(五)
浩一は土間に入った。
家の中は暗く、蚊帳が吊ってあった。
囲炉裏の火は消え、草鞋や地下足袋が散らばり、傍に赤い鼻緒の駒下駄があった。
浩一は息を殺して蚊帳に近付き、中を覗く。
手前の布団に菊枝さん、離れた向こうの布団に小母さん、二人共ぐっすり寝込んでいた。
何故か、周りの空気が重く感じられたが・・・
後は、菊枝さんの足元に廻ってズロースを盗むだけである。
浩一は縁側に上がり、菊枝さんの足元の方に移動、次に、方膝ずつ畳の上を進み、蚊帳を持ち上げて体を半分潜らせた。
と、藪っ蚊が一匹、プーンッと蚊帳の隙間から逃げて行った。
そして、浩一は、蚊帳に半分入った儘の姿勢で・・・
菊枝さんの肌蹴た寝姿を目にすると同時に、見てはならない物を見てしまった!
有ろう事か、菊枝さんが自分のズロースの上に両手を載せて、もぞもぞと動かしながら、意味不明な寝言を洩らしていた。
驚いた浩一は、初めはその事態が理解出来なかったが・・・
それがどんな意味を持っているのかは、直ぐに推察出来た。
「さっきの藪っ蚊が、ズロースの上から菊枝さんの土手を刺したんだ。それで、刺された場所が痒いから掻いているんだが、ズロースの上からでは思う様に掻けない・・・それで、いらいらして寝言の様な事を云っているんだ」
と、浩一なりの答えを出した。
そして、そうなれば、「困っている菊枝さんを助けてやらなければならない」
と、珍しく義侠心を起こし、直ちに手助けに取り掛かった。
先ず、更に蚊帳の中に体を入れ、左手を伸ばして菊枝さんの手首を握り、次に、右手でズロースを持ち上げ、その隙間に菊枝さんの手首を差し込んでやった。
待つ事暫し。
と、案の定、ズロースがゆっくりと波打ち始め・・・
それと判る清音と濁音の音が、♪シャリシャリ♪じゃりじゃりと、蚊帳の中に響き渡った。
予期せぬ大きな音に、浩一は心臓が止まる思いだったが、菊枝さんも小母さんも我関せずに眠っていた。
そして、やがてズロースの動きも、その音も消え・・・
菊枝さんはこれで気が済んだのか、目を覚ます事もなく、ズロースから手を抜くと、寝巻きを直して寝入ってしまった。
浩一は自分の手助けの結果を目の当たりにし、少しばかり自尊心を擽られたが、誰にも気付かれなかった事の方に安堵した。
尚、あの♪シャリシャリ♪じゃりじゃりの音に付いて一言添えさせて頂きますと・・・
発生した場所が場所なので、当然、隠避な音に聞こえて当たり前の事ですが、何故かあの時はその様には聞こえず、大袈裟に云えば、天上の神々達の会話中に零れた駄洒落の音に聞こえ、それは又、本家の婆様の云う天女の足音とも違うもので・・・
世の中全く巧く出来たものです。
さて、とんだ道草で時間を費やしてしまった浩一は、再び、本来の目的に掛かるべく気を新たにしたが・・・
時、既に遅く!
小母さんがいきなり起き上がり、厠に行くのか蚊帳を捲くって出て行った。
浩一には気が付かなかった様である。
さあ、大変だ!
続いて菊枝さんに起きられたら、更に大変!
小母さんが厠から帰って来る前に急ぎ退散だ。
浩一は後ずさりしながら蚊帳を出、土間に降り、足音を忍ばせて外に出た。
その素早い事。
でも、逃げる途中で、土間にあった赤い鼻緒の駒下駄のその片方を失敬していた。
帰りの駄賃と云う奴で誉められたものではないが、これが後のなって役に立つとは、何をか云わんやである。
(六)
夜が明けたその日の午後、浩一は(健兄い)の処に行き、昨夜の結末を少し偽って報告した。
「土間に入って蚊帳の近くに行ったところ、先ず小母さんが厠に立ち、戻って来たら今度は菊枝さんが厠に立った。だから、それ以上動く事が出来ず、隙を見て逃げて来た」
「本当だよ、菊枝さんのこの赤い駒下駄が何よりの証拠です」
と、例の駒下駄を前にかざした。
(健兄い)は証拠を見せられれは文句も云えず、
「よし判った、これでハーモニカの件は取り消してやる。駒下駄は返して来い」
「・・・」
「野良犬が咥えていたのを取り返してやった。と云えばいいだろう」
と、結論が出て・・・
斯くして、浩一の夏の夜の事件は、何事も起こらずに無事に通り過ぎて行きました。
(終わり)