緑色の部屋
数日後、清は花子の家を訪ねた。
声を掛けると、玄関の戸が開いて母親が顔を見せた。
「パチンコ屋の中条ですが、花ちゃん居ますか」
「花、パチンコ屋の人が来てるよ、どうする」
「分かった、こっちに廻って貰って・・・」
花子の返事と、ガラス戸の開く音がしたので、清がその方に廻ると、赤いワンピースの花子がカーテンを少し開けて立っていた。
「なに?」
「うん、散歩でもと思って、寄ったんだ」
「有難う、でも、今度にして」
と、花子は兵隊が居るのを指で知らせ、ガラス戸を閉めた。
仕方なく、清はその場から離れたが・・・その折に中を垣間見てしまい、部屋の壁が緑色のペンキで塗られていたのには驚いた。
アメリカ兵個人の好みなのか、日米の文化の違いなのか、その色彩感覚には馴染めなかった。
だがそんな事よりも、パンパン嬢の家にアメリカ兵がいる当節の現実を目の前にして、清に嫉妬心が灯った事だけは事実だった。
それで、清は何故か滅入ったが・・・それはその場限りで直ぐに忘れ、散歩がてらに「桜ヶ丘」に登る事にした。
花子の家の裏手を抜け、木立が繁る暗い山道を登る。
十分程で平らな場所に来たので辺りの景色を見渡した。畑が大きく広がり、間に農家が点在、遠くに「桜ヶ丘小学校」の校舎が見えた。
少し行くと、地名に相応しく、太い幹の桜並木が遠くにまで続いていた。今は葉ばかりで愛想がないが、春の花見頃の賑やかさは大いに想像出来た。
そして、暫く散歩した後、清は「桜ヶ丘」を降りた。
後悔
二日後、花子が買い物籠を提げて顔を見せた。
相変わらず、可愛くて元気である。
清もパチンコ玉の洗浄が終って一服中だったので、花子と相手になっていた。
そして、「桜ヶ丘」の桜並木の話や、熊谷の荒川土手の桜並木の話等をしていたが・・・一時話題が途絶えた時、清がつい、
「花ちゃんも、パンパンを辞めるんだな」
と、一言忠告染みた事を云った途端!
花子は頬を膨らませ、
「私、パンパンじゃないのよ、オンリーよ!」
と、荒々しい声を残して、帰って行ってしまった。
花子の言い分は変だ。
「パンパンとは不特定多数のアメリカ兵を相手にする女達で、オンリーとは一人のアメリカ兵だけが相手なので、パンパンとは格が違う」とでも云いたいのか・・・
だが、それは、清の言いたい事とは違っていたが、今、それを訂正する気持ちは持っていなかった。
只、その一言で花子の心を傷付けてしまった事は事実だったので、「今度花ちゃんに会ったら、直ぐに謝ろう・・・」と、強く心に決めた。
これは、後になって、店を閉めてから考えた事だが・・・
清は自分を日本人の男性として、高い見地から考えてみた。
「あの太平洋戦争を起こしたのは日本の男性である。そして、戦争に負けた。此処が大事だ。負けた結果、日本の女性がアメリカ兵に媚を売っているが、それに対して男性側からいちゃもんを付けられるのか」
「そもそもが、戦争を起こし、それで負けた男性が悪いんだから・・・」
と、
だが、結局、そんな自問自答となり、先に進むいい考えは生まれて来なかった。
鰐皮のカバン
それから数日後の昼過ぎ、清のパチンコ屋に、又も一陣の風が舞った。
店の前に、あの時の赤いアメ車が止まったかと思ったら、見知らぬ青年が飛び込んで来て、
「これは大事なカバンだ。今夜の十一時頃に中条の親父さんに届けて呉れ」
と云って、重そうな鰐皮のカバンを受付に乗せると、慌ただしく帰って行ってしまった。
清はともあれカバンを預かり、急いで表に出たが・・・
もう、赤いアメ車は見当たらず、代わりに、MPが乗ったジープの後姿だけが見えていた。
その夜、鰐皮のカバンを叔父貴に渡したが、中身に付いての説明は無かった。
だが、状況から察しても、札束か何か、意味深なカバンである事に間違いは無かった。
「幸福食堂」
毎月十五日は、山川町の全ての商店の定休日になっていたので、その前日の十四日の夜、清は店を閉めてから、ビールを飲みに「幸福食堂」へ行った。
店内には二三人の先客があり、それぞれビールを飲み、食事を取っていた。
清も餃子を注文し、ビールを飲んでいると、例のアメリカ兵二人と花子と美佐子が騒がしく入って来て、背中合わせのテーブルに陣取った。
清は花子を見て声を掛けようとしたが、そんな雰囲気でも無かったのでそれは諦め、再びビールを飲み始めた。
と、暫くすると、彼等の英語混じりの会話が断片的に耳に入って来た。
「明日、桜ヶ丘小学校の運動会、見に行こうよ」
「賛成」
「お弁当は?おにぎり、それともサンドイッチ」
「交番の前に九時半に集まる」
「OK」
「OK」
運動会
その朝、清は十時に起きた。
布団を片付けたが、未だ酔いが残って頭が痛い、普段でもアルコールに弱いのに、昨夜は量が過ぎたようだった。
だが、それにしても、酔った頭の中で・・・
「花ちゃんが好きだ。花子が好きだ」
と云う、初めての恋心が芽生えているのに気付き、清はそれに狼狽するが、想いは其処まで。
結局のところ、二日酔いを醒ます為に買い置きしてあった酒を煽り、叔母さんから貰った浴衣を纏って外に出た。
出ると直ぐに、野良猫が一匹足に絡んで来たので抱き上げて懐に入れ、魚屋の勝手口で秋刀魚を一匹貰い、それを与えて又ぶらぶらと歩き出した。
浴衣の襟は野良猫で膨らみ、裾は乱れて赤ら顔、何処から見ても無様な姿だった。
清は朝起きた時には、今日の予定は決まっていなかったが、今は身体が自然とその方向に向かっていた。行き先は、「桜ヶ丘小学校」の運動場である。
隣の乾物屋との間の路地を行き、花子の家の脇を抜けて、木立が繁る山道に入る。
途中、薄暗い坂道に来た時、懐の野良猫が暴れ出したので、食べ残しの秋刀魚と一緒に藪に放り出した。
山道を上がり切り、畑の間を抜け、桜並木を通って「桜ヶ丘小学校」に到着。
校舎の脇を廻って校庭に入り、松の大木が十数本立った小高い場所に腰を下ろす。
其処から見ると、運動会は今がたけなわで、紅白の鉢巻の生徒達が楕円形のグランドを走り、家族の声援が渦巻いていた。
そして、視線を手前に引けば、芝生の中、花子と美佐子と二人のアメリカ兵が、バスケットを囲んで運動会を眺めていた。
清は賑やかな運動会に目をやり、大空の雲を数え、時折、花子達に目を移していたが・・・
ふと、足元に目をやったところ、其処に小さな蟻地獄を発見した。
蟻が誤まってそのすり鉢状の穴に落ちたら、幾らもがいても絶対に出られない蟻地獄。
しかし、今のところ周りに蟻は見当たらず、蟻地獄は平穏であった。
運動会は未だ終っていなかったが、清は帰る事に決め、浴衣の塵を払って立ち上がり、帰り際に、花子達をチラッと見た。
そしてその時、自分の胸にキュッと痛いものを感じたが、その異変を詮索する事はしなかった。
帰りの道、遠くの家のラジオから、「リンゴ追分」の悲しい歌が聞こえていた。
♪ つがる娘は ないたとさ
つらい別れを ないたとさ
(続く)