犬が咥えていたのを取り返してやった。と云えばいいだろう」


と、結論が出て・・・


斯くして、浩一の夏の夜の事件は、何事も起こらずに無事に通り過ぎて行きました。


                            (終わり)









 (一)  


深緑の山々に囲まれた串根村上沢は、利根川の支流に沿った戸数二十五戸の貧しい山村である。


水田は無く、村から三十分登った(赤城山)山麓の台地で、馬鈴薯や雑穀を収穫し、桑畑もあって養蚕にも励んでいた。


又、各農家は馬を一頭飼い、運搬や肥料作りに使っていたが、それでも村は貧しかった。


役場の出張所はあるが、小学校は川下の下沢まで行かねば為らず、川沿いの道を一時間も歩く道のりだった。


村には男女十三人の青年団があり、この春、尋常小学校を卒業した川崎浩一も、晴れてその一員になっていた。


団長は本家の川崎健二、呼び名は(健兄い)である。大男で力持ちだが、酒癖が悪いので皆からは嫌われていた。


青年団の年中行事は二つあって、共有地の牧草の管理と、夏の盆踊りの仕切りであった。


さて、今年の盆踊りも無事に終った翌日、役場の出張所を借りての慰労会があり、浩一も末席に坐って(どぶろく)を飲み、料理も腹一杯に食った。


そして、盛り上がった慰労会はお開きになった訳だが、その時、浩一は(健兄い)に呼ばれ、とんでもない難問を押し付けられてしまったのである。


 (二) 


それは・・・

「菊枝が穿いているズロースを盗んで来い。これは、この前のハーモニカのお返しだ」

と云う、無茶な命令だった。


菊枝とは、馬喰ろうをやっている軒見さんとこの一人娘で、浩一よりも五才年上、桐生の紡績工場に勤めていたが、今は家に戻って母親と一緒に畑仕事をやっていた。


色は黒いが美人でお転婆娘、運動会の徒競走では何時も(健兄い)を負かしていたそうだ。


そんな運動会の腹いせが少しは有ったかも知れないが、本当のところは・・・

「ハーモニカのお返しだ」と本人が云っている様に、(健兄い)が大事にしていたハーモニカを、浩一が傷付けてしまったのがその原因である。


半年前、(健兄い)は沼田まで行ってハーモニカを買い、毎日の練習の甲斐あって、♪金太郎や♪さくらさくらが吹けるようになり、得意満面の日々だったが・・・


つい一月前の事、浩一がそのハーモニカを借りて練習をしていた時、誤まって下に落とし、大事なハーモニカに疵を付けてしまった事があった。


その時は、

「この頓珍漢※な馬鹿者!どうして呉れるんだ。よーし、この付けは必ず返して貰うからな」

と、(健兄い)に怒鳴られて終っただけだったが・・・


今宵、慰労会の酔いも手伝い、その時の付けが廻って来たのである。


※見当違いで、つじつまが合わないこと。また、その人。「頓珍漢」は当て字。集英社 国語辞典より


 (三)  


ここで、話は脇道にそれますが・・・

「頓珍漢」と云う言葉の件で思い出した事が有りますので、それに付いて触れさせて頂きます。


四日前の事、浩一が本家から頼まれて庭で鎌を砥いでいた時、本家の婆様が子供達を縁側に集め、得意の「羽衣伝説」を語っていた。


浩一にも覚えがあるが、婆様の語るお伽話には筋書きに無い様々な脚色があって、何時も楽しかった。


そして、以前聞いた羽衣では、羽衣を纏って天上に昇って行く天女を眺めて、お椀に乗っていた一寸法師が手を高く振って見送っていた。


と云う、脚色だったし、この日の「羽衣伝説」では・・・


「羽衣を纏った天女が砂浜から天上へと昇って行く時、その白い素足で砂を噛んだ音が、♪シャリシャリ♪じゃりじゃりと辺りに響き渡り、それは、お経にもない妙なる音色であった」


と、少し凝った脚色で語りを終えた。


其処で、浩一が、

「婆様に聞くけど、今日は一寸法師は出て来ないのかい」

と、横から口を挟んだところ、


婆様は、

「おや、分家の浩一かい。仕事が終ったなら余分な口出しをしないで、さっさとお帰り。本当にお前は頓珍漢な子だよ」

と、浩一を睨んだ。


その様な訳で、普段使わない言葉を二度も聞くとは珍しい事と思い、一寸紹介させて貰いました。


 (四) 


さて、翌日の夜半、浩一は軒見さんの庭の真ん中に立っていた。


平屋の母屋と中二階の蚕小屋、蚕小屋は改造されて馬が三頭繋がる馬小屋になっていたが、ついぞ馬を見た事はない。


親父さんは何時も出っぱなしで家に居ないから、この時間、寝ているのは小母さんと、菊枝さんの二人だけの筈だった。


藪っ蚊が一匹脛に止まったが、足で追っ払った。


そして、浩一は・・・

「物を盗むなんて泥棒だ」

と、悔やんでみたが、今更引き返す事も出来なかった。


(健兄い)は、

「いいか浩一、(夜這い)をやれとは云ってないぜ、たかがズロースだ。いいから取って来い」

と、勝手な事を云っていたが、泥棒は泥棒だ。


それに何だ、(夜這い)とか云っていたが、ふん・・・


「今時の若い衆に、そんな度胸のある奴は居りゃせん」

と、以前、村の長老が云っていた。


「嗚呼、返す返すも、あのハーモニカが憎い」


                               (続く)


















 帰り道(その一) 


映画が終わっても、その感動は未だ余韻を残してはいたが・・・

家路を急ぐも又然りで、大勢の観客が一斉に帰り始めた為、幸助も友人とはぐれ、一人で帰る事になってしまった。


そして・・・

帰りの途中、藪から棒に起こったあの時の喧嘩の発端がそれとなく判って来た。


八月の上旬の事、恒例の盆踊りの準備の為に、子供達を会館に集め、踊りに使う唐傘の飾り付けをさせていた時、二階に居た幸助に、下の子供達から、


「幸兄さん、よそ村の小学生が五月蝿いから、上から怒って・・・」

と、頼まれたと事があった。


それで、幸助が二階の窓から顔を出して、

「こら!作業の邪魔をするな」

と、怒鳴ってやったが・・・


どうも、騒ぎが未だ治まっていない様子だったので、再度顔を出して、

「何時まで騒いでいるんだ、この馬鹿者が。とっとと帰れ!」

と、大きな声で怒鳴り付けてやった。


そして、その時になって、下の餓鬼供の中に三人の中学生が混ざっていたのに気が付いたが、今更、声を落とす訳にもいかず、その侭睨み続けていたのを思い出した。


それで、その時の中学生が村に帰ってから、その鬱憤晴らしを兄貴分達に訴え出たものと思う。


左様、幸助は今になって、あの降って湧いた様な喧嘩の原因に漸く辿り着いた訳だが、今更それはどう仕様も無い事・・・


「その時は、その時だ」

幸助は腹を括り、彼等と再び顔を合わす前に、心の準備だけは早めにして置こうと考えた。


 帰り道(その二) 


やがて、幸助は村を見下ろす峠に差し掛かった時、喧嘩とは別に映画の中に流れていた或る音楽を、ふと思い出していた。


その音楽とは、「そばの花の咲く」と云う挿入歌だった。 


その歌は穏やかで優しくて、暖かく、それでいて格調が高く、心に沁みる旋律だった。


幸助は思った。


あの歌が、今ある「君が代」に代わる、新しい日本の国歌になるのかな?・・・と、

正直、幸助はそのように思った。


そして、それなりの理由もあった。


映画の中で、カルメン達の派手な騒ぎで運動会が中断されていた時、幸助は、「日の丸」の旗だけが暫くの間映っていた場面があった事を記憶していた。


勿論、その時も「そばの花の咲く」は流れていた。 


だから、「日の丸」の旗とその歌、若しくはその旋律は一体化を暗示したものであり、この映画を作った監督等が、新しい国歌の姿を示唆していたのではないかと思った。


これが、幸助の理由だ。


だが・・・同じ幸助が別の理由を申し出ていた。


元々、あの場面では「日の丸」が掲げられた中央ポールから、色とりどりの万国旗が等間隔に連なって映る筈だったが・・・


悲しいかな、初の総天然色映画である故の技術的な問題で、万国旗の或る色彩が上手く出せず、その一二秒間を映せなかったばっかりに、結果的に「日の丸」の旗だけを映し過ぎてしまった、と云う事情だってある。


そう云われて見ればその様にも思え、それも、又、正しい。


「ああ・・・僕の考えは、何時も短絡的で肝心なところが甘いんだ」


と、幸助が自分自身で納得したところで、我が家はもう目の前にあった。


                            (終わり)






 喧嘩  


昭和二十八年の秋、利根川上流の○○発電所で映画の上映会があった。

関東地方北部に点在する発電所関係の施設を年に数回訪問する、労働組合主催の巡回映画会である。


天気が悪い時は講堂を使うが、今夜は月こそ霞んでいたがまずまずの夜空、隣の広場に莚を敷き大きな天幕を張って映画会は行われた。


更に、今回は日本映画史上初の総天然色映画、「カルメン故郷に帰る」が上映されると云うので、近郷近在からも大勢の観客が集まり、樋口幸助も友人と一緒に、村から小一時間も歩いて此処に来ていた。


労働組合幹部の挨拶が終わり、二本のニュース映画も終わって休憩時間に入った時、幸助は用を足す為に裏に竹薮に向かった。


そして、用を終えての帰り道、

「樋口の幸助さんですね、内の兄貴衆が呼んでいます。一緒に来て下さい」

と、暗闇の中から声を掛けられた。

見れば中学一年生位の小僧、見覚えは無かった。


「何だ、こんな時に・・・」

幸助は愚痴を云いながらも小僧の後に着いた。


すると、十歩も行かない内、前を行く小僧が急に駆け出したかと思った瞬間、突然、何者かに背中を強く押された。


二三歩よろけて振り返って見ると・・・

何時の間に来ていたのか、三人の若衆が其処に立っていた。


「何だ!」

「何だは無いだろう。この夏に、内の若い者を馬鹿呼ばわりをした、そのお返しだ」

「・・・」

「あの時は悪かったと、謝れよ」


真ん中の兄貴分が怒っていた。


だが、急には思い当たる節が出て来なかったので、その侭でいると・・・


「嫌か、だったら俺達が相手だ」

と、両脇の二人が腕を構え、姿勢を低くした。


「覚えは無いが、仕方ない」

幸助も一歩下がって構えたが、三対一、この喧嘩に勝ち目は無い。


「待てよ、三対一では駄目だ。今夜は止めた」

「止めた?今更卑怯だぞ」

「卑怯はそっちだ。今度は一対一でやろう、その時ならやる」


「・・・」

相手は言葉に詰って、少し間が空いた。


と、その時、映画をやっていた広場の方から、ワーと、大きな歓声が挙がった。

「カルメン故郷に帰る」が始まったのだ。


こうなれば、喧嘩どころの騒ぎではない。


互いに浮き足立ち、相手の顔を窺い、左を見て、右を見て、スクリーンに向かって一直線だった。


 映画 


 美しい総天然色で映された富士山を背景に、「松竹映画」と大きく描かれた文字も鮮やかに、「カルメン故郷に帰る」は始まった。 


煙たなびく浅間の山が、緑の広い高原が、たてがみを揺らす土着の馬が、おんぼろ列車が、一人立つ老いた校長が・・・


青い青い空が映り、待望のカルメンが登場、白いパラソルが踊り、真っ赤なワンピースが揺れ、踊り撥ね、太股も見え・・・


こうして、山深い北関東の夜空の下、心地よい音楽を伴って映画は進んで行った。


今迄見た事もない美しい総天然色映画に、集まった大観衆は固唾を飲み、「おう」「おう」とどよめき、只々圧倒されていた。


幸助も同じだった。


映画が進んだその途中、カルメン達ののストリップショウの場面では・・・

音楽が高まり、動きが早くなり、腰の小さな布がパラリと落ちた時、映画の中の観客と、こっちの観客とが一体となって口を開け、目の玉を丸くしていた。


一方、運動会の場面では、戦地で失明した音楽教師が、オルガンで挿入歌の「そばの花の咲く」を奏でる和やかな情景もあった。


その運動会は派手な騒ぎで中止となったが・・・

その時、「日の丸」の旗だけが一二秒間映っていたが、幸助にはそのところが何故か印象に残っていた。


やがて、楽しく美しかった映画「カルメン故郷に帰る」は、大勢の人達に夢と希望を与え、静かにその幕を閉じた。


                         (続く)















 パチンコ屋  


昭和二十年の八月、今年二十二歳になった中条弘は、横浜市でパチンコ屋を営む叔父貴の中条健蔵の家を訪ねた。

両親は健康で、熊谷市の外れで農業をやっている。父親の弟が中条健蔵だ。


横浜は戦争中の大空襲で焼け野原になってしまった様だが、幸いにも、中心部から少し外れた所にあった叔父貴の借家は、何とか焼夷弾の被害は免れた様だった。


終戦後になり、叔父貴夫婦は食料品等の担ぎ屋をやっていたが、一年程前から、住んでいる借家を改修してパチンコ屋を始めた。

子供は二人、小学六年と四年の坊主だった。


そして、叔父貴の仲間の五十嵐さんが、近くで同じ様にパチンコ屋をやっていたが、都合で店を閉める事になり、それではと、叔父貴が弘を呼び寄せ、そのパチンコ屋を引き継がせる腹積もりの様であった。


そんな訳で、翌日には叔父貴に連れられて、宮川町一丁目にあるそのパチンコ屋に行った。

閉店してから未だ日が浅かったので、中を一通り見た叔父貴が、この分なら二三日で開店出来ると太鼓判を押した。


店内には、二十五台のパチンコ台が凹型に並び、中央の突き出た所が、玉の売り場兼ね景品の受け渡し場所である。


真鍮の釘が規則的に立ち、色とりどりの風車がくるくる回り、弾いた玉が当たりに入れば二倍三倍五倍と玉が増える。パチンコとは中々面白いものである。


奥には台所と便所、三畳の部屋があって寝泊りが出来たが、当分の間は叔父貴の家から通う事になっていた。


この付近の様子はと云いますと、此処を二丁目三丁目と歩いて行くと、両側に一応の商店は並んでいたが、田圃や畑、社宅等も多く見えていたので、華やかな商店街と云えるものでは無かった。


三丁目が終って右に折れると私鉄の「宮川駅」に着くが、辺りは倉庫群や一軒の売店だけで、駅舎も含め此処も閑散とした風景だった。


私鉄に沿う形で、通りの後ろ側に「桜ヶ丘」と呼ばれる丘が連なり、「宮川駅」に近い小高い丘には、アメリカ軍が管理している旧日本陸軍の高射砲陣地があった。


又、例のマッカーサー元帥が東京に行く時に使った厚木街道は私鉄の線路の向こう側で、その近くにはアメリカ軍の広大な車両基地がある。


その所為か、アメリカ兵とパンパン嬢が連れ立って歩いている姿をよく見掛けた。


翌日、叔父貴が三輪トラックで新式のパチンコ台(出玉が一度に十五個出る)五台を運び入れ、旧式五台と交換した。


新台も入り、玉も補充、景品のキャラメル等も揃い、これで明日の開店準備は整った。


これで、いよいよ開店だが、営業時間は午後の一時から夜の八時迄とした。変な時間帯に思えたが、叔父貴の判断で、この場所ではそんなものだと云うのでその様に決まった。


だが、その日の夕方、赤いアメ車に乗った気障な紳士が現われて・・・

「大型店の工事が遅れているから、応援を頼む」

と、云って叔父貴をアメ車に乗せ、何処かへ行ってしまった。


そんな訳で、翌日は店が開けず、弘は宮川町の通りを又散策した。


路地を挟んだ隣が乾物屋、三軒置いて八百屋と畳屋、少し離れて魚屋と菓子屋、角に交番があった。


又、斜め前には、「小川屋」と書かれた暖簾の下がったラーメン屋があった。

専ら出前が多く、座席の方は三人もお客が坐れば満員である。


そして、その「小川屋」で、親父さんが鶏がらを煮込んでいたので挨拶をし、路地裏に回り、「小川屋」の小母さんが張り板を立て、ふ糊を使った洗い張りをしていたのでそれを見学、暫くしてから店に戻った。


ちょっと、実家の母を思い出す。


 春子との出会い   


予定より二日遅れて、弘のパチンコ屋は開いた。


初日から三日間はお客さんが少なく心配だったが、それ以降はお客さんも増え、二週間経った今は、弘も奥の部屋で寝泊りをする様になっていた。


売上金は店を閉めてから叔父貴の家に行き、留守の時は小母さんに届け、その時に、必要な連絡を受ける事になっていて、それは毎日実行していた。


それで、弘は今朝も店の前でパチンコ玉の洗浄をやっていた。

細長い布袋に玉と石鹸水を入れて揺らしながら洗い、三回の水洗いの後、乾いた布で水分を拭き取れば終わりである。


で、これを五回繰り返せば店の全部の玉が洗えるので、この作業は一日置きにやっていた。


さて、それが終わり、後片付けに掛かっていた時!


「パチンコ玉の洗濯?」

と、いきなり声がしたので振り返ると、両腕も露わに、赤いノースリーブ姿の春子が物珍しげに立っていた。


二日前の夜、弘が「宮川駅」近くの『幸福食堂』でビールを飲んでいた時、離れたテーブルでアメリカ兵二人とパンパン嬢二人がビールを飲んでいたが、その英語混じりの会話の中で聞こえていたのが春子と君子の呼び名で、それぞれの顔は覚えていた。


その春子が、可愛い笑顔で目の前に立っていた。


「うん、毎朝の仕事だ」

「パチンコ屋の商売って、面白い?」

「うん、面白いよ、パチンコ台の裏側から見ていると、人間の物欲の真剣さが丸見えだからな、で、今日は?」


「暇だから散歩。わたし、山路春子。家は此処の路地裏だから、何時でも遊びに来て」

「分かった。俺、中条弘」

「じゃ、又ね・・・」


と、春子が帰る。


弘がその後姿を暫く追っていた時、隣の乾物屋のラジオから、今流行の歌謡曲『リンゴ追分』が流れていた。


    ♪ リンゴの花びらが  風に散ったよな 

       月夜に 月夜に そっと ええ~    


                              (続く)     







 







 (四)  


今日の午前中で勤労奉仕は終わりである。

心も爽快、空も快晴。


三郎は畑で午前の仕事が終わると、握り飯を食べた後、一人で家に帰り、待望の内風呂へと向かった。

途中、薪拾いの梅子と進一の二人と擦れ違ったので、「頑張れよ」と声を掛ける。


既に、小父さん達と畑で別れを告げ、土産に貰った薩摩芋もズックに入れて置いてある。


そして、畑での別れ際に小母さんから、

「表に積んだ粗朶は片付けてあるから、上の明かり取りを開けて、ゆっくりと入りなさい」

と、云われていたのを思い出し、風呂に入ってその明かり取りの引き戸を開けた。


パーッと眩しい陽が射し、土間が急に明るくなった。


三郎は湯の中から顔を出し、煤けた天井や土間の農具に目をやった後、子供達が沸かした湯加減に満足しつつ目を閉じた。


すると、暫くして、胸の回りが妙にこそばゆい感じがするので、ふと目を開けて見ると・・・


何と其処には!灰色の浮遊物が胸を囲んで漂っていた。

一瞬それは、学校で使う、あの消しゴムの摺り滓に見えたが・・・


そんな筈は無かった。正真正銘、それは人間の垢だった。


垢はぶよぶよと浮かび、黙って漂っていた。


以前、友達から聞いた話では・・・農家の風呂の湯は糞尿と同じ様に肥料として利用する為に、相当長く取り換えないと聞いた事がある。


だとしたら、この風呂の湯は、十日近くも取り換えていない事になる!

三郎は鳥肌が立ち、愕然となって動く事が出来なかった。


嗚呼、楽しみにしていた内風呂は、一変に天国から地獄にへと落っこった。


三郎は、嫌でも風呂から出る羽目となり、体に付いたその忌々しい垢を水で綺麗に洗い落とすと、早々に帰り支度を終え、土産の薩摩芋を提げて遠藤さんの家を後にした。


遠くで、姉弟達の何時もの争い声が聞こえたが、今は、それだけが救いであった。


 (五)   


遠藤家での勤労奉仕は楽しくもあり、きつくもあったが、三郎が家に帰ってから悩んでいたものは・・・


垢と糸屑と云う、似て非なるこの二つの物質の関係に付いてである。


あの夜、梅子のズロースを直していた時、指先に感じたものは、確かに糸屑だった。それは断言出来る。


しかし・・・あの時は気が転倒していて、混乱していたのも事実。


だとしたら、「糸屑だった」とは断言出来ないではないか!


否々、糸屑だった。


だが?


あの垢の浮いた風呂に毎晩入っていた梅子が、果たして、綺麗に垢を洗い落としていたかどうか・・・


若しも、簡単に済ませて寝てしまったとしたら、間違いなく、垢はお尻に付いた儘である。


それを、糸屑だと思ったのは、己の錯覚か?

それは悪夢だ!


否、それは違う、間違いなく糸屑だ。


否、流し忘れた垢だ。


否、糸屑だ。


否、垢だ。


・・・


・・・


斯くして、我等が沖田三郎は、その後数ヶ月間、「彼方立てれば此方が立たぬ」「鶏が先か卵が先か」の、難しい哲学の中に迷い込んで仕舞ったのである。


                          (終わり)



 (一)   


これは、約五十年も前の話です。


尋常高等小学校一年生の沖田三郎は学校からの命令で、横浜市の郊外にある、遠藤さんと云う一軒の農家に、四日間の予定で勤労奉仕に来ていた。


学友も一~二名の割合で各農家に配属されていたが、山間で畑も家も離れていたので、誰がどの農家にいるのか知る由も無かった。


当時は、太平洋戦争が始まって約半年が過ぎた頃で、真珠湾攻撃の大戦果や、マレー半島沖でのイギリス艦隊の爆沈等があり、世間は戦勝気分に溢れていた。


とは云っても、四月十八日の昼には、アメリカのB-25爆撃機が一機襲来して焼夷弾を落とし、二三軒の民家を燃やした事件があり、些か緊張もした。


爆撃の翌日、三郎も物見見たさに現場に行ったが、既に憲兵隊や警察が来ていて近付けず、近所の子供から、真鍮製の三十糎程の燃え殻を見せて貰った事がある。


 (二)   


三郎が配属されていた遠藤さん宅の家族構成は、小父さんと小母さん、それに小学四年生の梅子と、小学一年生の進一との四人家族だった。


朝八時、熱い太陽が照りつける下、(背負い子)を肩に小父さんと小母さんの後をついて行くと、丘の上の畑に着く。


そして、三郎の仕事は、小父さん達が掘り出した薩摩芋や、その蔓を袋に詰めて(背負い子)で家にまで運ぶものだった。


芋は納屋に入れるが、蔓は庭に敷いた筵に空け、梅子と進一がそれを広げる役目だった。


日頃力仕事をしていない三郎にとって、家と畑の間を二十回以上も往復するその作業は重労働で、一日が終ると、肩や腰がガタガタとなった。


しかし、男子の面目、弱音は吐けない。


だが、或る楽しみもあった。晩飯前に入る風呂の事だ。

町の銭湯とは違って、一人で伸び伸びと入る農家の内風呂は、まるで天国であり、昔の殿様気分さえも味わえる貴重な一時だった。


例え、薄暗い土間の片隅で、妙なぬめりを背中に感じても、それはそれ、内風呂の楽しさは猶特別であった。


一方、お世話になっているのに云い辛いが、困った事もあった。


夜は進一と一緒に寝るんだが、布団が小さいのは仕方ないとしても、何しろ進一の寝相が悪い。


頭の上に足を乗せるわ、腹は蹴るわと散々で、これには大弱りだった。

尤もそんな時は、半分起き上がって押し返しはしていたが・・・


さて、勤労奉仕も残すところ明日一日となり、今夜はそんな苦労もせずにゆっくりと眠れそうであった。


と云うのも、やっと小母さんが気を利かせ、寝相が悪い進一を梅子と一緒に寝かす事にしたのである。


それで、三郎が安心して布団に入っていると・・・

「進一と寝るのは嫌だから、私こっちに寝る」

と、梅子が寝巻き姿で枕元に立った。


何の事は無い、弟が姉に代わっただけの元の木阿弥で、又、窮屈を我慢しなければならなかった。


 (三)   


明日は午前中で作業は終わり、皆と一緒の昼飯の後は、一人のんびりと内風呂に入って溜まった疲れを取り、さっぱりとした気分で家に帰る予定である。


帰ったら母親にどんな話をしようか、麦ご飯の事、内風呂の事、(背負い子)の事等々と、三郎はそんな事を頭に描きながら眠りに入った。


ところが・・・暫くして三郎は、脇腹をゴツンと押されて目を覚ました。


「進一の奴・・・」

三郎は仰向けのまま、右手をひねってその背中を押し返した。


だが、指先が滑って、親指が襟元に引っ掛かり寝巻きをずり下げただけで、背中が開いた進一は未だ三郎の脇にいた。


それで、止む無く起き直って、今度は両手で裸になったその背中を押し返した。


左様、正に、その通り。


三郎は進一の背中を押し返したんだが・・・


押している手の平に「??」変な違和感を覚え、其処を見て、三郎はびっくりした!


何とそれは、進一の背中では無く、何と何と、梅子の丸いお尻だった。

その上、ズロースが下がって丸裸だった。


三郎は心臓が止まる程驚き、慌てて両手を引っ込めた!


そして、やや経って気が落ち着くと共に、寝る前の姉弟の交代を思い出し、現在の状況が分かって来た。


初めは、進一だと思って、その背中を押したんだけど・・・


既にその時点で、寝巻きが肌蹴た梅子が其処にいて、三郎が滑った親指で引っ掛けたのが、進一が着た寝巻きの襟ではなく、梅子が穿いていたズロースであった事である。


従って、ズロースは押し下げられ、梅子の丸いお尻が現われたのである。

案の定、お尻の下に、真っ白いズロースの端が垣間みえた。


さあ、大変だ!何とかしなければならない。


三郎は急ぎ中腰になって体勢を立て直すと、両手でズロースの端を掴み、ゆっくりと引き揚げ、それをそれらしき定位置に戻した。


そして、乱れた寝巻きの裾を直し、これでやっと一安心。

何とか気持ちも落ち着いて来た。


ズロースを引き揚げていた途中、指先が梅子のお尻に触れ、其処で二三本の糸屑を擦った様な気がしたが・・・


全てが終った今ともなれば、その様な助兵衛な場所に付着していた糸屑に、滑稽と云うか笑いと云うか、そんな気持ちの余裕さえも出て、三郎は再び眠りに入った。


                            (続く)








 八月十四日 火曜日 曇り  


作業は順調、特に書くことなし。


 八月十五日 水曜日 曇り  


作業が開始されてから二時間が経った時、珍しく部隊長から連絡が入り、

「本日の昼に、天皇陛下の玉音放送があるから、全員作業を中止して校庭に集まり、その放送を聴くように」との事だった。


だが、放送の内容が不明だったので、各自が思い付く儘に、あれこれ話しながら校庭に向かった。


「判った、神風だ。やっと神風が吹いて、台湾沖のアメリカ艦隊が沈没したんだ」

「否、ソ連が満州に入って来たと云うから、ソ連に宣戦布告だ」

「否、マッチ箱位の爆弾で、一度に戦艦を二三隻吹っ飛ばす、あの原子爆弾が出来たんだ」


と、誰の意見も元気が良く、有りそうな筋書きだったが、所詮は憶測の憶測・・・


やがて、全員が校庭に集合、その放送を待った。


校舎の窓が開け放たれ、ラジオが据えられて放送が始まった。


聞き耳を立てるが・・・

ピイピイと雑音。

又も、雑音。

又も、雑音。


雑音に混じって、祝詞の様な声も聞こえ、「朕」と云う言葉も聞こえたが、錯覚か・・・


しかし、それ等を引っくるめても、その内容はさっぱり判らなかった。


そして、「玉音放送は終った。追って上層部から通達が有ると思う、これにて解散」

と、呆気ない幕切れとなり、全員校舎に戻ったが・・・


これでは放送を聴いた後の、はっきりとしない、不透明な疑問は少しも解消されなかった。


「今の放送、判ったのか?」

「本当に、天皇陛下の声だったのか?」


はた又、

「神風が吹いたのか?」

「ソ連に宣戦布告したのか?」

「原子爆弾だ出来たのか?」


と、問うても、そのどれにでも当て嵌まる答えが無く、従って、そのもやもやとした空気は一時間近くも続いていたと思う。


が、その時、部隊長の方から・・・


「戦争は終った」

「戦争は終った」


と、連絡が入った。


(戦争の帰趨は、普通その勝敗、即ち勝ち負けで云い表わすものだが・・・)


「まさか・・・まさか、戦争は終った!」


「負けたのか?・・・終ったのか?」


でも、そんな事はもうどうでもいい、全員は半信半疑、自分を納得させる静かな時間が欲しかった。


だが、次々と連絡が入る。


「皆、動揺せずに、次の連絡を待て」

「武装解除、武装解除」

「作業場は一旦片付けて、閉鎖」

「土浦に帰る日も来るだろう。追って連絡する」


戦争が負けたにしても、武装解除にしても、目の前に敵がいる訳でなく、此処には鉄砲の一丁もなく、有るのは、部隊長の軍刀のみだ。


負けたと云われても、実感が湧かない。


そして皆は、混成部隊の性(さが)故か、こんな時なのに、口数は少なかった。


坪井の顔が見え、何か云っているのは確かだが、その声は小さく聞こえて来なかった。


雄一も、

「だとしたら、戦場で死んで逝った兵隊達は、みな犬死だったのか・・・」

と、呟いたが、それが誰に向かって云っているのか、何に向かって云っているのか、それは自分でも判らなかった。


 八月十八日 土曜日 晴れ 


この日の午後、

「明朝七時、一番列車で土浦に帰る。各自、準備に取り掛かれ」

と、連絡が入った。


                       (終わり) 

 





 八月十二日 日曜日 晴れ   


あれから一週間過ぎた日の午後、雄一は三歳年上の坪井勇と連れ立って、三回程挙げさせて貰った農家の石川さんの家に向かった。


予科練が村の分校を借り、特攻の基地を造っている事は誰もが知っていて、休日等に村を歩けば「予科練さん」「予科練さん」と家に呼び入れ、お菓子やお茶の持て成しをして呉れていた。


だが、持て成しは兎も角、畳の上で足を投げ出し、ゆっくりと寛げるのが楽しみで、日曜日には皆知り合いの農家に出掛けては一息付いていた。


雄一達も同じ穴のむじな。


しかし、この日は生憎と石川さんの家が留守だったので、仕方なく、国鉄の線路を越えて大きく遠回りをして帰る事にした。


すると、二人でぶらぶら歩く先に雑貨屋が見えたので、其処で切手を買う事にした。


ところで、(切手)の事で、一寸思い出した或る事例がありすので、それに触れさせて頂きますと・・・


僕達、軍人は、入隊と同時に天皇陛下より下賜された『軍人勅諭』なるものを教えられ、特に、その中の五ヵ条の徳目は重要であるとして強制的に暗礁させられた。


しかし、軍隊生活が一年も過ぎれば気は緩み、緊張も薄れ・・・

その『軍人勅諭』の第一条の徳目である「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」を、語呂が良いので「一つ、軍人は要領を尽くすを本分とすべし」と、軽く比喩して憚らなかった。


そして、その冠たる者が坪井勇で、彼は何時もポケットに切手を忍ばせ、外で上官や衛兵に出会った時にはそれを見せて、不要の外出でない理由にしていたと公言していた様である。


即ち軍隊は要領、亀の甲より年の功か。


さて、雑貨屋で切手を買った後、直ぐに帰れば良かったが、小母さんに勧められて裏でお茶を飲んでいた時、二班の者達がどやどやっと入って来た。


見たところ、知った顔も無かったので、声も掛けずに入れ替わりに雑貨屋を出たが、これが不味かったようで・・・


夕食後、雄一が班長から頼まれた工具の在庫調べが終って班に帰ったところ、皆から一斉に声を掛けられた。


「落合、大変だぞ。坪井が二班に呼ばれて殴られているらしいぞ」

「貴様も来いと云っているぞ」

「奴等はえらい剣幕だぞ」と、


だが、雄一には思い当たる節が無かったが、と云って行かない訳にも行かず、止む無く二班へと向かった。


「切手を買ったら、とっとと帰ればいいんだ」

「あの辺は二班の縄張りだ」

「もう一人はどうした」


聞こえて来たその罵声の様子から、どうやら、昼間の雑貨屋での長居が原因らしいと判った。

その間、ゴトンゴトンと何かで床を叩いている音も聞こえていた。


覚悟を決めて、雄一が恐る恐る顔をです。


すると、そんな雰囲気の中で、突然・・・


「なんだ・・・あの時の貴様か・・・」

と、この場に合わない、気の抜けた様な声がしたので、全員の視線がその主に集まった。


と、何と其処には・・・苦笑いの宇田川が竹棹を手にして立ち、並んで伊藤も立っていた。


そして、皆が尚キョトンとしている中・・・

「貴様等ならいいんだ、早く帰れ」

と、今度は宇田川の催促の声。


此処に来て、雄一は初めて気が付いた。


目の前にいる二人の猛者は、丁度一週間前、一緒になって青大将の茹で卵を食べていた、あの時の二人だったのだ!


「判った、直ぐ帰る」


雄一はそう返事を返すと、坪井の手を無理に引っ張り、早々に班に戻った。


 八月十三日 月曜日 晴れ  


本日の作業も無事に終了。


夕食後、坪井が昨夜の謎解きをせがむので、例の青大将の茹で卵を食べた件の一部始終を掻い摘んで話した。


坪井もその噂は聞いていたらしいが、その中心人物が雄一で、客の中にあの二人がいたとは知らなかった様である。


前書きでも触れたように、現在の雄一達の部隊は寄せ集めの部隊の為、今でもお互いに気心が知れず、冗談も交わさず、名前と顔が一致しない事も度々あった。


雄一と坪井もこの分校に来たからの友である。


「判った。それにしても、次郎長の時代でもあるまいに、線路の向こう側は俺達の縄張りとは恐れ入った話だ。未だ、小突かれた肩のところが痛むわ、ワハ・・・」


と、坪井は謎が解けて気が済んだのか、笑いで最後を締め括った。


                               (続く)










 前書き  


昭和二十年六月下旬、海軍飛行兵長落合雄一は、千葉県の大多喜町を走る小湊鉄道の上総中野駅近くにあった、或る小学校の分校に配属されていた。


雄一がいた土浦海軍航空隊が、六月十日にアメリカ軍艦載機の爆撃で甚大な被害を受けた為、急遽雄一達のような混成部隊が編成せれ、各々が各地に派遣された訳だが、その一つがこの分校への派遣であった。


課せられた任務は、当時秘密裏に開発されたロケット式特攻機の発射基地の設営だった。


アメリカ軍の艦隊が本土上陸の為に九十九里浜の沖合いに来たら、此処から爆薬を積んだ特攻機を発射して、そのアメリカ軍の艦隊を轟沈するのである。


その為、山の中腹に特攻機が入る大きなトンネルを掘り、レールを備えた滑走路を海に向けて築くのである。


それで・・・月日と共に作業は進み、山肌を削った八メートル四方のトンネルは二十メートルもの奥に達し、滑走路も土台だけは出来つつあった。


予科練の教科を卒業してはや三ヶ月、戦争の帰趨は未だ定かでは無かったが、既に、全員は飛行機乗りは諦め、今はスコップを握り、モッコを担ぎ、或る者はハッパの職人になっていた。


 八月五日 日曜日 晴れ 


今日は日曜日で作業は休み。


雄一は仲間と一緒に山に遊びに行き、通り掛かりの藪で大きな青大将を一匹捕まえた。

長さは一メートル、腹が太く、どうやら卵が詰っている様子だった。


蛇と云えば大概の人は怯むらしいが、雄一は割りと平気だった。 


小学生の頃、遠足で多摩川の土手に行った時には、トカゲを捕まえては振り回し、尻尾を残して飛んで行くそのトカゲを見ては、大いに笑い転げたものである。


さて、雄一は仲間と一緒に山を降りると、校庭の片隅に陣取り、早速その青大将の料理に取り掛かった。


先ず、ナイフで頭を切り落とし、腹を割いて行くと、真っ白い卵が十個、数珠繋ぎになって現われた。


そのみずみずしい卵だけを取りだし、後は溝に捨てた。


次に、手分けして七輪・鍋・木炭が集められ、十個の卵を鍋に入れて茹でる事二十分、卸して水で冷やす。


そして、出来たての茹で卵を一個、雄一が手に取って割って見た。


鶏卵と違って硬い殻はなく、簡単に二つに割れた。

中味は全部が真っ白。


妙な感じだが・・・一口噛む。

旨い。


続けて噛む。旨い、旨い。


味も舌触りも鶏卵の黄身と同じで、ほくほくとした食感であった。


「これは旨い!」と、雄一が云うと、周りから次々と手が伸び、瞬く間に茹で卵は空となり、あちこちで「これは旨い。これは旨い」の歓声が挙がった。


その歓声の中に、二班の猛者、宇田川と伊藤がいた。名前は後で知った訳だが、二人共満足気であった事だけは覚えている。


噂では、二人は柔道二段の腕前だと云う。


何でも、土浦航空隊が空爆されたその少し前、二人の靴下が物干し場で盗まれた事件があり。

怒った二人がその部隊に押し掛けて五六人を投げ飛ばし、盗られた以上の靴下を持ち帰って来たと云う、武勇伝の持ち主なのである。


ところで、青大将の宴の方はやがてお開きとなった。


                              (続く)