珍説・『豐葦(タカツキノアシ)原の瑞穂の国』(3) | 珍説・「豐葦(タカツキノアシ)原の瑞穂の国」 

珍説・「豐葦(タカツキノアシ)原の瑞穂の国」 

古事記に載る「豊葦原瑞穂之国」の解釈に付いて、第三の解釈があってもいいのではないかと思い、イネ科ヨシ属の(セイタカヨシ)の登場を願い、此処に珍説を披露するものです。

 (五)「豐」と「豊」との違いに付いて  


同じ(ホウ)の字でも、「豐」の略字の「豊」になりますと、前項で触れた高杯(タカツキ)の意味付けが消え、(ゆたか)(さかん)(おおきい)の方へと意味合いが移りますので、その辺の間違い易さには要注意です。


では、(セイタカヨシ)の五つの名前の紹介を含め、前置きはこれで終わり、いよいよ本題に入ります。


 (六)太安麻呂(おおのやすまろ)と『古事記』 


ご存知のように太安麻呂とは、和銅4年(711)9月に元明天皇の詔に従って、『古事記』の編纂に着手、稗田阿礼(ひえだのあれ)が語る物語と、下付された史料等を精査・筆録して『古事記』を完成。


翌年の和銅5年1月にそれを朝廷へ献上した人物です。


そして問題は、『古事記』の執務中に起きた安麻呂の心の中に生じた或る迷いでした。


それは・・・国名の「瑞穂国」及び「千秋長五百秋之瑞穂国」を書くそれぞれの段になった時、今まで知られていたこの儘の文章では、今一つ迫力が足らないのではないかと、思った事です。


そこで、安麻呂は静かに瞑想し。


さらに、静かに瞑想した後・・・


数日前に、山野を散策していた時に見た「豐葦原(タカツキノアシハラ)」の風景を思い出し、


稲穂が垂れる程に実った瑞穂の国の風景に対し、


その前文に、今閃いた・・・


葉が上に伸びた葦(アシ)の風景「豐葦原(タカツキノアシハラ)」を配する事で、自身が抱いた不安は治まり、此処に、調和のとれた美しい国名が誕生致しました。


そして、それは丁度、約100年の出来事・・・


聖徳太子が隋の陽帝に送ったとされる国書に載る、『日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなしや・・・』の彼の有名な文章にも比する表現ともなっていたのです。


さて、改めてその国名を記せば、


『豐葦原(タカツキノアシハラノ)瑞穂国(ミズホノクニ)』


であり、又、


『豐葦原(タカツキノアシハラノ)千秋長五百秋之瑞穂国(チアキノナガイホノミズホノクニ)』


であり、これが真実なのです。


 (七)然し・・・ 


安麻呂の真意は、今日まで推察された事は無く。


年月は流れ、そして、再び流れ・・・


風土記・祝詞等の写本、或いは記述の折々に、肝心要の「豐(タカツキ)(ホウ)」の文字が、何故か、略字の「豊(ユタカ)(トヨ)」として捉えられ、更に、長い歴史の中で(トヨ)と読み進まれ、今日では、


「豊葦原(トヨアシハラ)」となっております。


それで、『豊葦原千秋長五百秋之瑞穂国』の現在の解釈は、


(イ)(葦が生い茂って、千年も万年も穀物が豊に実る国の意)日本国の美称。

   {『国語大辞典』編集尚学図書 小学館発行(1992)より}


(ロ)【豐(トヨ)は、国へ係れる祝辞(ほぎこと)なり、葦に係れるに非ず、】

    {『本居宣長全集(古事記)』本居清造 吉川弘文館発行(1938)より}


と、なっておりますが・・・


前々項(四)「豐葦(タカツキノアシ)」の中で述べた、背の高い葦(アシ)を高杯(タカツキ)に見立て、更に、高杯(タカツキ)の意味を持つ「豐(ホウ)」の字をそれに充てたとする。


余り飛躍をしていない、このレポートのその所見を是として頂けるならば、


(ハ)の解釈として、この珍説・『豐葦(タカツキノアシ)原の瑞穂の国』が、候補に挙がっても良いものと思いますが、如何なものでしょうか。


追記 


若し、近い将来、古墳等の発掘調査の折に和歌を綴った木簡が出現し、其処に万葉仮名で「太加川機乃」(たかつきの)と読める五文字が有った時・・・


それは、青丹よし(あをのよし)が奈良を指し、八雲立つ(やぐもたつ)が出雲を指す枕詞と同じで、『葦原の瑞穂の国』を指す枕詞となります。 念の為。 


                               (終わり)