(三)『高師小僧(たかしこぞう)』
次に話題を変えて、『高師小僧』と云う、一風変わった名前の鉄鉱石の話に移ります。
『高師小僧』とは、長い年月を経て地下水の中に溶けていた鉄分が、地中の植物の根の周りに水酸化鉄として管状に沈殿して出来た、褐鉄鉱の一種です。
形状は管、小枝の形と様々あり、直径2~5cm、長さ1~10cmが普通ですが、大きな物では直径が30cm以上の物もあるようです。
小僧とは、幼児や小動物に似た愛嬌のある形から来ているそうです。又、鉄分が多く、粘土質な土壌であれば、日本各地で見る事が出来るようです。
中でも、渥美半島の根元に位置する豊橋市の「高師ヶ原」では豊富に産出されたので、その地名を取って『高師小僧』と命名されたようです。
北海道の名寄の『高師小僧』は1939年に、滋賀県別所の『高師小僧』は1944年に、それぞれ国の天然記念物に指定されていますが、名前を貸した「高師ヶ原」の『高師小僧』は、それより遅れて1957年に愛知県の天然記念物に指定されました。
国と県とでは格差があると思いますが、世の中、兎角そんなものでしょう。
さて、この項の本題はこれからです。先ず、「高師」と云う地名から考えました。
「高師」「高師」・・・
「たかし」「たかし」・・・
「タカシ」「タカシ」・・・
しかし、幾ら繰り返しても何の変哲も無い言葉で、何の答えも、何のヒントも浮かんで来ません。
ですが、方法はあります。発想の転換が必要なのです。
(仮説) 遠い昔の「卑弥呼」の時代、この地域一帯に住んでいた人達は、川辺に群生していた、特に背の高い「葦(アシ)」を見て、「背の高い葦」即ち、「高葦(タカアシ)」と名付け、この辺りを「高葦ヶ原(タカアシガハラ)」と呼んでいた。
そして、200年~300年もの長い年月が流れて行く内に、その名前「高葦(タカアシ)」の語尾に変化が生じて、母音の(ア)の発音が省略され、(タカシ)と詰って発音するようになっていた。
そして、丁度その頃・・・
朝鮮半島から文字が伝来し、多くの文字の中から(タカシ)に相応しい文字として「高師」が与えられ、それ以降、「高師」と「高師ヶ原」と云う地名が残ったものと思われます。
頭の中の言語回線でそれを試してみも、たかあし→たかし、タカアシ→タカシ、とその変化は自然であり、スムースです。
従って、「高師」なる地名の由来は、「高葦(タカアシ)」が詰って「高師(タカシ)」となった訳で、それに間違いは無いと思います。 (仮説終る)
さて、その様な訳で、現在の(セイタカヨシ)にはその昔に、愛知県の一地域ではありますが、(タカアシ)と云う別の名前があった事は明らかです。
では、その辺のところを、図書館の資料で検証致しますと・・・
(イ) 近くを走る豊橋鉄道に、「高師駅(たかしえき)」「芦原駅(あしはらえき)」がある。
(ロ) 「角川日本地名大辞典」現行行政地名には、芦村(あしむら)、芦原町(あしはらちょう)がある。
(ハ) 「日本歴史地名大系・愛知県の地名」では、高師山(たかしやま)、高足郷(たかしごう)、高足村(たかしむら)を載せています。
そして、此処で大いに注目して欲しい点は、(ハ)の高足(たかあし)と書いて(たかし)と読ませる、その有りの儘の事実、実態です。
従って、この事は(仮説)に於いて触れた様に、(ア)の発音が消去された何よりの証拠かと思います。如何でしょうか。
以上、『高師小僧』に事寄せて色々と書きましたが、現在の(セイタカヨシ)にはその昔に、(タカアシ)と云う今一つの四番目の名前が有った事が、これでご理解頂けたら幸いです。
(四) 「豐葦(タカツキノアシ)」
次に、これも同じく遠い昔、「聖徳太子」の時代。
琵琶湖から流れる淀川の流域の或る場所か、又は、奈良盆地を流れる大和川の流域の或る場所かは定かではありませんが、その一帯で呼ばれていた、「豐葦(タカツキノアシ)」と云う名の「葦(アシ)」がありました。
それが、(セイタカヨシ)の今一つの五番目の名前です。
謂われは(このレポートの想像ですが)・・・
当時、朝廷若しくは公家の方々が外出等の折、葉が上に伸びた背の高い葦(アシ)を見て・・・
日頃傍に置いていた高杯(タカツキ)にそれを見立て・・・
更に、高杯(タカツキ)を表す「豐(ホウ)」の字をそれに充てて、「豐葦(タカツキノアシ)」と命名した。
(挿絵の出典)「日本国語大辞典12巻」675頁昭和49年11月(株)小学館
「豐(ホウ)」には他に、(ゆたか)(ゆたかにする)(さかずきだい)の意味や、地名・姓もあります。 (出典)「大漢和辞典」大修館書店昭和59年豆部645頁通冊11087頁
従って、当時の人々はこの地域一帯を、「豐葦原(タカツキノアシハラ)」と呼んでいたものと思います。
(続く)